今月の「古楽の楽しみ」2013年03月19日 22時15分43秒

今月は、25日(月)から28日(木)までです。「ドイツ古楽の安らぎ」と題して、とくに有名ではないけれども、くつろいで聴ける道ばたの花のような作品を特集しました。

25日(月)は、エッカルトとプレトリウスによる、プロテスタント・コラールの編曲。民衆的で温かい作品ばかりです。エッカルトはユルゲンセン、プレトリウスはコルデスのCDを使いました。

26日(火)が、今週のイチオシ。クリストフ・ベルンハルトの《宗教ハルモニア集》を、ヴェックマンの鍵盤音楽をはさんで採り上げます。ベルンハルトはシュッツの弟子で、音楽学の世界では、『作曲法教程』という著作で知られている人です。私も若い頃この本を勉強しましたが、彼の作品は、今のいままで、聴いたことがありませんでした。しかしブレンベックのCDを手に入れて聴いてみると、なんとも美しいのですね、これが。修辞的技法を駆使したそのモテットにすっかり聴き惚れてしまい、さっそく放送で紹介することにしました。著作も、昔はシュッツの代筆のように言われていましたが、最近はオリジナリティへの評価が行われているようです。

27日(水)も、なかなかです。シュッツ以前の代表的作曲家、ハンス・レオ・ハスラーの特集。彼の作品は以前軽く採り上げましたが、今回、探していた世俗曲のCDを見つけたので、宗教曲、器楽曲と併せてプログラミングしました。古い時代なのに、じつにみずみずしい感性の音楽。とくにドイツ語の多声歌曲がすてきです。例の受難コラールの原曲などを、ネーフェル指揮、クレンデの演奏で聴いていただきます。

28日(木)はバッハつながりということで、ベームのチェンバロ組曲を2曲(演奏はステッラ)と、アルトニコルの復活祭カンタータを選びました。ベームの組曲はバッハの《フランス組曲》を指し示すような魅力的な曲ですが、アルトニコルの作品は珍しいですよね。見つけた興奮から放送に持ち込みましたが、すごくいい曲かというと、そこまでは言えないような気もします。

ではなぜ、興奮したか。アルトニコルというのはバッハの晩年の弟子で、女婿なのです。バッハの息子は多くとも、婿は彼一人。彼が本拠としたナウムブルクに去年旅行した経緯もあり、作品を聴いてみたいと思っていました。めったに聴く機会のない作品ですので、冷やかしにでも聴いていただければ幸いです。

天平の甍2013年03月18日 22時39分50秒

高峰秀子さんのことを書いて幾日もしないうちに、未発表エッセイが発見されたというニュースが新聞に載りました。紀行文だとか。ぜひ読みたいと思いますが、それが故人の遺志に反しないことを願います。高峰エッセイ、目下は『わたしの渡世日記』に挑戦しています。

書店の棚を見渡すと、いわゆる流行作家のものがかなりのスペースを占めています。棚を占拠するような人の本は読んでおかないと、という気持ちがこれまではあったのですが、もうこの齢になったら自分の心に触れる本だけを読めばいいのだと、ようやく思うに至りました。日常会話が延々と続くような小説はやめよう!ということです。そうなると、細々と売られ続けている古典に、目が向きます。

井上靖の『天平の甍』。高名な作品ですが、初めて読みました。いいですね、心が澄み渡ります。遣唐使と共に中国に渡り、鑑真の来朝を実現する仏教僧たちの営々たる努力が綴られているわけですが、国がこれからという時代に、勉強に生涯を捧げる人たちの生きざまは、崇高そのもの。豊かな現代との落差を感じるにつけ、こういうことを文学の形で伝えてゆくことの価値を思います。

入場記録更新2013年03月17日 20時09分58秒

16日(土)、午前中は、「楽しいクラシックの会」でワーグナーの《ローエングリン》講義。先日第1幕の完成度の高さを絶賛しましたが、第2幕、第3幕はちょっと複雑で、聖なる騎士が地上に降臨して人間と交わるという素材のむずかしさを、ワーグナーが完全には扱いきれなかったようにも思われます。そこで第2幕、第3幕を一回で終わらせ、来月は《ラインの黄金》に進むことにしました。

アバド指揮、ウィーン国立歌劇場のとても良いLDを鑑賞して、ドミンゴの歌唱がまさに謎解きの〈グラ-ルの物語〉にさしかかろうとしたその瞬間。ぷつんと、映像が切れてしまいました。仕方がないので、クライマックスは音のみで鑑賞。できすぎたタイミングで残念でしたが、ここで私は、ツキの法則により、午後のコンサートの成功を確信しました。

午後は、3月恒例の錦まつりコンサート、題して「ソプラノってすばらしい!」。澤畑恵美(ソプラノ)、久元祐子(ピアノ)両先生出演の豪華版とあって、錦町の地域学習館に続々とお客様が。講堂にある椅子を全部並べる盛況で、入場記録が更新されたそうです。盛りだくさんのプログラムで熱演してくださった両先生に、心から感謝です。

いい歳の私ですが、どういうものか澤畑さんの前に出ると赤面し、萎縮してしまう傾向があります。当日もそれが司会に反映されてわれながら情けなかったのですが、ご本人は私のそうした反応を楽しんでおられるご様子(汗)。ま、演奏者が萎縮して司会ばかりゆとりがあるよりは、いいですよね。

ついでに。ライプツィヒ・バッハ祭のプログラムが入ったので確認したところ、ガーディナーの《ヨハネ》をはじめ目玉がきれいになくなっており、これでは旅行どころではないと、青くなりました。あわてて連絡したところ、それは2014年の予告であるとのこと。良かった(ホッ)。

《ヨハネ》のエヴァンゲリストは期待通りマーク・パドモアでした。イエスはマシュー・ブルックで、アリアはモリソン、ブレイグル、マルロイ、ハーヴィーとなっています。楽しみです。

阿弥陀の効用2013年03月15日 23時58分31秒

飲み会のときって、どこに座るかで、悩まれませんか?複雑な心理が働いて、思うようにいかないことも多いですよね。それが、人間の心理というもの。神様にまかせれば、すべてが解決します。阿弥陀にすればよろしいのです。

というわけで、私の飲み会は、まず、阿弥陀くじを引くところから始まります。必ず、阿弥陀。以前も10人、20人というときはよくやりましたが、最近は、3人でもやる。私の目の前にAさん、その左にBさんがいるとして、そのままか、入れ替わるかにくじを引きます。人数が増えるにつれ、御利益は大きくなります。

もちろん結果は、希望(?)とは異なります。でも、とても気持ちがいい。いろいろな人とお話しする機会も増えて、神に感謝です。つい仲間同士で座りがちなコンパにも、ぜひ採用されるといいと思います。

加美町バッハホール、貴重資料を入手!2013年03月13日 23時23分49秒

宮城県加美町のバッハホール(旧・中新田町)がバッハ関連の貴重な資料を入手したというお知らせをいただき、取るものも取りあえず、見に行ってきました。これは、お宝です!

加美町は、東北新幹線の古川から西に位置し、清流で育てられるわさび(←大好き)が名産です。バッハホールは、立派なオルガンをもつ、行き届いた建物。猪俣洋文町長がこのホールを生かした文化創りを志され、昨年アイゼナハを訪れて、現地のバッハハウスと友好協定を調印しました。その記念にバッハハウスから、貴重な資料の貸与を受けたのだそうです。


その資料というのが、詩人ピカンダーが1729年に出版した詩集『まじめな詩・諧謔的な詩・風刺的な詩』第2巻の、初版(!)なのです。世界に2冊しかないオリジナルの1冊とか。この詩集は《マタイ受難曲》の台本が収められていることで有名なのですが、私にとって同じぐらい関心を掻き立てられるのは、日本で再発見されその情報が世界を駆け巡った結婚カンタータ《満たされたプライセの町よ》BWV216の台本が収められていることでした(写真がその本で、右が猪俣町長さんです)。


流行作家ピカンダーが依頼に任せて書き綴ったたくさんの結婚祝賀詩の中に、それはしっかりと収められていました。《満たされたプライセの町よ》は、オリジナル・パート譜が国立音大の図書館、初版台本が加美町のバッハホールに所蔵されていることになったわけで、日本の曲と言ってもいいですね。いつか、ホールで響かせてみたいものです。

500ページになんなんとする詩集は、膨大な情報源。ぜひ研究してみたいと思います。

〔付記〕遠からずお披露目されるということで、準備が進められています。詳細は町とホールのホームページでご確認ください。

高峰秀子さん2013年03月12日 23時35分38秒

お若い方たちは、もう高峰秀子さんと言っても、ご存じないかもしれませんね。昭和の大女優で、『二十四の瞳』で長く記憶される美女。私の印象にある映画は、『喜びも悲しみも幾年月』です。といっても、とくにファンだったわけではありません。

地方都市の小さな本屋さんに、文庫を1冊買おうと思って入りました。目の前に高峰さんの新潮文庫が3種あり、『にんげん蚤の市』というのを買ってみました。ほんの出来心です。

いや驚きましたね。こんなに優秀なエッセイストであったとは。流れるような文章、横溢するユーモア、きりりとした気っぷの良さ、辛口の突っ込み。ぐいぐいと読んでしまいました。亡くなった方とこのように出会えるのも、本の楽しみです。

至福の時2013年03月11日 23時59分19秒

10日(日)は、横浜みなとみらいへ、ハイティンク指揮のロンドン響を聴きに行きました。まずピリスがベートーヴェンの第2協奏曲を弾き、メインがブルックナーの第9、というプログラムでした。

たとえ客席にいても、涙を流すのはみっともないと思っている私ですが、このコンサートのすばらしさは筆舌に尽くしがたく、身体がわななくほど感動してしまって、涙が止まりませんでした。

感想は新聞批評にまとめましたので、そちらに委ねたいと思います。読み直してみると、祝福、神、大自然、幸福、祈りといった言葉が使われています。こういう言葉をつい使ってしまう演奏家が、まだいるのですね。新陳代謝がよくなって、寿命が延びました。

温かさに包まれる2013年03月10日 22時09分47秒

3月8日、いずみホールにおける「日本のうた」。午後2時からというシニア向けのコンサートでしたが、ご高齢の方にもたくさん足を運んでいただき、心の芯から温まるようなコンサートになりました。夜になっても、温かな幸福感がずっと残ったのはなぜでしょう。それは何より、お客様からいただいたものだというのが、出演者たちの一致した見解です。終了後、ステージで撮った写真。左から花岡千春さん(ピアノ)、中井亮一さん(テノール)、菅英三子さん(ソプラノ)、私、三原剛さん(バリトン)です。


明治も大正も昭和も、民謡に由来する歌はみな良かったけれど、痛感したのは、山田耕筰のすばらしさです。あまり歌われない民謡編曲もじつに非凡だし、耕筰オリジナルの《松島音頭》は、ずっと心に住みついて、離れません。歌い手3人の合作する名調子はアンコールの最後にも繰り返されて、大いに盛り上がりました。ステージ上で司会する私にとって、「日本のうた」は鬼門です。どうしても、涙が出てしまうからです。司会に涙は禁物、と心に命じてやっているのですが、なつかしの名歌が共感をこめて歌われたりすると、ダメですね。

演奏は皆さん、とても清潔だったなあ。キャリアを積むと演奏家にはどうしても慣れが出て、それによって成功する場合もそうでない場合もあると思うのですが、今回は皆さんキャリアをもちながらも、ベストを尽くして勉強してくださる姿勢があり、歴史を遡る企画として、ありがたかったと思います。応援をいただきましたので、この企画、続けて参ります。

「古楽の楽しみ」秘蔵写真2013年03月06日 23時31分45秒

5日(火)は「古楽の楽しみ」4月分の収録をしましたが、終了後スタッフ、出演者の皆様と打ち合わせ。かなり入念な打ち合わせになりました。しかしおいしいお店があるという話が出ては、みんなで押しかけないわけにはいきません。そこで、文化村前の「春秋」という和食のお店に出かけました(価格もリーズナブルな、いいお店です)。これ以上ないと思うほど楽しくなごやかな会食になりましたが、その雰囲気を感じていただくには、写真を見てくださるのが一番。こうした「人の和」から、番組は生まれているわけです。


これは解説陣ですね。右から、演奏者の立場から参加していただいている大塚直哉さん、イタリア/イギリス担当の今谷和徳さん、フランス担当の関根敏子さん、ドイツ担当の私。来年度も全員がんばりますので、ぜひご期待ください。


もののあはれ2013年03月04日 11時37分40秒

 週刊誌に有名人の方々がエッセイを連載しておられますが、私が常々感嘆して読んでいるのは、週刊朝日連載、内館牧子さんの「暖簾にひじ鉄」です。内容といい見識といい毎回本当にすばらしく、心温められながら拝見しています。

 先週はお節句にちなんで、童謡《うれしいひなまつり》に関するお話でした。歌詞の2番に、「お嫁にいらした姉様に よく似た官女の白い顔」というくだりがありますね。この「いらした」を、「お嫁に行かれた」ととるか「お嫁に来られた」ととるか2つの説がある、というのが、まず、目からウロコのご指摘。たしかにどちらも可能で、印象はまったく異なったものになります。後者だとすると、お姉さまの存在感が前面に出て、官女はむしろかすむようです。

 まあでも、嫁入りして離れていったお姉さまの面影を思い出してなつかしむ、という前者のとり方が、自然でしょう。エッセイでは続けて、このお姉さまが作詞者サトウハチロー自身の姉と重なり合うのではないか、という説が紹介されます。ハチローより4歳上の姉は、結核にかかり、嫁入り話が破談となったあげく、19歳で亡くなった。「お嫁にいらした姉様」というくだりは、このお姉さまが天国に嫁がれたという意味に解釈できるのではないか、というのです。そう思って聴くと、河村光陽の悲しげな旋律もいっそうぴったりとしてきこえる、という趣旨の言葉で、内館さんはエッセイを結ばれています。

 心を打たれた私は、ネットで、情報を少し検索してみました。すると、「うれしいひなまつり」はなぜ短調で作曲されているのか、という疑問が提起されており、それに対して、それぞれ一理あるいくつかの意見が投稿されていました。またWikiには、「この曲が短調なのはハチローの姉へのレクイエムだからであるとの解釈もある」という記述が見つかりました。

 私の意見。おひな様に姉との類似を発見するという作者の心の働きに、亡くなった実姉の面影が投影されているというのは、間違いないと思います。ただ「神に招かれて、天国に嫁ぐ」という意味を作者が詩に意識的に封印したかどうかは、微妙。本来は素朴に発想された詩からのちの解釈がファンタジーとともに発見しているのだ、と見る方が、おそらく自然でしょう。こうしたファンタジーを触発しうるところに、名作の証明はあります。

 「今日はたのしいひなまつり」という歌詞に対して短調のもの悲しい調べが付されるという背景にあるのは、日本人が伝統的に培ってきた「ものあはれ」の感情ではないでしょうか。「もののあはれ」は、たえず過ぎていく時間への思いと結びついています。お節句は、楽しい中に、こうした時間感情を呼び起こす。主人公が女性になると、とくにそうであるように思われます。いたいけな、たおやかな女の子のお節句に、どこか、「もののあはれ」感が投影される。今では華やかなイメージしかない「結婚」も、「嫁入り」と表現されると、「あはれ」感がにじむと思われませんか。