家族が減りました ― 2011年11月25日 13時48分38秒
闘病中だったポメラニアンのルルちゃんが亡くなりました。8歳でした。発作が頻発するようになってから、いったんは動物病院に引き取られていたのですが、なんとか症状が安定したというので帰宅。以後ほとんど寝たきりでした。妻が面倒をよくみるのには、本当に感心。亡くなった日は渓子も職場を早退してきて、お寺にも二人ででかけました。
動物病院に報告にいったところ、先生は診察を止め、スタッフ全員が整列して、黙祷してくれたそうです。動物病院も商売の仕方はいろいろだと経験していますが、この規律の正しさには感動しました。ともあれ、純粋種で小さくした犬は、弱いですね。陸ちゃんは、ミックスなので元気いっぱいです。
先日、1月15日の《ロ短調ミサ曲》演奏会をFAXで受け付けるとお知らせしました。その申込用紙が研究所のホームページでダウンロードできるようになりました。http://www9.ocn.ne.jp/~bach/から、「Topics」に入って下さい。なお、アミューや国立楽器、TACの諸大学に置いてあるチラシの裏面が申込用紙になっています。アナログ派の方はご利用いただければ幸いです。
動物病院に報告にいったところ、先生は診察を止め、スタッフ全員が整列して、黙祷してくれたそうです。動物病院も商売の仕方はいろいろだと経験していますが、この規律の正しさには感動しました。ともあれ、純粋種で小さくした犬は、弱いですね。陸ちゃんは、ミックスなので元気いっぱいです。
先日、1月15日の《ロ短調ミサ曲》演奏会をFAXで受け付けるとお知らせしました。その申込用紙が研究所のホームページでダウンロードできるようになりました。http://www9.ocn.ne.jp/~bach/から、「Topics」に入って下さい。なお、アミューや国立楽器、TACの諸大学に置いてあるチラシの裏面が申込用紙になっています。アナログ派の方はご利用いただければ幸いです。
何を研究するか ― 2011年11月23日 11時04分36秒
私の司会する月曜日のゼミで、先日、興味深いラウンド・テーブルがありました。野中映先生のコーディネートするテーマは、「誰がために研究は在る」というもの。研究と勉強の違いから始めて、種々の基礎的かつシリアスな問題が取り上げられました。そのトピックの1つだった「何を研究すればいいのかわからない」という点について、今日は自説を申し述べます。
文系の学問で、テーマの自主性が尊重されているところでは、「何を研究すればいいかわからない」ことが、多くの学生の悩みになります。卒論にしろ修論にしろ、早くからテーマ提出を求められる場合が多いですから、テーマの選択に何ヶ月も費やしてしまうという例も、まれでありません。
ここでわきまえるべきは、「何を研究すればいいか」ということは、研究を始めないうちにはけっしてわからない、ということです。適切なテーマを選ぶためには、その対象についてどういう研究が行われているのか、すでにわかっていることは何か、わからないことは何かをまず知る必要がある。どんなに研究されている対象でも、わかっていることより、わからないことの方が、はるかに多いはずです。
そこでテーマ探しの着眼は、わからないことを知る方向に向かう。しかしすでにわかっていることを再吟味することも、選択肢としては重要です。再吟味による通説の修正は、学問の柱とも言えるものであるからで、もう研究されているという理由から忌避する必要はありません。
「まだわかっていないこと」の中に自分の知りたいことが含まれていれば、そこにテーマ発見のチャンスが生まれてきます。この段階で大切なのは、それが自分の現能力や与えられた時間との天秤において、成果としてまとめられるかどうかを見極める、ということです。成功を左右するのは、十中八九、焦点を狭めた絞り込みです。大きな問題意識が背後にあるのであれば、絞り込んだテーマ設定は有意義だし、先につながります。
という次第なので、興味のあることをどんどん調べ、まずは知識を増やしていくことです。それが面白くなってくると、疑問が疑問を呼んで世界が広がり、選ぶべきテーマへのアンテナも磨かれてゆきます。それをしないて考え込んでいては、いけません。
対象に関するすぐれた著作や論文を読むことは、つねに助けとなる方法です。また、情報を集めるだけでは研究にならないとしても、それらに対して自分なりの評価と意味づけを行うことは、その第一歩になります。文献の丸写しは手の運動。しかしそこでわかったこと、自分が考えたことを記述してゆくことで、小さなレポートも、研究の第一歩とすることができるのです。
先にテーマを決めてしまおうとあせらず、暫定的なテーマから始めて、発展的に修正していくことが一番いいと思います。つねに後押ししてくれるのは、知的な好奇心です。
文系の学問で、テーマの自主性が尊重されているところでは、「何を研究すればいいかわからない」ことが、多くの学生の悩みになります。卒論にしろ修論にしろ、早くからテーマ提出を求められる場合が多いですから、テーマの選択に何ヶ月も費やしてしまうという例も、まれでありません。
ここでわきまえるべきは、「何を研究すればいいか」ということは、研究を始めないうちにはけっしてわからない、ということです。適切なテーマを選ぶためには、その対象についてどういう研究が行われているのか、すでにわかっていることは何か、わからないことは何かをまず知る必要がある。どんなに研究されている対象でも、わかっていることより、わからないことの方が、はるかに多いはずです。
そこでテーマ探しの着眼は、わからないことを知る方向に向かう。しかしすでにわかっていることを再吟味することも、選択肢としては重要です。再吟味による通説の修正は、学問の柱とも言えるものであるからで、もう研究されているという理由から忌避する必要はありません。
「まだわかっていないこと」の中に自分の知りたいことが含まれていれば、そこにテーマ発見のチャンスが生まれてきます。この段階で大切なのは、それが自分の現能力や与えられた時間との天秤において、成果としてまとめられるかどうかを見極める、ということです。成功を左右するのは、十中八九、焦点を狭めた絞り込みです。大きな問題意識が背後にあるのであれば、絞り込んだテーマ設定は有意義だし、先につながります。
という次第なので、興味のあることをどんどん調べ、まずは知識を増やしていくことです。それが面白くなってくると、疑問が疑問を呼んで世界が広がり、選ぶべきテーマへのアンテナも磨かれてゆきます。それをしないて考え込んでいては、いけません。
対象に関するすぐれた著作や論文を読むことは、つねに助けとなる方法です。また、情報を集めるだけでは研究にならないとしても、それらに対して自分なりの評価と意味づけを行うことは、その第一歩になります。文献の丸写しは手の運動。しかしそこでわかったこと、自分が考えたことを記述してゆくことで、小さなレポートも、研究の第一歩とすることができるのです。
先にテーマを決めてしまおうとあせらず、暫定的なテーマから始めて、発展的に修正していくことが一番いいと思います。つねに後押ししてくれるのは、知的な好奇心です。
今月のCD ― 2011年11月21日 22時49分52秒
今月は、メジャーなレーベルにいいものが揃っていましたので、ご案内します。
なにより、ジンマン指揮、チューリヒ・トーンハレ管による、シューベルト 《未完成》その他(RCA、2,520円)。作品をまったく新しい角度から聴かせる、クリエイティブな演奏です。
帯に、「史上最速?」と書いてある。たしかに速く、3拍子が1拍子に聞こえます。しかし流れは非常によく、せわしなさは感じません。むしろ、1つ上のレベルから見渡した風景が広がり、作品全体に、新しい展望が拓かれています。「憂いを帯びた旋律に高揚感があり、激しい訴えに、手に汗を握って聴き入る。こんなシューベルトはこれまでになかった」(新聞から)。
リストのピアノ協奏曲2曲を、バレンボイムがブーレーズの指揮するドレスデン・シュターツカペレとライヴ録音しました(グラモフォン)。顔ぶれだけのことはある演奏です。表面の技術に走らず、リストの詩的なロマンティシズムが奥深く捉えられているのは当然としても、ピアノとオーケストラの交流のレベルが高く、バレンボイムの手綱を、ブーレーズがしっかりと握っている。さすが、たいしたものです。
モーツァルトの交響曲第39番と第40番をアバドがモーツァルト管弦楽団を指揮したもの(アルヒーフ)を3位としました。個人的には1位でもいいと思うほど、「滋味豊かな愛のあるモーツァルト」です。幸福感をもって聴きました。
なにより、ジンマン指揮、チューリヒ・トーンハレ管による、シューベルト 《未完成》その他(RCA、2,520円)。作品をまったく新しい角度から聴かせる、クリエイティブな演奏です。
帯に、「史上最速?」と書いてある。たしかに速く、3拍子が1拍子に聞こえます。しかし流れは非常によく、せわしなさは感じません。むしろ、1つ上のレベルから見渡した風景が広がり、作品全体に、新しい展望が拓かれています。「憂いを帯びた旋律に高揚感があり、激しい訴えに、手に汗を握って聴き入る。こんなシューベルトはこれまでになかった」(新聞から)。
リストのピアノ協奏曲2曲を、バレンボイムがブーレーズの指揮するドレスデン・シュターツカペレとライヴ録音しました(グラモフォン)。顔ぶれだけのことはある演奏です。表面の技術に走らず、リストの詩的なロマンティシズムが奥深く捉えられているのは当然としても、ピアノとオーケストラの交流のレベルが高く、バレンボイムの手綱を、ブーレーズがしっかりと握っている。さすが、たいしたものです。
モーツァルトの交響曲第39番と第40番をアバドがモーツァルト管弦楽団を指揮したもの(アルヒーフ)を3位としました。個人的には1位でもいいと思うほど、「滋味豊かな愛のあるモーツァルト」です。幸福感をもって聴きました。
至福の2時間 ― 2011年11月20日 22時38分53秒
豪雨の土曜日。午前中立川の仕事を済ませ、お昼も食べないまま文京福祉会館に駆けつけましたが、そういう日は、いいことがありますね(←ツキの理論)。おそらく今年、もっとも濃密な2時間を過ごしました。
この日は、東京バロック・スコラーズ(指揮は三澤洋史さん)の主催で進行中の《マタイ受難曲》講座の2回目。日本の新約聖書研究の中心で、かねてから尊敬していた佐藤研先生に、聖書と受難についての講演をお願いしました。専門違いということでたいへん緊張され、謙遜される中でほほえましく始まった講演会。しかしすばらしい内容のお話であることは、すぐに明らかになりました。
短いレジュメの中にさえ膨大な研究の蓄積が垣間見えることは当然とも言えますが、なにより印象的なのは、識見が選びぬかれた言葉で、たえず良識の反省を含みながら、慎重に、正確に伝えられていくことでした。このようにして信頼性が確立されると、学術的な講演ほど面白いものはありません。後半ではご自身の最近のお考えを熱を込めてお話くださり、私も合唱団の方々も、イエスとその受難について、「目からウロコ」のように認識を深めることができました。《マタイ受難曲》のテキストに関する佐藤さんの私見も、じつに参考になるものでした。
福音書はなんと面白く、日本におけるその研究が、なんと進んでいることでしょう。お話を聞いていて涙の出ること再三でしたが、資料に公平な立場を採られる聖書研究者の方が学問と信仰をどう両立させているのだろう、というかねてからの疑問は、すこしわかってきたようにも思います。受難曲やカンタータを演奏される合唱団の方々、こんな勉強の機会をお作りになってはいかがでしょう。
この日は、東京バロック・スコラーズ(指揮は三澤洋史さん)の主催で進行中の《マタイ受難曲》講座の2回目。日本の新約聖書研究の中心で、かねてから尊敬していた佐藤研先生に、聖書と受難についての講演をお願いしました。専門違いということでたいへん緊張され、謙遜される中でほほえましく始まった講演会。しかしすばらしい内容のお話であることは、すぐに明らかになりました。
短いレジュメの中にさえ膨大な研究の蓄積が垣間見えることは当然とも言えますが、なにより印象的なのは、識見が選びぬかれた言葉で、たえず良識の反省を含みながら、慎重に、正確に伝えられていくことでした。このようにして信頼性が確立されると、学術的な講演ほど面白いものはありません。後半ではご自身の最近のお考えを熱を込めてお話くださり、私も合唱団の方々も、イエスとその受難について、「目からウロコ」のように認識を深めることができました。《マタイ受難曲》のテキストに関する佐藤さんの私見も、じつに参考になるものでした。
福音書はなんと面白く、日本におけるその研究が、なんと進んでいることでしょう。お話を聞いていて涙の出ること再三でしたが、資料に公平な立場を採られる聖書研究者の方が学問と信仰をどう両立させているのだろう、というかねてからの疑問は、すこしわかってきたようにも思います。受難曲やカンタータを演奏される合唱団の方々、こんな勉強の機会をお作りになってはいかがでしょう。
完走祈願 ― 2011年11月18日 23時34分31秒
11月27日(日)に一橋大学兼松講堂(国立)で行われる《ポッペアの戴冠》の公演、須坂と国分寺の公演の延長線上にあるものですが、私は今回、直接かかわっていません。一応名前はあり、役どころは、事前の講演と字幕作りです。
その字幕作りの作業をしました。これが思いのほか時間がかかった。それだけ、演奏箇所が増えているのです。とくに、2人の乳母の出番が大幅に復活しており、そこに押見朋子さんが起用されていますから、演出家の関与と相俟って、演劇的な面白さが出てくるだろうと思います。見てあげていただければ、と思います。
なかなか作業が終わらず、老体に鞭打って(?)、深夜に及びました。授業の準備は、今朝、早起きして。早起きはじつに辛かったですが、「もう少しの辛抱」と言い聞かせて決行しました。最終学期を楽しむというゆとりはありません。今は、早く完走してしまいたい、という一念です。終わった時どんな心境になるかは、まだ想像の外にあります。
ノルマをひと通り終えた夕方、疲労困憊になり、「疲れちゃったので」と言い残して帰宅。かかった声は、「週末、ゆっくりお休み下さい」というものでした。私、週末こそが忙しく、休めないんですけど・・・。・
その字幕作りの作業をしました。これが思いのほか時間がかかった。それだけ、演奏箇所が増えているのです。とくに、2人の乳母の出番が大幅に復活しており、そこに押見朋子さんが起用されていますから、演出家の関与と相俟って、演劇的な面白さが出てくるだろうと思います。見てあげていただければ、と思います。
なかなか作業が終わらず、老体に鞭打って(?)、深夜に及びました。授業の準備は、今朝、早起きして。早起きはじつに辛かったですが、「もう少しの辛抱」と言い聞かせて決行しました。最終学期を楽しむというゆとりはありません。今は、早く完走してしまいたい、という一念です。終わった時どんな心境になるかは、まだ想像の外にあります。
ノルマをひと通り終えた夕方、疲労困憊になり、「疲れちゃったので」と言い残して帰宅。かかった声は、「週末、ゆっくりお休み下さい」というものでした。私、週末こそが忙しく、休めないんですけど・・・。・
振れる振り子 ― 2011年11月16日 16時48分41秒
15日の《ロ短調ミサ曲》練習で、初めて3本のトランペットとティンパニが入りました。名手島田さんを中心としたナチュラル・トランペットの効果はなかなかで、この楽器がよみがえってこその《ロ短調ミサ曲》である、との思いが湧き上がりました。その響きを至近距離から体験できる29日(火)18:00からの学内発表会を、ぜひ聴きにいらしてください。〈グローリア〉の最初と最後の合唱曲と、〈ニカイア信条〉の全曲を演奏します。会場はSPC(正門を入り、突き当りを左)です。
そんな経緯でふたたび《ロ短調ミサ曲》に気持ちが動き、両名曲の間で、振り子のように揺れる私です。企画解説でさまざまなコンサートを手がけますが、いつも迷うのは、演奏に対してどこまでアドバイスするか、ということ。プロ野球で言えば私の仕事はGMですから、現場に口を出すのはよくないことです。しかしちょっとした説明や提言がきっかけとなって演奏が引き締まることもよくあるものですから、私が上に立つ今回のような場では、あえて注文を出すことも行なっています。あまりに言いにくいような雰囲気になっているときは、結果もまた、よくないものなのです。
折しも、訳書を送付したヴォルフ先生から、お礼メール。なにもそこまで、と思うほど丁重な感謝がしたためられており、「貴兄のお名前が私の本に結びつけられるのはたいへん光栄です」とまでおっしゃってくださったのには恐縮しました。来年3月に、いずみホールにお迎えします。
1月15日(日)の《ロ短調ミサ曲》本番の、整理券頒布方式が決まりました。音楽研究所のサイトからダウンロードした申込書を大学の演奏課にFAXしていただき、先着順に受け付けるというやり方です。12月1日(木)から受け付け開始になりますが、席数が限られていますから、急いでお申し込み下さい。
そんな経緯でふたたび《ロ短調ミサ曲》に気持ちが動き、両名曲の間で、振り子のように揺れる私です。企画解説でさまざまなコンサートを手がけますが、いつも迷うのは、演奏に対してどこまでアドバイスするか、ということ。プロ野球で言えば私の仕事はGMですから、現場に口を出すのはよくないことです。しかしちょっとした説明や提言がきっかけとなって演奏が引き締まることもよくあるものですから、私が上に立つ今回のような場では、あえて注文を出すことも行なっています。あまりに言いにくいような雰囲気になっているときは、結果もまた、よくないものなのです。
折しも、訳書を送付したヴォルフ先生から、お礼メール。なにもそこまで、と思うほど丁重な感謝がしたためられており、「貴兄のお名前が私の本に結びつけられるのはたいへん光栄です」とまでおっしゃってくださったのには恐縮しました。来年3月に、いずみホールにお迎えします。
1月15日(日)の《ロ短調ミサ曲》本番の、整理券頒布方式が決まりました。音楽研究所のサイトからダウンロードした申込書を大学の演奏課にFAXしていただき、先着順に受け付けるというやり方です。12月1日(木)から受け付け開始になりますが、席数が限られていますから、急いでお申し込み下さい。
《マタイ》よみがえる ― 2011年11月14日 16時20分02秒
『ロ短調ミサ曲』も発売され、差し上げたり買っていただいたりしているうちになんとなく区切り感の出てきたこの日曜日(13日)。杉並は方南町で、須崎由紀子さん率いる3つの合唱団の合同主催による『マタイ受難曲』講演会その2がありました。さる事情によりかなり二日酔いだった私ですが、講演会の皆さんの熱心さ、あたたかさは格別で、幸福感をもってお話しさせていただきました。
そのためでしょうか。私の心の中で、《マタイ》が猛烈に巻き返してきたのですね。「《ロ短調ミサ曲》は近づき、《マタイ》は日々遠ざかる」といった言葉を、年代を根拠に発し続けていたのですが、あらためて向き合う《マタイ》のすばらしさは格別で、話しつつこみ上げるものがありました。《マタイ》を感動しながら歌っておられる多くの方々がいらっしゃることを、実感します。TBS主催の講演会も、がんばります。
行き帰り、スポーツ新聞を買って、社内で広げています。この前いつ買ったか忘れてしまうぐらいなのに、吸い寄せられるようにキオスクに行ってしまう。もちろん、巨人の内紛に興味をもっているのです。私の見るところ、アンチ巨人の方ほど面白がり方が大きいようで、こうした内紛に、利敵行為の側面があることがわかります。どうなっていくんでしょう(わくわく)。
そのためでしょうか。私の心の中で、《マタイ》が猛烈に巻き返してきたのですね。「《ロ短調ミサ曲》は近づき、《マタイ》は日々遠ざかる」といった言葉を、年代を根拠に発し続けていたのですが、あらためて向き合う《マタイ》のすばらしさは格別で、話しつつこみ上げるものがありました。《マタイ》を感動しながら歌っておられる多くの方々がいらっしゃることを、実感します。TBS主催の講演会も、がんばります。
行き帰り、スポーツ新聞を買って、社内で広げています。この前いつ買ったか忘れてしまうぐらいなのに、吸い寄せられるようにキオスクに行ってしまう。もちろん、巨人の内紛に興味をもっているのです。私の見るところ、アンチ巨人の方ほど面白がり方が大きいようで、こうした内紛に、利敵行為の側面があることがわかります。どうなっていくんでしょう(わくわく)。
富田庸氏、圧巻の講演 ― 2011年11月10日 23時04分55秒
8日(火)の夜、国立音楽大学で、富田庸さんによる《ロ短調ミサ曲》講演会が開かれました。富田さんは世界に冠たるバッハの資料研究者のひとりですが、とりわけ《ロ短調ミサ曲》に関しては、2007年にベルファルストのロ短調学会を主宰されたほどですから、オリジナルから受容史の諸段階にいたるまで、多方面に精通しておられます。講演ではそうした専門的知識が駆使されるのに加え、それを裏付ける画像が、パソコンから手品のように湧いて来る。江端伸昭さん、高野昭夫さんら「軍団」の方々のご協力もあってディスカッションは盛り上がり、あたかも学会のひとこまを見るようでした。
聴衆の中心はiBACHのメンバーでしたが(外部からも大勢)、みんな、資料研究の奥深さ、世界最先端におけるその凄さ、楽譜の背後にある研究者の作業の膨大さと複雑さ、校訂にたずさわる者同士の競争意識や相互批判の厳しさなどなど、多くのことを学んでくれたと思います。次々と登場する校訂版の比較を、内幕も交えて掘り下げてくださったのが興味深く、来年1月の公演のポリシーである「リフキン版の使用」に自信をもつことができたのも収穫でした。ありがとうございました。
最後にフロアから思いがけず、とても考えさせられる問題が提起されました。議論は、種々の背後の情報が参照可能になっている校訂楽譜の価値を認め、その使用を推奨する方向に進んでいたのですが(音楽学者は誰でもそう考えます)、ある演奏家がおっしゃるには、自分たち歌い手はいろいろ注釈の書きこまれた楽譜は見たくない、何も書いてない楽譜の方がよほどファンタジーが湧いて歌いやすい、というのです。ちなみにこの方は、バロックを専門とする、一流の歌い手です。
私がはっとしたのは、バッハ自身の楽譜が文字通り、注釈もなにもないシンプルな楽譜だからです。自筆譜ではその幾何学的な美しさがそれ自体意味をもっており、アスタリスクだの、破線だのはもちろんありません。音楽学者がよしとする重装備の楽譜がいいのか、それは研究用の楽譜であって演奏用の楽譜とは異なるべきなのか。新しい議論のテーマが与えられました。考えていきたいと思います。
聴衆の中心はiBACHのメンバーでしたが(外部からも大勢)、みんな、資料研究の奥深さ、世界最先端におけるその凄さ、楽譜の背後にある研究者の作業の膨大さと複雑さ、校訂にたずさわる者同士の競争意識や相互批判の厳しさなどなど、多くのことを学んでくれたと思います。次々と登場する校訂版の比較を、内幕も交えて掘り下げてくださったのが興味深く、来年1月の公演のポリシーである「リフキン版の使用」に自信をもつことができたのも収穫でした。ありがとうございました。
最後にフロアから思いがけず、とても考えさせられる問題が提起されました。議論は、種々の背後の情報が参照可能になっている校訂楽譜の価値を認め、その使用を推奨する方向に進んでいたのですが(音楽学者は誰でもそう考えます)、ある演奏家がおっしゃるには、自分たち歌い手はいろいろ注釈の書きこまれた楽譜は見たくない、何も書いてない楽譜の方がよほどファンタジーが湧いて歌いやすい、というのです。ちなみにこの方は、バロックを専門とする、一流の歌い手です。
私がはっとしたのは、バッハ自身の楽譜が文字通り、注釈もなにもないシンプルな楽譜だからです。自筆譜ではその幾何学的な美しさがそれ自体意味をもっており、アスタリスクだの、破線だのはもちろんありません。音楽学者がよしとする重装備の楽譜がいいのか、それは研究用の楽譜であって演奏用の楽譜とは異なるべきなのか。新しい議論のテーマが与えられました。考えていきたいと思います。
気持ちは大阪市民 ― 2011年11月09日 12時04分48秒
不肖私、大阪市の「市民表彰」をいただきました。「文化功労」というセクションで、小野功龍先生や桂ざこばさんと一緒です。紹介文を見ますと、「多年にわたり、いずみホール音楽ディレクターとして、芸術性の高い公演を数多く企画し、幅広い層に人気を博すとともに、国立音楽大学教授として若手の指導育成に取り組み、音楽文化の振興と発展に寄与した」とあります。いずみホールの仕事のほとんどはスタッフの流した汗によるもので、私のしたことは何十分の一にも満たず、私がいただいては申し訳ないと強く思ったのですが、ホールの公演が評価されたのはとても嬉しいことですので、その代表と割り切り、頂戴することにしました。
担当の方からいただいた最初のお知らせが、「受けていただけると嬉しいのですが、受けていただけるでしょうか」という、きわめて丁寧なもの。もう少し「上から」で普通だと思いますので、びっくりしました。次のメールは、「申し訳ないのですが旅費が出ないので、代理の方でも結構です」という、これまた丁寧なもの。とんでもない、参ります、とお答えしましたが、本当は市民がお受けになる表彰なわけですよね。これからは大阪市民になったつもりでがんばらなければ、と思っています。
8日(火)は、じつに清々しい好天。有名な平松市長から賞状をいただき、ツーショット写真も撮影しました。柔和な笑顔がすてきな平松市長は芸術に理解のある方で、オーケストラの指揮棒を執ったことも。バランス感覚にも秀でたこういう方に市長を続けていただきたいと思い、心から応援しています、と申し上げました。投票権はないんですけれど(笑)。
地元大阪の賞をいただいたことを、たいへん光栄に思っています。ありがとうございました。
担当の方からいただいた最初のお知らせが、「受けていただけると嬉しいのですが、受けていただけるでしょうか」という、きわめて丁寧なもの。もう少し「上から」で普通だと思いますので、びっくりしました。次のメールは、「申し訳ないのですが旅費が出ないので、代理の方でも結構です」という、これまた丁寧なもの。とんでもない、参ります、とお答えしましたが、本当は市民がお受けになる表彰なわけですよね。これからは大阪市民になったつもりでがんばらなければ、と思っています。
8日(火)は、じつに清々しい好天。有名な平松市長から賞状をいただき、ツーショット写真も撮影しました。柔和な笑顔がすてきな平松市長は芸術に理解のある方で、オーケストラの指揮棒を執ったことも。バランス感覚にも秀でたこういう方に市長を続けていただきたいと思い、心から応援しています、と申し上げました。投票権はないんですけれど(笑)。
地元大阪の賞をいただいたことを、たいへん光栄に思っています。ありがとうございました。
学会終わる ― 2011年11月07日 22時44分07秒
日本音楽学会の全国大会が無事終り、ほっとしました。東大駒場のもろもろ完備した環境を使わせていただいての、充実した2日間でした。
種々の研究発表やラウンド・テーブル、総会における諸々の部署からの報告を聞いていると、なんと多くの人の時間と努力が、こうした学会を支えているのだろうと思います。そんな上に私などが乗っかっていていいのかなとも思いますが、実行委員会をはじめ関係されたたくさんの方々には、感謝でいっぱいです。
若手研究者の着実な台頭を実感するのも、こうした大会においてです。私が接した発表は平行して置かれた分科会の一部に過ぎませんが、たとえばヴィヴァルディの音楽を演奏したヴェネツィアの救貧院の女性たちがどんな制度の中でどんな生活をしていたのかの資料研究は、誰でも知りたいがなかなかわからないことに対する、勇気ある切り込みだと思います。また、よく発表してくださる重鎮の方が今回の発表を、過去の発表に対する率直な自己批判から開始されたのには驚きました。大いに感銘を受け、信頼をもって発表に聞き入りました。
こんな大事な時間の中で、私が犯したことといえば、ダブルブッキング。全部空けていたはずの予定にキャンセルし残した部分があったことが偶然発覚し、天を仰ぎました。なんとか帳尻を合わせたのですが、その詳細は内緒です(汗)。
今日はさすがに疲れが出ました。いま、京都の近くを走っています。
種々の研究発表やラウンド・テーブル、総会における諸々の部署からの報告を聞いていると、なんと多くの人の時間と努力が、こうした学会を支えているのだろうと思います。そんな上に私などが乗っかっていていいのかなとも思いますが、実行委員会をはじめ関係されたたくさんの方々には、感謝でいっぱいです。
若手研究者の着実な台頭を実感するのも、こうした大会においてです。私が接した発表は平行して置かれた分科会の一部に過ぎませんが、たとえばヴィヴァルディの音楽を演奏したヴェネツィアの救貧院の女性たちがどんな制度の中でどんな生活をしていたのかの資料研究は、誰でも知りたいがなかなかわからないことに対する、勇気ある切り込みだと思います。また、よく発表してくださる重鎮の方が今回の発表を、過去の発表に対する率直な自己批判から開始されたのには驚きました。大いに感銘を受け、信頼をもって発表に聞き入りました。
こんな大事な時間の中で、私が犯したことといえば、ダブルブッキング。全部空けていたはずの予定にキャンセルし残した部分があったことが偶然発覚し、天を仰ぎました。なんとか帳尻を合わせたのですが、その詳細は内緒です(汗)。
今日はさすがに疲れが出ました。いま、京都の近くを走っています。
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