時差再来2017年08月16日 00時30分03秒

8月も中日ですね。前半はイベントもほとんどなかったので、研究に集中できました。

で、少しは早く寝ようと思うわけですが、夜遅くなると、世界陸上の実況が始まるのです。面白くて、もう少し、もう少しとなることが毎晩でした。真逆の時差ですから、本当に見たい早朝の競技は見られませんでしたが・・・。

とはいえ、どの競技も、本当に面白いですね。平素見ないフィールド競技も手に汗を握りますし、五種競技、十種競技というのも、どんどん引き込まれてしまいます。しかもそれぞれに、魅力的な選手がいるのです。

400メートル・リレーは、そんなわけで、後から見ました。日本チーム、一人も9秒台がいないのに、がんばりましたね。イメージ爽やか、すばらしいです。

それにしても、アンカーをケンブリッジから藤光に入れ替えたコーチの決断、たいしたものだと思います。人気もあり記録もいいケンブリッジを外して、もし失敗すれば何を言われるかわかりませんから、よく勇気があったなあと、つくづく。専門家でなくてはわからない目があり、それが成功したということですよね。敬意を表します。

ただ、実況が、どの競技でもスターに焦点を当ててメリハリをつけていく形になっており、それが相当気になりました。スターが負けたこともニュースではあるでしょうが、やはり勝者に、しかるべく光を当ててほしいと思います。400メートル・リレーでは、日本チームの健闘やボルトの負傷はもちろん報道するとして、予想をくつがえして優勝したイギリス・チームについても、もっと知りたいと思いました。5000メートルも、ファラーの敗戦ばかりが話題にされていましたが、勝ったエチオピアの選手について、もっと報道があるべきだったと思います。

熊本最後のお話2017年07月24日 00時50分31秒

17日(月)。海の日が、連休最終日、かつ帰宅日です。昨夜の三角で旅行は満腹の状態でしたが、取ってある飛行機は夕方ですから、昼間、観光せざるを得ません。

それにしても暑く、荷物もある。そこで午前中いったん空港に行き、コインロッカーに荷物を預けて、再び市内に戻りました。当然ながら夕方までどの便も満員で、取り替えは利きません。

荷物なしの軽装で市内に戻り、お寿司をつまんだ後、開催中のオクトーバー・フェストで、ドイツ・ビールを飲みました。昨年は7月に広島で遭遇したオクトーバー・フェスト。今年熊本で遭遇したのは偶然でした。

空港に戻り、荷物検査。何の心配もせずに受けましたが、ストップがかかりました。ナイフを持っていないか、というのです。とんでもない、もっていませんよ、と答えましたが、係員は、私の手荷物の中にナイフが写っている、というのですね。

まさか、でもどうぞ調べてください、と、着替えなどの入った手荷物を開帳しました。お店を開いているとその中に、熊本でいただいたお土産の袋があります。中を調べていませんでしたので、その場で開けて見ると、なんと、その内容がナイフではありませんか。写るわけです(汗)。

フライトのためには、見つけていただいて良かったのかもしれません。しかし教訓として、いただいたお土産はすぐに開けて、内容の把握をすべきだと痛感しました。そういえば、「誰かから預かったものはありませんか」、とよくチェックされますよね。

帰郷してから旅行記を書き、三角に、とくに力を入れました。書きましたよ!とお店に連絡しようとしたところ、居酒屋「くや」さんは、もっぱらフェイスブックで発信されていることを認識。連絡には、フェイスブックを使うほかはないようです。

そこで一応会員資格を取り、連絡して、お礼メッセージもいただきました。いま迷っているのは、アカウントをこれからどうするか、ということです。サインインしただけでずらりと「お友達候補」が示されたのには驚きましたが、もうお友達である方とは、従来のようにメール連絡でいいわけですよね。メディアはもう増やせないような気がするので、優さんのご指導をいただきながら、及び腰になっている私です。

熊本にてーー第2の目的地へ2017年07月19日 23時18分37秒

合唱コンクール第2日。小学生と一般の部は、早い時間に終わりました。その日のうちに帰ることもできたのですが、せっかくなのでもう一つの町に足跡を印したいと思い、熊本でもう1泊を予定していました。連休の日曜日のことです。

どこに行くか。羽田でガイドブックを購入して来ましたが、ポケタ・シリーズの『熊本』を買ったつもりが、隣の『福岡』を買ってしまったことが判明。やむなく、市内の書店で『熊本』を買い直しました。ところが、この本には熊本市と、阿蘇、黒川温泉しか載っていないのです。私は「もう一つの町」に行きたいのですから、これでは情報がありません。

わかったのは、『熊本』を謳う単行本のガイドブックが、上記シリーズ以外、探しても見あたらないこと。これでは、他の都市が観光客集めに苦労してしまいますね。

人口ランキングを見ると、熊本(74万)の次が八代(13万)、以下、天草(8万)、玉名、合志と続いています。1時間ぐらいで行ける海岸の町がいいなと思い、八代、水俣、あるいは「新幹線で鹿児島」あたりを候補に、あとは駅で決めることにしました。

ところが、熊本駅というのは、近隣の路線一覧とか、新幹線の時刻表とか、そういった案内がほとんどないのです。うろうろしているうちに新幹線「さくら」は行ってしまい、鹿児島が、あえなく圏外に。まあとにかく入ってみようと、スイカで入場し、発車間近の電車を比較しました。

すると、「三角」という、聞き慣れない方面に発車する小さな電車が、発車ベルを待っています。検索すると、海岸ではありませんか。とにかく乗ってみようと、テレビの旅行番組のようなノリで、2両連結のワンマンカーに乗り込みました(続く)。

熊本の春2017年04月15日 01時26分41秒

昨日(4月14日)は、大地震後一周年を迎えた熊本の映像が、どのチャンネルにも流れたと思います。私も行ってきました。ウィーン・フィル&サントリー音楽復興祈念賞というプロジェクトに関われていることが嬉しく、祈念賞がらみの行事で、熊本の土を踏みました。

うららかな日。飛行機を降りるだけで、伸びやかな解放感に包まれました。こんないいところはそうそうない、というのが実感されます。復興も、思いの外進んでいるよう。ウィーン・フィル・メンバーの弦楽四重奏は県庁と熊本城で行われましたが、その献身的な音楽への姿勢には、いつもながら頭が下がります。

当日のメインは、九州交響楽団にウィーン・フィルの4人を加え、さらに日本各地のオーケストラからの参加者と有志合唱を加えて、マーラーの《復活交響曲》を演奏すること。演奏が終わったタイミングで1年前地震がまさに起こった時間が来るため、そこで黙祷する、という計画です。

それに合わせて、熊本芸術劇場におけるコンサートの開始が20:00。これを聴くと、東京に帰れません。そこで、中途半端で申し訳ないことでしたが、ゲネプロのみに出席して帰路に就きました。土曜日午前中に「たのくら」の例会があるためです。福岡でつなぎ宿泊して一番機という案も考えましたが、飛行機が少しでも遅れるとアウトになるので、大事を取りました。

熊本城の広壮さにはびっくり。その広場にあった見事な木と、名残の桜をご覧ください。今年は熊本で合唱コンクールがあるため、再訪する予定です。




よく尋ねられること2015年09月17日 11時13分01秒

オリンピックの話題にからめて、著作権のことを尋ねられることが多くなりました。音楽ではどうなのか、昔はどうだったのか、といったことです。全部は論じられませんが、こういうこともある、ということをお話しします。

ことが重大になるのは、大きなお金が動く場合です。ある人のアイデアを使って他の人が大もうけするというのは、誰しも許容できない。もうひとつは、名誉にかかわる場合です。学位を取る、受賞する、といったことに盗用がからむと、ことは重大になります。コピペが何十ページもある博士論文などは、弁護の余地なしです。

分野によって常識が異なることはあるでしょうし、小さくないかもしれません。たとえば、創作と研究です。

私は研究の側ですから、正確な事実を知り、まっとうな考え方を発見したいと思って、つねにやっています。仮にそれが多少できたとして、正確な事実やまっとうな考え方というのは、私の所有物ではないですよね。少しでもそれが広がれば嬉しいし、そこに私の存在がからむ必要はない。これは誰それの考え方だ、という注釈が必要なのは、むしろ検証されていない新説や、特殊な考え方に対してです。(もちろん、専門的な論文執筆の場合は、出典の記述等、細心の注意が必要になります。)

創作は、どうでしょうか。権利の問題が、ずっとシリアスにからんできそうです。とはいえ、たとえばある旋律がパクリかどうかの線引きは、とてもむずかしい。歴史上の音楽を見ればわかるように、よく似た旋律というのは掃いて捨てるほどあるからです。音階とかドミソとか、音楽の基本ルールに従うなら、ある程度の類似は、当然発生します。しかしほんのわずかの違いが印象をがらりと変え、まさにそこに創意工夫が見てとれることも少なくありません。その中には、既成のモデルから出発した、という場合が隠れている可能性があります。

でもそうした場合に、もとのものと同じだからけしからん、ということが言えるかどうか。また、他と似ないように、という意識が先に来ることが、創作にとってもプラスであるかどうか。もっと根本的に言えば、名旋律があるとして、それはすべて作った個人の誉れなのか、あるいは才能を含めて、神様からいただいたものなのか。こうしたことが全部からんできますから、著作権の問題は複雑なのです。

コマーシャル2015年05月22日 11時59分03秒

CSのチャンネルを切り替えながら野球放送を見ていると、コマーシャルの時間がひんぱんで、かつ長いことに気がつきます。コマーシャルに入ったのでチャンネルを切り替えると、そちらもコマーシャル、ということがちょくちょくある。サッカーではないことでしょうから、スポンサーにはありがたいのが野球放送だと思います。ちなみに宣伝対象の大半は、健康食品です。

1つのコマーシャル時間は長めで、起承転結のある同じコマーシャルが、延々と繰り返される。試飲、効用の報告、などなど。繰り返し見ていて一番辛いのは、顔の知られていない俳優を起用してしっかり演技させ、効果満点に作ってあるものです。見るたびに、作為が気になってくるからです。しかしそういう反応は、作る側は想定していないように見受けられます。

げんなりしてチャンネルを切り替えながら、ふと気がついたことがあります。私は男性がやっているその手のコマーシャルはとても気になるのですが、女性がやっていると、ほとんど気にならない。そもそもどの人が女優で、どの人が一般人かも、よくわかりません。

ことほどさように異性のことはわからない、という、これは証明なのでしょうか。女性のご意見を伺いたいものです。優さん、いかがでしょう(笑)。

好きな番組2015年05月13日 10時17分10秒

前ほどテレビを見なくなりましたが、在宅していると必ず見てしまうのが、NHK日曜日夜の「ダーウィンが来た!」です。美麗な映像で展開される自然界のドラマに毎度引き込まれ、驚嘆しきり。たいへんな手間をかけて作成しているにちがいありません。

珍しい動物の珍しい生態が次々に紹介されますが、子孫を残すために動物に与えられている知恵は、すごいものですね。複雑にして高度なプログラムが、遺伝子に刷り込まれているというわけですね。

感想としてあるのは、自然界の生存競争はまったく厳しいものだなあ、ということ。その中で子孫を残していくためには、一定量の犠牲を織り込む繁殖プランが必要のようです。生存競争は基本的に、異なった動物との間で行われる。天敵というのもあります。同種のオス同士が縄張りやボスの座をめぐって争う光景もよく出てきますが、それにも生存競争のためという合理性があるようです。

番組がしばしば感動的に思えるのは、動物の生き方の中に、人間にとって学ぶべきものがあるからでしょう。動物は、みんな必死で生きている。動物は、連携して命をつないでいこうとしている。動物は、同種間で殺し合いをしない--そうした動物たちが激しい生存競争の中に投げ込まれている世界とは、何なのでしょうか。

不思議な光景2015年03月26日 08時02分44秒

日曜日は郡山へ。{ウィーン・フィル&サントリー音楽復興祈念賞」の委員をしていますので、助成を差し上げたコンサートを聴き、贈賞セレモニーに出席するのが役割です。

対象は京都フィルハーモニー室内合奏団のコンサート。「音楽でつながろう!福島~京都~ウィーン」と題されています。この日のために、ウィーン・フィルから5人のメンバーが来日しました。朝着いてリハーサル、翌日コンサートを終えて空港へ、という超過密日程だそうで、重要公演の合間を縫って飛んできてくれたのには、驚くやら、感心するやら。演奏における存在感、被災地への激励効果も、並外れたものでした。

後半、《第九》の第4楽章には、地元郡山の中学生が、声楽、器楽の双方に、大挙出演しました。いかにも日本的な、おとなしい少女たち(少年もいます)ですが、演奏レベルはたいしたもの。音楽で出会う、つながるというのはこういうことなんだなと思い、不思議の感に打たれました。

ただ往復するのはつまりませんので、宇都宮で下車し、餃子を正味。新幹線に乗り直すと、なんと同じ車両の同じ列に、いつも仕事をご一緒している作曲家の西村朗さんがおられるではありませんか。一駅の間談笑しましたが、こういうことが起こること自体、福島県が音楽王国であることの証明だと思います。

とても良かった「鳥の劇場」2015年03月19日 14時53分15秒

土曜日は、豊橋での仕事を終えたあと姫路に入りました。ここを根拠地として、日曜日に鳥取県の「鳥の劇場」を往復しよう、というのです。

廃校を利用して運営されている「鳥の劇場」の活動は、斯界で有名。私の関心は、掲げられている高い理念が、過疎を語られている県の、それもかなり奥まったところでどのように実現されているのだろうか、というところにありました。

鳥取県を訪れるのは、生まれて初めて。早めに着いたので鳥取市内を城址のあたりまで散策し、昼食の後ローカル線に乗って、浜村駅へ。そこから送迎車に乗せていただき、劇場に到達しました。一帯は温泉地のようです。

廃校の利用ですから環境は質素そのものですが、びっくりしたのは、雰囲気の温かさ。訪れた観客が心地よく過ごせるように、バリアフリーの観点も含めて、細やかな配慮が徹底しているのです。

上演される戯曲は、つかこうへい作の『戦争で死ねなかったお父さんのために』というもの。私にはこれまで、縁のなかった領域の芝居です。200席ほどの劇場に入ると、お父さん役の高橋等さんが、満面に闘志をみなぎらせながら、ああでもないこうでもないと、台詞の稽古をしている。ベースは学校の演劇部で、つか戯曲は、劇中劇として設定されるようです。

最初は開演までの時間つなぎかと思いましたが、やがて、その狙いが判明。ドラマの要所で重要な役割を果たす台詞を、あらかじめインプットさせておく意図なんですね。その効果は絶大でした。これは一例ですが、力強い原作にクールな枠組みを与えることによって、戦争と人間の関係に、複雑かつ多重な方向から光が当てられるようになっている。イデオロギーで切り捨てることのできない人間の思いを、さまざまに体験しながら芝居を観ていけるのです。

芸術監督を務める演出家、中島諒人(なかしままこと)さんがおっしゃる「演劇に何ができるのか」という探求はこういうことだったのかと感心し、勉強になりました。高橋さんの熱演はすばらしかったですが、オテロかジークフリートかというテノール歌唱にも仰天。こうした俳優さんたちがチームワークよくここに腰を据えていることも、劇場の理念あればこそだと思います。アフタートークの後、中島さんとお話しし、写真も撮らせていただきました。応援したい活動です。



コピペについて2014年05月09日 21時38分50秒

ニュース等に、よく「コピペ」という言葉が出てきます。おおもとにある問題はさておき、私の体験的コピペ論を書かせていただきます。

授業の最後に、試験をする場合と、レポートを課す場合がありますよね。試験でカンニングをするのは、誰が考えてもいけないことです。レポートにおけるコピペも、実質的にはカンニングと同じだと、私は思っています。自分で考え、文章化して提出するべき課題に対して、他人が考えたこと、他人がどこかに発表した文章を、あたかも自分が書いたかのようにして提出するからです。

レポートを読んでいると、これはコピペではないか、手書きであれば、どこかの丸写しではないかという文章に、よく出くわします。妙に訳知りな文章、やけに完成された他人行儀の文章は、疑わざるを得ません。

残念なのは、たいていの場合、疑わしくとも証拠がないことです。突き止める努力をすべきだ、というのは正論ですが、たくさんあるレポートのひとつひとつについてルーツを探して回るというような作業は、気の遠くなるようなことで、普通はできません。では、どう採点するか。

論文やレポートでは、ほとんどの先生が、参考文献を明示せよ、と指導されていると思います。もっといいのは、それを明示した上で、筆者の意見と自分の意見を区別して書くことです。文献にこう書いてある、だから(or こう書いてあるがしかし)私はこう思う、という風に、たとえ小さなレポートでも書くべきなのです。私もそのように指導しています。しかしなかなか徹底しませんので、本当に自分で考えたのかどうかわからない、というものが出てくるわけです。

出所不明のものにいい点は出しませんが、かといって、落第させるのもためらわれます。こういうレポートを出す学生には、多くの場合、わからなければもうけものとか、どうせわからないだろう、という意識があるのではないかと思います。受験社会で育っているのだから、悪いことだという意識はあるはずですが、この授業ならいいだろうとか、あの先生ならわからないだろうとか、甘く見ているわけです。

学位のからむ論文のような場合、コピペはもちろん厳禁です。すべてに、出典の提示が求められます。しかし、序文なり一定部分なりを丸ごとコピペしても、出典を明示しておけば大丈夫だということではありません。自分の学説を組み立てるのは、問題提起から結論に至るまで、自分自身にしかできないからです。

私は、自分なりの文章で学問的成果を綴ることに苦心惨憺している若い人たちを、間近に見てきました。ですから、そのけじめが失われるような風潮、またそれを許容するような言論を、残念に思います。