ドイツ2016淡々(5)~《マタイ》の演奏者たち ― 2016年06月21日 16時22分31秒
音楽的に見ると、ガーディナーの指揮は、大局的な視点に立ちつつ、演奏に一貫した流れを確保する方向に向かっていました。歌い手が前奏、後奏を利用して移動することにより、ほとんどの楽曲がアタッカで進行してゆきます。こうすると、絵巻物のように物語を体験できるのですね。できれば、こうしたいものです。
コンチェルティストの割り振りは、バッハの指定通りではありませんでした。どうやら準備の段階を経て、割り振りが定まったようです。女声の中に巨漢の黒人歌手が交じっていて驚きましたが、レジナルド・モブリーというカウンターテナー。艶のある美声でアリアの先陣を切り、会場を沸かせました。
若手のソリストには指導的な棒さばきを見せたガーディナーですが、ハナ・モリソンのように彼のフレージングを熟知している人は自由に歌って、あたかも化身のよう。どの歌い手にも、器楽とのコラボをしっかり取るという古楽の基本が徹底されていました。
しかし歌い手の殊勲賞は、なんといってもジェイムズ・ギルクリスト(エヴァンゲリスト)でしょう。美声で語りかけるような唱法にますます柔軟性と起伏が加わり、大演奏の聖書場面を堂々と牽引。当代随一の、少なくとも一人ではあると思います。
ヴィオラ・ダ・ガンバは日本人女性でした。見慣れた後ろ姿と思ったら、やはり市瀬礼子さん。〈忍耐〉のテノール・アリアから入りましたが、ラド・シミを歌わせ、紡ぎ出し部分をすごい付点にする解釈で、音楽性も十分。器楽奏者の最初に起立して拍手を受けました。舞台袖で立ち話をしていると、ガーディナーが花束を届けに。このところしばしば共演しているそうです。たいしたものですね。
長くなりますが、細部の話を少し。最後のバス・アリアの中間部終わりに、「世よ出ていけ、イエスにお入りいただくのだ」という部分があります。この世ときっぱり決別し、イエスをこの身に埋葬しよう、というくだりです。
私はこの箇所が大好きなのでいつも待っているのですが、多くの演奏が、ここを素通りしてしまいます。しかしガーディナーは間奏をしだいに白熱させてここを迎え、次の器楽合奏に喜び踊るような表情を加えて、主部の再現を導きました。雑念が一掃された心の軽みをあらわしたのだと思いますが、こういう演奏は初めて聴きました。言葉への収斂の、1つの形だと思います。終曲の大団円には、感慨を込めたひときわ大きなリタルダンドが置かれて、コンサートが閉じられました。
身体の不調は曲ごとに良くなり、ついには解消。悪いことがあればいいことがある、という「ツキは一定」の理論は、やはり正しいようです。忘れがたい一日。天の声様のおかげです。
最後に、一愛好家さんがコメントで触れておられる、《ロ短調ミサ曲》新盤との関係について。私は間近でその凄みを実感しましたから、その心配から解放されました。しかし同行した方の中にお一人、13年の《ヨハネ受難曲》に比べるとやや老いを感じる、と指摘した方がおられました。言われてみると、その意見を否定することもできないように感じています。
コンチェルティストの割り振りは、バッハの指定通りではありませんでした。どうやら準備の段階を経て、割り振りが定まったようです。女声の中に巨漢の黒人歌手が交じっていて驚きましたが、レジナルド・モブリーというカウンターテナー。艶のある美声でアリアの先陣を切り、会場を沸かせました。
若手のソリストには指導的な棒さばきを見せたガーディナーですが、ハナ・モリソンのように彼のフレージングを熟知している人は自由に歌って、あたかも化身のよう。どの歌い手にも、器楽とのコラボをしっかり取るという古楽の基本が徹底されていました。
しかし歌い手の殊勲賞は、なんといってもジェイムズ・ギルクリスト(エヴァンゲリスト)でしょう。美声で語りかけるような唱法にますます柔軟性と起伏が加わり、大演奏の聖書場面を堂々と牽引。当代随一の、少なくとも一人ではあると思います。
ヴィオラ・ダ・ガンバは日本人女性でした。見慣れた後ろ姿と思ったら、やはり市瀬礼子さん。〈忍耐〉のテノール・アリアから入りましたが、ラド・シミを歌わせ、紡ぎ出し部分をすごい付点にする解釈で、音楽性も十分。器楽奏者の最初に起立して拍手を受けました。舞台袖で立ち話をしていると、ガーディナーが花束を届けに。このところしばしば共演しているそうです。たいしたものですね。
長くなりますが、細部の話を少し。最後のバス・アリアの中間部終わりに、「世よ出ていけ、イエスにお入りいただくのだ」という部分があります。この世ときっぱり決別し、イエスをこの身に埋葬しよう、というくだりです。
私はこの箇所が大好きなのでいつも待っているのですが、多くの演奏が、ここを素通りしてしまいます。しかしガーディナーは間奏をしだいに白熱させてここを迎え、次の器楽合奏に喜び踊るような表情を加えて、主部の再現を導きました。雑念が一掃された心の軽みをあらわしたのだと思いますが、こういう演奏は初めて聴きました。言葉への収斂の、1つの形だと思います。終曲の大団円には、感慨を込めたひときわ大きなリタルダンドが置かれて、コンサートが閉じられました。
身体の不調は曲ごとに良くなり、ついには解消。悪いことがあればいいことがある、という「ツキは一定」の理論は、やはり正しいようです。忘れがたい一日。天の声様のおかげです。
最後に、一愛好家さんがコメントで触れておられる、《ロ短調ミサ曲》新盤との関係について。私は間近でその凄みを実感しましたから、その心配から解放されました。しかし同行した方の中にお一人、13年の《ヨハネ受難曲》に比べるとやや老いを感じる、と指摘した方がおられました。言われてみると、その意見を否定することもできないように感じています。
ドイツ2016淡々(4)~すべてが言葉へ ― 2016年06月19日 18時40分58秒
聖トーマス教会の演奏者席は2階後方にあり、1階席からは、演奏者の姿をほとんど見ることができません。聴衆は、豊かな残響と共に舞い降りてくる響きに身を浸すわけで、それが、教会で音楽を聴く伝統的なあり方でもあります。同行の方々はそのように聴かれ、一致して、すばらしかった、感動した、とおっしゃいました。私からは、目撃してわかったことを中心にご報告します。
最大の驚きは、声楽が全員暗譜だったことです。合唱はもとより、エヴァンゲリストもイエス(シュテフェン・ローゲス)も、全員楽譜なし。しかも、アリアを歌うソリスト9名がモンテヴェルディ合唱団と共に、合唱パートを全部歌っている。人数は、彼らを含めて各パート3人(ソプラノのみ5人)×2の、28人です(+少年合唱)。
つまり、コンチェルティスト/リピエニスト方式がみごとに貫徹されていたわけです。これはソリストに大きな負担を課しますから、ソリストに著名な人が少なく若手が多かったのは、そのためかもしれません。しかしその一体感はたいへんなもので、周到に準備された公演、という印象を強くしました。楽譜をすべて自分のものとした2群の合唱から、明晰でスピリットにあふれたすごい響きが湧き上がり、教会空間にこだましてゆくのです。
ガーディナーが何を目指して音楽していたのかは、演奏者側から見ることによってよく理解できました。すべてが、「言葉」に向かっているのです。彼は(声を出していたかどうかはわかりませんが)つねに言葉を口ではっきり示しながら指揮し、表情の動きや高まり、また鎮まりをすべて、言葉の内側から引き出してゆく。言い換えれば、音楽の全体が巨大な言葉として昇華されてゆく。こういう演奏をイギリス人たちがなしうるとは・・・。イングリッシュ・バロック・ソロイスツの奏者たちが簡単な伴奏音型ひとつにも共感をこめ、有機的アンサンブルを作っていたことも印象的でした。(感想続く)
最大の驚きは、声楽が全員暗譜だったことです。合唱はもとより、エヴァンゲリストもイエス(シュテフェン・ローゲス)も、全員楽譜なし。しかも、アリアを歌うソリスト9名がモンテヴェルディ合唱団と共に、合唱パートを全部歌っている。人数は、彼らを含めて各パート3人(ソプラノのみ5人)×2の、28人です(+少年合唱)。
つまり、コンチェルティスト/リピエニスト方式がみごとに貫徹されていたわけです。これはソリストに大きな負担を課しますから、ソリストに著名な人が少なく若手が多かったのは、そのためかもしれません。しかしその一体感はたいへんなもので、周到に準備された公演、という印象を強くしました。楽譜をすべて自分のものとした2群の合唱から、明晰でスピリットにあふれたすごい響きが湧き上がり、教会空間にこだましてゆくのです。
ガーディナーが何を目指して音楽していたのかは、演奏者側から見ることによってよく理解できました。すべてが、「言葉」に向かっているのです。彼は(声を出していたかどうかはわかりませんが)つねに言葉を口ではっきり示しながら指揮し、表情の動きや高まり、また鎮まりをすべて、言葉の内側から引き出してゆく。言い換えれば、音楽の全体が巨大な言葉として昇華されてゆく。こういう演奏をイギリス人たちがなしうるとは・・・。イングリッシュ・バロック・ソロイスツの奏者たちが簡単な伴奏音型ひとつにも共感をこめ、有機的アンサンブルを作っていたことも印象的でした。(感想続く)
ドイツ2016淡々(3)~不思議な声 ― 2016年06月18日 17時26分14秒
朝日サンツァーズのバッハ詣で旅行3日目(6月16日)。この日が前半の山場です。ベルリンを出てヴィッテンベルクを観光し、ライプツィヒ入り。夜は聖トーマス教会で、ガーディナー指揮の《マタイ受難曲》を鑑賞するのです。
覚えている方もおられるでしょうが、去年の最大のトラブルは、ヴィッテンベルクで起こりました。一応振り返っておくと、観光後ライプツィヒに戻ろうと列車に乗ったところ、反対のベルリンに行ってしまった。動転してチケットを買いに走ったら、ヴィッテンベルクまで買えばいいところを、ライプツィヒまで買ってしまった。その上乗った列車が事故により迂回して大幅に遅れ、夜のコンサートに間に合うかどうか、時計とにらめっこになった--。今考えても冷や汗の出る失態を重ねたのが、去年でした。
というわけで鬼門の、ルター都市ヴィッテンベルク。今年は幸い爽やかな好天に恵まれ、失態も犯さずに、気持ちの良い散策ができました。来年の記念イヤーに向けての準備も進んでいます。去年閉まっていた聖マリア市教会(写真)にも入って、クラナッハの宗教画を堪能しました。
ライプツィヒに着き、いよいよコンサート時間(夜8時開始)が近づいてきました。ところが、その間に食べたものがいけなかったようで、気分がとても悪くなってしまったのです。
ぎりぎりまでホテルで休んで駆けつけると、まだ聴衆が長蛇の列。同業の加藤浩子さんと並ぶことになったのですが、加藤さんに「話しかけないでください」と言ってしまうほど(ごめんなさい!)、本当に気分が悪かった。トイレに駆け込む危険があったのでよほど前半を休もうかと思いましたが、チケットは無駄にできませんから、なんとかがんばろう、と思い定めました。
行かれた方はご存じでしょうが、聖トーマス教会は、席がとてもわかりにくいのです。すでに演奏者が待機している中をようやく探し当て、手前のお二人が立って道を作ってくださいました。ところが。その時。私に、不思議な声が響いてきたのです。
その声は、「汝、階段を登れ。かつてこの教会でバッハが成し遂げたことを、つぶさに見届けよ。今日、ガーディナーがなすことを見守るがよい」と言うかのようでした(後付け)。
言われるままに上がってゆくと、目前に演奏者席が開け、イングリッシュ・バロック・ソロイスツの面々が布陣している。まもなく拍手に送られて、聖トーマス教会聖歌隊の少年たちが上がってきました。続いて、モンテヴェルディ合唱団。彼らは私の右側に立ち、左前方に、エヴァンゲリスト役のジェイムズ・ギルクリスト。やがてガーディナーが長身をあらわして左側へと進み、会場に一礼しました。(続く)
山越え ― 2015年03月09日 06時35分30秒
この週末、トークの仕事が続きました。
6日(金)は、ご案内した楽しいクラシックの会主催のコンサート。西山まりえ、櫻田亮という魅力的なお二人のステージを、皆さん満喫されたこととと思います。櫻田さんは美声冴え渡る絶好調で、西山さんの優雅にして行き届いた伴奏との相性も抜群。アルビノーニのカンタータがすばらしい締めくくりになりました。これからの共演にご注目ください。このコンビは昨年末須坂で誕生したもので、発信地としての須坂の役割が、ますます大きくなっています。
第一関門を通過しても喜んでいられなかったのは、第二関門が容易でなかったからです。7日(土)は、NHKで番組を収録しました。その番組は「古楽の楽しみ」ではなく、「おぎやはぎのクラシック放談『マタイ受難曲』」というもの(!)。《マタイ受難曲》を一人でも多くの人に聴いてもらいたい、という加納宏茂プロデューサーの情熱から生まれた番組です。
おぎやはぎのお二人、同僚の光浦靖子さんが放談担当で、司会が田中奈緒子さん、ゲストが亀川徹さん(芸大教授)。私の役割は、マタイ受難曲など聴いたこともない、という方々に曲の良さをわかっていただき、好きにさえなっていただく、という案内係です。もちろん、平素クラシック番組をお聴きにならない方に聴いていただきたい、という願いが込められています。
これは正直、自信が持てませんでした。構成を考えてもわれながら半信半疑で、プレッシャーというよりストレスを感じる数日。いざ始まると、いただいた台本ありやなしやというスケールで、アドリブが展開されます。私はすっかり泡を食ってしまい、うろうろ、まごまご状態で途中まで終了しました。
でもだんだん、噛み合ってきたのですね。落ち着いて観察すると、お三方の放談は、好きなことを言っているようでいて、番組の方向性をちゃんと抑えている。その的確さは、プロとしか言いようのない、見事なものです。おかげで、《マタイ受難曲》に共感しつつ耳を傾けるという目標に到達できたと思います。
20日(金)の16:05から放送ですが、ぜひお聴きくださいと言うのは気恥ずかしいです(笑)。とはいえいい経験をさせていただき、達成感を味わうことができました。
8日(日)は、「たのくら」の例会と、「錦まつりコンサート」を立川で。小笠原美敬さん(バス)、久元祐子さん(ピアノ)のご出演で世界の歌とピアノ曲を楽しみ、ハードな3日間を完走しました。山越えという印象のある、エネルギーを要する週末でした。多くの方にお世話になり、ありがとうございました。
6日(金)は、ご案内した楽しいクラシックの会主催のコンサート。西山まりえ、櫻田亮という魅力的なお二人のステージを、皆さん満喫されたこととと思います。櫻田さんは美声冴え渡る絶好調で、西山さんの優雅にして行き届いた伴奏との相性も抜群。アルビノーニのカンタータがすばらしい締めくくりになりました。これからの共演にご注目ください。このコンビは昨年末須坂で誕生したもので、発信地としての須坂の役割が、ますます大きくなっています。
第一関門を通過しても喜んでいられなかったのは、第二関門が容易でなかったからです。7日(土)は、NHKで番組を収録しました。その番組は「古楽の楽しみ」ではなく、「おぎやはぎのクラシック放談『マタイ受難曲』」というもの(!)。《マタイ受難曲》を一人でも多くの人に聴いてもらいたい、という加納宏茂プロデューサーの情熱から生まれた番組です。
おぎやはぎのお二人、同僚の光浦靖子さんが放談担当で、司会が田中奈緒子さん、ゲストが亀川徹さん(芸大教授)。私の役割は、マタイ受難曲など聴いたこともない、という方々に曲の良さをわかっていただき、好きにさえなっていただく、という案内係です。もちろん、平素クラシック番組をお聴きにならない方に聴いていただきたい、という願いが込められています。
これは正直、自信が持てませんでした。構成を考えてもわれながら半信半疑で、プレッシャーというよりストレスを感じる数日。いざ始まると、いただいた台本ありやなしやというスケールで、アドリブが展開されます。私はすっかり泡を食ってしまい、うろうろ、まごまご状態で途中まで終了しました。
でもだんだん、噛み合ってきたのですね。落ち着いて観察すると、お三方の放談は、好きなことを言っているようでいて、番組の方向性をちゃんと抑えている。その的確さは、プロとしか言いようのない、見事なものです。おかげで、《マタイ受難曲》に共感しつつ耳を傾けるという目標に到達できたと思います。
20日(金)の16:05から放送ですが、ぜひお聴きくださいと言うのは気恥ずかしいです(笑)。とはいえいい経験をさせていただき、達成感を味わうことができました。
8日(日)は、「たのくら」の例会と、「錦まつりコンサート」を立川で。小笠原美敬さん(バス)、久元祐子さん(ピアノ)のご出演で世界の歌とピアノ曲を楽しみ、ハードな3日間を完走しました。山越えという印象のある、エネルギーを要する週末でした。多くの方にお世話になり、ありがとうございました。
《マタイ受難曲》、感動の富山初演(5) ― 2015年02月28日 23時50分01秒
目の色を変えて字幕の操作をしていたわけなので、演奏について、観察者としての報告をすることはできません。しかし、ひしひしと迫ってくるものがあったことは、間違いないです。終始ひたむきな演奏で、一体感があり、作品に向かう姿勢が、一貫して貫かれていました。誰がどうというのではなく、全員が等しく演奏に貢献していたという感じがあります。たいてい、あそこはよかった、ここはちょっと、という感想になるものなので、これは珍しいことだと思いました。
この真摯な一体感はなにより、アンサンブルを代表として牽引され、自らエヴァンゲリストを歌われた東福光晴さんの献身的ながんばりに由来する、というのが、衆目の一致する事実のようです。堂々たるイエスを歌われた佐々木直樹さんらの声楽、古楽器のガンバから朗々たる響きを引きだした平尾雅子さんらの器楽など、皆さんが、ベストを尽くした演奏でした。津田雄二郎さんは、沈着冷静に要所を押さえ、音楽としてのステイタスをしっかり確保してゆく、プロの指揮。曲ごとのつながりと流れを重視されたことが大きな効果を挙げており、コラールの表現もつねに内容に即していて、感心しました。
往復に乗った「はくたか」号は、新幹線の開通と共に廃止されるとか。いいタイミングでの、富山旅行でもありました。最後にホール近くの公園で撮った北アルプスの写真を載せますが、あいにく夕闇が迫っていて、この程度です。富山の方々、ありがとうございました。
《マタイ受難曲》、感動の富山初演(4) ― 2015年02月27日 23時31分51秒
字幕の操作ミスというのは、ここはむずかしい、というところでは案外起こりません。よし、乗り切ったぞと心中ガッツポーズをしたりするとき、何でもないところでタイミングを外してしまったりするのです。大いなる意気込みで始めた操作ですが、後半になると疲れが出て、少し、ミスが増えてきました。立ち往生したのは第52曲、アルトのアリア〈この頬の涙が〉のところでした。
字幕ソフトは、ヴィンシャーマン指揮、大阪フィルで使われたものです。この公演では、上記の長大なアリアのダ・カーポが前奏のみでカットされたようで、反復に備えて用意された訳詞は、早送りで飛ばされる仕組みになっていました。しかし富山の演奏は、全曲カットなしです。したがってこの部分を復元しなくてはならず、iPadの持ち主である縄文さんに作業をお願いして、無事復元することができました。
ところが、実演でこの部分に来たとき、起こるはずのない早送りが起こったように思え、胸騒ぎがしました。映写中に確認するわけにいきませんから、私の取り得る選択肢は、2つ。1つは、早送りが起こったとみなして字幕の進行を中止し、次の曲まで待つというもの。この場合、早送りが起こっていないと、次の聖書場面に、アリアの残り歌詞が出てしまいます。
もうひとつは、早送りが起こったのは錯覚であるとして、予定通りアリア歌詞を先に進める、というもの。この場合、早送りが本当に起こっていたとすると、アリア内で次の聖書歌詞が出てしまいます。
さあ、どちらを取るかを決めなくてはなりません。私は、何らかの事情で早送りが起こったという方に賭け、字幕送りをストップしました。
次の曲に入り、祈るような気持ちで字幕を送ります。するとぴたり、聖書の歌詞が出ました。ああよかった、ということですが、それは、持っているツキをここで使った、ということでもあります。
演奏は進み、〈ああ、ゴルゴタ〉に続く、第60曲のアルト・アリア〈ご覧なさい〉へ。物語の転換点に座る、この上なく重要なアリアです。アルトと合唱のすばやい対話が入ってきますから、油断できません。
私も、最大の集中力をもって対処。対話を経て、〈生きなさい、死になさい、ここに憩いなさいLebet,, sterbet, ruhet hier〉の、すばらしいくだりに来ました。このテキストは2回繰り返され、〈見捨てられた雛たちよ Ihr verlassnen Küchlein ihr〉の句で締めくくられます。短い句ですがメッセージの核心部で、名アリアの感動が、ここに集約されている。私はここを絶対決めてやろうと、力強くタップしました。
そうしたら、ああ、勢い余って、ファイルが2枚送られてしまったのです。すなわち、肝心の部分が飛んだということです(汗)。痛恨の失敗で、いい歌を歌われていたアルトの福永圭子さんに申し訳なく、公演後、最敬礼でお詫びをしました。
というわけで功罪両面あった字幕作業でしたが、ヘトヘトの中にも喜びのある時間ではありました。(続く)
《マタイ受難曲》、感動の富山初演(3) ― 2015年02月26日 10時47分40秒
私のメイン・ジョブは、字幕の操作です。字幕のプロ、幕内さんがきれいに整形されたファイルが送られてきていて、それをiPadで操作するよう、現場は設定されていました。どうやら、Windowsの環境には移せないようです。
私は反マック陣営で過ごして来ましたので、iPadにはさわったことがありません。ここにまず、不安があります。また、私は字幕が好きだといわれていますが、操作を自分でやったのは、松本の《ロ短調ミサ曲》だけ。熟達しているわけではまったくありません。《ロ短調》と比べれば《マタイ》はるかにテキスト量が多く、人物や群衆の会話も錯綜している。操作は大忙しです。
整形されたプロの字幕には、強いフェードがかかっていました。ゆっくりと立ち上がって、ゆっくりと消えていく。その効果はたしかにいいのですが、タイミングを取るのがたいへん。歌の入りに、少しずつ先行しなくてはならないからです。
あまりにも失敗するので、これは困ったという焦りが出てきました。なにしろ字幕の作りが内容の伝達にこだわっていて、操作の困難を無視している。文句を言いたくなりましたが、作成者はあいにく、私自身です。今まで操作された方、さぞ苦労なさったことでしょう。なんとか少しずつ慣れ、あとは本番に集中するのみと、気持ちを切り替えました。
さて本番。4階のブースに籠りました。指揮者津田雄二郎さんの身振りをモニターで見ながら、iPadにタッチしてゆきます。リズムに乗り、流れが出てくると、演奏者の一人になったような気持ちがして、楽しい。それにしても、《マタイ》はなんと、いい曲が次から次へと出てくるのでしょう。
少しずつミスをしましたが、まあ、大勢に影響ない部分であったので引きずらないようにし、後半へ。しかし事実上のシロウト作業で3時間を完遂できるほど、字幕は甘くありません。落とし穴が待っていました。(続く)
私は反マック陣営で過ごして来ましたので、iPadにはさわったことがありません。ここにまず、不安があります。また、私は字幕が好きだといわれていますが、操作を自分でやったのは、松本の《ロ短調ミサ曲》だけ。熟達しているわけではまったくありません。《ロ短調》と比べれば《マタイ》はるかにテキスト量が多く、人物や群衆の会話も錯綜している。操作は大忙しです。
整形されたプロの字幕には、強いフェードがかかっていました。ゆっくりと立ち上がって、ゆっくりと消えていく。その効果はたしかにいいのですが、タイミングを取るのがたいへん。歌の入りに、少しずつ先行しなくてはならないからです。
あまりにも失敗するので、これは困ったという焦りが出てきました。なにしろ字幕の作りが内容の伝達にこだわっていて、操作の困難を無視している。文句を言いたくなりましたが、作成者はあいにく、私自身です。今まで操作された方、さぞ苦労なさったことでしょう。なんとか少しずつ慣れ、あとは本番に集中するのみと、気持ちを切り替えました。
さて本番。4階のブースに籠りました。指揮者津田雄二郎さんの身振りをモニターで見ながら、iPadにタッチしてゆきます。リズムに乗り、流れが出てくると、演奏者の一人になったような気持ちがして、楽しい。それにしても、《マタイ》はなんと、いい曲が次から次へと出てくるのでしょう。
少しずつミスをしましたが、まあ、大勢に影響ない部分であったので引きずらないようにし、後半へ。しかし事実上のシロウト作業で3時間を完遂できるほど、字幕は甘くありません。落とし穴が待っていました。(続く)
《マタイ受難曲》、感動の富山初演(2) ― 2015年02月24日 22時23分05秒
一般論をさせてください。アマチュア合唱団とのお付き合いは徐々に広がり、私のバッハ啓蒙活動の、大切な一部になっています。バッハが大好きで活動されている方々とさまざまな場所で接点をもつのは、私にとって、とても嬉しいことです。
でもそこには、率直のところ、リスクも伴います。コンサートの準備のためにお話しさせていただくわけですから、事後にはコンサートに原稿を寄せることになりますし、対訳や字幕を提供することもしばしばです。数が増えてくると、それもたいへん。しかし私にとっていちばん悩ましいのは、コンサートに来てください、と招待されることです。それには、打ち上げでスピーチしてください、という依頼が付随しています。もちろん、主催の方々としては当然のご依頼であると思います。
とはいえ、一日がかりになるコンサートの時間を見つけるのは、容易ではありません。さらなる問題は、演奏がどういうものなるかを事前に予測するすべがなく、達成感あふれる演奏者の皆さんに喜んでいただけるスピーチができるという保証はない、ということです。なにしろ、心からの賛辞を差し上げたいと思うからこそ、心にもない賛辞は差し上げない、という原則を貫いているからです(と格好をつけましたが、要するに人間ができていない、ということです)。
そんなこんなで、時間と気持ちの負担が増え、失敗を犯すようにもなってきました。いっそお付き合いを全面的に見直した方がいいのではないか、とも思っているタイミングで、富山のコンサートが近づいて来たのです。
依頼されたのは、お約束していた解説、対訳、字幕原稿の提供に加えて、字幕の操作と、公演前の挨拶でした。字幕の操作をするとなると、リハーサルから入らなければならず、公演前にスピーチをするとなると、演奏に確信をもっていなくてはなりません。正直のところ、そこまでやらなければならないのか、と思いました。かといって報酬のことを伺うのは、お金のためだと思われたくありませんから、できません(私の虚栄です)。
というわけで、迷った末にいったん、行くのをお断りしたのです。しかしその後のやりとりで一定の信頼感が回復され、2日間を投入しようと決心しました。
列車を降り立った富山は快晴、雪もなくて温かく、眼前に、立山連峰が屏風のごとく展開しています。ホールを間違えたとか、入り口がわからなくてうろうろしたとか、いつもの話題は申し上げません。少し遅れてリハーサルに入って合唱を聴き、驚きました。昨年6月の講演で熱心に聴いてくださった方々が、その思いを大切にして、バッハと正面から向かい合って練習してきてくださっていたことが、すぐわかったからです。なんと申し訳ない対応をしてしまったのでしょう。(続く)
でもそこには、率直のところ、リスクも伴います。コンサートの準備のためにお話しさせていただくわけですから、事後にはコンサートに原稿を寄せることになりますし、対訳や字幕を提供することもしばしばです。数が増えてくると、それもたいへん。しかし私にとっていちばん悩ましいのは、コンサートに来てください、と招待されることです。それには、打ち上げでスピーチしてください、という依頼が付随しています。もちろん、主催の方々としては当然のご依頼であると思います。
とはいえ、一日がかりになるコンサートの時間を見つけるのは、容易ではありません。さらなる問題は、演奏がどういうものなるかを事前に予測するすべがなく、達成感あふれる演奏者の皆さんに喜んでいただけるスピーチができるという保証はない、ということです。なにしろ、心からの賛辞を差し上げたいと思うからこそ、心にもない賛辞は差し上げない、という原則を貫いているからです(と格好をつけましたが、要するに人間ができていない、ということです)。
そんなこんなで、時間と気持ちの負担が増え、失敗を犯すようにもなってきました。いっそお付き合いを全面的に見直した方がいいのではないか、とも思っているタイミングで、富山のコンサートが近づいて来たのです。
依頼されたのは、お約束していた解説、対訳、字幕原稿の提供に加えて、字幕の操作と、公演前の挨拶でした。字幕の操作をするとなると、リハーサルから入らなければならず、公演前にスピーチをするとなると、演奏に確信をもっていなくてはなりません。正直のところ、そこまでやらなければならないのか、と思いました。かといって報酬のことを伺うのは、お金のためだと思われたくありませんから、できません(私の虚栄です)。
というわけで、迷った末にいったん、行くのをお断りしたのです。しかしその後のやりとりで一定の信頼感が回復され、2日間を投入しようと決心しました。
列車を降り立った富山は快晴、雪もなくて温かく、眼前に、立山連峰が屏風のごとく展開しています。ホールを間違えたとか、入り口がわからなくてうろうろしたとか、いつもの話題は申し上げません。少し遅れてリハーサルに入って合唱を聴き、驚きました。昨年6月の講演で熱心に聴いてくださった方々が、その思いを大切にして、バッハと正面から向かい合って練習してきてくださっていたことが、すぐわかったからです。なんと申し訳ない対応をしてしまったのでしょう。(続く)
《マタイ受難曲》、感動の富山初演 ― 2015年02月23日 11時47分12秒
2月22日(日)、富山オーバードホールで、「バッハアンサンブル富山」の設立10周年記念演奏会が開かれ、《マタイ受難曲》が、じつにすばらしい盛り上がりをもって演奏されました。舞台袖で藤崎美苗さん(ソプラノ)が涙し、櫻田亮さん(テノール、アリア担当)は打ち上げに「こんなすばらしい合唱団が富山にあるとは知らず、驚いた」というメッセージを寄せられたことを引用して、私の感嘆がリップサービスではないことの裏付けとさせていただきます。
今月の案内にこれを書かなかったことを後悔しています。その補いを含めて、少し詳しくご報告しましょう。
今月の案内にこれを書かなかったことを後悔しています。その補いを含めて、少し詳しくご報告しましょう。
富山でバッハを語る(2) ― 2014年06月17日 23時43分20秒
「作品をして自ら語らしめる」ことが実現するためには、《マタイ受難曲》をできる限り「識る」ことが必要です。そこで、識っておくべき作品のポイントをいろいろ挙げ、テキストを読んだり、楽譜を見たり、絵を参照したり、鑑賞したりしながら、話を進めました。話すほどに時間は足りなくなるのですが、まあ一通り話せたので、会心の出来、と申し上げましょう。もちろんそれは、食いつくようにして聞いてくださった受講生のおかげです。
最後の20分は、指揮者の津田雄二郎さんと対談。私の著作を読んでくださってのご質問でしたが、私を善良だと思っておられるようでしたので、私は性悪説ですよ、と釘を刺しておきました。善良でないから芸術の研究をするわけで、これは皆様、ご了解の通りです。
それにしても、富山の方々の反応は、過去に経験したことのないほど熱いものでした。打ち上げではワインを置いているお店に鈴なりで詰めかけたのですが、そのマスターが大の古楽ファンで、奥様ともども、「古楽の楽しみ」を聞いておられるとか。ありがたいことですね。二次会にも行き、富山ならではのおいしいお魚をいただきました。
写真その1は、サインです。古い本をもってこられ、昔の写真を指さして「これ、本当に先生ですか」と言われる方が複数。すみません、歳を取ってしまいました。
打ち上げのお店では4つのテーブルを移動してお話ししました。初対面なのにどこでも話が盛り上がり、泣く泣く移動。エネルギーにあふれた合唱団です。
指揮者、津田雄二郎さんと。とてもいい写真のような。
写真には写っていませんが、合唱指揮者兼エヴァンゲリストとして団を牽引しておられる東福光晴さんのバッハへの打ち込みと見識はすばらしいもので、感銘を受けました。富山まで来てくださるとは思わなかった、とおっしゃる方が、大勢。とんでもないです。こういう機会があっての人生、と思っております。(続く)
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