ゼミに学ぶ ― 2013年05月18日 23時24分36秒
毎週木曜日の、芸大ゼミ。ゴールデンウィークの恩恵にまったく浴しませんでしたので、もう6回終了しました。3回講義形式で基礎固めをし、4回目から、学生の発表に入っています。あ、テーマは《ヨハネ受難曲》です。
このゼミが、とてもいいのです。欠席者がほとんどいないし、皆、真剣そのもの。私もコアな専門部分ですから惜しみなく指導でき、それが染み通っていくように実感しています。冒頭合唱曲が、《マタイ》との比較を入れたせいもあって手間取り、同じ発表者ペアが3回継続する形になりました。しかし毎週内容が更新され、たどたどしかったのが、目に見えて向上してくる。若さの特権ですね。
一番楽しいのは、気がつかなかったような視点を、学生に教えられることです。一例を挙げてみましょう。
《マタイ受難曲》の冒頭合唱曲を、学生が、「コラール・ファンタジー」だと説明しました。何かの文献に基づいてです。私は「二重合唱の応答の中にコラールが引用される」と説明していたので、えっと思いましたが、言われてみると、確かにそうかもしれない。そう見ることによって、いくつかのことが説明できるのです。
「コラール・ファンタジー」はオルガン曲の形式ですから、バッハは最初にオルガン曲の感覚で、形式を構想したことになる。すなわち、〈おお神の小羊よ、罪なくして〉というコラールを最初に構想し、それを行ごとに提示して、合唱曲にまとめようとした。ありうることです。そうすると二重合唱を、主役というより、コラールを導き出す前模倣に当たるものと見なすことになります。まさに、地と図の転換です。
だとすれば、バッハはその構想を伝えて、ピカンダーに冒頭合唱曲を作詞させたのかもしれない。《マタイ》の冒頭合唱曲が「ゴルゴタの道行き」というあとあとの場面を提示する異例の内容になっているのは、コラールを生かすための、ピカンダーの工夫とも考えられます。
こうした発想を裏付けるのは、ホ短調の合唱曲がホ長調で終わる、「ピカルディ終止」が採用されていることです。《ヨハネ》の冒頭合唱曲は、ト短調で始まり、ト短調で終わる。それは、ダ・カーポ形式だからです。しかしバール形式に基づいて節を連ねてゆくコラールの場合は、短調なら、長調で終止するのが伝統。《マタイ》冒頭合唱曲の長調終止は、コラールが楽曲の基礎に置かれているからだと考えれば、つじつまが、ぴたりと合います(そこに復活のイメージが重ね合わされている、という解釈は、いぜん有効だと思いますが)。
こんな経験ができるのも、ゼミという形式ならでは。これからの発展が楽しみです。
このゼミが、とてもいいのです。欠席者がほとんどいないし、皆、真剣そのもの。私もコアな専門部分ですから惜しみなく指導でき、それが染み通っていくように実感しています。冒頭合唱曲が、《マタイ》との比較を入れたせいもあって手間取り、同じ発表者ペアが3回継続する形になりました。しかし毎週内容が更新され、たどたどしかったのが、目に見えて向上してくる。若さの特権ですね。
一番楽しいのは、気がつかなかったような視点を、学生に教えられることです。一例を挙げてみましょう。
《マタイ受難曲》の冒頭合唱曲を、学生が、「コラール・ファンタジー」だと説明しました。何かの文献に基づいてです。私は「二重合唱の応答の中にコラールが引用される」と説明していたので、えっと思いましたが、言われてみると、確かにそうかもしれない。そう見ることによって、いくつかのことが説明できるのです。
「コラール・ファンタジー」はオルガン曲の形式ですから、バッハは最初にオルガン曲の感覚で、形式を構想したことになる。すなわち、〈おお神の小羊よ、罪なくして〉というコラールを最初に構想し、それを行ごとに提示して、合唱曲にまとめようとした。ありうることです。そうすると二重合唱を、主役というより、コラールを導き出す前模倣に当たるものと見なすことになります。まさに、地と図の転換です。
だとすれば、バッハはその構想を伝えて、ピカンダーに冒頭合唱曲を作詞させたのかもしれない。《マタイ》の冒頭合唱曲が「ゴルゴタの道行き」というあとあとの場面を提示する異例の内容になっているのは、コラールを生かすための、ピカンダーの工夫とも考えられます。
こうした発想を裏付けるのは、ホ短調の合唱曲がホ長調で終わる、「ピカルディ終止」が採用されていることです。《ヨハネ》の冒頭合唱曲は、ト短調で始まり、ト短調で終わる。それは、ダ・カーポ形式だからです。しかしバール形式に基づいて節を連ねてゆくコラールの場合は、短調なら、長調で終止するのが伝統。《マタイ》冒頭合唱曲の長調終止は、コラールが楽曲の基礎に置かれているからだと考えれば、つじつまが、ぴたりと合います(そこに復活のイメージが重ね合わされている、という解釈は、いぜん有効だと思いますが)。
こんな経験ができるのも、ゼミという形式ならでは。これからの発展が楽しみです。
コメント
_ T.K. ― 2013年05月30日 19時28分43秒
_ I招聘教授 ― 2013年05月31日 01時17分39秒
今当たっている学生は、36ページの資料を配り、広く文献を調べての、圧巻の発表でした。第2曲、第3曲だけでこの充実です。学生から、多くを学んでおります。
_ 松本有三 ― 2013年06月25日 11時30分09秒
バッハのマタイやロ短調ミサなどを歌っていて疑問に思うことがありますので、もしお答えいただけたら光栄です。例えばamenというテキストにa-me--nと音符が振られていることがありますが、大変不自然に感じます。本当はa----menと途中がどんなにメリスマで伸びても最後menは一音で終わると自然な感じがします。マタイでも23番のBASSのAriaでGerne will ich mich bequemen のフレーズでbequeme--nと歌っていますが本当はbeque--menでmenに一音をあてて歌うべきではないでしょうか?バッハの自筆譜が現行の出版譜のようになっているとしても、バッハ自身はぴったりと音符の下にテキストを当てはめて書いたのではなく少しずれているのを楽譜出版者がバッハがそう書いた、と思い込んでしまった、ということではないかと思いますが、いかがでしょうか?
とにかく歌っていて気持ちが悪いのです。
とにかく歌っていて気持ちが悪いのです。
_ I招聘教授 ― 2013年06月25日 15時27分16秒
たいへん興味深いご質問、ありがとうございます。いま楽譜を持参していないので、帰国後事例を確認してご返答します。思いつくことの一例は、Amenの場合いったんmeに行っておかないとAmenの言葉を伝えられない、ということです(いつまでも母音唱法になってしまう)。また、タンタタタ、というリズムにAmenが乗っているとしますと、アーアアメン、と歌うよりアーメエエン、と歌った方が言葉は浮き上がります。
_ 青春21きっぷ ― 2013年06月26日 23時41分51秒
マタイ受難曲を若い頃から幾度も聴いてきたものです。
松本有三さんの疑問が気になりましたので、何枚かのCDを聴いたり、口だけ動かしてbequeme--nとbeque--menを無声で発音したりして、素人なりに考えていたのですが、何だか気持ちが悪い、収まりが悪いのはこのアリア自体と思ったものですから、きっとバッハの意図があるのだろうと考え、先生の著書『マタイ受難曲』を手に取りました。読んでみたら、「気持ちが悪い」bequeme--nの方がこの曲に適っているのではと思えたのでした。
先ず、先生の文章を抜粋して記します。
『「私」は、イエスの行為にならって、杯を、苦い喜びをもって乾かそうとする。このテキストの特徴は、杯の同義語として「十字架」を導入することと、「苦難を甘くする密」という表象を用いていることであろう。』 中略
『ここに置かれているバスのアリアは、やや複雑な性格を持っている。まずそれは総じて低い音域に置かれており、ヴァイオリンのユニゾンによるオブリガートもこれに対応して、暗く沈んだ響きを持つ。また、弱拍で六度上行しすぐ下へと戻るテーマ作り(「喜んでgerne」の概念を運ぶもの)、楽節の区切りを前にずらすシンコペーション、後半における楽節の不均衡な延長、歌声部と低音部における区切りのずれなど、主題には、何重にもぎくしゃくした書法が見られる。これはおそらく、行為の性質に由来する、意図的な処置であろう。つまり、バッハは「喜んで」行われる行為の苦渋にみちた実質を、音楽を通じてあきらかにしているのである。この主部に比べれば、苦渋が「甘く」されることを描く中間部はオブリガートも背景に退き、よりすっきりした性格のものになっている。』
素人考えを続けさせてください。
これを読んだ後、CDに合わせてbeque--menと口ずさみ最後に一音でポン(men)とやってみました。すんなりとして収まりはいいのですが、それでは『苦い喜び』の微妙な心情が、この個所だけであっても損なわれると感じました。bequeme--nもまた、しゃんとしない心を巧みに表しているのではないでしょうか。
ここまで書き終わり、第23曲に付された先生のサブタイトルが目に飛び込みました。『苦い杯』なのです。
ダラダラと長くなりますが、主題(ABAのA部分)の歌詞を眺め、考えてみました。便宜上、A1~A4に分けました。
-------------------------------------------------
A1
(a)Gerne will ich mich bequemen,--->bequeme--n (1)
『喜んで私も覚悟を定め』
(b) Kreuz und Becher anzunehmen,
『十字架と杯を受け入れて』
(c)Trink ich doch dem Heiland nach.
『救い主にならって飲もう』
A2
Gerne will ich mich bequemen,--->bequeme--n (2)
Gerne Gerne
Gerne will ich mich bequemen,--->bequeme--n (3)
A3
Kreuz und Becher anzunehmen,
Trink ich doch dem Heiland nach.
Trink ich doch dem Heiland nach.
Kreuz und Becher anzunehmen,
A4
will ich Gerne mich bequemen,--->beque--men (4)
Trink ich doch dem Heiland nach.
------------------------------------------------
A2で、Gerneが強調、幾度も繰り返された後も、まだ(3)の如くbequeme--nですが(men=十六分+十六分+八分音符)、
A3に至って、(b)(c)(c)(b)と歌詞を入れ替え繰り返されていることにより、『「私」』の決心がより深められたその上で、最後にA4の歌詞のmichが「自分自身」に変じたこと[*]により、『私も覚悟を定め』がより確固なものとなった、と考えられます。
ここまで来て漸く(4)の如く、気持ちよくbeque--men(=八分音符)をポンと歌わせ、ふっきれた心持ちが巧みに表現されている、と言うのは考えすぎでしょうか。
そのふっきれ感が、直後のTrinkにあてがわれた十六分音符で駆け上がる音符たちに乗り移り、ich以降5音節がすべて四分音符で快く刻まれていき、最後のnach(付点四分音符)で歌詞が締めくくられ際、そこにストローク付きの小さい八分音符があることで、ホッとした気分が表現されているように感じました。
[*]ドイツ語はまるきしなので、google翻訳で英語にしたら、
この(4)の行だけmyselfが出てきたので。
松本有三さんの疑問が気になりましたので、何枚かのCDを聴いたり、口だけ動かしてbequeme--nとbeque--menを無声で発音したりして、素人なりに考えていたのですが、何だか気持ちが悪い、収まりが悪いのはこのアリア自体と思ったものですから、きっとバッハの意図があるのだろうと考え、先生の著書『マタイ受難曲』を手に取りました。読んでみたら、「気持ちが悪い」bequeme--nの方がこの曲に適っているのではと思えたのでした。
先ず、先生の文章を抜粋して記します。
『「私」は、イエスの行為にならって、杯を、苦い喜びをもって乾かそうとする。このテキストの特徴は、杯の同義語として「十字架」を導入することと、「苦難を甘くする密」という表象を用いていることであろう。』 中略
『ここに置かれているバスのアリアは、やや複雑な性格を持っている。まずそれは総じて低い音域に置かれており、ヴァイオリンのユニゾンによるオブリガートもこれに対応して、暗く沈んだ響きを持つ。また、弱拍で六度上行しすぐ下へと戻るテーマ作り(「喜んでgerne」の概念を運ぶもの)、楽節の区切りを前にずらすシンコペーション、後半における楽節の不均衡な延長、歌声部と低音部における区切りのずれなど、主題には、何重にもぎくしゃくした書法が見られる。これはおそらく、行為の性質に由来する、意図的な処置であろう。つまり、バッハは「喜んで」行われる行為の苦渋にみちた実質を、音楽を通じてあきらかにしているのである。この主部に比べれば、苦渋が「甘く」されることを描く中間部はオブリガートも背景に退き、よりすっきりした性格のものになっている。』
素人考えを続けさせてください。
これを読んだ後、CDに合わせてbeque--menと口ずさみ最後に一音でポン(men)とやってみました。すんなりとして収まりはいいのですが、それでは『苦い喜び』の微妙な心情が、この個所だけであっても損なわれると感じました。bequeme--nもまた、しゃんとしない心を巧みに表しているのではないでしょうか。
ここまで書き終わり、第23曲に付された先生のサブタイトルが目に飛び込みました。『苦い杯』なのです。
ダラダラと長くなりますが、主題(ABAのA部分)の歌詞を眺め、考えてみました。便宜上、A1~A4に分けました。
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A1
(a)Gerne will ich mich bequemen,--->bequeme--n (1)
『喜んで私も覚悟を定め』
(b) Kreuz und Becher anzunehmen,
『十字架と杯を受け入れて』
(c)Trink ich doch dem Heiland nach.
『救い主にならって飲もう』
A2
Gerne will ich mich bequemen,--->bequeme--n (2)
Gerne Gerne
Gerne will ich mich bequemen,--->bequeme--n (3)
A3
Kreuz und Becher anzunehmen,
Trink ich doch dem Heiland nach.
Trink ich doch dem Heiland nach.
Kreuz und Becher anzunehmen,
A4
will ich Gerne mich bequemen,--->beque--men (4)
Trink ich doch dem Heiland nach.
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A2で、Gerneが強調、幾度も繰り返された後も、まだ(3)の如くbequeme--nですが(men=十六分+十六分+八分音符)、
A3に至って、(b)(c)(c)(b)と歌詞を入れ替え繰り返されていることにより、『「私」』の決心がより深められたその上で、最後にA4の歌詞のmichが「自分自身」に変じたこと[*]により、『私も覚悟を定め』がより確固なものとなった、と考えられます。
ここまで来て漸く(4)の如く、気持ちよくbeque--men(=八分音符)をポンと歌わせ、ふっきれた心持ちが巧みに表現されている、と言うのは考えすぎでしょうか。
そのふっきれ感が、直後のTrinkにあてがわれた十六分音符で駆け上がる音符たちに乗り移り、ich以降5音節がすべて四分音符で快く刻まれていき、最後のnach(付点四分音符)で歌詞が締めくくられ際、そこにストローク付きの小さい八分音符があることで、ホッとした気分が表現されているように感じました。
[*]ドイツ語はまるきしなので、google翻訳で英語にしたら、
この(4)の行だけmyselfが出てきたので。
_ I招聘教授 ― 2013年06月27日 14時21分53秒
青春21きっぷさん、見事なご考察です。私の部屋で皆さんが音楽談義をしてくださるのはたいへんうれしいことで、御礼申し上げます。
一般論を2点、付け加えておきましょう。バッハは、次の強拍で入るのが自然な新しい音節を、一歩早く導入することがしばしばあります。それは、拍の移動(一種のシンコペーション)によってリズムを引き立てるためで、この心地よさに慣れてしまうと、やみつきになります。言葉を新鮮に聞かせるための、意図的な手法です。
松本さんが提起されていたバッハの歌詞振りを出版社が歪めているのではないか、という可能性の件。バッハは歌詞をやや右寄りに振る傾向があるため、解釈の分かれが起こることは、たまにあります。しかしたまに、です。なぜなら、バッハは歌詞の下にハイフンのような記号を振って、音節の継続を明示するのが常であるからです。ほとんどの場合、それは意味深いものです。
一般論を2点、付け加えておきましょう。バッハは、次の強拍で入るのが自然な新しい音節を、一歩早く導入することがしばしばあります。それは、拍の移動(一種のシンコペーション)によってリズムを引き立てるためで、この心地よさに慣れてしまうと、やみつきになります。言葉を新鮮に聞かせるための、意図的な手法です。
松本さんが提起されていたバッハの歌詞振りを出版社が歪めているのではないか、という可能性の件。バッハは歌詞をやや右寄りに振る傾向があるため、解釈の分かれが起こることは、たまにあります。しかしたまに、です。なぜなら、バッハは歌詞の下にハイフンのような記号を振って、音節の継続を明示するのが常であるからです。ほとんどの場合、それは意味深いものです。
_ 松本 ― 2013年06月27日 20時43分15秒
I先生、青春21きっぷさん、私の拙い疑問にきちんと答えていただきありがとうございます。いままで何人かの方々に同じ質問を繰り返していましたが、まともに答えていただいたのは初めてで大変感激しています。
バッハを歌ってまだ日が浅いため広い視野で語ることは出来ませんが、マタイの23番Bassソロのなかでは他にfliessetの割り振りがどうも解せません。77小節、92小節のfliessetはfli---ssetとした方が自然だと思いますが、楽譜ではfli-sse--tとなっています。またロ短調ミサ曲のCum sancto spirituの186小節や231小節のAmenの割り振りはAme-nとなっています。これはA--menの方が自然に感じられます。私は全く感覚的におかしいと感じているだけでバッハがなんらかの意図を持って言葉の割り振りを 決めているかどうかは判りません。ヘンデルのメサイアなどではAmenの割り振りに疑問を持つことはありませんでした。このコメントを読まれているほかの方々はどうお思いでしょうか。どうぞ私の素朴な疑問への回答をお願いいたします。
バッハを歌ってまだ日が浅いため広い視野で語ることは出来ませんが、マタイの23番Bassソロのなかでは他にfliessetの割り振りがどうも解せません。77小節、92小節のfliessetはfli---ssetとした方が自然だと思いますが、楽譜ではfli-sse--tとなっています。またロ短調ミサ曲のCum sancto spirituの186小節や231小節のAmenの割り振りはAme-nとなっています。これはA--menの方が自然に感じられます。私は全く感覚的におかしいと感じているだけでバッハがなんらかの意図を持って言葉の割り振りを 決めているかどうかは判りません。ヘンデルのメサイアなどではAmenの割り振りに疑問を持つことはありませんでした。このコメントを読まれているほかの方々はどうお思いでしょうか。どうぞ私の素朴な疑問への回答をお願いいたします。
_ I招聘教授 ― 2013年06月28日 06時51分32秒
松本さん、まだ帰国していないので楽譜をきちんと見ていませんが、新しい投稿に対するお答えは、その前の私のコメントに含まれていると思います。よく読んでいただけるとありがたいです。自然でないことをなぜやっているのだろう、と疑問をもつことは、バッハへの重要な糸口になります。なぜなら、必ずそこに、バッハの仕掛けがあると思われるからです。耳で聴いた時にどういう印象になるかを考えるのも、ひとつの方法です。
_ Tenor1966 ― 2013年07月02日 22時52分15秒
礒山先生、ご無沙汰しております。訪独を楽しんでおられるようでなによりです。
《マタイ受難曲》の冒頭合唱曲は「コラール・ファンタジー」だという説がとても興味深く感じられ、松本さんに当記事を私が紹介いたしました。
また、松本さんへの丁寧なご回答を興味深く読みました。「言葉を伝える」「耳で聴いた時にどういう印象になるか」という視点は、なるほどなと感じました。拍の移動によるリズムを引き立ての心地よさに慣れてしまうとやみつきになるということは、バッハの楽曲を歌う上で確かに体感しています。
ロビン・A. リーヴァー氏が『説教者としてのJ.S.バッハ』を著しておられますが、バッハを演奏していて感じるのは、テキストの意味を神学的にどのように表現するかということに彼が心血を注いていたのではないかということです。その意味では「言葉を伝える」「耳で聴いた時にどういう印象になるか」という視点はとても大切なように感じます。そしてそれは時代を越えたカントールとしてのバッハの魅力のような気が私はします。
ご帰国後のご回答を楽しみにしております。どうぞ最後まで楽しい旅行でありますように。
《マタイ受難曲》の冒頭合唱曲は「コラール・ファンタジー」だという説がとても興味深く感じられ、松本さんに当記事を私が紹介いたしました。
また、松本さんへの丁寧なご回答を興味深く読みました。「言葉を伝える」「耳で聴いた時にどういう印象になるか」という視点は、なるほどなと感じました。拍の移動によるリズムを引き立ての心地よさに慣れてしまうとやみつきになるということは、バッハの楽曲を歌う上で確かに体感しています。
ロビン・A. リーヴァー氏が『説教者としてのJ.S.バッハ』を著しておられますが、バッハを演奏していて感じるのは、テキストの意味を神学的にどのように表現するかということに彼が心血を注いていたのではないかということです。その意味では「言葉を伝える」「耳で聴いた時にどういう印象になるか」という視点はとても大切なように感じます。そしてそれは時代を越えたカントールとしてのバッハの魅力のような気が私はします。
ご帰国後のご回答を楽しみにしております。どうぞ最後まで楽しい旅行でありますように。
_ I招聘教授 ― 2013年07月03日 05時45分28秒
Tenor1966さん、理解あるご投稿、ありがとうございます。ほとんど、おっしゃられていることに尽きていると思います。
楽譜、自筆譜を見直しましたが、すでに申し上げたことに付け加えることはありませんでした。bequemenもfliessetもAmenもバッハが書いた通りが効果的かつ美しく、そう演奏すべきだと思います。いずれも、さすがバッハの着想です。
楽譜、自筆譜を見直しましたが、すでに申し上げたことに付け加えることはありませんでした。bequemenもfliessetもAmenもバッハが書いた通りが効果的かつ美しく、そう演奏すべきだと思います。いずれも、さすがバッハの着想です。
_ I招聘教授 ― 2013年07月11日 01時44分38秒
質問者からの反応がありませんね。私も時間を使ってお答えしましたので、反論でも質問でも、一言いただきたいです。
_ 松本 有三 ― 2013年07月11日 19時24分44秒
I先生、青春21きっぷさん、Tenor1966さん、私の愚問に丁寧に答えていただきありがとうございました。素人の単なる感覚的な違和感で質問したことが、このように神学的な内容にまで言及されるとは思っても見ませんでしたので感激すると同時にバッハの奥深さに襟を正す思いでいます。
Amenの言葉の割り振りがグレゴリオ聖歌ではどうか、とか、バッハの他の曲の割り振りはどうかなど調べていましたが、なかなか皆さんのお答えに首肯出来ず自分の頭の固さに嫌気が差していましたが、友人のO氏の指摘に私もなるほどと思いました。
IMSLPでバッハの手稿譜を見ますと、マタイの23番のAriaでbequemenのbeは3拍目の八分音符、queは次の小節の八分音符、そしてmenは十六分音符が二つと八分音符で書かれていますが、注意すべきは最後のmenが連桁で二つの十六分音符と八分音符の三つがまとめて書かれています。これはmenをひとつの音節で歌うようにとバッハが自ら示したものだ、とO氏は指摘してくれました。ベーレンライタ-の楽譜と手稿譜は全く同じ音符の配列になっていて、出版社がバッハの原譜に忠実に印字したものでした。バッハは、その当時こういう書き方が一般的だったかどうかは判りませんが、音節を音符で示す現代の記譜法をすでに取り入れていた、という指摘でした。バッハが(私の感覚では奇異に感じる)このようなテキストの譜割をなぜしたのかについてはおそらく皆さんがご指摘のような何らかの神学的配慮があったと思いますが、バッハの楽譜の書き方がいかに彼自身の意思を表しているかに気づき、楽譜を単に表面だけ見てはならないと自戒しています。
I先生の折角の楽しい話題満載のブログにこのような場違いの質問で先生はじめ投稿くださった皆さんの大切なお時間を使わせてしまいまことに申し訳ありませんでした。私個人としては大変勉強になりました。篤く御礼申し上げます。厳しい暑さが続きますが、どうぞつつがなくこの夏を乗り切られますようお祈りいたします。松本
Amenの言葉の割り振りがグレゴリオ聖歌ではどうか、とか、バッハの他の曲の割り振りはどうかなど調べていましたが、なかなか皆さんのお答えに首肯出来ず自分の頭の固さに嫌気が差していましたが、友人のO氏の指摘に私もなるほどと思いました。
IMSLPでバッハの手稿譜を見ますと、マタイの23番のAriaでbequemenのbeは3拍目の八分音符、queは次の小節の八分音符、そしてmenは十六分音符が二つと八分音符で書かれていますが、注意すべきは最後のmenが連桁で二つの十六分音符と八分音符の三つがまとめて書かれています。これはmenをひとつの音節で歌うようにとバッハが自ら示したものだ、とO氏は指摘してくれました。ベーレンライタ-の楽譜と手稿譜は全く同じ音符の配列になっていて、出版社がバッハの原譜に忠実に印字したものでした。バッハは、その当時こういう書き方が一般的だったかどうかは判りませんが、音節を音符で示す現代の記譜法をすでに取り入れていた、という指摘でした。バッハが(私の感覚では奇異に感じる)このようなテキストの譜割をなぜしたのかについてはおそらく皆さんがご指摘のような何らかの神学的配慮があったと思いますが、バッハの楽譜の書き方がいかに彼自身の意思を表しているかに気づき、楽譜を単に表面だけ見てはならないと自戒しています。
I先生の折角の楽しい話題満載のブログにこのような場違いの質問で先生はじめ投稿くださった皆さんの大切なお時間を使わせてしまいまことに申し訳ありませんでした。私個人としては大変勉強になりました。篤く御礼申し上げます。厳しい暑さが続きますが、どうぞつつがなくこの夏を乗り切られますようお祈りいたします。松本
_ I招聘教授 ― 2013年07月11日 23時54分22秒
松本さん、ありがとうございます。音符のつながりというのは器楽曲でも重要な問題で、たとえば富田庸先生などは、その点を重視した画期的な楽譜を編纂されています。よい問題提起をいただきました。
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
私には、もうそんな洞察力も感受性も残っていませんが、確かに若さの力は素晴らしいと思います。そうした中から、また第2、第3の優れた研究者が出てくることを願わずにはいられません。
(私事ですが)試験問題とは無縁なダーツと映画の話を長々と書いてくる学生の答案も、またそれはそれで若さの為せる業ですが、芸大ゼミの話を心から羨ましく思い、次世代の優れた研究者が出てきて下さるものと期待を寄せて拝読しました。