誰が詩を書いたか2015年02月06日 10時56分55秒

《ヨハネ受難曲》冒頭合唱曲、3行目以下のテキストは、「あなたの受難を通して示してください、 あなた、まことの神の子が いかなる時にも 低さの極みにおいてさえ 栄光を与えられたことを」というものです。これは、ダ・カーポ形式における中間部のテキストとして扱われています。

主部のテキストには見えなかった「受難」とのかかわりがここで明らかにされ、主=神の子という、キリストへの信仰告白が入ってきます。導きによって明らかに示されるべきことは、「低さの極みにおける栄光」というヨハネ的メッセージです。じつに立派なテキストだと、私は思います。

この自由詩は、誰が書いたのでしょうか。古くからあるのは、バッハ自身ではないか、という説です。《ヨハネ受難曲》の自由詩があちこちからアイデアを採って手直ししたものであり、一貫性のある台本とは思えないという立場から、批判も含めて、バッハの手製ではないかと考えられてきました。

近年の研究者は、この説に否定的です。バッハ自身の作詞は他に知られていないし、バッハがつねにいろいろなテキストを探していたことがわかっているからです。誰か隠れた詩人がいると、多くの研究者が考えています。

しかし、ご紹介したテキストから前代未聞の大曲がテキストに密着しつつ生み出されたことを考えますと、バッハが誰かからできあがったテキストを渡され、さあどんな音楽をつけようか、と頭を悩ませたという光景は浮かんできません。ライプツィヒで初めて発表する受難曲にバッハは強い意気込みで臨み、どのような曲にするか、あれこれ考えたことでしょう。

ですから、書き下ろした詩人が別にいるとしても、バッハとの密接な共同作業が先行していたことは間違いないと思います。テキストは冒頭2行で神の世界支配を語り、3行目以下で受難に言及しているわけですが、バッハは主部においてすでに受難の音調を響かせ、中間部のフーガ音型を主部でちらりと見せることによって、両者の関連を明確にしています。ここに、詩人と作曲家の一定の距離を見るか、あるいはそれもバッハの構想の一部と見るべきかは、迷うところです。

最近の研究(マインラート・ヴァルターなど)は、コラール・カンタータの歌詞作者として浮上しているアンドレーアス・シュテューベル(トーマス学校の副校長を務めていた神学者)を、共同作業の候補者と想定するようになってきています。いずれにせよ、バッハの関与は踏み込んだものであったに違いないと、私は思います。

コメント

_ taisei ― 2015年02月06日 12時52分07秒

おぉ!いよいよ本格的考察になってきましたね。待ちに待っていたものです。わくわくします。実を言えば私は和声で工夫されているマタイ~よりも旋律で訴えrているヨハネの方が分かりやすい感じを持っていて好きです。先生の考察が聞けると改めてヨハネを聞いてみたくなります。

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