日本語でどう言うか2017年10月16日 22時31分47秒

duで話そう、という会話をしているとき、エヴァさんが、日本語では何というのか、と訊かれました。ドイツ語のSieとdu、フランス語ならvousとtuに当たる日本語は何か、という質問です。

日本語にそういう区別はない、と申し上げると、エヴァさんは、「じゃ、英語と同じね」とおっしゃるではないですか。そうか、英語ではあらゆる人が自分を「I」といい、あらゆる人が相手を「you」というわけですね。

頭にたくさんの言葉を思い浮かべつつ、日本語ではたくさんあるんだ、とお答えしました。1つにしてしまう英語も、たくさんある日本語も、どっちも別の意味ですごいなあ、と思いますが、選択肢の多い日本語のすばらしさを再認識しました。

ただこれは、翻訳のとき、いつも問題を生み出します。たとえばイエスがサマリアの女に声をかけるとすれば、「あなた」「お前」「君」のどれがいいでしょうね。自称も、いつも「私」では変だ、という気もします。

しかし外国人の立場に立ってみると、1人称代名詞、2人称代名詞がいくつもあって使い分けるというのは、学習意欲を失わせるほどややこしいことであるにちがいありません。同情します。

二人称代名詞2017年10月14日 22時55分57秒

承前。厳格な表記を行うには、指標が必要です。おそらく多くの人がそのために役立てているのが、ドゥーデンの発音(Aussprache)辞典なのではないかと思います。

これにはドイツ人だけでなくたくさんの人名が収録されています。しかしそこで記号指示されている発音は、理に適ってはいても、現実にはそぐわないのではないか、という思いが募ってきていました。そこで起こったのが、次のエピソードです。

いずみホールの仕事をするようになってから、ウィーン楽友協会の現芸術監督、トーマス・アンギャン夫妻の知己を得ました。ウィーン関係のイベントには欠かさず来日してくださるのですが、さすがの高貴なご主人であり、奥様で、卓越した社交術をお持ちです。多くを学ばせていただいています。

仕事上のお付き合いですからもちろん丁重に会話していたのですが、相当仲良くなってきて、これはもう友達づきあいに脱皮してもいいのではないか、と思うに至りました。すなわち、二人称をduで会話する(dutzen)よう、提案するということです。しかし貴族的な方々ですから、ためらいを感じます。

二人称代名詞がSieからduに変わるのは、旧世代の地位ある方々にとっては、1つの儀式なのです。ヴォルフ先生との間で交わされたその儀式については、本ブログでもご報告しました。リフキンさんとも会話はドイツ語ですが、これはどこからduに変わったか思い出せません。アメリカ人だからだと思います。また、福島でお会いしたピーター・フィリップスさんは、できればドイツ語で、とお願いしたらいきなりduで振ってこられ、これは面くらいました。もちろん、ありがたくdutzenしましたが。

「これからはduで話しましょう」という古来の儀式は、目上から言い出すのが鉄則です。アンギャンさんと私の場合、国際的な地位は先方が上、年齢は私が上、という関係です。まあ年齢が大事だろうと判断し、食事の席で隣になった時に、思い切って切り出してみました。すると、「それは嬉しい、ありがとう」というお返事です。儀礼的にそうおっしゃった可能性もあり心配しましたが、翌日どんどんduで話して来られたので、ほっとしました。

といういうわけで、左からトーマス(・アンギャン氏)、その奥様(後述)、私です。


さて、その奥様は、Eva Angyanとおっしゃるのです。この「Eva」がまさに読み方問題のよき実例。「E」を伸ばすか否か、「v」を濁るか否か、それが問題です。

子音1つの前の母音は長音、という原則からすると、「エーファ」か「エーヴァ」となります。そしてまさにその2つが、この順序で、Dudenの辞典に示されているのです。(もしかすると、最近の版では改められているかもしれません。)

「v」は、濁る場合と濁らない場合の両方があり、案外濁らないことが多いです。地名では「ハノーヴァー」ではなく「ハノーファー」、人名では「クサ-ヴァー」ではなく「クサーファー」が、私の知るかぎり普通です。

しかし奥様の言葉が「エヴァと呼んでね」と聞こえたので、「エーファ、エーヴァのどっち?」と聞き返したところ、「エヴァよ」とおっしゃるのですね。長年の疑問が氷解した瞬間でした。「エヴァ」なんて呼んでしまい、罪深い心境です(笑)。

おまけは、水もしたたる美音・美男のチェリスト、タマーシュ・ヴァルガさんとのツー・ショットです。どうぞご覧ください。



固有名詞をどう読むか2017年10月12日 23時27分08秒

標記のことに関して、印象的な出来事があったので書きたいと思います。

外国のことについて書いたり話したりしていて、もっとも気を遣うのがこのことです。悩んだ経験のある方も、たくさんいらっしゃることでしょう。

大学に入って間もない頃、杉山好先生から、ドイツ語をきちんと読むことについて強烈な洗礼を受けました。その中に、固有名詞の発音をきちんとすること、というのも入っていました。カタカナで覚えている人名や地名と本場の発音が大いに違うというのは衝撃で、きちんと勉強し、きちんと表記しようと、心に誓ったわけでした。

杉山先生はドイツ語教育に関しては職業的な使命感をお持ちでしたから、そのカタカナ化は厳格で、バッハの世俗カンタータにおけるギリシャ神話の登場人物についても、ドイツ語ではこう発音する、と注釈をお書きになる念の入れようでした。ただ、古典ギリシャ語の長短を持ち込むのは行き過ぎだとおっしゃり(「ソークラテース」のように)、日本なら日本人の口(Volksmund)に合った修正があっていい、と言われていたことを覚えています。重要なご指摘です。

音楽の研究を始めてみると、この世界にも、発音の厳格化を志す先生が複数おられることがわかりました。私も基本的に、その方向で出発したわけです。でもやってみるとそれはひじょうに困難なことで、長所も短所もあり、私は少しずつ、折衷的なやり方をするようになりました。

先日、国際陸上の中継を見ていたら、とても珍しい名前のドイツ人がいたのですね。でも綴りを見ると、ごく普通の名前。読み方の問題であるわけです。しかし私がわかったのはドイツ人だったからで、どう読むのやら、判定しようのないものが圧倒的多数です。知っているものだけ正したくなるのも狭量、という気もしますが、それぞれ正し合わないと進歩しない、ということもあるでしょう。もちろん、世界中の選手が出てきたのでは、それぞれを現地発音でというわけにいかないのは当然です。ただ、違う読み方がそのまま定着してしまう困るケースも、あるかと思います。

簡単な前振りをしようと思って書き始めましたが、皆様お気づきのように、これは気が遠くなるほど複雑なことです。しかし体験談自体はシンプルなので、次回に。

逆戻り2016年06月12日 18時04分15秒

昨日のスポーツ新聞に、「巨人、五割に逆戻り」と出ていました。

好きではあるが、ずっと不思議に思っていたのが、この「逆戻り」という言葉です。単に「五割に戻る」じゃ、なぜいけないんだろう。意味上、「逆」は必要ない。それなのについているには、強めの働きだろうか。たしかに効果的ではあるが・・などと、いつも思っていたのです。

ふと気がついたのが、この言葉の不可逆性です。勝ち越していたのに五割に落ちてきたのであれば「逆戻り」と言うが、負け越していたチームが五割を回復した場合には、「逆戻り」とは言わない。望ましくない方向に戻るのが「逆戻り」であって、望ましい方向に戻る場合は「逆戻り」ではない、ということのようです。

そこで『新明解国語事典』を引きました。「以前の場所や好ましくない状態にふたたび戻ること」だそうです。なるほど、すっきりと理解できました。

そうすると、今日は「巨人、借金生活に逆戻り」となるわけですね。日本語の話題をお届けしました。

DuとSie2016年04月28日 08時57分37秒

「そんなことをしているのは、先進国では日本だけだ」とよく言われますね。そういう言葉を聞くと反射的に、すべて欧米並みになれば日本はよくなるのだろうか、という思いが湧きます。失ってはならない良さも、いろいろあるはずですから。

たとえば、敬語。多種多様な敬語をきれいに使いこなすのは一生かかってもむずかしいことで、外国人には大きなハードルに違いありません。でも、"I"にも"you"にもたくさんの語彙がある日本語は、すばらしいと思います。

翻訳では、それが難題を投げかけます。敬語らしい敬語のない文章に、敬語や丁寧語を種々盛り込んで、日本人の感覚に合わせていく必要があるからです。こういう状況が、日本人の細やかな感受性を培ってきたことは間違いありません。

ドイツ語には2つの二人称系列(DuとSie)がありますよね。二人称の本筋はDuで、Sieは三人称複数からの代用ですが、初級でDuを教えないやり方もあるようです。でもDuの感覚はきわめて重要ですから、後回しにするのは、本当はよくないはずです。

よく、神様にもDuでいいんですか、と尋ねられます。Duは身内への砕けた言い方、Sieは丁寧な言い方、という風に、どうしても覚えてしまうからです。しかし多くの方がご存じのように、Duは親称。心の近くにいる神様にSieを使ったのでは、祈りになりません。

Sieで話していたドイツ人と親しくなり、Duで話す(duzen)ようチェンジする瞬間が訪れます。これは結構、神経を使うことです。

何年前だったでしょうか、一つの思い出があります。記憶に間違いがなければ大阪のお寿司屋で、クリストフ・ヴォルフ先生とお話ししていました。もちろんSieでです。すると先生が突然居ずまいを正され、「礒山さん、提案があります」と切り出されました。「これからDuで話しましょう」とおっしゃるのです。もちろんありがたいこととお受けし、乾杯しました。その折の先生の高揚した面持ちが、強く印象に残っています。以来、「タダシ」「クリストフ」と呼び合っているわけですが、ああこれがドイツのよき伝統なんだな、と思ったことでした。

3月に福島でアンサンブルコンテストの審査員を務めたことをお話ししましたね。その折りにご一緒したのが、タリス・スコラーズのピーター・フィリップスさんでした。ドイツ語で話せたらありがたいなと思ってもちかけたところ、OK、何でもない、とのこと。さっそくSieモードになった私ですが、意外にもフィリップスさんはDuで話しかけてこられ、大いに面食らいました。

最近は、初めからDuでも当たり前になっているのだと思います。それだけに、ヴォルフ先生の「儀式」に接したのが、ありがたくも貴重な思い出です。

爛熟の美2016年02月23日 06時18分31秒

廿日市から広島に戻って宿泊。翌日(19日、金)は14:00から、西宮の阪急中ホールで、尼崎に本拠を置くピッコロ劇団の公演があります。

間に観光を入れたいなと思っていたのですが、結局福山でお城を往復するだけになりました。まずその写真を。

・・というつもりだったのですが、おとといからスマホが見あたりません。出てきたら掲載しますね(泣)。

前日は樋口一葉が主役でしたが、こちらは谷崎潤一郎。「天空の恋~谷崎と猫と三人の女」と題されています(作演出・G2)。関西の文化を愛した谷崎の人生と創作を関西の生活文化の中から描き出し、その意味を探ろうとするお芝居でした。

これが、すばらしかった。島田歌穂(松子)と桂春蝶(谷崎)のお二人が客演、他の出演者は劇団員+オーディション、とのことなのですが、皆さんたいへんお上手で、水も漏らさぬ連携。古き良き時代の大阪の典雅が、舞台上にふくいくと再現されているのです。

ユーモラスな進行、随所に小説の引用をはさむ、というのは前日の一葉と同じでしたが、引用の効果は、時代の差があるとはいえ、こちらが上。『細雪』の誕生にからめて作ってあるクライマックスでは、何度も読んだこの大好きな小説が脳裡に押し寄せてきて、帰路を幸福感で包んでくれました。演劇もいいですね。

〔付記〕意外なところから、スマホ発見。福山城です。


市街地に埋まって、すてきな教会が。


敬語の衰退2015年05月09日 11時04分35秒

最近は皆さんツィッターをなさるようで、その流行は年齢や職業を超えているようです。私に勧めてくださる方もおられます。

テレビの番組にも、随時ツィッターの流れるものが増えてきました。リアルタイムでレスポンスできるのが売りであるようで、「視聴者参加」を実践される方には、魅力があるのだと思います。

しかし私はどうも、それを楽しむ気持ちになれません。その理由として自分的に大きいのは、字数制限が厳しいツィッターでは、敬語が省略されがちであることではないかと思われます。ツィッターのみならず、概してネットの発信では速さ、短さが重んじられるため、敬語を使わない傾向がありますよね。私は、知らない人同士のコミュニケーションにはやはり敬語の効用が大きく、ささくれだったやりとりや言いっ放しの批判にならないためにも、敬語は必要ではないかという意見です。

来週の放送でも言いましたが、外国語の簡潔さに比べると日本語の敬語は音節の過剰を招いて、まだるっこしい面があります。Komm, Jesu, kommは4音節で、音符が4つあれば処理できますが、これを「来てください、イエスよ、来てください」と訳すと16音節になってしまい、音符に当てはめて歌うことは、できない相談です。

でもそれが、日本語の良さでもあるわけですよね。美しい日本語が、敬語込みで受け継がれていくことを願っています。

「あ」の母音2012年12月23日 07時06分24秒

私の名前は、7シラブルのうち4つが「あ」の母音です。そう思ってみると、日本の地名、人名には、5母音のうち「あ」を使ったものが圧倒的に多い。私が住んだことのある地名でも、上山田、高崎、蓮田は「あ」が中心です。そのことに、妙に心惹かれる昨今でした。

昨日総武線に乗っていて、思わず耳がそばだちました。隣に座ったアメリカ人が「NAKANO」の発音を練習していて、ナにアクセントを付けたり、カにアクセントを付けたりしている。そして、「同じ母音が続く言葉は発音がむずかしい。英語にはそれは少ない。とくにaの母音はほとんどない」と言ったのです。ほう。

ドイツ語もそういえばそんな気がするので、人口10位までの都市名を調べたところ、「ア」を含むのは、ハンブルク、フランクフルト、シュトゥットガルトのみ。ちなみに母音の数は、合計20です。イタリアはずっと「ア」が多くなりますが、日本には少ない「イ」が妙に多いのは、意外。

日本の人名、地名を考えてみると、たとえば次のような漢字を含むものは、「オールA」の可能性をもっています。中、高、田、坂、山、川、片、正、楢、畑、花、浜、原、若、笹、鎌、茅、朝、穴・・・まだまだありますね。明るい響きが好まれるのでしょうか。

パラグラフの衰退2012年12月07日 10時39分16秒

先日、会話が延々と連なる小説は冗長でちょっと、というお話をしました(もちろん谷崎潤一郎の《細雪》などは別格です)。その理由を考えていて思い当たったのは、会話が連なるとパラグラフの縛りがなくなる、ということです。パラグラフごとに定着する趣旨をとらえ、積み重ねて追ってゆくことでメリハリの利いた読解が可能になるわけですから、その区切りがあいまいになると、冗長になる可能性は高いと思われます。

先日亡くなった作家の方が、今の書き手はワープロを使うので文章が粗雑になる、という趣旨のことを述べておられました。私は逆の考えなので意外だったのですが、よく考えてみると、上のことと関係があるのかもしれません。アイデアを単文で打ち込み、文章へと仕上げていくアウトライン・プロセッサーのような文章作法。単文が自立する、ツィッターの世界。コマを並列する、マンガの感覚。単行本でも、文ごとに行を改める印刷をよく見かけます。電子化の時代が、パラグラフへの意識の希薄化、パラグラフの短縮化に、拍車をかけているようです。

古いかもしれませんが、私の感覚は違うのですね。パラグラフを一定の長さにすることで緊張感をもたせ、パラグラフ相互の関係を調整することで文章に流れと勢いをもたせることが、文章のコツであると、私は思ってきました。少なくとも論理的な文章はそうあるべきではないかと、今でも思います。そのために、パソコンで文章を書くことはとてもいい、と思うのです。広い範囲に目を通しながら、細部をいくらでも推敲できるからです。原稿用紙を使っているころは、その作業をある程度で打ち切らざるを得ませんでした。

というような感覚なので、パラグラフの衰退が、気がかりです。

日本文化への愛2012年02月28日 12時45分06秒

後期博士課程の入学試験が始まりました。今朝は9時に出勤しましたが、それも今日が最後です。

昔誰が読むのだろうと思っていた新聞の社説を、最近は読むようになりました。テレビでも、ニュースを中心に、討論番組や国会中継を見たりしますから、人間、変わるものですね。夜はBSフジの「プライム・ニュース」をよく見ます。そこに昨日、ドナルド・キーンさんが出演されました。

キーンさんが日本文学の優秀な研究者であられること、日本愛が嵩じて震災後の日本に永住する決心をされたことは、皆様もご存じでしょう。2時間番組なので日本文学、日本文化、日本人に関するさまざまなお話をされましたが、その造詣の深さと愛の深さにほとほと感服し、(最近の常として)涙を禁じ得ませんでした。

当初は古文から入られ、近代文学に関心を広げられたとのこと。古代から現代にわたる文学作品の中から、日本語の美しさ、通底する美意識を読み取って洞察しておられるのです。源氏物語、徒然草、日記文学、細雪・・・。和歌からは新古今集を挙げられましたが、これは私も共感。能の詞章につながる世界ですね。

こういう外国人の方がおられるのだから、われわれはもっと日本の文化、先人たちの遺した芸術や風土を大切にしなければなあと、心から思った次第です。西洋音楽を研究している私ですが、やはり日本人の目があってこその、日本における西洋音楽研究だと思います。