今月のイベント2013年06月03日 08時17分17秒

いつの間にか6月に入り、もう3日です。今月の公開イベントをご案内します。

朝日カルチャー横浜校の超入門講座は、1日に終わってしまいました。今月は、ヴィヴァルディの《四季》から残っていた〈冬〉と、パッヘルベルの《カノン》を取り上げました。ヴィヴァルディの演奏、昔と本当に変わりましたね。

5日(水)13:00-15:00は、朝日カルチャー新宿校の「《マタイ》徹底研究」。第2部のソプラノ・アリア"Aus Liebe"を取り上げます。加えて、先日ご紹介したI.フィッシャーの新映像第1部を鑑賞の予定です。

8日(土)の13:00から、大阪の国立国際美術館で芸術学関連学会連合のシンポジウム「芸術と記憶」が開催されます。日本音楽学会からは沼野雄司さんがパネリストで参加されます。私が副会長をしている組織の催しなので、ご案内しておきます。詳細はこちらで http://geiren.org/

私は大阪に行きますが、私の友人堀俊輔さんの指揮する《ヨハネ受難曲》が13:30分から川崎ミューザでありますので、東京周辺の方、よろしければ。櫻田亮さんのエヴァンゲリスト以下なかなかの顔ぶれで、合唱はアニモKAWASAKI、オケは東京交響楽団です。私が情報提供をしています。

9日(日)14:00-16:30は、すざかバッハの会連続公演で、《ヨハネ受難曲》から、第1部の音楽についてお話しします。須坂駅前のシルキーホールですから、電車で来ていただけます。

15日(土)10:00-12:00は立川市錦町地域学習館をお借りしての「楽しいクラシックの会」例会。ワーグナー・プロジェクトが、《ワルキューレ》に入ります。今月は第1幕です。

16日(日)は、名古屋バッハ・アンサンブルからお話をいただき、14:00-15:00に、《ヨハネ受難曲》の講演を行います。女性会館(東別院)の視聴覚室と伺いました。

そして18日から、ライプツィヒです。いろいろな方と、現地でお目にかかることになりそうです。

激怒の似合う人2013年05月31日 11時09分51秒

たま~にですが、激怒してしまいます。全身にエネルギーが回ってしまい、抑えがききません。周囲には、さぞ迷惑なことでしょう。

人が怒っている姿というのは、よくありませんよね。テレビの画面にも出てきますが、たとえ「怒るのはもっともだ」と思っても、気持ちが引いてしまいます。人が怒る状況にはなるべく立ち会いたくない、というのが、普通の心理ではないでしょうか。

ところが、激怒が売りになる、という人がいるわけです。誰だかおわかりでしょうか。その人が激怒するのを楽しみにしている人がたくさんいて、新聞に、「激怒」の見出しが躍る。私も一昨日その見出しを見つけ、「おおっ」と心躍らせて(!)、読みに行ってしまいました。

考えてみると、これって、すごいことではないでしょうか。その人が愛されている証拠であり人徳のなせるわざである、と言われても、抗弁できないような気がするのです。今回初めて、そのことに気づきました。

もうおわかりですね、巨人軍の渡邉恒雄会長です。ソフトバンク戦を観戦後に激怒されたとか。またぜひ、よろしくお願いします。

《マタイ》待望のDVD!2013年05月30日 12時32分05秒

《マタイ受難曲》のお話をする機会が多いため、日本語のついたDVDがもう少し欲しいなあ、と思っていました。「古楽の楽しみ」の材料仕入れのために例によってタワーレコードを訪れたところ、新しいDVDが並んでいます。コンセルトヘボウにおける実況録画で、指揮がイヴァン・フィッシャー、エヴァンゲリストはマーク・パドモア。フィッシャーがバッハ指揮者だという認識はありませんでしたが、ともあれ購入し、昨日、朝日カルチャーの受講生の方々とともに、第2部の前半を鑑賞しました。

感動的なすばらしさです。当面、映像の決定盤となるものだと思います。全部を聴き、新聞に書ければ書いて、それからになりますが、当欄で詳しくご報告します。少し先になりますので、ニュースのみお届けしておきます。ARTHAUS、ブルーレイ仕様が5990円でした。

ワーグナーはなぜ長いか2013年05月28日 09時38分32秒

先日の研究発表後の懇談のおり、ワーグナーは長くて、とおっしゃる方が何人かおられました。その折りに述べた私の「なぜ長いか論」をご紹介します。もちろん長い理由は複合的で、最終的にはワーグナーの人間性がかかわってくると思いますが、ちょっと気づきにくい(と思われる)一要因について述べました。答は、「ワーグナーが自分で台本を書いたから」というものです。

ワーグナーは、台本も音楽も自分で書きましたが、台本を作りながら作曲していったわけではありません。彼の中には台本作者と作曲家が別々に住んでいて、まず台本作者が台本を書き、その完成後に、作曲家にバトンタッチするという順序を踏んでいました。台本が完成すると、必ず朗読会をやって、新作を披露する。先に出版してしまったこともあるほどです。

こうして出来上がった台本に対して、音楽を付けていく(もちろん一からではないでしょうが)。ということは、台本が戯曲として完結している、ということです。すなわち、言葉の委曲を尽くして台本が出来上がっており、説明も遺漏なく入っている。本来、オペラの台本としては長すぎるのです。

既成の戯曲をオペラにする場合には、音楽の時間を考えて、ずっと短くするのが通例(シェークスピアに基づくボーイトの台本のように)。プロのオペラ台本作者なら、当然そこは呑み込んで作詞します。しかしワーグナーの場合にはそうした歩み寄りがなく、出来上がった修辞あふれる台本をすべて生かしていくために、長くなるのです。

しかし、よく言われるように、「長さも作品の一部」であることは確かです。《トリスタン》の第1幕は、イゾルデの恨み言がくだくだと続いていて、冗長といえば冗長。しかしだからこそ、半ば過ぎに来る毒杯の場面が、大きな感動を与えます。幕が上がってさっそく毒杯では、あの効果は生まれません。

そこまで想定して長くなっている、という可能性は大いにありますが、《リング》で前編のストーリーがたえず回想の形で入ってくるのは、さすがの私もやや過剰かな、と思うことがあります。でもスリムかつ簡潔になってしまったら、もうワーグナーではないですよね。

もう増えない文庫本2013年05月26日 09時27分03秒

高峰秀子さんの『にんげんのおへそ』(新潮文庫)を読みました。力作揃いの13篇。『にんげん蚤の市』『にんげん住所録』はすでに読みましたので、これで高峰さんの晩年のエッセイはすべて読んだことになったようです。ちょっと残念。

巻末に、養女斎藤明美さんのあとがきが載っていました。それによると、晩年のエッセイは、もう書くことがないと固辞する高峰さんを『オール讀物』三代の編集長と斎藤さんが三顧の礼でくどき続け、「いつでも、何枚でも」と粘って、少しずつ出来上がったものなのだそうです。その重荷から最後に解放されたのが、78歳の時だということでした。

涙が出るようなお話です。こうしたプロセス自体は、高峰さんの原稿の価値をみんながいかに高く評価していたかを物語っているわけですが、ファンの気持ちからすれば、近況や世相雑感を少しずつ読めるだけで、十分であったと思う。しかしそれでは、ご本人が満足しないわけですね。書く以上は、長さも起伏もある密度高いエッセイを完成しないと自分が承知できないという現実のもとに、本数が少しずつ減っていったのでしょう。

本屋の棚になお並んでいるもう増えない文庫本を眺めるたびに、すごい方だったんだなあ、という気持ちになります。

CD推薦盤2013年05月24日 07時10分05秒

今月はたくさんいいものがありましたが、特選盤に選んだのは、「アルゲリッチ&フレンズ ルガーノ・フェスティヴァル・ライヴ2012」(EMI、5,000円)です。

毎年この時期に発売される3枚組ですが、今年もいいですね。なにしろ最初にモーツァルトの4手ソナタ(K.381)があり、これがピリスとアルゲリッチの連弾で、まことにすばらしいのです。平素あまり関心のない曲でしたが、この曲こんなに良かったのか、と思わせるのが、演奏の真髄です。

以降、なじみのない曲も多いですが、どれも、わくわく感を失わずに聴き通すことができます。アンサンブルからにじみ出る愉悦感に、聴き手が巻き込まれてしまうからです。アルゲリッチがこうした活動へとシフトしたこと、成功でしたね。偉大なる先見の明です。

ピリスの新録音がいくつかあり、シューベルトのソナタ、とくに最後の変ロ長調(グラモフォン)が名演奏です。淡々とした運びから、「祈り」のオーラが立ち昇ってきます。

忘れられないのが、菅きよみ、若松夏美、成田寛、鈴木秀美によるモーツァルト/フルート四重奏曲集(アルテ・デラルコ)。清澄な響きと細やかな連携で、モーツァルトの青春をまっすぐ伝えてくれます。

常連の皆様絶賛の東京クヮルテットの旧録音が、まとめて出ました。久しぶりに初期の顔ぶれによるハイドンの op.76を聴き、すっかり魅了されました。

偶然の偏り2013年05月23日 09時38分49秒

ワーグナーの命日(5/22)、更新できないまま過ぎてしまいました。祝杯を挙げられた方々、ありがとうございます。(←誕生日ではないかとのご指摘あり。その通りです。何で命日って書いたのか、自分でもわかりません。死に近いということですね。たいへん失礼しました。)

かつて鉄道少年でしたので、新幹線に乗れるようになりたいなあ、と思っていました。その夢は実現し、今ではちょくちょく、新幹線に乗っています。頻度からいくと、東海道新幹線、長野新幹線、東北新幹線の順です。切符は、乗る直前に、自動販売機で買うことがほとんどです。

あるとき気づいたのは、東海道新幹線の座席が「8-4-A」になることがしばしばある、ということでした。あれ、また「8-4-A」だ、と意識するようになったということです。

昨日は、品川での仕事を済ませ、品川から新大阪行きのチケットを買いました。それが果たせるかな、「8-4-A」。不思議です!席はシステムから、偶然割り当てられているに違いないからです。

帰りは新大阪の自動販売機で東京行きを買いました。それがなんとなんと、「8-4-A」!!これほど偏りの生じる理由が、どう考えてもわかりません。

だいぶ前、「ラ・フォル・ジュルネ」で《マタイ受難曲》の講演をし、コルボの実演のチケットをもらったところ1-14-41(=14はバッハの数、41はJ.S.バッハの数)で驚いたことを書きました。スタッフの配慮だと思ったらまったくの偶然だった、というお話です。ツキを研究している手前、何か仮説をもちたいのですが、同じような経験をお持ちの方、いらっしゃいますでしょうか。

ハードル越え2013年05月20日 22時36分22秒

1年に1ぺんぐらいの割で、高いハードルがやってきます。今年のそれは、19日(日)の日本音楽理論研究会で「ワーグナーにおけるドミナントの拡大」と題する研究発表をすることでした。

友人の見上潤さんから発表を打診されたとき、とりあえずお受けしたのは、問題意識としてもっていた上記のテーマを、ちゃんと研究してみたいな、と思ったから。しかしよく考えてみると、この研究会は島岡譲先生を源流とする音楽理論プロパーの集まりで、高度な専門性をもつこと、折り紙付きなのです。そうした場で和声を論ずるなどということは僭越にもほどがある、と思えてきました。

その歳で恥をかかなくてもいいんじゃないか、とささやく内心の声あり。和声は昔それなりに勉強したのですが、最近の方法論には触れておらず、その精緻な記号体系にも不案内です。よほと辞退しようと思ったのですが、一度引き受けたことだし、自分の勉強になることなので、何とかやり遂げよう、と決心しました。

このことが、1年間、ずっと重く心にのしかかっていました。勉強を始めなければ、と思うのですが、発表が近づくのに、まとまった時間が取れません。ともあれ少しずつ準備を始め、五線紙に楽譜を書いて種々分析も行い、ほぼ2週間前に、完全原稿を完成。それから見上さん、今野哲也さんのご助言もいただいて、改訂稿を積み重ねました。やっているうちに面白くなり、何とかいけるのではないか、という気持ちにもなってきました。和声論に終始しては力及びませんので、ワーグナーの音楽論、作品論と結びつけるべく務めました。

さて本番。重鎮が居並ぶなかで行われた見上さんの発表は、完璧に記号化された譜面を配り、《トリスタン》の和声を、縦横にピアノを弾きながら説明するもの。自分は場違い、という思いが何度も頭をもたげました。でももう仕方がないので開き直り、準備してきた内容で、プレゼンテーションにベストを尽くしました。

発表が至らぬものであることは自分が一番良くわかっていますので、勘違いはしていません。しかし皆さん好意的に受け止めてくださり、アドバイスもいただけた上にディスカッションもはずんだので、本当に、やって良かったと思いました。「楽譜をよく見ている」とおっしゃってくださった方が何人もあり、分析に対して、新たな意欲が湧いてきました。

重荷を下ろして気分爽快。打ち上げでは、先生方と共にさまざまなことを、楽しく論じ合いました。尊敬する島岡先生が相変わらず聡明そのものでいらっしゃることが、嬉しい驚きでした。

ゼミに学ぶ2013年05月18日 23時24分36秒

毎週木曜日の、芸大ゼミ。ゴールデンウィークの恩恵にまったく浴しませんでしたので、もう6回終了しました。3回講義形式で基礎固めをし、4回目から、学生の発表に入っています。あ、テーマは《ヨハネ受難曲》です。

このゼミが、とてもいいのです。欠席者がほとんどいないし、皆、真剣そのもの。私もコアな専門部分ですから惜しみなく指導でき、それが染み通っていくように実感しています。冒頭合唱曲が、《マタイ》との比較を入れたせいもあって手間取り、同じ発表者ペアが3回継続する形になりました。しかし毎週内容が更新され、たどたどしかったのが、目に見えて向上してくる。若さの特権ですね。

一番楽しいのは、気がつかなかったような視点を、学生に教えられることです。一例を挙げてみましょう。

《マタイ受難曲》の冒頭合唱曲を、学生が、「コラール・ファンタジー」だと説明しました。何かの文献に基づいてです。私は「二重合唱の応答の中にコラールが引用される」と説明していたので、えっと思いましたが、言われてみると、確かにそうかもしれない。そう見ることによって、いくつかのことが説明できるのです。

「コラール・ファンタジー」はオルガン曲の形式ですから、バッハは最初にオルガン曲の感覚で、形式を構想したことになる。すなわち、〈おお神の小羊よ、罪なくして〉というコラールを最初に構想し、それを行ごとに提示して、合唱曲にまとめようとした。ありうることです。そうすると二重合唱を、主役というより、コラールを導き出す前模倣に当たるものと見なすことになります。まさに、地と図の転換です。

だとすれば、バッハはその構想を伝えて、ピカンダーに冒頭合唱曲を作詞させたのかもしれない。《マタイ》の冒頭合唱曲が「ゴルゴタの道行き」というあとあとの場面を提示する異例の内容になっているのは、コラールを生かすための、ピカンダーの工夫とも考えられます。

こうした発想を裏付けるのは、ホ短調の合唱曲がホ長調で終わる、「ピカルディ終止」が採用されていることです。《ヨハネ》の冒頭合唱曲は、ト短調で始まり、ト短調で終わる。それは、ダ・カーポ形式だからです。しかしバール形式に基づいて節を連ねてゆくコラールの場合は、短調なら、長調で終止するのが伝統。《マタイ》冒頭合唱曲の長調終止は、コラールが楽曲の基礎に置かれているからだと考えれば、つじつまが、ぴたりと合います(そこに復活のイメージが重ね合わされている、という解釈は、いぜん有効だと思いますが)。

こんな経験ができるのも、ゼミという形式ならでは。これからの発展が楽しみです。

大阪人情2013年05月16日 12時10分30秒

「人情」という言葉は、やっぱり、東京より大阪にふさわしいですね。この言葉が頭に浮かんだのは、昨夜(15日)のいずみホール。解散する東京クヮルテットの、お別れ公演のさなかでした。

この日は最初から一種特別な感慨が共有され、客席に、熱さと集中力がありました。演奏者にもこのことははっきりと伝わっていて、演奏を通じて、客席にフィードバックされた。拍手はいつにも増して長く熱く、室内楽のコンサートには珍しい、スタンディング・オーベーションが起こりました。

いずみホールの聴衆が温かいとアーティストによく言っていただくのですが、私の見るところ、人間的な情愛を込めて演奏を聴かれる方が多いようです。だから、東京クヮルテットありがとう、最後、気持ちをいれて聴きますよ、という雰囲気になる。いずれにせよ、室内楽大好きというお客様がこうして集まり、ホールの空間で貴重なひとときを過ごされているさまに立ち会い、幸福に感じました。

演奏のクォリティについては言うまでもありませんが、この夜のコンサートの爽快さは、そのまま弦楽四重奏の本質に通じるものだったと思います。すなわち4人の音楽家が対等の立場で参画し、譲り合い立て合って連携を取りながら、ともどもハーモニーを作り上げていく。その姿勢が、爽快なのです。室内楽の時代がまた来ているのかもしれない、と思います。