合唱の向かうところ2017年11月03日 14時30分46秒

一日目は全体の講評をやらせていただき、その後、皆様と会食。会食が間に入ると、次の場の緊張が和らぎます。散会後は部屋に戻り、早めに就寝しました。

夜中、物音に驚いて、目を覚ましました。高い音が強く、短く聞こえ、女性の悲鳴のよう。時計を見ると、ちょうど2時半です。すぐフロントに電話して調べてもらいましたが、何も変わったことはありません、との連絡でした。

ぱっちり目が覚めてしまって、寝つかれず。何か飲みたいと思いましたが、ビールを買いに出るのは心配です。なにしろミステリーの読者ですから、廊下で鉢合わせとか、いろいろなシナリオを考えるのです。そこでワインのハーフボトルをルームサービスで頼み、気を静めました。合唱の残像だろうとも言われましたが、外部の音だったとしか思えません。

これが厄落としになったのか、2日目(中学の部)は選考不能とも思える大激戦の中で、まずまず自分の考えに基づいた選考ができたかなと思います。関西支部の方々の笑顔一杯のもてなしがありがたく、朝日新聞社が社長以下取材スタッフを派遣され、物腰ていねいに対応されていたのも印象的でした。

その日は台風で、新幹線の遅れが伝えられていました。無理に帰るのもどうかと思い、泊まることにしたところ、主催者筋の方々が誘ってくださり、ほとんどの店が閉店になる中、やっと見つけた「庄や」で、祝杯。これが楽しく、重荷から解放された私はほとんど幸福な気持ちになって、2日間を終えたのでした。

1日目の講評に先立ち、私はハンガリーの審査員ネメシュ先生から、会場へのメッセージをお預かりしました。先生は出場校のレベルの高さを絶賛された上で、合唱は作品によって育てられる、だからすぐれた作品を選ぶことが重要だ、と述べておられました。これは、私がまさに言いたかったことでもあります。

多くの団体が演奏効果が高い曲を並べてきたのは、全国大会ならではの景観でした。とはいえちょっと行き過ぎなのではないか、というのが私の個人的な感想です。「それがコンクール向き」という通念は、定着しない方がいいと思います。演奏効果の高さが合唱を引き立てることは当然ですが、それは外側の問題であって、内側の価値を保証するものではないからです。

私は、合唱は自己目的ではなく、音楽という高い目標に向かう、すばらしい手段だと思う。どんなに上手な合唱が完成されても、音楽という目標はいつでもその先にあります。それは技術的な集大成としての目標ではなく、豊かな感動の源泉のようなものではないかと、私は思います。そこに近づく道の少なくとも1つは、すぐれた曲を基本に忠実に、共観をもって再現し、美しいハーモニーの向こうに、何か大切なものを感じさせることではないでしょうか。そうした演奏に自分も感動のアンテナを磨いて接したいというのが、審査の場に座っていて思ったことです。