生家探訪 ― 2013年04月08日 22時06分55秒
7日(日)、東京春祭の《ニュルンベルクのマイスタージンガー》。キャストの人選が完璧と言いたいほどみごとでしたが、私がつくづく感心したのは、ベックメッサーに扮したアドリアン・エレート。2幕のセレナードでこれほど感動したのは初めてです。詳しくは、新聞批評に書きます。
帰宅したら疲れていて何もできず、今朝は早起きをして、授業準備。聖心女子大の初授業でした。今年は音楽室を使わせてもらえることになり、収容力の関係で、学生は抽選。阿弥陀ではなかったですが、こういうときは、神様にまかせるに限ります。学生の把握も行き届き、本当にやりやすくなりました。今日はモーツァルトの誕生、天才神話の形成について講義しました。
午後2時から目黒区の大岡山で予定があり(あらためてご案内します)、1時間、空白が生まれました。大岡山は私鉄がクロスするところですが、大井町線に乗ると3つ目に、荏原町という駅があります。そこに行ってみようと思い立ちました。なぜなら私は、そこで生まれたからです。もう50年は行っていないので、その場所が見つかるかどうかわかりませんが、身体に染みついているかもしれない記憶に、賭けることにしました。あ、私は4歳までそこに住んでいたのです。少年時代に、あと数回訪れたと思います。
荏原町は、鈍行だけが停まる小さな駅。右(南東)の方向に行くという感覚はあったので、商店街をずっと進んでいきました。半信半疑のままかなり歩いたところで、環七との立体交差に遭遇。そこを降りる古びた石段に記憶がありました。、降りて右へ。
幼時の記憶では、家のそばで国道が下りになり、そこから登りに転じて、遙か彼方に続いていた。気がついてみると、少し進んだところが、まさに下りになっているのです。しかし下りも登りも短い間で、遙か彼方どころではない。すると右に妙に急な石段があり、引き入れられるように登ってみました。昔は石垣の間の道で、蛇が出たりしたものですが、今は整備されて、穏やかな住宅街になっています。
ここが正しければ、生家は左側にあるはず。少し進んだところで、母の旧姓と同じ家を発見。当然立て直されていますが、おそらく私の生家だと思います。門を叩くことはせず、大岡山に戻りました。父が転勤となり、一家で、長野県の上山田(現・千曲市)に移住したのです。以上、日記代わりに。
帰宅したら疲れていて何もできず、今朝は早起きをして、授業準備。聖心女子大の初授業でした。今年は音楽室を使わせてもらえることになり、収容力の関係で、学生は抽選。阿弥陀ではなかったですが、こういうときは、神様にまかせるに限ります。学生の把握も行き届き、本当にやりやすくなりました。今日はモーツァルトの誕生、天才神話の形成について講義しました。
午後2時から目黒区の大岡山で予定があり(あらためてご案内します)、1時間、空白が生まれました。大岡山は私鉄がクロスするところですが、大井町線に乗ると3つ目に、荏原町という駅があります。そこに行ってみようと思い立ちました。なぜなら私は、そこで生まれたからです。もう50年は行っていないので、その場所が見つかるかどうかわかりませんが、身体に染みついているかもしれない記憶に、賭けることにしました。あ、私は4歳までそこに住んでいたのです。少年時代に、あと数回訪れたと思います。
荏原町は、鈍行だけが停まる小さな駅。右(南東)の方向に行くという感覚はあったので、商店街をずっと進んでいきました。半信半疑のままかなり歩いたところで、環七との立体交差に遭遇。そこを降りる古びた石段に記憶がありました。、降りて右へ。
幼時の記憶では、家のそばで国道が下りになり、そこから登りに転じて、遙か彼方に続いていた。気がついてみると、少し進んだところが、まさに下りになっているのです。しかし下りも登りも短い間で、遙か彼方どころではない。すると右に妙に急な石段があり、引き入れられるように登ってみました。昔は石垣の間の道で、蛇が出たりしたものですが、今は整備されて、穏やかな住宅街になっています。
ここが正しければ、生家は左側にあるはず。少し進んだところで、母の旧姓と同じ家を発見。当然立て直されていますが、おそらく私の生家だと思います。門を叩くことはせず、大岡山に戻りました。父が転勤となり、一家で、長野県の上山田(現・千曲市)に移住したのです。以上、日記代わりに。
「善き志」の発見、秩序の建設 ― 2013年04月05日 23時56分36秒
〈グローリア〉部分は、すでにして統一されています。それは、中世の絵画にあるような、天使がラッパを吹き鳴らす光景です。3/8拍子は〈グローリア〉で唯一のもの。軽やかに演奏しないと、天使が地上に落下してしまいます。
バッハの時代の3拍子は3/8、3/4、3/2の3種があり、それが同時に、テンポを指示していました。速く軽快なテンポを、3/8は要求します。これを1拍子に取って、弱拍を抜くのが、古楽の感覚。弱拍を等価に、克明に演奏すると(それがモダンの感覚なのですが)、音楽の推進力が失われてしまうのです。
さて、100小節が過ぎたところで、〈エト・イン・テッラー〉の部分に入ります。バスにある唐突な下降音型は、地上の情景への、強引な切り替え。神の3拍子は人(地)の4拍子になり、音域は低く、楽器は休止して、すべてが別世界に入りこみます。
ため息モチーフの突然の氾濫は、あたかも地上の人々が救いを求めてあえぐかのよう。音楽はしばらく、方向性を失います。歌詞も「そして地上では平和あれ、人々にEt in terra pax hominibus」で行き止まりになる。罪深い人間たちに、そのまま平和が恵まれるはずはないのです。
12小節目に至って、先を模索していた諸声部は、ようやく停滞を打開し、「善き志のbonae voluntatis」という言葉にたどりつきます。不安定だった音楽は、ここでホ短調のカデンツを構成し、安堵する。平和の前提として人々のもつべき「善き志」が、ここで発見されるわけです。
すると7小節の間奏をはさんで、フーガ(フガート)が起こってきます。フーガ主題は、「善き志の」を含めた、すべてのテキストを歌い込んだものです。これは、善き志の人々が、地上に「秩序」を建設しはじめたことを示すものではないか。秩序の建設は進み、フーガは盛り上がってきます。するとこの段階で、トランペット群が加わってくる。ここで地上と天は奏楽において一体化し、異次元を包み込む、壮大な絵が完成するわけです。
バッハの時代の3拍子は3/8、3/4、3/2の3種があり、それが同時に、テンポを指示していました。速く軽快なテンポを、3/8は要求します。これを1拍子に取って、弱拍を抜くのが、古楽の感覚。弱拍を等価に、克明に演奏すると(それがモダンの感覚なのですが)、音楽の推進力が失われてしまうのです。
さて、100小節が過ぎたところで、〈エト・イン・テッラー〉の部分に入ります。バスにある唐突な下降音型は、地上の情景への、強引な切り替え。神の3拍子は人(地)の4拍子になり、音域は低く、楽器は休止して、すべてが別世界に入りこみます。
ため息モチーフの突然の氾濫は、あたかも地上の人々が救いを求めてあえぐかのよう。音楽はしばらく、方向性を失います。歌詞も「そして地上では平和あれ、人々にEt in terra pax hominibus」で行き止まりになる。罪深い人間たちに、そのまま平和が恵まれるはずはないのです。
12小節目に至って、先を模索していた諸声部は、ようやく停滞を打開し、「善き志のbonae voluntatis」という言葉にたどりつきます。不安定だった音楽は、ここでホ短調のカデンツを構成し、安堵する。平和の前提として人々のもつべき「善き志」が、ここで発見されるわけです。
すると7小節の間奏をはさんで、フーガ(フガート)が起こってきます。フーガ主題は、「善き志の」を含めた、すべてのテキストを歌い込んだものです。これは、善き志の人々が、地上に「秩序」を建設しはじめたことを示すものではないか。秩序の建設は進み、フーガは盛り上がってきます。するとこの段階で、トランペット群が加わってくる。ここで地上と天は奏楽において一体化し、異次元を包み込む、壮大な絵が完成するわけです。
実例:〈グローリア〉冒頭曲 ― 2013年04月04日 23時42分37秒
〈グローリア〉の最初の曲を例にとってみましょう。第4曲〈グローリア〉、第5曲〈エト・イン・テッラー・パークス〉は、通して演奏され、実際には一体をなしています。《ロ短調ミサ曲》前半部における名曲のひとつです。
〈グローリア〉は、ニ長調、3/8拍子で展開される神の栄光の讃美。トランペットが輝かしく鳴り渡ります。しかしト長調、4/4拍子の部分に入ると音楽は突然静まり、「ため息」のモチーフとともに、地上にうごめく人の姿が見えてくる。そこからやがてフーガが起こり、盛り上がるうちにトランペット群が回帰して、曲はクライマックスを迎えます。
以上は、よくある解説。資料や分析に関する情報はまだたくさん盛り込めますが、その記述はいずれにしろ、客観的な観察の成果になります。研究の役割はそこまで、という考えもありうるでしょう。
しかし私は、曲がなぜそうなっているのか、作曲者はどんなメッセージをそこに託したのかを考察するのも研究の範囲で、それには曲の内側に入っていかなくてはならない、という考え方です。すなわち、分析の先にある解釈の段階に、研究者は踏み込みべきだと思うのです。解釈に必要な客観的な知識を、研究者はアドバンテージとしてもっているはずだからです。
〈グローリア〉冒頭曲でまず押さえるべきことは、そのテキストが先行する3曲のような典礼文としての祈りではなく、聖書の引用であることです。出典は、ルカ福音書第2章のクリスマスの場面。野宿している羊飼いに天使があらわれ、救い主の降誕を告げる。すると天の大軍がこれに加わって、神を讃美した。その言葉が典礼テキストとなり、ここで合唱されます。それは、「いと高きところには栄光神にあれ、そして地には平和、善き志の人々にあれ」(ラテン語からの試訳)というものです。
バッハは前半と後半を時間差で対比的に作曲していますが、メッセージ自体は、1つのものです。絵を見てみましょう。「天使の顕現」を描いた絵として、フリンク(オランダ)の《キリストの誕生を羊飼いに告げる天使たち》(1639年、ルーヴル)という作品を、ネットで検索できます。地上界への聖の顕現が、光と影の効果によって、1枚の絵の中に描き込まれた絵です。
天と地をひとつの空間の中にとらえるのはバロック絵画お得意のモチーフで、エル・グレコの《オルガス伯の埋葬》(プレ・バロックですが)では、下半分に現世で逝去した伯と遺骸を囲む人々が、上半分に来世でキリストと聖母にまみえる伯の姿が、上昇する運動感をもって描き出されています。こうした異次元の共存する空間という時代好みの発想を頭に入れて、バッハの音楽を見ることにします。(続く。長くなって恐縮です。)
〈グローリア〉は、ニ長調、3/8拍子で展開される神の栄光の讃美。トランペットが輝かしく鳴り渡ります。しかしト長調、4/4拍子の部分に入ると音楽は突然静まり、「ため息」のモチーフとともに、地上にうごめく人の姿が見えてくる。そこからやがてフーガが起こり、盛り上がるうちにトランペット群が回帰して、曲はクライマックスを迎えます。
以上は、よくある解説。資料や分析に関する情報はまだたくさん盛り込めますが、その記述はいずれにしろ、客観的な観察の成果になります。研究の役割はそこまで、という考えもありうるでしょう。
しかし私は、曲がなぜそうなっているのか、作曲者はどんなメッセージをそこに託したのかを考察するのも研究の範囲で、それには曲の内側に入っていかなくてはならない、という考え方です。すなわち、分析の先にある解釈の段階に、研究者は踏み込みべきだと思うのです。解釈に必要な客観的な知識を、研究者はアドバンテージとしてもっているはずだからです。
〈グローリア〉冒頭曲でまず押さえるべきことは、そのテキストが先行する3曲のような典礼文としての祈りではなく、聖書の引用であることです。出典は、ルカ福音書第2章のクリスマスの場面。野宿している羊飼いに天使があらわれ、救い主の降誕を告げる。すると天の大軍がこれに加わって、神を讃美した。その言葉が典礼テキストとなり、ここで合唱されます。それは、「いと高きところには栄光神にあれ、そして地には平和、善き志の人々にあれ」(ラテン語からの試訳)というものです。
バッハは前半と後半を時間差で対比的に作曲していますが、メッセージ自体は、1つのものです。絵を見てみましょう。「天使の顕現」を描いた絵として、フリンク(オランダ)の《キリストの誕生を羊飼いに告げる天使たち》(1639年、ルーヴル)という作品を、ネットで検索できます。地上界への聖の顕現が、光と影の効果によって、1枚の絵の中に描き込まれた絵です。
天と地をひとつの空間の中にとらえるのはバロック絵画お得意のモチーフで、エル・グレコの《オルガス伯の埋葬》(プレ・バロックですが)では、下半分に現世で逝去した伯と遺骸を囲む人々が、上半分に来世でキリストと聖母にまみえる伯の姿が、上昇する運動感をもって描き出されています。こうした異次元の共存する空間という時代好みの発想を頭に入れて、バッハの音楽を見ることにします。(続く。長くなって恐縮です。)
尽きない発見 ― 2013年04月03日 11時25分26秒
私がゲスト音楽監督を務めている合唱団CANTUS ANIMAEの《ロ短調ミサ曲》、準備が進んできました。バッハの実践にならってコンチェルティスト方式を採ることにし、コンチェルティストには、いっしょに勉強してくれる人ということで、くにたちiBACHコレギウムのメンバーを選んでいただきました。コンサートミストレスの大西律子さんのもと、ピリオド楽器のメンバーもあらかた揃い、合唱団は早くも盛り上がっています(公演は来年3月29日)。
3月末日の日曜日は、〈グローリア〉に関して私が講演し、そのあとテスト演奏、解釈に関するディスカッションを行いました。野球で言えばGMと監督(指揮者の雨森文也さん)が綿密に意見交換するようなもので、なんともありがたい信頼関係です。
このために、私は、かなり時間をかけて準備しました。プレゼンテーションに凝ったからばかりではありません。ヴォルフ先生の訳書(おかげさまで増刷になりました)を作るさい、またiBACH公演に向けて、相当勉強したつもりでしたが、今になって気づくことが次々と出てくるのです。
それは主として、「この曲はなぜこうなっているのか」を説明しようとするときに、見えてきます。実践家を対象にお話しするさいには、演奏の指針を示す必要がありますから、音楽学的な知識の切り売りで済ませるわけにはいきません。だからこそ、自分にとってたいへん勉強になることだと感じています。
ひとつ実例を挙げたいと思いますが、長くなりますので、明日更新します。
3月末日の日曜日は、〈グローリア〉に関して私が講演し、そのあとテスト演奏、解釈に関するディスカッションを行いました。野球で言えばGMと監督(指揮者の雨森文也さん)が綿密に意見交換するようなもので、なんともありがたい信頼関係です。
このために、私は、かなり時間をかけて準備しました。プレゼンテーションに凝ったからばかりではありません。ヴォルフ先生の訳書(おかげさまで増刷になりました)を作るさい、またiBACH公演に向けて、相当勉強したつもりでしたが、今になって気づくことが次々と出てくるのです。
それは主として、「この曲はなぜこうなっているのか」を説明しようとするときに、見えてきます。実践家を対象にお話しするさいには、演奏の指針を示す必要がありますから、音楽学的な知識の切り売りで済ませるわけにはいきません。だからこそ、自分にとってたいへん勉強になることだと感じています。
ひとつ実例を挙げたいと思いますが、長くなりますので、明日更新します。
圧巻のBach Digital ― 2013年04月01日 22時41分57秒
情報がタダになるのは弊害も大きいと事あるごとに言っている私ですが、やはり、探す、注文する、買う、足を運ぶ、といった面倒なしに、いながらに情報を手にできる便利感は絶大。わがGoogle Chromeのブックマーク・バーには、Choral Wiki、IMSLP/Petrucci Music Library、Bach Digitalの3つのブックマークがあり、常時クリックされています。第1のサイトから声楽曲の楽譜や歌詞、第2のサイトから種々の楽譜、第3のサイトからバッハのオリジナル資料を参照するのです。
中でも、バッハ・アルヒーフ・ライプツィヒとベルリン国立図書館、ライプツィヒ大学、ザクセン州立図書館が共同して行っている「バッハ・デジタルBach Digital」プロジェクトのすばらしさには、目を見張るばかり。バッハ作品の自筆譜や筆写譜が、カラーの鮮明かつ美麗な画像で閲覧できるのです。たとえば《マタイ受難曲》《ヨハネ受難曲》《ロ短調ミサ曲》といった主要作品の自筆総譜はもちろん、パート譜までもが、すべて公開されています。今年に入ってから、急速度で公開が進んだという印象です。
ベルリン国立図書館の所有するバッハのオリジナル資料は、従来マイクロフィルムで市販されていました。私が大学の図書館長をしているときにそれを買うか買わないかという話になり、100万円を超える価格では手が出ないと、泣く泣くあきらめた記憶があります。
以来、必要があると芸大の図書館に見に行っていましたが、白黒のマイクロフィルムは不鮮明で、目を皿のようにしても、細部は判別できません。それがカラーの大画像を自宅で見られるようになるとは、なんというありがたい変化でしょう。高価なファクシミリだって、買わなくてもよくなります。バッハのオリジナル資料の保存には大金が投じられているので、そのあたりの収支が心配にはなるのですが・・・。
Bach Digitalで検索し、サーチ画面を出せば、あとはBWV番号を入れるだけです。お試しください。2つ閲覧ソフトがあり、下の方を使うとダウンロードも可能です。
中でも、バッハ・アルヒーフ・ライプツィヒとベルリン国立図書館、ライプツィヒ大学、ザクセン州立図書館が共同して行っている「バッハ・デジタルBach Digital」プロジェクトのすばらしさには、目を見張るばかり。バッハ作品の自筆譜や筆写譜が、カラーの鮮明かつ美麗な画像で閲覧できるのです。たとえば《マタイ受難曲》《ヨハネ受難曲》《ロ短調ミサ曲》といった主要作品の自筆総譜はもちろん、パート譜までもが、すべて公開されています。今年に入ってから、急速度で公開が進んだという印象です。
ベルリン国立図書館の所有するバッハのオリジナル資料は、従来マイクロフィルムで市販されていました。私が大学の図書館長をしているときにそれを買うか買わないかという話になり、100万円を超える価格では手が出ないと、泣く泣くあきらめた記憶があります。
以来、必要があると芸大の図書館に見に行っていましたが、白黒のマイクロフィルムは不鮮明で、目を皿のようにしても、細部は判別できません。それがカラーの大画像を自宅で見られるようになるとは、なんというありがたい変化でしょう。高価なファクシミリだって、買わなくてもよくなります。バッハのオリジナル資料の保存には大金が投じられているので、そのあたりの収支が心配にはなるのですが・・・。
Bach Digitalで検索し、サーチ画面を出せば、あとはBWV番号を入れるだけです。お試しください。2つ閲覧ソフトがあり、下の方を使うとダウンロードも可能です。
2013年度ご案内 ― 2013年03月30日 23時17分03秒
まだ3月ですが、4月からの仕事についてご案内しておきます。
2つの大学職のうち、大阪音大には、学期末に講演に伺うことになるでしょう。非常勤が3つあり、東京芸大の楽理科ゼミで《ヨハネ受難曲》を、聖心女子大でモーツァルトを、また冬学期には国際キリスト教大学で「人間理解論」という授業をやります。
一般の方との接点は、市民講座でということになりますね。立川の「楽しいクラシックの会」は、当面ワーグナーです。4月20日(土)から、いよいよ《ラインの黄金》に入ります(10:00~12:00、錦町地域学習館)。須坂は《ヨハネ受難曲》の継続で、4月は21日。第1部を扱います(14:00~16:30、シルキーホール)。松本は4月は休みなので、またご案内します。
朝日カルチャーセンターを増やしてしまったので、がんばらなくてはなりません。横浜校は、「エヴァンゲリスト」講座が最終章「数学的秩序の探求」に入ります。27日13:00~15:00、テーマは《クラヴィーア練習曲集第3部》です。この横浜で、「とことんわかりやすい」を標榜する、「クラシック音楽超入門」という講座を始めてしまいました。第1回は6日(土)13:00~15:00で、内容は「童謡《小さい秋みつけた》で発見する喜び」です。誰でも知っている曲を手がかりに、音楽の聴き方、親しみ方をコーチしていく予定ですが、こうした講座が成立するか否かは、神のみぞ知るです。これから音楽を聴いていきたい、という方は、受講をお待ちしています。
同じく、新宿校。世俗カンタータは終わりましたが、「《マタイ受難曲》徹底研究」はいよいよ第2部に入ります。水曜日の13:00~15:00枠で、4月は3日と17日。冒頭のアルト・アリア、次のテノール・アリアあたりにこだわりそうな今月です。
新宿校で新たに始めてしまったのが、ワーグナーの徹底研究。今期は「《タンホイザー》~美の本質を求めて」というテーマでやります。火曜日の13:00~15:00枠で隔週ですから、2日、16日、30日と3回もあります。美学や宗教に関する勉強を生かし、自分ならではの内容にするべくがんばります。
継続するのは、いずみホールの企画、サントリー芸術財団の仕事、毎日新聞の批評、NHKの放送など。手を広げすぎた観もありますが(汗)、持てる力はすべて注ぎ込むつもりですので、よろしくお願いします。
2つの大学職のうち、大阪音大には、学期末に講演に伺うことになるでしょう。非常勤が3つあり、東京芸大の楽理科ゼミで《ヨハネ受難曲》を、聖心女子大でモーツァルトを、また冬学期には国際キリスト教大学で「人間理解論」という授業をやります。
一般の方との接点は、市民講座でということになりますね。立川の「楽しいクラシックの会」は、当面ワーグナーです。4月20日(土)から、いよいよ《ラインの黄金》に入ります(10:00~12:00、錦町地域学習館)。須坂は《ヨハネ受難曲》の継続で、4月は21日。第1部を扱います(14:00~16:30、シルキーホール)。松本は4月は休みなので、またご案内します。
朝日カルチャーセンターを増やしてしまったので、がんばらなくてはなりません。横浜校は、「エヴァンゲリスト」講座が最終章「数学的秩序の探求」に入ります。27日13:00~15:00、テーマは《クラヴィーア練習曲集第3部》です。この横浜で、「とことんわかりやすい」を標榜する、「クラシック音楽超入門」という講座を始めてしまいました。第1回は6日(土)13:00~15:00で、内容は「童謡《小さい秋みつけた》で発見する喜び」です。誰でも知っている曲を手がかりに、音楽の聴き方、親しみ方をコーチしていく予定ですが、こうした講座が成立するか否かは、神のみぞ知るです。これから音楽を聴いていきたい、という方は、受講をお待ちしています。
同じく、新宿校。世俗カンタータは終わりましたが、「《マタイ受難曲》徹底研究」はいよいよ第2部に入ります。水曜日の13:00~15:00枠で、4月は3日と17日。冒頭のアルト・アリア、次のテノール・アリアあたりにこだわりそうな今月です。
新宿校で新たに始めてしまったのが、ワーグナーの徹底研究。今期は「《タンホイザー》~美の本質を求めて」というテーマでやります。火曜日の13:00~15:00枠で隔週ですから、2日、16日、30日と3回もあります。美学や宗教に関する勉強を生かし、自分ならではの内容にするべくがんばります。
継続するのは、いずみホールの企画、サントリー芸術財団の仕事、毎日新聞の批評、NHKの放送など。手を広げすぎた観もありますが(汗)、持てる力はすべて注ぎ込むつもりですので、よろしくお願いします。
凄い自伝 ― 2013年03月29日 11時20分40秒
東奔西走にお供していた高峰秀子さんの自伝『わたしの渡世日記』(上・下、文春文庫)、読み終わりました。かつて週刊朝日に連載されたもので、誕生から子役時代、女優時代の1年1年が、克明に追想されています。
高峰さんは自伝を書くにあたり、自分のすべてをさらけ出そう、と決心されたのでしょうね。その勇気に、まず驚きます。ふつう自伝を書くとなると、ある程度までで歯止めをかけ、マイルドにまとめると思う。それだって、私など、恐ろしくてできません。ところが高峰さんは事実を赤裸々に述べ、人間関係やその愛憎を率直に綴って、美化しないのです。連載が昭和50-51年ですから、当時は今読むほど「時効」という感じはなかったのではないかと思われます。
それだけのことはあり、読み進めるにつれて、高峰秀子さんという方がいかに真剣に、本質を見据えて生きた方かということが鮮明に印象づけられ、その人間性に呪縛されてしまいます。とりわけ、ご自身の人生設計によって実現した結婚のくだりは感動的。昭和史のおさらいにもなりますので、一読をお勧めします。
映画を見る習慣のない私ですが、高峰さんの出演された映画をひとつひとつ鑑賞したくなってきました。本当は映画館で見るのがいいのでしょうね。たくさんの映画とこれだけの自伝を残された高峰さん、文字通り「不滅」の存在になられたと思います。
高峰さんは自伝を書くにあたり、自分のすべてをさらけ出そう、と決心されたのでしょうね。その勇気に、まず驚きます。ふつう自伝を書くとなると、ある程度までで歯止めをかけ、マイルドにまとめると思う。それだって、私など、恐ろしくてできません。ところが高峰さんは事実を赤裸々に述べ、人間関係やその愛憎を率直に綴って、美化しないのです。連載が昭和50-51年ですから、当時は今読むほど「時効」という感じはなかったのではないかと思われます。
それだけのことはあり、読み進めるにつれて、高峰秀子さんという方がいかに真剣に、本質を見据えて生きた方かということが鮮明に印象づけられ、その人間性に呪縛されてしまいます。とりわけ、ご自身の人生設計によって実現した結婚のくだりは感動的。昭和史のおさらいにもなりますので、一読をお勧めします。
映画を見る習慣のない私ですが、高峰さんの出演された映画をひとつひとつ鑑賞したくなってきました。本当は映画館で見るのがいいのでしょうね。たくさんの映画とこれだけの自伝を残された高峰さん、文字通り「不滅」の存在になられたと思います。
東奔西走一区切り ― 2013年03月27日 20時02分23秒
年が明けてから長距離移動する仕事が相次ぎ、楽しみを見出しながらがんばってきました。この3月に訪れた場所を思い出してみたら--「訪れる」の定義は、宿泊する、飲食する、イベントに参加する、のいずれかを満たすことで、東京都を除きます--、次のようになりました。
盛岡県:遠野(初)、釜石(初)
宮城県:加美(初)
栃木県:宇都宮
神奈川県:川崎、横浜
長野県:松本
静岡県:伊東
愛知県:名古屋、犬山
岐阜県:可児(初)
三重県:四日市(初)、桑名(初)
大阪府:大阪
兵庫県:神戸
宮崎県:宮崎
今月は中京地区に親しんだと言えそうです。写真その1は、「スーパーあずさ」の車中から撮った甲斐駒ヶ岳です(昔、登りました)。

写真その2は、桑名の九華公園。長良川河口の脇にある日本調の落ち着いた公園で、今は桜が満開でしょうね。

一番おいしかったもの。これは多分に偶然の結果ですが、伊東の「地あじ丼」を挙げたいと思います。
仕事は昨日・今日の会議で一段落。ほっとしましたがオーバーワークのきらいなしとせず、今日は全身の力が抜けるほど疲れてしまいました。明日はいいタイミングで、病院の検査です。
【付記】盛岡県などという件はない、というご指摘をいただきました(笑)。岩手県ですね、たいへん失礼しました。最近はこの調子です(汗)。
「向き合う」ということ ― 2013年03月25日 23時53分50秒
時間の話が出ましたので、人生の雑感を。
時間というのは、人の心を癒すものですよね。心に傷ができても、時間が忘却の力を借りて痛みを薄れさせ、癒してくれます。うれしいこともいっしょに薄れていきますが、それによって人間は、新しいことに取り組む力を得ることができるのです。
しかし逆に、思い出したくないことに限って思い出す、というメカニズムを、人間はもっている(ですよね?)。先日同年配の友人から、どうも最近は過去のことばかりを思い出して、罪の思いにかられる、という趣旨のメールをもらいました。私もまったく同じなのでそう返信しましたが、これと上記のことは、どういう関係にあるのでしょうか。
私が思うに、「思い出したくないことを思い出す」のは、思い出すまいとするからだと思うのです。しっかり向き合ったことは、時間をかけることで事柄が成仏しますから、かなたに去ってくれる。ところが向き合うことを手抜き、記憶の向こうに押しやろうとした事柄は、時間をかけてもらえないため成仏していませんから、たえず成仏を求めて、存在を主張するのではないか。
だからどんなことにでもしっかり向き合いましょう、などと言っても、それは空念仏で、簡単にできることではありません。しかし、時と共に成仏しない案件が増加していくのは、困ったことです。それをどうするかという実践論が、次は必要ですよね。
時間というのは、人の心を癒すものですよね。心に傷ができても、時間が忘却の力を借りて痛みを薄れさせ、癒してくれます。うれしいこともいっしょに薄れていきますが、それによって人間は、新しいことに取り組む力を得ることができるのです。
しかし逆に、思い出したくないことに限って思い出す、というメカニズムを、人間はもっている(ですよね?)。先日同年配の友人から、どうも最近は過去のことばかりを思い出して、罪の思いにかられる、という趣旨のメールをもらいました。私もまったく同じなのでそう返信しましたが、これと上記のことは、どういう関係にあるのでしょうか。
私が思うに、「思い出したくないことを思い出す」のは、思い出すまいとするからだと思うのです。しっかり向き合ったことは、時間をかけることで事柄が成仏しますから、かなたに去ってくれる。ところが向き合うことを手抜き、記憶の向こうに押しやろうとした事柄は、時間をかけてもらえないため成仏していませんから、たえず成仏を求めて、存在を主張するのではないか。
だからどんなことにでもしっかり向き合いましょう、などと言っても、それは空念仏で、簡単にできることではありません。しかし、時と共に成仏しない案件が増加していくのは、困ったことです。それをどうするかという実践論が、次は必要ですよね。
小糸旋風が過ぎて ― 2013年03月23日 23時40分30秒
3月20日(水)、バッハ・オルガン作品全曲演奏会第2回、小糸恵さんのコンサート。21日(木)、小糸さんをメイン・ゲストに迎えての、講演とシンポジウム。いずみホールにとっても私にとっても、何か重いものの残る、大きな出来事でした。
コンサートを聴き、マイクも向けることで、小糸さんのまことに独特な演奏様式に、ある程度のイメージをつかむことができました。チェンバロという楽器は、名手の手にかかると格段に情報量を増し、ニュアンス豊かな響きを作り出しますよね。その時大きな役割を演ずるのが、アゴーギクという微妙な速度法。言い換えると、多様性のある時間の扱いです。
小糸さんは、それをオルガンで行おうとしておられるようです。すなわち、古楽奏法のエッセンスを追究したオルガン。根本にあるのは、卓抜な時間感覚です。プログラムに並んだ曲目が、大局を見据えた時間感覚によって、積み上げられていく。コンサートの最後に演奏された《パッサカリア》では、蓄えられたエネルギーが大河のような流れを作り出し、「鳥肌が立つ」(オルガン製作者ケーニヒ氏)ような盛り上がりとなりました。穏やかな女性のどこに、こうした力がひそんでいるのでしょうか。
もう一つ重要な特徴は、卓越したレジストレーション。音色の扱いです。いずみホールのケーニヒ・オルガン(日本で唯一!)は多彩な音色の美しさを特徴とするのですが、小糸さんはそれをとことん引き出し、パルティータ(変奏曲)などでは、音色の多様性をすべて試そうとするかのように、変化に富んだ扱いをされます。しかし趣味でそうするのではなく、(たとえば北ドイツの演奏伝統に基づいてペダルで2フィートを響かせるというように)研究にもとづいて、そうされるのです。
何度も考えざるを得ないのは、これだけの力量をもった音楽家を、私も、スタッフも、ケーニヒ氏も、誰も知らなかったということです。音楽の世界ほど知名度がものをいう世界はありません。人を集め、お金を動かしていくのは、知名度のある音楽家です。しかし一方では、そんなことは煩わしいとばかりに自分の探究に打ち込み、他の誰にもマネのできない世界に到達している音楽家がいる。このことを、どう考えたらいいのでしょうか。
彼女の存在を知っていて、演奏者のリストに抜擢した、ヴォルフ先生という方がいます。そして、人選への信頼に基づいて満員の大盛況を作り出してくださった、お客様がいます。キツネにつままれたような現象ですが、事実。奇跡、と言ったら大げさでしょうか。
名伯楽、佐治晴夫先生の参加で深い内容を掘り下げることのできた、シンポジウム。そこで小糸さんが尊敬する2人の人物が披露されました。その2人とは、デカルトとニュートンだそうです。言葉もありません。
コンサートを聴き、マイクも向けることで、小糸さんのまことに独特な演奏様式に、ある程度のイメージをつかむことができました。チェンバロという楽器は、名手の手にかかると格段に情報量を増し、ニュアンス豊かな響きを作り出しますよね。その時大きな役割を演ずるのが、アゴーギクという微妙な速度法。言い換えると、多様性のある時間の扱いです。
小糸さんは、それをオルガンで行おうとしておられるようです。すなわち、古楽奏法のエッセンスを追究したオルガン。根本にあるのは、卓抜な時間感覚です。プログラムに並んだ曲目が、大局を見据えた時間感覚によって、積み上げられていく。コンサートの最後に演奏された《パッサカリア》では、蓄えられたエネルギーが大河のような流れを作り出し、「鳥肌が立つ」(オルガン製作者ケーニヒ氏)ような盛り上がりとなりました。穏やかな女性のどこに、こうした力がひそんでいるのでしょうか。
もう一つ重要な特徴は、卓越したレジストレーション。音色の扱いです。いずみホールのケーニヒ・オルガン(日本で唯一!)は多彩な音色の美しさを特徴とするのですが、小糸さんはそれをとことん引き出し、パルティータ(変奏曲)などでは、音色の多様性をすべて試そうとするかのように、変化に富んだ扱いをされます。しかし趣味でそうするのではなく、(たとえば北ドイツの演奏伝統に基づいてペダルで2フィートを響かせるというように)研究にもとづいて、そうされるのです。
何度も考えざるを得ないのは、これだけの力量をもった音楽家を、私も、スタッフも、ケーニヒ氏も、誰も知らなかったということです。音楽の世界ほど知名度がものをいう世界はありません。人を集め、お金を動かしていくのは、知名度のある音楽家です。しかし一方では、そんなことは煩わしいとばかりに自分の探究に打ち込み、他の誰にもマネのできない世界に到達している音楽家がいる。このことを、どう考えたらいいのでしょうか。
彼女の存在を知っていて、演奏者のリストに抜擢した、ヴォルフ先生という方がいます。そして、人選への信頼に基づいて満員の大盛況を作り出してくださった、お客様がいます。キツネにつままれたような現象ですが、事実。奇跡、と言ったら大げさでしょうか。
名伯楽、佐治晴夫先生の参加で深い内容を掘り下げることのできた、シンポジウム。そこで小糸さんが尊敬する2人の人物が披露されました。その2人とは、デカルトとニュートンだそうです。言葉もありません。
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