オペラ漬けの週末2017年12月18日 01時26分07秒

この週末は、オペラ漬けになりました。

16日(土)は、毎年1回ずつ続けている、いずみホール・オペラ。河原忠之さんのプロデュースによるシリーズが、今年で一区切りになりました。2011年からの7年間でなんと3回も賞をいただいたのは、ホールとしてはありがたいかぎり。河原さん以下、ご協力いただいた皆さんに御礼申し上げます。

今年の演目がドニゼッティの《愛の妙薬》になったのも、平素の企画になかなか入れられないでいただけに、ありがたいことでした。合唱とオーケストラが大阪(大阪音大のザ・カレッジ・オペラハウス)、歌い手が各地からの寄り合い--今回は大阪(石橋栄実、田邉織恵)、名古屋(中井亮一)、東京(黒田博、久保田真澄)から--というのが、基本的な形態。オペラをやることなど少しも考えずに設計されているホールですからさぞやりにくいだろうと思いますが、その空間をもれなく使い、合唱を効果あらしめる粟國淳さんの演出は、さすがです。

東京からもぜひ観に来ていただきたいなと思うのは、大阪のプリマ、石橋栄実さんがますます輝きを増しているからです。アディーナは初役だそうですが、フロアでは、その美しさに賛辞が集中。音楽面も含めて、私もまったく同感です。つねに誠実に勉強され、崩れたところがないのです。

17日(日)は、立川の「たのくら」(楽しいクラシックの会)で、《フィデリオ》の勉強2回目になりました。第2幕のあと、4つの序曲を年代順に鑑賞。これは、興味深い経験でした。終了後は皆さんが感想や質問を述べられるのですが、今回は、ベートーヴェンのオペラ作法に疑問を呈する意見が次々に述べられ、ディスカッションに発展。皆さん、ご意見をお持ちなのです。

夜は、NHK音楽祭の《ワルキューレ》にチャンネルを合わせました。評判どおり、白熱の名演奏でしたね。ミュンヘンのオペラ・ハウスでサヴァリッシュ指揮の全舞台作品演奏に接したのは大切な思い出ですが、どうやら、昔は良かった、などとは言ってはいられないようです。昔は、フォークトのようなテノールはいませんでしたから。それを含め、最先端の演奏であったと思います。

歌は言葉2017年12月13日 00時22分38秒

須坂の一区切り、無事終わりました。スタッフの方々、会員の方々、ありがとうございました。終了後、ずっと助手を務めてくれたまさお君と山田温泉に一泊。温泉は、閑静なところに限りますね。山田温泉の平野屋さん、お薦めです。あ、山田温泉というのは、志賀高原の中腹にある温泉です。

ところで、私はいつも、歌は言葉が大切だ、と力説しています。言葉が生き生きと、内容を伴って伝わるかどうかで、声楽の感動は根本的に左右される、と思っています。

ですので演奏に対する評価やコンクールの採点にそれがかかわってくるわけですが、問題は、世界にたくさんの言語があり、それぞれの歌があるのに、私が本当に評価できるのはドイツ語だけだ、ということです。本当はそれではいけないと心から思っていますが、ここで考えたいのは、聴く側がよくわかる言語の曲を演奏することは、演奏者にとって損なのか得なのか、ということです。

この問題がむずかしいのは、その外国語で本当に歌えているかどうかが、演奏者にわからない場合が多くある、ということです。一応学習してこれで大丈夫だと思っていても、生きたドイツ語としては伝わっていない、ということがあるわけですよね。そういう事態を、どう考えるか。

2つ、あると思うのです。聴いている人にわからない方が安全だ、と考えるか、あるいは、本当にわかる人に聴いてもらいたい、と考えるか。私はぜひ、後者であって欲しいと思います。私は残念ながらドイツ語しか本当には受け止められませんが、それぞれの言語に、本当にわかる方はいらっしゃることでしょう。

合唱コンクールの全国大会で、そのことをとても感じました。すばらしいドイツ語で驚嘆したのが、郡山五中です。中学生がなぜこんな完璧なドイツ語で歌えるのか、と信じられませんでした。他方、音楽的には本当にいいのだが、そこがいかにも惜しい、という団体もいくつかありました。ぜひ問題意識をもって取り組んでいただきたいと思います。ちなみにラテン語は、発音には複数の可能性がありますので、意味理解が大切になります。

先週オトマール・シェックの歌曲コンサートに行き、望月哲也さんのドイツ語に驚嘆しました。歌は言葉だ、と言ってしまうのは乱暴でしょうが、そう思っていただけるといいなあと思います。

絶唱・《浜辺の歌》2017年10月08日 12時13分18秒

タイトルをご覧になって、イメージ、湧きますか。《浜辺の歌》--林古渓作詞、成田為三作曲(大正5年)の、皆様ご存じの歌です。その絶唱って、ありうるだろうか。あるとしたらどんなものだろうか。首をひねられて、普通だと思います。

それに、出会ったのですね。場所は、立川セレモア構内の武蔵野ホール。井坂惠さんのメゾソプラノ、久元祐子さんのピアノ、私が司会解説をする、「自然を見つめて」と題したコンサートにおいてでした。

このホールは5~60席しかないのですが永田穂先生の設計で音響効果がよく、遮音効果が高いので、空間を共有して音楽に没頭できます。プログラムはシューベルトで始まり、日本の歌曲を連ねてからロマン派のピアノ曲に戻って、モーツァルトで締める、という構成になっていました。


で、私の当たり前の解説の後、第5曲《浜辺の歌》になりました。私はなにげなく聴き始めたのですが、井坂さんの歌がただならぬ気配を発散し始めたため、にわかに緊張を覚えました。

この曲、一番は「あした(=朝)浜辺をさまよえば、昔のことぞ偲ばるる」と始まり、その先は叙景になる。二番は「夕べ浜辺をもとおれば、昔の人ぞ偲ばるる」となって、やはり叙景に移ります。ですので、私は叙景の歌だと思っていました。朝は昔の事を偲ぶ、夕方は昔の人を偲ぶというのも平明なバランスで、昔の教室で歌われるのにふさわしい、などと。

ところが、このまさに昔を偲ぶというところで歌に大きな感動がこもり、二番では涙を流されているように見えるではありませんか。そうか、林古渓にもそういう体験があって、それが一見平明な歌になっているのかも知れないな、と、これはすぐ思いました。

井坂さんは、「母の歌はたくさんあるが父の歌は少ない」と平素おっしゃり、父の歌を大切に歌われます。最高のレパートリーは、高田三郎先生の《くちなし》です。プログラムでは、《宵待草》をはさんで7曲目に《小さな木の実》、8曲目に《くちなし》が組まれています。そうか、そこへの流れでここに《浜辺の歌》が置かれていたのだな、と、流れの中で確信しました。


こうなると、唱歌は唱歌らしく、などという様式観の問題ではないですね。演奏によって歌の世界がどれほど広がるかの、すばらしい実例です。私、本当に勉強しました。

ホール備え付けのベーゼンドルファーによる久元さんのソロ(《愛の夢》と《小犬のワルツ》)が場を盛り上げたところで再登場された井坂さん、お得意のケルビーノのアリアで締めくくられました。衣装は、もちろんそれらしく。お疲れさまでした!



入魂のシューベルト2017年05月23日 07時05分47秒

19日(金)のコンサートは、コンクールが続く中に置かれた、審査員の出演するスペシャル・コンサート。弦楽四重奏団が集結する中で五重奏を、という洒落た趣向です。プログラムには、モーツァルトのクラリネット五重奏曲、シューベルトの弦楽五重奏曲という、超名曲同士が並んでいました。

モーツァルトは、フランスの名手ミシェル・ルティエクさんと、クアルテット・エクセルシオの出演。ルティエクさんは人なつこく愛嬌のある、魅力的な方。演奏も際立った音色と技巧を駆使しつつ、明るい生命力にあふれていました。

この曲をこういうイメージで聴いたのは初めてで、こういう風にもできるんだなあと、感心。こうやると、この曲も「最後の4年」の前向きモーツァルト観につながりますね。発見です。

シューベルト最晩年のハ長調五重奏曲は、最近、本当にすごさを感じるようになった作品です。解説のために勉強して、現世を超えるようなその神秘的な世界に、ますます引き込まれてしまいました。

こちらは審査委員長の堤剛さんが第1チェロで入り、その神のごとき包容力のもと、クアルテット・エクセルシオが入魂の演奏。私は大いに感動し、終了後の楽屋で、「何ものにも代えがたい1時間でした」と、心から申し上げました。シューベルトの、器楽の最高傑作はこれですね!大好きな《グレート》交響曲を、さらに上回るという印象です。

蛇足ですが、モーツァルトのクラリネット五重奏曲を聴くとほとんどの演奏においてクラリネットが引き立てられ、弦楽器が一歩退いています。それが常識になっているようにも感じます。

でもそれは、正しいでしょうか。モーツァルトは、いつもクラリネットを聴かせるように書いてはいません。主役が弦楽器に移ってクラリネットが伴奏に回るところもしばしばあり、それによる多彩なテクスチャーの変化が、この曲の魅力の重要な一つなのです。ですので、弦楽器がもっと主導性をもって「作品」に関与すべきだと、たいていの場合に思います。このことは、クラリネット奏者にもぜひ考えていただきたいことです。

ロマンティスト2016年12月25日 22時02分07秒

「ホールを奏でる」という形でお示しした価値観について、補足しておきます。

演奏が聴衆に響きを届けて成り立つものであるとすれば、音響体としてのホールを味方につけることが、演奏家には大きなアドバンテージになると思います。ホールの響きを体感することで、演奏家と聴き手が一つに結ばれるからです。

でも演奏家には、それを大切にしている人と、あまり関心をもたない人がいるように思うのですね。2000人のホールでも200人のホールでもまったく同じに演奏する人が、案外少なくないように思えるのです。これは損だというのが、私の意見です。

さて、大阪から名古屋まで戻ってきた、先週の金曜日。朝6時に起きて新幹線に乗ろうとタイマーをかけましたが、乗り遅れたらたいへんだ、タイマーは鳴らない可能性もあるぞ、と思ったらと気が気ではなくなり、結局、まんじりともせずに朝を迎えました。

ホテルを出、余裕をもって名古屋駅に向かいました。ところが駅は人であふれ、6時台の東京行き普通車が、全部満席なのです。旅慣れない家族連れが長蛇の列をなしていてなかなか新幹線エリアに入れず、危ないところでした。こういう中継ぎは、やらない方がいいようです。

10時からの「たのくら」を立川で終えると、さすがに疲労を実感。会食をパスして家で休み、多少の準備をしてから、夜のレクチャーコンサートに臨みました。朝日カルチャー新宿校の音楽室で、敬愛するピアニスト安井耕一さんと、音楽におけるロマンについて語り合おう、というのです。

旧同僚の安井さんを私はロマンティシズムの権化のように思ってきたのですが、ご本人は、いや、自分は職人だ、とおっしゃいます。そこで、安井さんがロマンティストか職人か、という見極めをサブテーマに設定し、コンサートを進行させることにしました。

最初緊張しているようにも見えた安井さんですが、持ち前の音楽に対する愛は抑えるべくもなく、シューベルトに、シューマンに、ブラームスに、ロマンの溢れる会になりました。それが濃厚でも主観的でもなく、透明な響きの中でおおらかに立ち上がるのが、安井さんの職人芸です。

終了後はご夫妻と、ネットで探しておいたお店へ。風俗街のど真ん中を通ることになって肝を冷やしましたが(通らずにも行けます)、ようやく新宿に、おいしく雰囲気もよくて話しやすい、とてもいいお店を見つけることができました。いずれご紹介します。

盛り上がった会話の中で、そういう先生こそロマンティストではないか、という反撃が・・・。どうなんでしょうね(笑)。

知られざる神品2016年11月26日 00時29分26秒

体力勝負になった1日を終えて、珍しくシャンパンを開けました。ブログを開くと、てづかさんのコメントを発見。最初に、nun komm der heiden heilandとあるではないですか。いやでも今日の出来事を思い出さずにはいられませんでしたが、それはそれとしまして。

言及されていた霊元天皇、恥ずかしながら、まったく知りませんでした。ネット検索で、実在の人物であると確認するほど無知でした。また教えてください。

最近テレビがつまらないなあと思うようになってきて、Eテレの伝統芸能に、珍しくチャンネルを合わせてみました。すると、武原はんという人の『雪』という地唄舞をやっていて、これが神品のように美しいのです。感動もの。知らなかったの?と言われそうですが、知りませんでした。

このようにものを知らない私ですが、確信するのは、伝統芸能の得がたい価値です。これを絶対絶やすまい、と思います。月曜日に今藤政太郎先生の作品発表会に接して思っていたことを、いま再確認しました。グローバリゼーションの時代に、多くの名人芸が顧みられなくなっているであろう状況を想像し、心が痛みます。

《オテロ》に学ぶ2016年09月22日 10時38分39秒

「たのくら」でヴェルディの《オテロ》を、2回にわたり勉強しました。この偉大な作品に、まこと脱帽の思いです。70代の創作にして、この発展は信じられません。

会員にも好きな方、詳しい方がおられ、ヴェルディが当初タイトルを《ヤーゴ》と付けたがっていた、という話になりました。これは経緯を正確に調べてみるべき話で、職業柄そうしないで話題にするのもいかがかと思いますが、お目こぼしをいただきまして・・・。

オテロもヤーゴもすばらしい人物造形で、その対立も効果満点です。しかしどちらの人物がより独創的かと言われれば、ヤーゴでしょう。第2幕冒頭の〈ヤーゴの信条〉など、前代未聞の音楽と言っていい。

第1幕。ヤーゴはオテロの登場前からその場にいますし、名曲〈乾杯の歌〉の前後で、彼の目論見を実行する。しかし彼に本当にスポットが当たるのは、第2幕です。冒頭にキリスト教の〈クレド〉を裏返した〈信条〉があり、オテロをたぶらかす〈夢の歌〉がある。その最後に、両雄による〈復讐の二重唱〉があります。

豪快なオスティナート音型(←名旋律!)を先立てて始まるこの二重唱、私の好きな曲なのですが、気がついてみると、主旋律を歌うのはヤーゴで、オテロは上を付けているだけなんですね。力関係がこう明らかになると、歌劇《ヤーゴ》第2幕でもおかしくありません。

第3幕もそれでいけるでしょう。最後、ヤーゴは勝ち誇ってオテロを足蹴にしますから。ところが。第4幕でヤーゴは存在感を失い、逃げ去るだけになります。逆にオテロは空前の名場面で独壇場、という形になりますから、やはり《オテロ》第4幕と言わざるを得ません。このあたり、先行研究が存在することでしょう。

古今の演奏を比較すると、昔は大歌手の個人プレーが前面に出ていて、われわれがNHKのイタリア歌劇団に熱狂したのは、まさにそのような公演だった、と痛感します。それからというもの、レコードを選ぶにも、有名な歌手がたくさん出ている方を選んでいたものです。

しかしその後、大指揮者が仕切るオペラという形が世界で進行し、ドラマ優先のオペラが尊重されるようになりました。私は、今後のオペラはいっそうアンサンブルを尊重するようになると予測しています。クルレンツィスのような指揮者とともに、もうそれは始まっている。小さなコンサートホールでオペラをやる場合にはそうした方向が重要で、歌い手の方々にも、それに対応する柔軟性を求めたいと思います。

それは、ヴェルディ自身が求めたことでもあるのです。《オテロ》には精緻なアンサンブル楽曲が見え隠れしており、たとえば第3幕のヤーゴとカッシオの二重唱は、《ファルスタッフ》の世界を指し示しています。《ファルスタッフ》がいかに高度なアンサンブル・オペラに発展してオペラの歴史を塗り替えたかは、皆様ご承知の通りです。

「すべて言葉です」2016年04月21日 09時09分56秒

更新、ちょっと間が空きました。忙しかったことも確かですが、時節柄、何をどう書いたらいいのか迷っていたこともあります。災害の沈静を祈るばかりです。

16日(土)は温泉町の湯河原で、今年度の「湯河原町民大学」オープニング講演をしました。といっても事実上のコンサートで、「なつかしい世界の歌・日本の歌」と題して行いました。

これが、町民大学の60周年企画なのです。60年も前から続いているって、すごいと思われませんか?受講生の出席が、それだけで200名。温泉の恵みでお元気な高齢の方々中心ですが、穏やかないい雰囲気で、おのずとまとまりがあります。

場所は昭和な雰囲気の「観光会館」。こういう場所の心配はピアノが傷んでいたり調整に限界があったりすることですが、伴奏を一手に引き受けていただいている久元祐子さんはこういう楽器を扱う名人で、どんな楽器からもたっぷり音楽的な演奏を引き出してくれます。まさに「弘法筆を選ばず」です。

直前の出演者交代には肝を冷やしました。しかし飛び入りしてくれた井坂惠さんが、持ち前の明るさ爆発、高田三郎《くちなし》で涙を誘い、大成功でした。湯河原とゆかりをお持ちであることもわかり、これもご縁かなと思った次第です。

ブルーローズの《冬の旅》以来のステージとなった京都の田中純さん。どんなことを心がけて歌っておられますかとマイクを向けたところ、「すべて言葉です」とのお答え。そこに全力を注ぐことで、声の使い方もおのずと引き出される、とのこと。たしかにドイツ語も日本語もじつに美しく、すみずみに、ノーブルなロマンがたたえられています。

「すべて言葉です」というのは、私自身の考えとぴったり重なることに気づきました。言葉は「初めにあった」もので、後から振られた歌詞ではない。コンクールの講評でも、いつも申し上げることです。田中さん(写真右)の歌を、これからも多くの人に知って欲しいと思います。


町民の方々と心の通う、忘れがたいひととき。ありがとうございました。こういう活動を、大切にしてまいります。

即興の不思議2016年02月02日 08時13分54秒

(承前)コンサートでトークをするさいには必ずゲネプロを通体験するようにしています。それによって、コンサートの一部になれる。しかしこの日(1月30日)は、メールでやりとりしただけのぶっつけになりました。それでも成立するのは、出演者が親友の加藤昌則さんだから。当日のテーマは「即興」でした。

まず、バッハの即興演奏を書き留めたとされている〈3声リチェルカーレ〉(《音楽の捧げもの》)を、加藤さんがピアノ演奏。さっそくインタビューしましたが、作曲家には、どんなところに即興の痕跡があるかがわかるようです。

続いて、加藤さんの即興演奏。ドレミファソラシドからの3つの音をお客様が指定し、明るい曲か暗い曲かを選択するのが加藤流です。客席から出たテーマは、「ソレラ」。明るい曲、ということで演奏が始まりました。

与えられた条件のもと、技巧的で完成度の高い曲がたちどころにできあがる加藤さんの即興に、何度か立ち会ってきました。卓越した和声理解に基づくロマン派的なピアノ曲になるだろう、というのが、私の予測。ところがこの日弾き出されたのは、バッハ的なポリフォニーでした。こっちの方がよほどむずかしいと思うので、あらためて彼の能力に驚嘆。暗い曲も作ってみましょう、ということで、こちらはロマン派風に。「ソレラ」から暗い曲というのは、私は思いつきません。すごいですね。

次に、即興をめぐる対談。どこまで最初にイメージを固め、どこまでリアルタイムの作業になるのかを中心に、企業秘密(?)を伺いました。われわれが言葉でする作業を音楽家は音でする、と考えると、当たらずとも遠からずのようです。

最後に、加藤さんイチオシのサックス奏者、住谷美帆さんが登場。加藤さんのオリジナル作品--哀愁漂う《蘇州揺籃曲》と華麗な《スロヴァキアン・ラプソディ》--を盛り上げました。藝大2年生だそうですが大物のカリスマ性十分で、まこと、堂々たる演奏でした。


先立つ27日(水)には、大学の仕事を卒業された小林一男さんが、久元祐子さんのピアノで、テノールの美声を披露されました。小さな場で申し訳ないと思いつつお願いしましたが、入念に準備してくださり、気迫が曲ごとに高まる、すばらしいステージ。朝日カルチャーセンター新宿校のレクチャーコンサートも、よき場として大事にしていきたいと思います。

音楽祭の格2015年08月02日 07時08分36秒

ワーグナーの映像も数は増えてきましたが、かならずしも厳選されておらず、日本語がめったに付いていないのも残念。しかし少しは見ておかなくては、ということで、グランドホーン音楽祭2011の《ニュルンベルクのマイスタージンガー》を買ってみました。演奏はウラディーミル・ユロフスキ指揮のロンドン・フィル、演出はデイヴィッド・マクヴィカー、ザックスはジェラルド・フィンリーが歌っています。

これが予想をはるかに上回ってすばらしく、すっかり感心。客席1150という劇場なので本来ワーグナー後期には小さすぎるはずなのですが、それを逆に生かし、スリムな編成とじつに芸の細かい演出で、室内楽的と呼びたいほどにクリアなステージを作り上げているのです。

見た目にも耳にも細部までしっかり完成されていて、統一性がある。これはかかわった人個々の能力の総和という以上に、音楽祭の伝統であり格というべきではないか、と思います。私、まだ行ったことがないのですけれど。

歌い手たちがひじょうによく勉強していて、空間に合わせた声(!)で歌っています。そう、これなんですよね。ワーグナーだからいつでもどこでも大声で、という根強い思い込みを一から見直しているのには、脱帽。新奇なことをやっていないのに、これまで見たこともない新鮮な《マイスタージンガー》だ、という印象が与えられます。これは、参考になる事実ではないでしょうか。

ザックスが「心配性」と呼びたくなるような奉仕型の人物に造形されていることには若干違和感がありましたが、これも主張でしょう。オーケストラがたえず感興をたたえてとうとうと流れているのもよく、すっかり気に入りました。日本語字幕、欲しいですね。