感動の続編 ― 2013年11月22日 10時03分21秒
本編に一定の違和感を感じたと述べましたが、続編に入ると、それはどんどん解消されていきました。文体や構想に慣れた、というのもありますが、文章が本編より明らかに良くなっていると思う。書きながら、著者は成長されていったのではないでしょうか。
ともかく、真剣さが並々でない。これは世代もあるなあ、と思いますね。現代では求めるべくもないような真剣さ、そして熱烈さ。旭川を中心に、北海道が舞台となっているので、この8月に訪れたことが感情移入に役立ちました。旭川の記念館に行っておくのでした。
ぐーっと引き入れられて読んでいて、一気に涙のあふれた部分があります。それは、天真爛漫に見える少女、順子が生い立ちの苦しみを告白した手紙の中の、「キリストの贖罪を知り、それから本当に明るくなった」というくだりです。こう書くと、礒山もついにそっちか、と思われるかも知れませんが、そうではないつもりです。この記述に著者が思いを賭けていて、その意味するところを私が理解した、ということです。
さらに読み進めるうち、あっと驚く部分が、もうひとつ。それは、主人公の敬造が勇を鼓して教会を訪れる場面で、そこで朗読され、牧師によって説教される聖書箇所が、ルカ福音書の「ファイサイ人と徴税人」のくだりだったことです。この説話は私の一番好きなもので、バッハのカンタータ第179番《心せよ、神を畏れることが偽善とならぬように》の下敷きになっています。〈憐れんでください〉のソプラノ・アリアを導き出すバッハの音楽付けはすごいです。
「くにたちiBACHコレギウム」でも演奏したこのカンタータ、ちょうど来月の大阪音大での講義でも取り上げることにしており、いいネタができました。敬造が教会に到達すること、エンディングが冬の網走における陽子の神体験になっていることなど、キリスト教色が濃厚な小説ですが、宗教宗派の問題にとらわれず、その中味を読んでいただけるといいのではないかと思います。
名曲!ヴィーデラウ・カンタータ ― 2012年09月03日 08時44分47秒
イメージを蓄えて聴くこの曲は、驚くほどみごとな作品です。運命、幸運、時、エルスター川という4人の寓意的人物が登場して「ドラマ・ペル・ムジカ」を展開し、トランペット・グループを擁する大編成の音楽が、それを彩ってゆきます。その壮大な音楽を、見聞した現地とのミスマッチを感じつつ聴いた私は、「バッハさん、あなたもとことん手抜きを知らない人ですね!」と心で呼びかけてしまいました。
聴いたCDは、晩年のレオンハルトがカフェ・ツィンマーマンとヴェルサイユ・バロック音楽センターを指揮した2007年の録音(α)です。さすがレオンハルトで、細かな響きが散りばめられた、百花繚乱の演奏になっている。彼のチェンバロ演奏は種々の微細な差別化を導入することで情報量が豊かになっているわけですが、それと同様のコンセプトが、オーケストラから伝わってきます。台頭するフランスの古楽演奏グループとの、よき出会いの記録ですね。
この演奏を聴いていて、「一糸乱れぬ」統率されたバッハ演奏を無条件によしとすることはできない、とあらためて思いました。モーツァルトが訪れたマンハイムで、地元の宮廷楽団が「一糸乱れぬ」演奏を繰り広げていたことは有名です。これは歴史上の一大進歩として語られることですが、だったらそれ以前はどうだったのか、ということになりますよね。そのことを考えるヒントがここにあるように思えました。
雪の閏日 ― 2012年02月29日 17時51分44秒
終了後、研究室の仲間とのお別れ会までに、長い時間があります。そこでいよいよ、部屋の片付けに乗り出しました。3月を、片付け月間とします。なぜなら、自分の家を片付けないと、大学を片付けても処理できないからです。
今週「古楽の楽しみ」に出ています。しかし今週と3月26日からの週は再放送期間なので、去年の9月に出したバッハのトリオ・ソナタ特集と、12月に出したバッハの《クラヴィーア練習曲集》の特集を選びました。聴き逃された方はどうぞ。
閏日というと連想するのは、バッハのカンタータ第140番《目覚めよ》です。この曲は教会暦の閏日、すなわち三位一体後第27主日のために1731年に書かれたのですが、この日は復活祭が一番早くなった年にのみあらわれる日曜日で、バッハの生前には3回しか出現しませんでした。作曲前に1回、作曲後に1回です。
バッハのカンタータ中の最高傑作が、こういう珍しい日のために書かれているって、面白いと思われませんか?再演の機会がほどんどないことがわかっているにもかかわらず、バッハはこの日のテーマである終末を扱って、すばらしい作品を作りました。音楽は人間が作って人間に聴かせるもの、という発想では、説明のできないことだと思います。
「艶」 ― 2010年12月08日 13時43分25秒
昨日は、カンタータのコンサートの、ゲネプロ。本番が14日に迫っていますので、みんな集中力が高まってきました。それにしても、やるたびに大きく見えてくるのが、198番の選帝侯妃追悼カンタータです。バッハの最高傑作の地位を争う作品ですね。神戸、平尾の二枚看板を揃えたガンバがさすがに強力で、加納悦子さんの歌われるアルトのアリアの効果が倍増。薄幸のヒロインに対するイメージ作りのしやすさが、合唱にも力を与えているようです。
この作品の存在感は、まったく独特。バッハというと奥に分け入るにつれて深いというイメージがあると思いますが、この曲では創意がすべて花開くように外に表れていて、内面と外面が一体になっている。漢字一文字で表せば、「艶」という字が浮かんで来ます。こういう曲は、他にちょっと思い付きません。
別の言葉で言えば、きわめて修辞的に、効果を張り巡らせて書かれた音楽です。ソプラノ独唱の阿部雅子さんがそのことを踏まえた歌作りをしていることに、共感を覚えます。
特別な作品だと思うにつれ、バッハが主要曲をケーテン侯の葬送音楽やマルコ受難曲に転用したのは当然であるように思えてきました。一回では残念過ぎます。
コンサート回顧(5):カンタータ第140番(その2) ― 2009年12月13日 23時48分07秒
カンタータ《目覚めよ》を貫く柱はコラールですが、そこに花を添えているのは、2つの愛の二重唱です。そこでは旧約『雅歌』で展開されるおおらかなテキストが霊化され、魂とイエスが求め愛し合って婚姻を結ぶ、という設定になっている。かつては「霊化」の側面がもっぱら強調される傾向もありましたが、私は、性愛のイメージも豊かに働きかけてほしいなあ、と思っていました。バッハの時代にも、その側面は魅力として強く感じられていたに違いない、と思われるからです。そこで、コンチェルティストのお二人にも、アイ・コンタクトを積極的に使ってほしい、と要望しておきました。
阿部雅子さん(ソプラノ)がその趣旨を完璧に理解して歌われたことには、正直、驚きを禁じ得ません。彼女がモンテヴェルディを専攻されたのは最近のことですが、輝きのあるピュアな声質はバロックにぴったりですし、知的な洞察力といい、落ち着いたステージ度胸といい、たいしたもの。「別人のよう」という言葉が、つい浮かんできます。でもその意味するところは、自分の内に隠れていた能力を発見し開花させて、本当の自分になった、ということでしょう。湯川亜也子さんのフォーレ研究とも通じる成長(大化け?)現象で、続く人が、どんどん出てくるといいなと思っています。
カンタータ上演のプロデュースは何度かやりましたが、今回ほど、私の方向性を演奏者たちが一丸となって追求してくれたコンサートはありませんでした。うれしいかぎりです。それはなにより、指揮とオルガンを担当した大塚直哉さんの力量のたまものです。類いまれな耳と音楽性、理論と語学力、ハーメルンの笛吹きのように人を集め、燃え立たせる大塚さんの才能こそが、コンサート成功の真の原動力でした。「日本のバッハ」として今後時代を築く人の、よき1ページとして記憶されることを願っています。
コンサート回顧(4):カンタータ第140番(その1) ― 2009年12月12日 22時44分32秒
カンタータ第140番《目覚めよ》は、バッハの教会カンタータの最高峰に位置する作品と評価しています。その音調は、終末を扱いながらも希望にみなぎり、大らかな開放感と官能性を兼ね備えている。厭世的で厳粛な前半2曲と対置することによって、こうした性格は、ますます引き立つに違いありません。
この曲には、男声のエースを2枚投入しました。若いテノール、藤井雄介さんと、ベテランのバリトン、小川哲生さんです。この日のプログラムにはテノールの独唱がなく、140番のレチタティーヴォが唯一のもの。しかしこれは相当な名曲で、「鹿のように丘を躍り超えて」やってくる花婿イエスの姿を、わくわくモードで伝えます。短いながら、テノールの聴かせどころと言っていいでしょう。バスにはもちろん、イエスの重責が委ねられ、レチタティーヴォが2曲、二重唱が2曲ある。味わい深い歌を歌われる小川さんが、ここで出番となりました。
日本にほとんどないというヴィオリーノ・ピッコロ(3度高い小型ヴァイオリン)が調達できたのは、大きな幸いでした。そのちょっと鼻にかかったようなかわいらしい響きに、バッハがこだわったと思われるからです。最初の二重唱ではこれが大活躍しますが、最後のコラール(天上の都を歌うもの)でもソプラノのオクターヴ上を演奏して、かすかな輝きを添える役割を果たします。超高音域のホルンもソプラノの重ねとしてぜひ必要ですが、ここに名手の阿部麿さんを配することができたのも、この日の自慢でした。
カンタータ中一番有名なのは、オルガン曲にもなっている中央のコラールですよね。この曲は、テノールのソロで歌われる場合と、パート・ソロで歌われる場合があります。私は、パート・ソロの方を選択しました。それは、ここでのコラールが、他の曲と同様はっきりした共同体的性格をもつと考えたからです。弦の有名な旋律は、2部のヴァイオリンとヴィオラのユニゾンで演奏されます。ですからテノールも、リピエーノを重ねてユニゾンとする方がいいと思いました。(まだ続く)
コンサート回想(3):休憩 ― 2009年12月11日 11時59分59秒
モテットが終わると、私はすぐ、ホールを飛び出しました。第140番のためのトークで聖書の朗読をしようと思い立ち、研究室に、取りに戻ったのです。カンタータ演奏はバッハの時代にも聖書の朗読に続いて行われたわけですが、140番の場合はマタイ福音書の「10人の乙女のたとえ」が密接に踏まえられていますので、読んでおくと、鑑賞の助けになります。時間の進行が思いの外速かったため、朗読が可能と判断しました。
ホールと研究室は、急いでも5分かかります。聖書を携えて戻ってゆくと、もう後半の開始直前。演奏者に声をかけることもできませんでしたが、モテットを終わって戻ってきた声楽の人たちがたいへん高揚していたという報告を、裏を取り仕切っている永田美穂さん(助手)から受け取りました。
で、聖書をもってステージへ。最近細かい字が見えませんので、メガネを外して朗読しました。しかし聖書を読み、情景を説明しなどしているうち、歴然と、ノリが出てきたのです。私は平素さまざまに配慮を巡らしながら取捨選択をしつつトークし、そのあげく大事なことを忘れてしまったりするのですが、まれに、そうした配慮が心を離れ、言葉に集中した状態になることがある。それがこのときに起こり、お客様の耳が全部こちらに来ている、という気配を感じました。前半の演奏に熱気があったために違いありません。私がコンサートの成功を確信する瞬間でした。
コンサート回想(2):モテット ― 2009年12月10日 22時09分37秒
カンタータ第64番に続いて、モテット《イエスよ、私の喜び》が演奏されました。私にいただく感想は、モテットがもうひとつだった、というものと、モテットが一番よかった、感動した、というものに二分されていて、中間がありません(1:2ぐらいで後者が優勢)。なるほど、やっぱりね、という思いです。
練習していて痛感しましたが、カンタータより、モテットの方が格段にむずかしいですね。カンタータは器楽の助けがありますし、歌うところも少なくて、たとえば140番のソプラノ・リピエーノのように、コラールの主旋律を歌っていれば済む、という曲もあります。毎週のように新作をやらなくてはならない状況の中で、バッハが演奏家に配慮していることがわかります。
しかしモテットは、ポリフォニー合唱の連続。しかも《イエスよ、私の喜び》は全11楽章と長大で、たいへんむずかしい。ですから、コンサートを迎えるにあたって一番「こわい」のが、この曲でした。
バッハの時代には全パートに器楽の重複が入っていました。歌声部はこの曲の場合各パートひとりだったろうと思いますので、器楽の支えは欠かせなかったことでしょう。しかし今回は各パート4人で編成したこともあり、器楽はオルガンのみに限定しました。
これについて、複数の方が、やはり楽器を使うべきではなかったか、とアドバイスされました。私も今ではそう思っています。楽器の支えがあることで音程が取りやすくなり、歌の負担が飛躍的に軽減されるからです。楽器の重複には、こうした実践的な意味合いが大きいことがわかりました。バッハは、思いのほか実践家なんですね。
《イエスよ、私の喜び》は、しみじみと美しいコラールが奇数楽章で変奏されます。ここで表現されるのは、現世への決別です。一方、これにはさまれる奇数楽章は、『ローマ人への手紙』をテキストに、肉を去って霊にある者には永遠の命が授けられる、と述べる。両者が対置され、響き合い、生と死へのスタンスを深めながら、モテットは進んでいきます。そのさい、偶数楽章のメッセージがより高く、より尊いものとして響いてくることを作品は求めていると、私は考えました。
既報の通り、今回は偶数楽章をコンチェルティストの重唱として編成し、リピエーノが入って合唱される奇数楽章とはっきり区別されるようにしてみました。コンチェルティストには、大きな負担のかかるやり方です。そのためか、前の週の練習では偶数楽章が歌い切れず奇数楽章に埋没するような形になっていて、私は、それでは何もならない、と叫んでしまいました。ムンクのような顔をしていたかどうかは、わかりませんが。
食事をしながら意見交換をしているさい、指揮者の大塚さんがおっしゃるには、メッセージを大切にとは言っても、偶数楽章の歌詞は抽象的で、理解がむずかしいのではないか、とのこと。そうか、と私もはっとして、都合のつく人に別途集まってもらうことにしました。そこではパウロ書簡のもつ意味をお話しし、メッセージへの理解を深めました。
そして本番。コンチェルティスト(山崎法子、川辺茜、湯川亜也子、中嶋克彦、杉村俊哉/千葉祐也)の士気はきわめて高く、前週とは比べものにならないほどの充実をもって偶数楽章が再現されました。わ~よかった、と安堵。ですから私の感想は、「個人的にはモテットのコンチェルティストに拍手を送りたい」と書き込んでくださった浦和人さんのそれに、ぴったり重なります。精根尽くして演奏してくれた若い人たちに、感謝の心で一杯です。
コンサート回想(1):カンタータ第64番 ― 2009年12月09日 23時23分41秒
カンタータ第64番《見よ、どれほどの愛を》はとくに有名な作品とは言えませんが、私の好きなカンタータのひとつです。とくに思い入れがあるのは、中程にあらわれるソプラノのアリア。この世のものは煙のように消えていく、という厭世的な内容をもち、ヴァイオリンに煙の音型が、足早に駆け巡ります。「バッハのロ短調」による名歌のひとつです。リヒターのレコードで昔聴いていましたが、こうした表現はリヒターの独壇場で、マティスが深い声で歌っていました。
そんなこともあってこの曲を選び、練習を始めましたが、練習を重ねるにつれ、このカンタータの重量感がひしひしと感じられてきました。冒頭のフーガも、3曲あるコラールも、1回ごとに好きになりました。小泉惠子さん、加納悦子さんというエース2枚をこの曲に投入しましたので、事前から、もっとも安心のできる仕上がりになっていました。
小泉さんも煙のアリアに惚れ込んでおられ、用意は万端のように思えましたが、直前には不安にかられたらしく、ほとんどパニック状態(笑)。節度あるお人柄を存じ上げていますから、ああこれが歌い手なんだな、とほほえましく思いました。大切に思ってくださればこその現象です。
実演は内容をひたと見据え、格調高く表現した感動的なもので、私はこの方にこの曲を歌っていただける幸福をしみじみ感じながら耳を傾けました。狩野賢一君が堂々たるバスで間をつなぎ、アルトのアリアになりました。
この曲はオーボエ・ダモーレとアルト、通奏低音のトリオになっています。現世への決別を告げる歌詞はソプラノ・アリアの延長線上にありますが、音楽はト長調の明るく開かれたもので、大塚直哉さんによると、「ようやくクリスマスの雰囲気が満ちてくる」ということになります。従来私は、ソプラノのアリアを愛するあまりこの曲にあまり気持ちを入れていなかったのですが、今回は演奏のすばらしさによって、この曲がこの位置に置かれていることの意味がよくわかりました。このアリアは前のアリアを慰め、世に決別することの意味をとらえ直して、魂を癒しへと導いているのです。
尾崎温子さんのオーボエ・ダモーレの音色のやわらかさ、人声のようなぬくもりはこれまで聴いたことのないもので、これと加納さんのアルト、吉田将さんのファゴット、大塚さんのオルガンの教師陣の織りなすアンサンブルは、おそらく一生忘れないと思うような美しさでした。順調な滑り出しです。
「カンタータの名曲を聴く」を終えて ― 2009年12月08日 23時58分56秒
「カンタータの名曲を聴く」のコンサートが終わり、打ち上げを経て帰宅。いま、ハイテンションが少しずつ解消しつつあります。
おかげさまで9割を超える入場者がありました。私としては、演奏者、お客様から裏方まで、ご尽力いただいた方々への、感謝あるのみです。印象として強くあるのは、バッハの音楽のすばらしさと、若い人たちの情熱がもつ力の大きさ。いろいろな流れが合流して勢いを増し、今日の成果につながりました。皆さんの感想をいただきながら、書き足してゆきたいと思います。
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