ヨハネの週末(2)2010年06月16日 17時24分27秒

基本的にはやりにくい形態である「プレ・トーク」ですが、この日は最初から大勢のお客様が顔をそろえ、真剣に聴いてくださったので、とても気持ちよく役割を果たすことができました。ありがとうございました。一橋大学の歴史と風格をひしひしと実感する、兼松講堂のコンサートでした。演奏の皆さんも、ベストを尽くされたと思います。

この話題が長いこと中断したのは、エヴァンゲリストの歌唱はいかにあるべきかに関する持論をこの文脈で披露するべきか否か、迷っていたからです。しかしバッハ・ファンの方々が多く来てくださるブログでもありますので、時間も経ったことですし、書かせていただくことにしました。

受難曲のエヴァンゲリスト歌唱は、2つのタイプに分けられます。第1のタイプは、エヴァンゲリストのパートの中にドラマを持ち込み、パート自体をドラマのごとく演唱するものです。一例は、後期のシュライヤー。このやり方ですと、エヴァンゲリストが受難曲の主役となります。概して力演型が多く、過剰になると独り相撲型になるのが、このタイプです。

第2のタイプは、自分を語り手の役割にとどめ、ドラマティックな演唱を避けて、なにより言葉を、明晰な音型に乗せて聴き手に届けようとするタイプです。近年の古楽はおおむねこの傾向にあり、私もこちらが正しいという思いを、日々強めています。エヴァンゲリストが一歩退くことは、イエスが輝きを増すことにもつながります。

もうひとつ、大事なこと。それは、エヴァンゲリストは必ず、続く登場人物の言葉へと、聴き手の意識を誘導しなくてはならない、ということです。「そこでイエスはこう語った」「弟子たちはこう言った」と歌い終えるとき、聴き手の意識がそちらに集中して初めて、エヴァンゲリストの役割は全うされることになる。ところが、自分のパートが終わったところで歌を閉じてしまう人が多いと、日頃から感じていました。主役型のテノールは、とくにそうなります。

ジョン・エルウィスさんのエヴァンゲリストはひじょうに立派でしたが、その点で、私とは違う価値観に立つものと思われました。もちろん、力演型でないと物足りない、と思われる方も、たくさんおられることでしょう。イエスの小笠原美敬さんが卓抜な言葉の解釈で好演だったことを申し添えます。

コメント

_ REIKO ― 2010年06月17日 19時39分12秒

私も常々、エヴァンゲリストの歌唱は、難しいものだなあ・・・と思っています。
自分としては、「絶対に」第2のタイプを支持しますね。
第1タイプで力演されると、何だか「ワイドショーのレポーター」を思い出してしまって。(笑)
ただ、2のタイプで上手くやるのが難しい・・・あまりクールではドラマが盛り上がらないし、頑張りすぎると1のタイプになってしまいます。
記事中にもあるように、次の歌手へと「渡す」だけの余裕と、全体への目配りも必要です。
で、公演の時のエヴァンゲリストの「立ち位置」ですが、他のソリストと同列に並んだり、まして中央に立つのではなく、「脇」(脇にも色々ありますが)がいいと思うのです。
ちょうど歌舞伎の義太夫狂言で、太夫や三味線方が(出語りの時)舞台「脇」に位置するように。
客席と舞台両方に対して、45度の角度で歌うみたいな、ですね。
ですが今まで見たバッハの受難曲で、エヴァンゲリストが脇位置だった記憶はありません。
歌手が嫌がるのでしょうかね・・・?

_ I教授 ― 2010年06月18日 07時55分04秒

一度、脇位置を見たことがあります。でも、アリアの歌い手が真ん中を占めているのでは、本末転倒だと感じました。REIKOさんのおっしゃる通り、全体への目配りがたいへん重要です。いろいろな人物と連携を取りながら、語り手として、話をまとめあげていかなくてはなりません。自分のパートだけ見ていたのでは、できないことです。歌い手がしっかり連携を取り合えば、指揮者は振らなくてもいいように思います。

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