名人芸2010年07月01日 11時47分57秒

今日の木曜日。久々の在宅日にしようかとよほど思いましたが、今日を逃すと「髪を切る」チャンスがありません。自分を激励して、三越前の「イガラシ」に出かけました。マスターはいつもながらの名人芸、家族的なもてなしも、とてもうれしい床屋さんです。終了後、三越で「服」を購入。「服」の購入には全然情熱がもてませんが、他の男性の方々、どうなんでしょう。

次いで、マッサージへ。最近、とてもいいお店を見つけたのです。新橋の「アルファ・ウェーブ」。最初に診察してくださった女性がとても良かったので、私には珍しく、指名でお願いしています。指名の理由を曲解されたあなた。すべて、技術と誠意の問題です。誤解のないように。

私のように身体が凝る人間は、どうしても、強くもみほぐしてくれることを望みます。痛さに耐えて、実感を得る。ところがこの方は、それではゆるまない、というお考え。無理を避け、痛さを感じさせずに、ほぐしていきます。軽く当てても、指はかならずツボに来ている。痛くないのに終わるととても軽くなる、というのが、指圧の極意であるようです。これまた、名人芸ですね。

こういう専門的な店の領収書は、医療控除で落ちるのだそうです。皆様、ご存じでしたか。

あざなえる縄2010年06月30日 23時25分07秒

ここしばらく、今日、6月30日の水曜日を無事クリアできるかどうかが問題だ、と思っていました。もともと今日は、聖路加病院で超音波の検査をすることに決まっていた日です。10時から検査、10時40分から授業では間に合いませんので、聖心女子大には、お休みをいただく予定でした。

ところが、先週23日に、外せない所用ができてしまいました。テレビで有名な方々が一堂に会する、帝国ホテルでの会合です。これを優先するために考えたのは、聖心女子大の授業を何とか成立させられないか、ということでした。2週連続休講というのは、いまどき、許されません。

考えてみると、聖路加病院と聖心女子大は、同じ日比谷線のルート上にあります。なるべく病院に早く行き、全速力で移動することで、11時からなら授業ができるのではないか。そのように決めて学生には連絡し、大学のあとでまわるNHKは、1時半開始に遅らせてもらいました。検査で朝食が摂れませんので、昼食は、ぜひしたいと思ったからです。もちろん計画のリスクは高く、何か起こったら即、アウト。着いてみたら学生は引き上げた後、という可能性もあり、朝から緊張していました。

家を早めに出たのはいいのですが、中央線が徐行して、10分間ロス。病院に着いてみると、超音波の検査のほか採血のあることが判明しました。これって、いつも混み合うのです。こりゃダメだな、と悲観的な気持ちが芽生えました。

ところが。1番ですぐに検査に呼ばれ、採血も待たずに済みました。支払いまでスムーズに進行し、11時には、余裕で聖心の教壇に立つことができました。ガッツポーズです。お昼も渋谷で、大好きな道玄坂のスープカレー店によることができました。辛さ7倍、おいしいのなんの!あとは放送を取るのみですが、準備は完了しています。

放送も、出だしは好調でした。ところが、しばらくするとお腹がゴロゴロいい始め、腹痛がしてきたのです。空腹に7倍カレーで、胃がびっくりしたようです。しかし小刻みにコメントする流れになっていて、スタジオを離れることができません。

私は思うのですが、人生に苦しいことはたくさんあるとはいえ、その最上位に含まれるのが、「トイレをがまんする」ということではないでしょうか。本当に辛い経験を、何度も何度も、過去にしています。這うようにして何とかたどりついてみると、全部使用中、並んでいる人さえいる、というような・・・。

今日も、それに近い状況になりました。最後は鬼の形相で、つとめて平然とコメント。やっと長い曲に入り、スタジオを飛び出しました。あ、NHKのトイレは空いていますのでご心配なく。

録音自体は、その名も「スーパー・ブレーン」という会社のスタッフが鉄壁のサポートをしてくださいますので、無事進行しました。終わった後、再度、聖路加病院へ。なぜというに、あわてて飛び出すとき、更衣室に時計を忘れてきたことに気がついたからです。

時計は結局見あたりませんでした。スイス製の、結構思い出のある時計でしたが・・・。疲労困憊で帰宅した私は、さて今日という日は私の理論を立証したのかどうか、考え込んでおります。

無限ループ2010年06月27日 09時28分59秒

週後半のプログラムを決めました。7月22日(木)はヴァイスのリュート組曲、リュート協奏曲と小品。23日(金)はバッハのカンタータ第88番、第93番とオルガン曲少々。24日(土)はハマーシュミットのモテットと組曲です。ハマーシュミットはとてもいいので、ぜひお聴きください。

いろいろなバロック音楽を聴いていて思うのは、シャコンヌ/パッサカリアが多いなあ、ということです。オルガン用の独立曲もありますが、種々の組曲やオペラのフィナーレになるので、とても目立つし、充実感があります。オペラのレチタティーヴォが、最後シャコンヌに高まるところも印象的ですね。モンテヴェルディなどです。

シャコンヌは、それとわかって聴いた方が絶対面白いです。低音(典型的にはラソファミの音型)がループしていますから、それに耳を合わせ、流れに乗って聴くと楽しい。この循環する時間は、神の永遠と触れあっているようにも思えてきます。音楽は来世の幸福をこの世で味わうことだと当時言いましたが、シャコンヌ/パッサカリアは、その象徴ではないでしょうか。

「バロックの森」7月2010年06月24日 23時42分54秒

今日、「バロックの森」7月の19日から21日までの放送分を録音しました。ご案内しておきます。

19日(月)は、パーセルの聖セシリアのための頌歌です。4つある頌歌のうち1692年の最後、最大の作品を、マクリーシュの指揮で取り上げました。まさに、円熟期の代表作ですね。パーセルは、どんどん取り上げていきたいと思っています。

20日は、J.C.F.フィッシャーの管弦楽組曲、チェンバロ組曲、オルガン用のプレリュードとフーガ(←バッハ《平均律》の先駆作品)を特集しました。これ、案外面白いですよ。私にとっても発見でした。ドイツ最古の管弦楽組曲集である《春の日記》など、とても魅力的です。

21日はバッハ特集で、カンタータの第88番(初演日が放送日と同じ)、第93番の2曲と、それにちなむオルガン曲を集めました。いま、ガーディナーがバッハ・イヤーに行った全曲演奏(カンタータ巡礼)の--一度は市場化を断念したといわれた--録音が、市場に出回っています。これを、積極的に取り上げていくことにしました。88、93の入った
1枚は、なんと、ミュールハウゼンの聖ブラージウス教会におけるライヴなのですね。ミュールハウゼン時代のカンタータ、第131番も収録されています。

帰路、次回用の素材をたくさん集めました。渋谷のタワー・レコード、とても充実していますので、クラシック・ファンにはお勧めです。

性善説/性悪説2010年06月23日 11時05分05秒

「名作」の公開を求める声が届いています。う~ん、どうしましょうか。

その前に、Claraさんのこだわっておられる、性善説と性悪説について、最近の考えを述べておきましょう。

私は、基本的に性悪説です。物心が付き、自分の心を見つめたときに、性悪説以外の選択肢は浮かびませんでした。人さまを観察して、そう思ったわけではありません。オレは人がいい、世の中にはそんなに悪い人はいない、だから性善説、という人に会うと、不思議でなりませんでした。

友人たちも、応援してくれたのですね。私、いい人だ、と言われたことが、ほとんどありません。早稲田の友人など、いつも私のことを、「いい性格している」と言ってくれました。こういう言い方、いけないと思います。外国人が、理解できません。だってこの場合の「いい」は、「悪い」という意味なのですから。

でも、若い頃の性悪説が、しだいに和らいできたのです。人間を理想化するから、性悪説になる。人間がいかに不完全かを実感し、それを赦す気持ちになれれば、性善説もあり得る、と思うようになったわけです。

要するに、性善説は、性悪説を通り抜けた先にしかあり得ない、というのが、私の結論です。その意味では、性悪説もやさしさの根源になりうる、と考えます。

〔付記〕「いけないと思います」というのは、冗談です。コメントをいただきましたので、念のため。

名作は時代を超えて2010年06月21日 11時36分18秒

名作。それは人々に記憶され、長く、心に住みつきます。私は、そうした名作の研究と紹介に、人生を捧げてきました。そうしたら、なんと、私の書いたものが、(たのもーさんによれば)人の心に住みついたというではありませんか。そう、フランクフルト駅、931番のコインロッカーをめぐるお話です。

開かないコインロッカーの前で立ち尽くした血の凍るような感覚は、いまでも私の心に、生き生きとよみがえってきます。目的地は、バッハの国際学会。私の人生を左右するような分かれ道でした。その深刻きわまる体験を、当時の私は、かつてのホームページに連載したのです。

反響は、かつてないものでした。次々と寄せられる反応に接して、私は、人間とは何かに関する理解を、格段に深めました。それでどうしたんだ、早く次を書け、という大合唱。その中に、「でも帰国しているんだから、何とかなったんじゃないの?」というメッセージがありました。もちろん、その言葉に込められた真意は、私に伝わっています。コインロッカーが開かないことをこれだけ喜んでいただければ、私も本望です。その味は、「蜜の味」であったにちがいありません。

たのもーさんのように、コインロッカーの番号まで覚えてくださっている方もいらっしゃる。ありがたいことです。性善説の人であればここでショックを受けるのかもしれませんが、私は幸い性悪説なので、励みになりました。あと何年生きられるかわかりませんが、皆さんに楽しんでいただける人生を送りたいと思います。

最後に。東京駅の荷物は、日曜日の夕方、百円玉を12枚入れて取り出してきました。すぐ開きましたよ。

スマートフォン2010年06月19日 23時46分37秒

水曜日。聖心女子大の授業を終えた私は、その足で大阪に行くべく、東京駅に着きました。大型のLDなど、授業で使った素材は、地下のコインロッカーへ。帰りに回収すればいいのですから、コインロッカーは便利ですね。

道中読む本には、アンドロイドの入門書を選びました。なぜというに、須坂へも同行するまさお君が、いつもスマートフォンを使っているのです。その使い方が貪婪というか、節度が感じられないものですから、私もどんなものか、まず本から入ってみることにしました。

すると、おお、それは、私のためにあるような機械ではないですか。私は携帯電話を活用していますが、その主な用途は、リモートメールの閲覧と、カレンダーやToDoの参照、ニュースの購読など。ほとんど、グーグル系のサービスです。これまでは普通の携帯電話で、かなり遠回りをしながら、それらを使っていました。ところがDoComoのスマートフォンならばそれらが直接使え、カレンダーへの書き込みもできるという。これです(きっぱり)。

木曜日。帰路、新橋のマッサージ店を訪れた私は、目の前に、新しい量販店が出現していることを知りました。有名なヤマダ電機です。DoComoのコーナーでは、とてもかわいい店員が、お客様を待っている。だからというわけではまったくないのですが、善は急げと、手続きしました。ところが新加入にはパスポートが必要とわかり、出直さざるを得なくなりました。残念、と思って帰る際に、コインロッカーに寄ることを忘れてしまいました。

土曜日。新橋まで再度出向きました。日曜日のたのくらのために、コインロッカーの荷物がどうしても必要なのです。1時間の待ち時間に秋葉原を往復し、放送用のCDを調達。新橋に戻り、めでたく、実物をゲットしました。車中遊びながら帰宅しましたが、コインロッカーに寄ることは、もちろん忘れてしまいました。コインロッカーというのは、不便ですね。どうもコインロッカーにたたられることの多い、わが人生です。

人間のいない世界2010年06月18日 23時44分36秒

聖心女子大学の授業、新約聖書の内容を追いながらそれにちなむ音楽を紹介して、復活、終末と進んできました。復活のからみで紹介したのが、ノートルダム楽派のオルガヌム(12-13世紀)。終末との関連で紹介したのが、メシアンのオルガン曲《鳥の歌》でした。前者にはヒリヤード・アンサンブルの、後者にはマルクッセンのDVDがあります。

こう並べてみて、中世と20世紀の親近性を痛感。この不思議な魅力の共通点は何だろう、と思っていて気がつきました。どちらの世界にも、人間がいないのです。人間がかかわってはいても、その音楽は、人間の向こう側の世界をはっきり指し示している。メシアンの音楽が、ことにそうです。

われわれが平素親しんでいる音楽にも、鳥はたくさん登場します。しかしそれは、人間の世界に住んでいる。自由に飛翔する鳥へのあこがれが歌われたり、鳥に恋人への思いを託したり、ナイチンゲールに恋の嘆きを聞いたり、というのが、音楽における、われわれの鳥とのかかわりです。

しかしメシアンの音楽には、鳥の声だけがある。ものすごい耳で聴き取られ、精密に採譜された鳥の声は、この世を超えた透徹の世界で、神への讃美を歌っています。これってすごいなあ、と思うようになりました。

ヨハネの週末(2)2010年06月16日 17時24分27秒

基本的にはやりにくい形態である「プレ・トーク」ですが、この日は最初から大勢のお客様が顔をそろえ、真剣に聴いてくださったので、とても気持ちよく役割を果たすことができました。ありがとうございました。一橋大学の歴史と風格をひしひしと実感する、兼松講堂のコンサートでした。演奏の皆さんも、ベストを尽くされたと思います。

この話題が長いこと中断したのは、エヴァンゲリストの歌唱はいかにあるべきかに関する持論をこの文脈で披露するべきか否か、迷っていたからです。しかしバッハ・ファンの方々が多く来てくださるブログでもありますので、時間も経ったことですし、書かせていただくことにしました。

受難曲のエヴァンゲリスト歌唱は、2つのタイプに分けられます。第1のタイプは、エヴァンゲリストのパートの中にドラマを持ち込み、パート自体をドラマのごとく演唱するものです。一例は、後期のシュライヤー。このやり方ですと、エヴァンゲリストが受難曲の主役となります。概して力演型が多く、過剰になると独り相撲型になるのが、このタイプです。

第2のタイプは、自分を語り手の役割にとどめ、ドラマティックな演唱を避けて、なにより言葉を、明晰な音型に乗せて聴き手に届けようとするタイプです。近年の古楽はおおむねこの傾向にあり、私もこちらが正しいという思いを、日々強めています。エヴァンゲリストが一歩退くことは、イエスが輝きを増すことにもつながります。

もうひとつ、大事なこと。それは、エヴァンゲリストは必ず、続く登場人物の言葉へと、聴き手の意識を誘導しなくてはならない、ということです。「そこでイエスはこう語った」「弟子たちはこう言った」と歌い終えるとき、聴き手の意識がそちらに集中して初めて、エヴァンゲリストの役割は全うされることになる。ところが、自分のパートが終わったところで歌を閉じてしまう人が多いと、日頃から感じていました。主役型のテノールは、とくにそうなります。

ジョン・エルウィスさんのエヴァンゲリストはひじょうに立派でしたが、その点で、私とは違う価値観に立つものと思われました。もちろん、力演型でないと物足りない、と思われる方も、たくさんおられることでしょう。イエスの小笠原美敬さんが卓抜な言葉の解釈で好演だったことを申し添えます。

意識改革2010年06月14日 09時38分15秒

後奏で拍手が起こったことについては、私の責任もあります。この日はどうしても演奏曲が多くなってしまい、極力無駄がないように運ばなくてはなりませんでしたので、歌い終わった登場人物は、後奏の間に即退場するように設定していたのです。結果として、退場が拍手を誘発しました。歌い手も後奏を聴いてから動くようにしておけば良かったわけですよね。心に留めておきたいと思います。

前話で「歌い手の言い分」という言葉を使ったのは、学生指導の機会に、意識改革を求めているからなのです。自分のパートを歌うのに精一杯で、ピアノや合奏を聴いていない人が、あまりにも多い。たとえ自分のパートをしっかり覚えたとしても、ピアノがどうなっているか、和声がどう進行しているかがまったく把握されていなければ、作品の演奏が、いいものにならないことは当然です。作品の全体を見ることが、大きな意味をもつからです。

高度なことを最初から要求するわけではありませんが、とにかくピアノを聴き、ピアノといっしょに音楽を作ることを心がけるだけで、演奏の力は二倍にも、三倍にもなります。ピアノが主役としてきらめく場も歌の曲にはたくさんあり、そんなとき歌い手が意識して引き立て役に回ると、音楽はとても引き立ちます。

そんなことを考えるようになってから、私の音楽の聴き方も、ずいぶん変わりました。世界的な歌い手にも、ピアノやオーケストラを聴いている人といない人がおり、聴いている人のすばらしさを痛感する昨今です。