リフシッツ、巨匠の指揮2015年02月13日 07時37分09秒

11日(水)、日帰りで大阪へ。いずみホール・モーツァルト・シリーズ今年の最終回、リフシッツのコンチェルト弾き振り(第15番変ロ長調、第23番イ長調およびハフナー交響曲)を聴くためでした。シリーズ期待のコンサートのひとつです。

ピアノが中心、というイメージを抱いて出かけましたが、結果は違いました。リフシッツが指揮に本格的に取り組んでいたため日本センチュリー交響楽団の演奏がひじょうに立派で、2つのコンチェルトは、ピアノ付き交響曲(!)を聴くよう。ハフナー交響曲も、斬新かつスリル満点の演奏になりました。

聞くところによると、リフシッツはリハーサルにあたって自分がどんな音楽をやりたいかをはっきり述べ、その実現を目指して、細かい練習を行ったそうです。それにオーケストラが共感して、こうした演奏ができあがったとか。う~ん、納得です。

ただその反動も少し。ピアノ・パートの存在感が総じて薄らいだことと、男性的なアプローチの反面、技巧的なパッセージが技巧的に聞こえてしまうことはどうなのかと感じました。しかし第23番の第2楽章、第3楽章に至って、本格的なコラボが実現。アンコールで弾かれた長大なハ短調ファンタジー(名曲なのに今年のプログラムに含められなかったもの)では、独奏への豊かな集中が見られました。

指揮者的な傾向のピアノだとは思っていましたが、指揮者として活躍したら面白そう。頼んでみたいです。

オーディオも老化します2015年02月10日 08時59分49秒

アンプとスピーカーが入院したというお話をしました。AVアンプとボーズのサラウンドでその間つないでいたのですが、CD選の締め切りが迫ってきたちょうどいいタイミングで、アンプとスピーカーが退院してきました。

コントロール・アンプ、パワー・アンプとも、オーバーホールといくつかの部品交換。スピーカーはツィーターが断線していたということで(高音が出ないわけだ!)、新型に交換。見違えるような響きになり、CDを聴く喜びが、がぜん蘇ってきました。

一連の作業は、オーディオユニオンお茶の水ハイエンド中古館 http://www.audiounion.jp/shop/hi-endused.html にお願いしました。大日向さんという方が対応してくださいましたが、良心的かつ迅速な対応で、状況報告も詳細にしてくださり、とてもありがたかったです。

レベルを落とさずに新規購入となると、百万単位のお金がかかったと思います。しかし、とっくに生産停止のロジャースPM510の良さを生かすように工夫して対応してくださったおかげで、16万ほどの費用で、みごとに蘇りました。オーディオが劣化するのは被造物の宿命。メンテナンスが欠かせないと痛感しました。かかりつけ医をもつのが吉です。大日向さんのアドレスをご紹介しておきます。hi-endused@audiounion.jp

「アフター・トーク」初体験2015年02月07日 22時47分23秒

コンスタンティン・リフシッツによるバッハ《平均律第1巻》全曲という重量級のコンサートに、「アフター・トーク」を頼まれました。初体験です。

しかし、どうしゃべったらいいのか、イメージがつかめません。コンサートが終わった後というのは、皆さんがそれぞれの感慨を胸に、帰宅を急がれる時間。そこに出ていって何をしゃべっても、「蛇足」になってしまいそう。しかも何をしゃべるべきか、事前に想定ができません。

そこで簡単なメモを作るのみで、所沢ミューズに到着。そうしたら、私がやるのは「アフター・パフォーマンス・トーク」と案内されているのですね。一瞬、何かパフォーマンスをやらなくてはいけないのか、と驚いてしまいました。あ、アフターっていうのは前置詞ね(ほっ)。

リフシッツの演奏は、すごかったです。各曲をアタッカで途切れることなく演奏していくのですが、各曲の思い切った対比の中に一貫した流れが把握されていて、体系性をもった音楽世界が目の前に構築されていくかのよう。1曲ずつ休み休み積み重ねていく普通の演奏は、もう聴けなくなってしまいそうです。リフシッツの、傑出した大局観です。

そんなあとに話でオチをつけることなどできるはずもなく、60点いただければせいぜいの、まとまりのない話になってしまいました。すみません。次は、もっときちんと準備して臨みたいと思います。

それにしても、大阪でモーツァルトのコンチェルトを2曲弾き振りし、次の土・日でインヴェンション+《音楽の捧げもの》と《平均律第2巻》の全曲とは、この方のキャパシティはどうなっているんでしょう。全部、完璧に頭に入っているのです。

誰が詩を書いたか2015年02月06日 10時56分55秒

《ヨハネ受難曲》冒頭合唱曲、3行目以下のテキストは、「あなたの受難を通して示してください、 あなた、まことの神の子が いかなる時にも 低さの極みにおいてさえ 栄光を与えられたことを」というものです。これは、ダ・カーポ形式における中間部のテキストとして扱われています。

主部のテキストには見えなかった「受難」とのかかわりがここで明らかにされ、主=神の子という、キリストへの信仰告白が入ってきます。導きによって明らかに示されるべきことは、「低さの極みにおける栄光」というヨハネ的メッセージです。じつに立派なテキストだと、私は思います。

この自由詩は、誰が書いたのでしょうか。古くからあるのは、バッハ自身ではないか、という説です。《ヨハネ受難曲》の自由詩があちこちからアイデアを採って手直ししたものであり、一貫性のある台本とは思えないという立場から、批判も含めて、バッハの手製ではないかと考えられてきました。

近年の研究者は、この説に否定的です。バッハ自身の作詞は他に知られていないし、バッハがつねにいろいろなテキストを探していたことがわかっているからです。誰か隠れた詩人がいると、多くの研究者が考えています。

しかし、ご紹介したテキストから前代未聞の大曲がテキストに密着しつつ生み出されたことを考えますと、バッハが誰かからできあがったテキストを渡され、さあどんな音楽をつけようか、と頭を悩ませたという光景は浮かんできません。ライプツィヒで初めて発表する受難曲にバッハは強い意気込みで臨み、どのような曲にするか、あれこれ考えたことでしょう。

ですから、書き下ろした詩人が別にいるとしても、バッハとの密接な共同作業が先行していたことは間違いないと思います。テキストは冒頭2行で神の世界支配を語り、3行目以下で受難に言及しているわけですが、バッハは主部においてすでに受難の音調を響かせ、中間部のフーガ音型を主部でちらりと見せることによって、両者の関連を明確にしています。ここに、詩人と作曲家の一定の距離を見るか、あるいはそれもバッハの構想の一部と見るべきかは、迷うところです。

最近の研究(マインラート・ヴァルターなど)は、コラール・カンタータの歌詞作者として浮上しているアンドレーアス・シュテューベル(トーマス学校の副校長を務めていた神学者)を、共同作業の候補者と想定するようになってきています。いずれにせよ、バッハの関与は踏み込んだものであったに違いないと、私は思います。

《ヨハネ受難曲》の冒頭テキストについて2015年02月04日 07時03分28秒

《ヨハネ受難曲》の研究をしていますが、せっかくカテゴリがありますので、気のついたことを少しずつ書いていこうかという気になりました。とりあえず、冒頭合唱曲のそのまた冒頭のことを。

冒頭合唱曲はご承知の通り、受難曲史上前例を見ない、壮大な楽曲です。テキストの作者は不明でこれについても考察したいのですが、とりあえず確実なのは、主部のアイデアが詩篇の第8篇から採られていること。主の栄光が世界を支配するさまがここで打ち出され、中間部に入ってから、受難の概念と結びつけられます。主部の2行を考察してみましょう。

  Herr, unser Herrscher, dessen Ruhm
  In allen Landen herrlich ist!

仮に、次のように訳すとします。

  主よ、私たちを統べるお方、その誉れ
  全地に威のある方よ!

ルター訳の詩篇冒頭は、次のようになっています。

  HERR, unser Herrscher, wie herrlich ist dein Name in allen Landen, du, den man lobt im Himmel!

最後の6語を省いて対応させると、次のように訳せます。

  主よ、私たちを統べるお方、なんと威のあることでしょう、御名が全地に。

こちらでは呼びかけの次に感嘆文があり、"herr"のたたみ掛けがいっそう鮮明です。バッハのテキストでは感嘆文が関係文として呼びかけに従属するように改められ、その主語が、「御名」から「誉れ」に変わっています。両者は重なり合う概念ですが、「栄光」のニュアンスにいっそう近づいていると言えるでしょう。「エ」母音の連続する詩篇に対してテキストでは「ウ」母音の導入がきわめて効果的であり、音楽でもその効果が生かされています。

ふと思い立ち、七十人訳(新約聖書の前提となった、旧約聖書のギリシャ語訳)を調べてみました。えっと思うものでした。カタカナで失礼しますが、冒頭が「キューリエ ホ・キューリオス ヘーモーン」となっているのです。

ドイツ語のHerrとunser Herrscherは同格の言い換え、従ってどちらも呼びかけと考えていたのですが、ギリシャ語(呼格が確立している)を見ると、「主よ」という呼びかけの次に「私たちの主」という主格が置かれています。となると、「私たちの主である主よ」と訳すべきだということになるでしょう。

そこでバッハの作曲を見ますと、"Herr"はつねに呼びかけとして作曲されていますが、"unser Herrscher"の方は長い音型で作曲されている。それはヴァイオリンの音型と対応するもので、後に「栄光」の表現と重なり合う、circulatioのフィグーラです。だとすると、バッハは"unser Herrscher"を”Herr”の説明と考えていることになり、その訳としては、「私たちの支配者であられる主よ」という方がよさそうです。もちろん、「主よ」という語を冒頭に置く方が曲を生かす、という考えも有力ですが。

どうも、巨大な森に入りこんでしまったようです(汗)。

2月のイベント2015年02月02日 08時33分51秒

きっちり4週間の、2月に入りました。週で割り切れる暦を見ると、月が30日だったり31日だったりする暦の味わいが、よくわかります。私の年齢的な居所は、29日ぐらいにあたるでしょうか。

偶数月の日曜日に設定されている「すざかバッハの会」が、新しいめぐりに入ります。2年間かけて、ワーグナーをやることにしました。最近積み重ねてきた材料で、新たに構築します。

その第1回「ワーグナー入門」は8日の14:00~16:30なのですが、会場がいつものシルキーホール(須坂駅前)から、須坂メセナホール(小)に代わります。

だったら何か音を出したい、ということで、久元祐子さんにお願いし、ピアノでプレゼンテーションしていただきながら、ワーグナーへの思いを語り合う、という形にしました。和声の大家ならではのすばらしい響きや、ライトモチーフ活用の面白さを、一流ピアニストの指をお借りして実感しようという企画です。ぜひ遠くからもお出でください。お問い合わせは大峡喜久代さん(k.heikinri2@stvnet.home.ne.jp)まで。

7日(土)14:00から所沢ミューズで、コンスタンチン・リフシッツのバッハ《平均律第1巻》コンサートがあります。ここで「アフタートーク」をやることになりました。最近まま見られるこの形態、初めてなので、どうすべきか思案中です。

リフシッツは11日(水)にいずみホール(大阪)で、モーツァルト・シリーズ「輝ける主役」を弾き振りします。ピアノ協奏曲第15番変ロ長調と第23番イ長調、そしてハフナー交響曲。オケは日本センチュリー交響楽団、14:00からです。大きなコンセプトによる演奏を期待しています。

水曜日の朝日カルチャーセンター新宿校は、4日と18日。午前中のワーグナー講座は《トリスタン》の第3幕、午後のバッハ「リレー演奏」講座はフルート・ソナタ(4日)とブランデンブルク協奏曲第2番・第3番(18日)です。ブランデンブルクは1月の予定でしたが私が間違えてしまい(汗)、今月、出直しです。

立川「楽しいクラシックの会」は15日(日)で、時間が9:30~11:30に変更されています。いよいよ、《パルジファル》の第3幕です。

朝日カルチャーセンター横浜校のモーツァルト講座は、28日(土)13:00~15:00。今月のテーマは「プフベルク書簡」の考察です。

あとは各地への視察を、いくつかアレンジしたいと思っています。

緊張の極2015年01月31日 11時02分35秒

きりがないほどあった霞ヶ関関係の仕事が一区切りになった、翌日。イベントに出席すれば済むはずの金曜日が、緊張の一日になりました。なぜなら、椿山荘で開催される毎日芸術賞の授賞式で、「乾杯の音頭」を頼まれてしまったからです。

そんなに緊張しますか、ですって?乾杯の音頭に必要なのは、何より年齢であり、貫禄であり、知名度です。私はもちろん若くはないですが、小田島雄志さんとか、高階秀爾さんとか超のつく重鎮の揃っている選考委員の中では最年少。末席を汚す新参者なのです。

しかるに授賞式は壮大をきわめ、赤い薔薇をつけた受賞者の方々(飯守泰次郎、鍵和田秞子、隠崎隆一、船本芳雲、松浦寿輝、上村聡史〔千田是也賞〕の皆さん、柳家小三治さんは欠席)、ピンクの薔薇をつけた来賓の方々(元議長、元大臣を含む)、白の薔薇をつけた毎日新聞社幹部の方々、大勢の立派なお客様たちが勢揃い。ちなみに選考委員は、黄色の薔薇です。

言葉を無駄にしないようにと原稿の用意はしておきましたが、こうした環境でパーティーの出番を待つのはプレッシャーそのもの。外国の学会に匹敵すると思いつつ、待ちました。開会後1時間50分ぐらいしてからでしょうか、出番がやってきました。

貫禄負けしている者がこそこそやっては恥の上塗りですので、ともあれ堂々やろうと、割り切りました。もう歓談が始まっている中での乾杯でしたが、皆さん水を打ったように聞いてくださったのは、なによりの幸い。終わった後もいろいろな方から声をかけていただき、肩の荷が下りました。「緊張していたんですか?」「緊張することなんてあるんですか?」と、複数の知人。実情は、上記のようなことでした。

というわけで、今朝は久しぶりに、気分爽快です。立派な受賞者に恵まれ、いい会になりました。

見えない力2015年01月30日 09時03分25秒

すざか(須坂)バッハの会には、2つの楽しみが付随しています。ひとつは、会場に行く前の昼食。長野駅の近くにはいいランチのお店がいくつもあるので、まさお君と待ち合わせて食べるのが楽しみです。

もうひとつは、会終了後、スタッフとする会食。長野に「ジョイア」というとても洗練されたお店があり、そこでワインを飲みながら疲れやすめをするのが楽しみでした。

第2パラグラフが過去形になっているのは、このお店が1月で閉まる、と聞いたからです。いつも賑わっているように見えましたし、申し分のないクォリティでしたから、信じられません。

この報告を読まれる方がどう思われるかは、わかっています。通った人間に問題があるのではないか、ということですよね。ゴローザ・ショックが癒えないところに入ってきたニュースなので、さすがの私も、自分に見えない力があることを否定できないような気がしてきました。

「たのくら」でアンプが故障したお話をしましたよね。症状の始まりは、右側のスピーカーの音が出にくくなる、ということでした。これ、じつは、家で起こっていたトラブルと同じだったのです。その時、レストランのみならずオーディオの分野でも・・、という思いが脳裡をよぎりました。

オーディオの音質が目に見えて(?)劣化してきたので、コントロールアンプ、パワーアンプともオーバーホールに出し、ついでにスピーカーも修理を依頼しました。私の再生装置は、若い頃『レコード芸術』誌に連載し安く譲っていただいた高級品を基にしていますので、同じ音を出そうとすると、ずいぶんお金がかかってしまいます。どうなりますやら。

すざかバッハの会の今年度企画については、近々ご案内いたします。

続・うかつな方のために2015年01月29日 01時01分36秒

慎重に日々を過ごしている、私。「一分の隙もない」と評された方が、複数あります。ほめられているとは思いませんが、慎重さの結果うかつさに不足するとすれば、やむを得ないことです。

水曜日は、会議の後オペラに行くことになっていました。こういう時にありがちなのは、会議の資料は持参したが、オペラのチケットは忘れてしまった、というケース。もちろん私のことですから、しっかり確認して持参しました。

ところが、新国立劇場に入場しようとしたところ、どこをどう探しても、チケットが見つからないのです。階段でバッグやポケットを必死で探している私の姿に気づいた方も、いらっしゃるかもしれません。

結局あきらめて、チケットを忘れたと申告(シャレではないですよ)。親切に再発行していただき、所定の座席に座ることができました。でも心臓に悪かったですね。チケット、会議場に置いてきたのかもしれません。

観たのは、《さまよえるオランダ人》です。スロースタートでしたが、第2幕の二重唱あたりから急激に盛り上がりました。4人の外国人キャストにたいへん力があり、合唱も良かったです。最後は、ゼンタが幽霊船を操縦して自沈するという演出。それなりに納得する幕切れでした。・・・これって、マイナスをプラスに変えたことになるんでしょうか。

うかつな方のために2015年01月27日 22時54分57秒

皆様から「うかつ」と指摘される私ですが、慎重な人間です(きっぱり)。たしかに「転んでもただでは起きない」ことを大切にしていますが、転ばないように、並々ならず注意を払っています。コピーをしたが持参を忘れる、USBメモリを差したまま忘れる、ということはよく起こるので、とくに気を配っています。

USBメモリだけ持参すればプレゼンテーションできる、という現状はまことに便利ですが、買っても買ってもなくなるのが、USBメモリ。持参したはいいが中身は空、ということでは収拾がつきません。ですからいつも、中味を確認して持参します。私はそれほど、慎重な人間なのです。

今日のICUの授業にも、USBメモリを内容確認の上、持参しました。中に入れてあるのは、《ヨハネ受難曲》の手稿譜や、受難の名画です。学生に見せて、ディスカッションするのです。

ところが。パソコンにUSBメモリを差して、「ドライバをダウンロート中」というところまではいくのですが、どうしても、ドライブを認識しません。パソコンを再起動しても、パソコンを取り替えても、認識なし。文字通り、立ち往生の状態になってしまいました。

そこで操作を、学生と交代。学生は状況の打開をいろいろと試みていましたが、突然叫んで曰く、「これはUSBメモリではありません!アンテナです!」と。バカ言っちゃいかん、これは買ったばかりのUSBメモリで、今朝確認の上持ってきたのだ、と私。押し問答になりました。

しかしふと気がつくと、たしかに形が違います。私のパソコン(マウスコンピューター)は前面にUSBメモリを差せるのですが、なぜか認識しなくなったため、背面に差していました。背面には、無線マウスのアンテナが差してある。それを間違えて持ってきてしまったようなのです。

このマイナスをプラスに転化とは、さすがにいきませんでした。しかしコピーのハンドアウトはしっかり作ってあったので、深傷は負わずに済みました。皆様の中にはうかつな方もおられるかと思い、参考までに、書かせていただきました。