絶唱・《浜辺の歌》 ― 2017年10月08日 12時13分18秒
タイトルをご覧になって、イメージ、湧きますか。《浜辺の歌》--林古渓作詞、成田為三作曲(大正5年)の、皆様ご存じの歌です。その絶唱って、ありうるだろうか。あるとしたらどんなものだろうか。首をひねられて、普通だと思います。
それに、出会ったのですね。場所は、立川セレモア構内の武蔵野ホール。井坂惠さんのメゾソプラノ、久元祐子さんのピアノ、私が司会解説をする、「自然を見つめて」と題したコンサートにおいてでした。
このホールは5~60席しかないのですが永田穂先生の設計で音響効果がよく、遮音効果が高いので、空間を共有して音楽に没頭できます。プログラムはシューベルトで始まり、日本の歌曲を連ねてからロマン派のピアノ曲に戻って、モーツァルトで締める、という構成になっていました。
で、私の当たり前の解説の後、第5曲《浜辺の歌》になりました。私はなにげなく聴き始めたのですが、井坂さんの歌がただならぬ気配を発散し始めたため、にわかに緊張を覚えました。
この曲、一番は「あした(=朝)浜辺をさまよえば、昔のことぞ偲ばるる」と始まり、その先は叙景になる。二番は「夕べ浜辺をもとおれば、昔の人ぞ偲ばるる」となって、やはり叙景に移ります。ですので、私は叙景の歌だと思っていました。朝は昔の事を偲ぶ、夕方は昔の人を偲ぶというのも平明なバランスで、昔の教室で歌われるのにふさわしい、などと。
ところが、このまさに昔を偲ぶというところで歌に大きな感動がこもり、二番では涙を流されているように見えるではありませんか。そうか、林古渓にもそういう体験があって、それが一見平明な歌になっているのかも知れないな、と、これはすぐ思いました。
井坂さんは、「母の歌はたくさんあるが父の歌は少ない」と平素おっしゃり、父の歌を大切に歌われます。最高のレパートリーは、高田三郎先生の《くちなし》です。プログラムでは、《宵待草》をはさんで7曲目に《小さな木の実》、8曲目に《くちなし》が組まれています。そうか、そこへの流れでここに《浜辺の歌》が置かれていたのだな、と、流れの中で確信しました。
こうなると、唱歌は唱歌らしく、などという様式観の問題ではないですね。演奏によって歌の世界がどれほど広がるかの、すばらしい実例です。私、本当に勉強しました。
ホール備え付けのベーゼンドルファーによる久元さんのソロ(《愛の夢》と《小犬のワルツ》)が場を盛り上げたところで再登場された井坂さん、お得意のケルビーノのアリアで締めくくられました。衣装は、もちろんそれらしく。お疲れさまでした!
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