2017ドイツ滞在記(8)~ワイマールと《ヨハネ受難曲》2017年07月02日 20時44分41秒

16日、金曜日。昼間どこに出かけようかと、朝食の場で話し合いました。いくつかの候補から、ワイマールに決定。テューリンゲン州なので、やはり遠征です。

メンバーは、私より先にお生まれの女性2人と、後からお生まれの女性1人の4人です。責任感にかられた私は、じゃ先に切符を買っているからと、急ぎ足で駅へ向かい、自動販売機の操作を始めました。

こちらの自動販売機は、電車の時刻や乗り換えルートも表示されるという長所もあるのですが、反面たくさんの選択肢が次々とあらわれ、不必要なところへ迷い込んでしまう恐れがあります。

この日もそうなってしまい、妙な画面に入りこんで戻ろうにも戻れず、パニック状態に。私は意外に、こうしたとき冷静さを失うタチなのです。すると、私より後に生まれた方が追いついてこられ、英語画面でスイスイと操作し、4人分をゲットされたではないですか。私の責任感には、実行力が伴わないんですよね(泣)。

ワイマールで下車してからも、じゃここまではタクシーに乗りましょう、ここから歩けばここまではすぐですよね、という感じで、私より後に生まれた方が、水際だった仕切り。ちなみに私はワイマール2回目ですが、この方は初めてとか(汗)。

ゲーテとシラーの銅像のある国立劇場からシラーの家を通り、リストの家に入りました。


落ち着いた好ましい小邸宅で、指揮者としてワイマールにやってきたリストが、堅実に音楽と向かい合うようになっていたことがよくわかります。その周囲にはじつに大きな公園が広がっていて、ワイマールの自然豊かな環境に感嘆。皆さんの足取りの、生き生きしていること!


そんな自然の中に、ゲーテの山荘がありました。執筆のかたわら、自然の研究もしていたわけですね。


公園→図書館→宮殿のルートを採り、ヘルダー教会の聳える広場へ。宮廷礼拝堂オルガニストだったバッハは、この教会で弾いていたJ.G.ヴァルターと親交を結び、彼からさまざまな情報も得ています。食事は、この広場で。


教会の左側の建物に、下のプレートがありました。「ここに、バッハが1708~1717年に住んでいた家があった。ここでフリーデマン・バッハが1710年11月22日に、フィリップ・エマヌエル・バッハが1714年3月8日に生まれた」と書いてあります。バッハにとって重要な9年間がここで送られたわけですね。


などなどしているうちに時間がなくなり、タクシー乗り場までたどりついた段階で、むずかしいタイミングに。持っている往復切符は、一駅西のエアフルトまで行き、そこから東に向かう急行で(ワイマールを素通りして)ライプツィヒに向かうよう指示しています。そこで、ワイマールまでタクシーで行き1台後の鈍行に乗るか、エアフルトまでタクシーを飛ばして予定の急行に乗るかという二択に直面しました。

私の選択は、思いきってエアフルトまで飛ばすべき、というもの。急行発車まで40分弱、運転手さんの答は「所要約30分」ということで、渋滞したらアウトの賭でした。

しかしこれがみごとに成功し、余裕をもってライプツィヒに帰ることができました。このことは、私の信頼性を物語る逸話として、大いに強調しておきたいと思います。広めていただいて結構です。

その夜は、ツアー最後のバッハ《ヨハネ受難曲》公演。出演はゴットホルト・シュヴァルツ指揮の聖トーマス教会合唱団とフライブルク・バロック・オーケストラです。トーマス・カントルがシュヴァルツに交代してから聴くのは初めて。第4稿によるという情報を得ていましたから、事前の解説会では、第4稿の違いやその意図について、とくに力を入れて説明しました。


会場はトーマス教会で、祭壇の近く、はるかに演奏席を見渡せるところです。「良かった、見える!」と喜んでいるお仲間も。教会のコンサートでは見える席はレアチケットですから、入手に苦労する、という話を聞きました。

演奏が始まってしばらく、そんな~!と思う出来事が!演奏されているのが1739年の修正を取り入れた一般稿で、第4稿ではないのです。結局、楽器編成のみ第4稿(したがってヴィオラ・ダモーレもリュートも出てこない)、後は全部普通のままであることがわかりました。プログラムには何も触れられておらず、どこかで方向転換したのかもしれません。

全体として、指揮者が何をやりたいかよくわからない演奏でした。合唱団は声はよく出ていましたが、表現としては平板で、めりはりがない。ソリストはダニエル・ヨハンセン(福音書記者)、トビーアス・ベルント(イエス)、ドロテー・ミールツ(ソプラノ)、ベンノ・シャハトナー(カウンターテナー)以下最高クラスが揃っていて、第一級の出来映え。ただ、動かない合唱の前で自分たちがドラマを造らなければと思ったのか、かなりの奮戦モードになっていました。それを聴いていて、やはり昨今の「コンチェルティスト方式」は正解だなあ、と思ったことでした。ソロと合唱が、連携して動けるからです。

こういうクールな感想になった一因は、席にもあったと思います。演奏席から遠く、たしかに見えるが、音が来ないというもどかしさがつきまといました。やはり響きの中に包まれてこそ、音楽の感動は実感できる。基本的に音響のいいトーマス教会で、ニコライ教会の《ヴェスプロ》とは逆の、皮肉な結果になりました。皆様には、教会で音楽を聴かれる際には目より耳を優先して席を選ばれることを、衷心からお薦めします。

旧暦年頭所感2016年02月12日 07時04分26秒

例年お正月には今年どうするぞっ、という心構えのようなものを書くのですが、今年は書きませんでした。

ただ、いただいた方にのみ差し上げた年賀状に、今年はワーグナーの年になりそうだ、と記しました。ワーグナーの、私的入門書を執筆するという話が持ち上がっていたからです。

ただそうすると、宿願の《ヨハネ受難曲》論がさらに先送りされそう。できれば平行してやりたい、でもその余裕はないだろうなあ、というのが、今年の問題点でした。

芸大で《ヨハネ》ゼミをやったのが、もう3年前です。その時もすでに、平行して執筆するつもりでした。しかしその後仕事が増え、ここのところはモーツァルトに注力していましたので、《ヨハネ》はずっと先送り。このままでは、人生の終わりと競争になってしまう、という危機感が芽生えていました。

ところが一連の経緯がありまして、出版の具体的な目星をつけることができ、ワーグナーを先送りすることに決めました。ですので今年は、バッハの年、《ヨハネ受難曲》の年になると訂正します。

昨日、その福音書論に1日取り組みました。やっとホームグラウンドに戻ってきたようなすがすがしさを感じています。

ヨーロッパ真摯の旅2015(16)--《ヨハネ》第2稿を見直す2015年06月28日 23時57分12秒

18日(木)夜は、聖ニコライ教会で、旅行最後のコンサート。《ヨハネ受難曲》第2稿を、ヘレヴェッヘが指揮しました。これがまた、とても良かったのですね。

コレギウム・ヴォカーレ・ヘントの声楽が、まずすばらしい。音楽をしっかり見据えた、大人のアンサンブルです。モンテヴェルディ合唱団が外へ向けてあふれ出る傾向があるとすれば、こちらは、内面に成熟する傾向。しかもドロテー・ミールツ(S)、ダミアン・ギヨン(CT)、ゼバスティアン・コールヘップ(T)、ペーター・コーイ(B)という錚々たる顔ぶれがコンチェルティストとして入った、ぜいたくな16人です。それをヘレヴェッヘが並々ならぬこだわりをもって指揮し、コンサート・ミストレスのクリスティーネ・ブッシュが、表情豊かにオーケストラを引っ張ってゆきます。

私は《ヨハネ受難曲》の第2稿に、これまで抵抗を感じていました。アリアにどうしても唐突感があり、最後のコラールも、重すぎるような気がする。でもそれは、演奏のせいでもあったようですね。ヘレヴェッヘは従来から第2稿を演奏しており、すっかりそれに習熟しているので、入れ替えられたアリアや合唱曲が、「こうでなければならない」と聞こえるまでになっているのです。こうして聴くと、コラール・カンタータ創作の知見を盛り込んだ受難曲という最近の考え方も、なるほどと思えます。

イエス役のフローリアン・ベッシュは音域といい歌い振りといい、《ヨハネ》の超越的イエスにぴったり。エヴァンゲリストのトマス・ホッブスは堂々たるスケールの歌唱で、大成功の立役者でした。向こうで受難曲を聴くと、エヴァンゲリストが有名無名を問わず、揃ってうまいことに感心させられます。

でも、現段階では張り切りすぎなのですね。エヴァンゲリストは、「・・は言った」という風に、話を振らなくてはならない。話を引き立てるには、こんなに美声で立派に歌ってしまってはいけないのです。習熟して2、3割控えて歌えるようになれば、大福音書記者になる人だと思います。

誰が詩を書いたか2015年02月06日 10時56分55秒

《ヨハネ受難曲》冒頭合唱曲、3行目以下のテキストは、「あなたの受難を通して示してください、 あなた、まことの神の子が いかなる時にも 低さの極みにおいてさえ 栄光を与えられたことを」というものです。これは、ダ・カーポ形式における中間部のテキストとして扱われています。

主部のテキストには見えなかった「受難」とのかかわりがここで明らかにされ、主=神の子という、キリストへの信仰告白が入ってきます。導きによって明らかに示されるべきことは、「低さの極みにおける栄光」というヨハネ的メッセージです。じつに立派なテキストだと、私は思います。

この自由詩は、誰が書いたのでしょうか。古くからあるのは、バッハ自身ではないか、という説です。《ヨハネ受難曲》の自由詩があちこちからアイデアを採って手直ししたものであり、一貫性のある台本とは思えないという立場から、批判も含めて、バッハの手製ではないかと考えられてきました。

近年の研究者は、この説に否定的です。バッハ自身の作詞は他に知られていないし、バッハがつねにいろいろなテキストを探していたことがわかっているからです。誰か隠れた詩人がいると、多くの研究者が考えています。

しかし、ご紹介したテキストから前代未聞の大曲がテキストに密着しつつ生み出されたことを考えますと、バッハが誰かからできあがったテキストを渡され、さあどんな音楽をつけようか、と頭を悩ませたという光景は浮かんできません。ライプツィヒで初めて発表する受難曲にバッハは強い意気込みで臨み、どのような曲にするか、あれこれ考えたことでしょう。

ですから、書き下ろした詩人が別にいるとしても、バッハとの密接な共同作業が先行していたことは間違いないと思います。テキストは冒頭2行で神の世界支配を語り、3行目以下で受難に言及しているわけですが、バッハは主部においてすでに受難の音調を響かせ、中間部のフーガ音型を主部でちらりと見せることによって、両者の関連を明確にしています。ここに、詩人と作曲家の一定の距離を見るか、あるいはそれもバッハの構想の一部と見るべきかは、迷うところです。

最近の研究(マインラート・ヴァルターなど)は、コラール・カンタータの歌詞作者として浮上しているアンドレーアス・シュテューベル(トーマス学校の副校長を務めていた神学者)を、共同作業の候補者と想定するようになってきています。いずれにせよ、バッハの関与は踏み込んだものであったに違いないと、私は思います。

《ヨハネ受難曲》の冒頭テキストについて2015年02月04日 07時03分28秒

《ヨハネ受難曲》の研究をしていますが、せっかくカテゴリがありますので、気のついたことを少しずつ書いていこうかという気になりました。とりあえず、冒頭合唱曲のそのまた冒頭のことを。

冒頭合唱曲はご承知の通り、受難曲史上前例を見ない、壮大な楽曲です。テキストの作者は不明でこれについても考察したいのですが、とりあえず確実なのは、主部のアイデアが詩篇の第8篇から採られていること。主の栄光が世界を支配するさまがここで打ち出され、中間部に入ってから、受難の概念と結びつけられます。主部の2行を考察してみましょう。

  Herr, unser Herrscher, dessen Ruhm
  In allen Landen herrlich ist!

仮に、次のように訳すとします。

  主よ、私たちを統べるお方、その誉れ
  全地に威のある方よ!

ルター訳の詩篇冒頭は、次のようになっています。

  HERR, unser Herrscher, wie herrlich ist dein Name in allen Landen, du, den man lobt im Himmel!

最後の6語を省いて対応させると、次のように訳せます。

  主よ、私たちを統べるお方、なんと威のあることでしょう、御名が全地に。

こちらでは呼びかけの次に感嘆文があり、"herr"のたたみ掛けがいっそう鮮明です。バッハのテキストでは感嘆文が関係文として呼びかけに従属するように改められ、その主語が、「御名」から「誉れ」に変わっています。両者は重なり合う概念ですが、「栄光」のニュアンスにいっそう近づいていると言えるでしょう。「エ」母音の連続する詩篇に対してテキストでは「ウ」母音の導入がきわめて効果的であり、音楽でもその効果が生かされています。

ふと思い立ち、七十人訳(新約聖書の前提となった、旧約聖書のギリシャ語訳)を調べてみました。えっと思うものでした。カタカナで失礼しますが、冒頭が「キューリエ ホ・キューリオス ヘーモーン」となっているのです。

ドイツ語のHerrとunser Herrscherは同格の言い換え、従ってどちらも呼びかけと考えていたのですが、ギリシャ語(呼格が確立している)を見ると、「主よ」という呼びかけの次に「私たちの主」という主格が置かれています。となると、「私たちの主である主よ」と訳すべきだということになるでしょう。

そこでバッハの作曲を見ますと、"Herr"はつねに呼びかけとして作曲されていますが、"unser Herrscher"の方は長い音型で作曲されている。それはヴァイオリンの音型と対応するもので、後に「栄光」の表現と重なり合う、circulatioのフィグーラです。だとすると、バッハは"unser Herrscher"を”Herr”の説明と考えていることになり、その訳としては、「私たちの支配者であられる主よ」という方がよさそうです。もちろん、「主よ」という語を冒頭に置く方が曲を生かす、という考えも有力ですが。

どうも、巨大な森に入りこんでしまったようです(汗)。

ジョンはヨハネ2014年10月27日 23時31分12秒

26日(日)は、一橋大学の兼松講堂(国立市、家から歩いて10分ちょっと)で、渡邊順生さんによるモンテヴェルディ《聖母マリアの夕べの祈り》の公演がありました。私はいわば閣外協力。解説と字幕を提供し、ナビゲーターを務めました。

この講堂、響きといい雰囲気といい、とてもいいですね。演奏も、クリアな音像が作り出されて緊張感が高く、本格的だったと思います。やはり、ジョン・エルウィスの存在が絶大。作品が完全に自分のものとなっていて、ラテン語のセンテンスが明瞭に聞こえてきました。全体としては、そこにやはり課題が残ったと思います。しかし演奏するから課題も生まれるわけで、出演させていただいた仲間たちも、さぞ勉強になったことでしょう。

ジョン(=ヨハネ)で思い出しました。最近よく受ける質問は、「ギリシャ語の勉強はまだされていますか」というものです。どうやら、礒山は三日坊主、という認識が世にあるようなのです。

やっていますよ。『ヨハネ福音書』第1章に続いて、第18章を暗記しました。受難曲のテキストでいうと、第2部、テノールのアリアの直前まで来ています。明日から、第19章をやります。

始めて良かった、の一言です。聖書を原語で読むことの意味が、本当によくわかるようになりました。ましてや暗記していますので、記述の関連とか、書き手の工夫とかが感じられ、興味が尽きません。慣れてみると、メッセージはけっしてソフィスティケートされたものではなく、いい意味で単純なものです。興味のある方はぜひ、挑戦してみてください。

《ヨハネ受難曲》リレー演奏2014年09月18日 10時11分59秒

1年間、牛歩のような進行に付き合っていただいた、朝日カルチャー新宿校の《ヨハネ受難曲》講座。最終回を迎えるにあたり、リレー演奏で全曲を聴こうという計画を立てました(注:《ヨハネ》に関する記事はたくさんありますが、カテゴリを新設します)。

選りすぐり、おいしいとこ取りで、5種類。レファレンスに使っていたガーディナー2003は外し、往年の演奏も外すことにして、新しい演奏の紹介を含めながら選抜することにしました。ところが、案外むずかしい。ああでもないこうでもないと、時間がかかってしまいました。

最終的な形はこうなりました。第1部はNo.1-9:ブリュッヘン1992、No.10-14:ブリュッヘン2010。第2部はNo.15-26:エガー2013、No.27-32:クイケン1987、No.33-40:レイトン(2010年代、詳細不明)。ブリュッヘン2010、エガー、レイトンは、最近購入したばかりのものです。

ブリュッヘンの旧盤は古楽のアプローチにより細部に分け入った名演奏ですが、新盤を視聴したところ好々爺然として、意外に印象が希薄。でもちゃんと聴いてみようということで、第1部を新旧の比較としました。印象は変化なしでした。

エガー~エンシェントは、今年オランダで聴いた《マタイ受難曲》の迫力がまざまざとよみがえる、渾身の演奏。来月の特選盤候補として残しておきます。このドラマ志向の演奏で裁判場面を聴き、十字架場面は、省察的なクイケンにバトンタッチ。締めは、豊かでバランスの取れた、レイトン~ポリフォニーの演奏(ハイペリオン)を選びました。

これもいいですよ。エヴァンゲリストはボストリッジなのですが、癖のある発音でときおり格調の崩れるのが残念。これは、エガー盤のギルクリストを取りたいと思います。

というわけで、充実の2時間でした。リレー演奏は音楽の聴き方として邪道、という考えもあることでしょう。CDだからこそありうる情報提供の形であるわけですが、乗り換えの違和感は、意外なほどなかったです。それぞれの演奏が、異なった角度からであれ、作品にしっかり向かっていたからだと思います。