10月のCD選2011年11月04日 09時18分19秒

ちょっと遅くなりましたが、先月のCDとDVDとです。

クリストファーズ指揮、ザ・シックスティーンによる「ヘンデル・セレブレーション」というDVD(M-Plus)が祝典的高揚感にあふれていてとても良かったので、1位にしました。2009年BBCプロムスのライヴ。解説やインタビューも収録されていて、にぎやかです。《戴冠式アンセム》、オルガン協奏曲などに加えて、《セメレ》のアリアが収録されていますが、これを歌うサンプソンというソプラノ歌手も見事です。

2位には、テンシュテット指揮 ロンドン・フィルのマーラー 交響曲第5番を入れました(輸入DVD、ica)。1988年のライヴで、テンシュテットが病気療養から復帰した時期のものですが、演奏は重厚かつ熱烈、真摯の極みで、大いに聴かせます。

3位は、大谷玲子さんのポーランド・ヴァイオリン作品選集(ライヴ・ノーツ)。ルトスワフスキ、シマノフスキ、ヴィエニャフスキの魅力的なヴァイオリン曲を並べるという個性的な趣向が、しっかりした方向を見据えて作られたCDであることを物語っています。とても大事なことだと思います。

11月の「古楽の楽しみ」2011年11月02日 15時13分23秒

7日(月)からが、今月の出番です。

7日は、バッハの死と永遠をめぐるカンタータ第60番《おお永遠、雷の言葉よ》の初演日(1723年)にあたりますので、この曲と、同じコラールを用いた第20番が中心です。演奏は、ガーディナー。冒頭に、《われら生[いのち]のさなかにありて》というコラールを杉山先生の名訳で紹介し、先生を偲びます。

8日以降は、ドイツ・バロックの、地味ながらしっかりした仕事をした音楽家を紹介しました。8日(火)は、ルードルシュタットの宮廷楽長エルレバッハのソナタとカンタータ、ツィッタウのカントル、ゲッセルのカンタータ。9日(水)は、17世紀ドレスデンのヴァイオリニスト、ヨハン・ヤーコプ・ワルターのヴァイオリン音楽を中心に。10日(木)はワイマールのオルガニストで『音楽辞典』の著者としても知られるヨハン・ゴットフリート・ヴァルターのオルガン曲。バッハの作品も一部入れました。

11日(金)は、17世紀のトーマス・カントル、クニュプファーの宗教コンチェルトと、ヴィッテンベルクの地域で活躍したヤコービのカンタータ、バッハの弟子でドレスデンのルター派礼拝を仕切ったホミリウスのカンタータです。

というわけで渋い今月ですが、私の一押しは、クニュプファーの宗教コンチェルト《何を食べようか》。有名なイエスの説教が、対話形式で、諄々と訴えてきます。ヴァルターのオルガン曲も聴き応えがあると思います。

11月のイベント2011年11月01日 09時35分56秒

私のブログに効用があるとすれば、それはダブルブッキングをチェックできることだ、というありがたいお言葉を、先日講演会主催の方々からいただきました。そこで今月のご案内。私、なにかやっているでしょうか。

いずみホールのリスト・シリーズが佳境に入ります。2日(水)は19:00から横山幸雄さんで、ロ短調のソナタ(とショパン)。私も参ります。20日(日)の19:00はアファナシエフ。晩年のピアノ曲が特集されます(注目!)。

3日(木)は13:00から方南会館を会場に、《マタイ受難曲》2回連続講演会のその1。杉並オラトリオ合唱団その他の主催ですが、公開されているようです。お近くの方はどうぞ。2回目は13日(日)の10:00からです(各2時間)。

5日(土)、6日(日)は、日本音楽学会の全国大会です。私は会長としての役割の他に、6日15:30~17:40に行われるセッションの司会をします。バッハの発表2本、テレマンの発表1本です(詳細は学会のホームページを御覧ください)。場所は東大教養学部(駒場)です。

そのセッションで19世紀におけるバッハ受容の研究発表をされた富田庸さんが、8日(火)には国立音大で、《ロ短調ミサ曲》のお話をしてくださいます(18:00より)。題して、「《ロ短調ミサ曲》とバッハ研究--作品の伝承と編集史から見る研究上の諸問題」。新しい版がいくつも出され、評価が錯綜していますので、富田さんのご意見を伺うのがとても楽しみです。どなたでもご来場いただけます(6号館110スタジオ)。

19日(土)は10:00から「楽しいクラシックの会」(立川市錦町学習館)で、《ロ短調ミサ曲》の第2回。〈グローリア〉が中心となります。14:00からはTBS主催の《マタイ受難曲》講座第2回ですが、講師は佐藤研先生で、新約聖書研究の立場から、イエスについて、マタイについて、受難についてご講義いただきます。場所は文京福祉センター(江戸川橋または護国寺から)です。

24(木)16:10は共同授業「バッハとその時代」の4度目の出番。「バッハと流行」というテーマを予定しています。26日(土)は朝日カルチャー連チャンの日。10:00からは新宿校で《ロ短調ミサ曲》の第4部(オザンナ以下)。13:00からは横浜校の『エヴァンゲリスト』継続講座で、テーマは「バッハの結婚、バッハの家族」です。

27日(日)は14:00から国立の一橋大学兼松講堂で、モンテヴェルディ《ポッペアの戴冠》上演。今回は私の仕切りではなく、私の役割は講演会と解説、字幕の提供です。渡邊順生さんの指揮のもと、より全曲に近く、より大編成で、より熟練した歌い手を交えた公演が行われます。今回は演出家が付きますので、かなり様変わりする可能性があります。国分寺公演をご覧になった方も、新しい気持ちで鑑賞できるのではないでしょうか。

29日(火)は国立音楽大学で、《ロ短調ミサ曲》の中間発表を行います。〈グローリア〉の冒頭・最終合唱曲と、〈二カイア信条〉の全曲をお聴きいただきます。場所はSPCのA、入場自由です。

以上、どうぞよろしく。

杉山先生を送る会2011年10月30日 22時57分13秒

10月29日の午後、恵泉女学園大学で行われた「杉山好先生を送る会」に参加してきました。先生を熱愛する人々がこんなにたくさんいらっしゃるのかとあらためて目を見張るようなすばらしい会で、先生も上からご覧になり、涙を流していらっしゃったのではないかと思います。

多摩センターにある恵泉女学園には初めて伺いましたが、緑が多く心が澄みわたるような、いい環境のところですね。そこのチャペルでまず、礼拝がありました。オルガン演奏(木田みなこさん)はバッハのコラール・パルティータ《おお神よ、汝慈しみに富みたもう神よ》BWV767から4つの節を選んで行われましたが、そのそれぞれの節に対応する杉山先生の訳が、配布されています。第1節と、老いの辛苦を述べる第6節、安らかな死を祈る第7節が先立って演奏され、礼拝の最後に、復活を述べる最終節が演奏されました。

先生の精魂こもった名訳を読みながらオルガン演奏を聴くうちに私の心には「信徒の幸福」と呼ぶべきものが、しみじみと実感されるように思われました(もちろん私は信徒ではないので、想像するわけですが・・・)。これは、初めての体験です。快活な笑顔をとらえた先生のすばらしい写真が、花の中に飾られています。

いくつもの著作を勉強させていただき、尊敬申し上げている荒井献先生が「奨励」(短い説教)をなさいました。その中で、先生の最近の研究成果である『ユダ福音書』の話をされ、ユダがイエスによってすでに赦されている、という見方の価値を語られたのですが、それは杉山先生との長年の友情を語る文脈の中ででした。

そのことにかかわる講演を聴かれた杉山先生は、終了後壇上に駆け上がって荒井先生の手を取り、「ユダはバッハの《マタイ受難曲》においても、放蕩息子になぞらえて赦されているんですよ!」と感激の面持ちでおっしゃったそうです。私は驚き、全身耳になってこのお話を聞いていました。なぜなら、この解釈は私が著作の中で提示し、状況証拠を引きつつ主張しているものであるからです。

ああ、杉山先生は共感してくださっていたのだな、と思い瞑目していると、荒井先生は「そのことを私は、杉山さんの弟子のひとりである礒山さんの著作ですでに知っていました」とおっしゃり、私の著作の、「東京書籍、1994年」というデータまで、付け加えてくださったのです。私はますます驚き、ああ、こういう方がこういう風に読んでくださっているんだなあ、と恐縮しつつ、深く励まされました。『ユダ福音書』のこと、これから勉強します。

その後の茶話会では、先生の思い出と恩義を綴った精一杯の文章を用意し、朗読しました。亡くなられた今、先生への感謝の思いは募るばかりです。

[付記]「私の解釈」というのはいかにも語弊がありますので修正し、正確なところを記しておきます。

杉山先生は、ユダの死を受けるバス・アリアの歌詞に以前から「放蕩息子」の訳語を使っておられましたので、この部分を、すでに赦しの文脈で捉えておられたことは間違いないと思います。私が行ったのは、その発想がどこから出てきたかの、ルーツの探索です。バッハの神学蔵書を調査した結果、そのままの用例は見つからなかったが、ユダ観の転換を窺わせる記述は随所にあり、とりわけランバッハのユダ論に、それが顕著でした。したがってユダ=放蕩息子という思い切ったたとえはバッハ/ピカンダーのオリジナルである可能性がなお残っています。しかし、ライプツィヒの牧師たちに由来する可能性もあることでしょう。いずれにせよ、そこには大きな一歩があるように思います。

百年河清を待つ2011年10月28日 11時26分24秒

胃カメラに、出直しの朝。満員電車に乗り、しばらく経ってからのことです。私は向かって右のドア、優先席とは反対側の入口に立っていたのですが、斜向かいの優先席あたりから、「携帯の電源を切ってください!」という声が上がりました。ある程度の年齢の、女性の声です。

「やるなら向こうでやってください」「ここは優先席ですよ」に始まる言葉は、ずっと続いて、休みがありません。次の駅に近づくと、「さあ、また猛者が乗ってくる」とつぶやき、乗客が入れ替わったところで語調を強め、「携帯の電源を切ってください」と戻ります。何サイクル、これが続いたでしょうか。

その間、乗客の声は、寂としてありませんでした。みんな、どうしているんだろう。知らん顔をしているのか、使っている人が電源を切っているのか、使っていない人も取り出して電源を切っているのか。見たいと思いましたがわかりません。

それ以上に知りたいと思ったのは、黙っている人々の反応です。たしかに、優先席で電源を切る人は、再三のアナウンスにもかかわらず、見たことがない。車掌さんが注意する光景にも、接していません。でもみんな、使っていますよね。年配の人が電話をかけている姿さえ、見たことがあります。私はといえば、なるべく使わないようにはしていますが、電源を切ったことはありません。

ですから、女性の発言は、まったくの正論です。非の打ち所がありません。だからこそ知りたいのは、黙っている人たちの感想です。よく言ってくれた、という感謝なのか。勇気ある発言への賞賛なのか。あるいは、ある人の生きがいへの、やさしさなのか。でも人間って、どうして正論に反発してしまうのでしょうね。他人をあげつらう情熱に、どうしても賛同することができないのです。

胃カメラを無事済ませ、荻窪の名店「春木屋」で、ワンタンメンを食べました。

朝から胃カメラ2011年10月26日 23時09分14秒

早朝に胃カメラを予約すると、たいへんです。前の日に、食事を早く摂らなくてはならない。昨日は夜8時がタイムリミットだったのですが、講演終了後、9時過ぎになってしまいました。早く起き、満員電車で聖路加病院に向かいます。もちろん、朝食を摂ることはできません。まあ、年1回のことですから、がまんもできます。

朝日新聞を買って乗車しましたが、車内で新聞は読めませんね。今朝本の広告が出ると聞いていたのですが、結局発見できませんでした。予定より早く、病院着。先日のMRIをうっかりして病院に迷惑をかけてしまったので、今日は遅れないように、万全を期して出てきました。先生にお詫びしなくてはなりません。ああ、また謝罪率が上がる。

受付で手続き。すると女性がにっこりして言うには、「今日は予約されていません」。「いや、診療ではなく、胃カメラの検査です」。すると女性はパソコンの画面を確認し、「それは明日です」と言いました。

空腹の私は、それからよろよろと、築地方面へ。あ、朝日新聞の広告も、明日のようです。病院には明日、もう一度参ります。

iBACHで講演2011年10月25日 23時23分36秒

今日のiBACHは、《ロ短調ミサ曲》に関する私の講演会でした。聞きにいらしてくださった皆様、ありがとうございました。

今まではもう少し早い段階で、私が作品についてお話する回をもちました。今回ずっと遅れたのは、翻訳を手にとってもらってやると能率的、という思い(下心?)が働いたからです。しかしうまくいかないもので、発売の前日に、本のないまま、やる羽目になりました。

入念に準備し、相当緊張して臨んだのは、この1回のメッセージが届くか届かないかが、来年1月の演奏を、かなり左右するように思えたからです。自分ながら滑稽に思えるほどのハイテンション。マイクなしでやりましたが、新築のスタジオの音響効果がよく、なめらかに声が響きました(と思う)。じつは、NHKの最近数回が、いやになってしまうほどのしゃがれ声。もうこんな声になってしまって治らないのかな、と思っていたのです。

しかし、27曲もある長大な作品に詳細なレジュメを作成したのでは、どんなに飛ばしても、最後までいきません。休憩中に指揮者の大塚直哉さんがいらしておっしゃるには、勉強になるので来週も続けましょう、と。練習を中断して講演を続けるのは気が引けますが、作品を理解する重要性をみんなが感じてくれたのであれば、やはり必要なことだと思い、もし終えられなかったら、やらせていただくことにしました。

結局は、〈グローリア〉で討ち死に(笑)。締めに用意していたDVDの音が出ず、最後を飾れませんでしたが、こんなときに必要なのは、発想の転換です。代わりに、次回に送ろうと思っていた後半部の成立事情をお話ししました。来週は来られない方もいらっしゃるでしょうから、かえってその方が良かった面もあると思います。

ヴォルフ先生の作品観はすっかり頭に入り、自分なりの整理の仕方も、頭をもたげてきました。本は、いよいよ明日発売です。私の明日は、胃カメラの日。最近日本学術会議の連携会員というものにしていただいたので、午後はその説明会に回ります。

反省2011年10月23日 23時56分29秒

音楽大学につとめていて良かったと思うのは、演奏家の先生方と親しくなれたことです。いろいろな分野に友人ができましたが、ある声楽の先生はいつも、「礒山先生は歌科(うたか)的気質の持ち主だから」とおっしゃいます。これは、私の歌好きをご存知で言ってくださっているのだと思いますが、あるいは、理知と感情のバランスにおいて、私がある程度感情に寄っている、という意味を含んでいるのかもしれません。周囲の方々に、私はどう映っているのでしょう。

自分では知的抑制に富むイメージを目指しているのですが、音楽に涙するケースがめっきり多くなり、自信がなくなってきました。私は演奏なり、スピーチなりに接してそのすばらしさに感銘することしばしばで、その一部を当欄でご紹介したりしているのですが、そうした多感なプラス反応は、同時に、マイナス反応をも生み出します。相手を甘く見たもの、自覚の足りないものに対して抱くネがディヴ感情は、自分でもいやになるほど大きいのです。で、基本平静、いいものに感動、そうでないものにも動ぜず、という境地に入れたらいいなあ、と思っています。

何より人間、怒っちゃだめですね。先日、前のスケジュールが長引いて私の練習を休んだ人たちに激怒してしまったのですが、大人気なかったという反省の念しきりです。どうして、信頼すべき人たちが休むのにはそれだけの理由があると思うことができなかったのか。まだ自分ダメですね。そういう部分を抑制しつつ、なお、「歌科的」というお言葉をいただけるように努力したいと思います。

ついに2011年10月21日 23時28分20秒



訳書の見本ができてきました。美しい仕上がりで喜んでいます。値段は2,500円+税です。26日発売ですので、どうぞよろしく。今日、編集者の高梨公明さんとKISAKIで祝杯を挙げました。とてもよくやっていただいたのに、「あとがき」でお礼を書き忘れ、恥ずかしいかぎりです。ありがとうございました。

飛びゆく時間の中で2011年10月20日 11時44分41秒

月日が、速く過ぎます。わが家の規準は、愛犬のトリミング。1ヶ月に1回規則的に行っていますので、「行ったばかりなのにまた行ったのか」という実感になる。メス犬ならともかく、オス犬が毎月行って、どうするんでしょう。

経過の速い理由は、記憶力の衰えと考えて、間違いないと思います。忘れてしまった時間は、ないのと同じですから。残り少ない大事な時間がどんどん過ぎ去るのは不合理にも思いますが、それは、「若い時間が長い」という摂理によるのだと理解しています。

でも自分、進歩しているようにも思うのです。土曜日に《マタイ受難曲》の講演会があり、今日準備したのですが、最近やっていたわけではないのに、曲に対する見方が変わっている。《ロ短調ミサ曲》効果で、《マタイ》に対して、新しい判断や意味づけが発生しているのです。ですので、著作執筆当時と同じ話は、しなくて済みそうです。

最近、当時の受難曲の録音が増えました。それを通じてわかることは、バッハだけがやっていたわけではない、しかし、バッハのやっていたことは、やはり桁違いだ、ということです。それは、真の傑作を時代や社会からのみ説明してはいけない、ということを物語っていると思います。