神様の後押しで ― 2010年12月29日 14時21分05秒
いきなり書きこむのは気が引ける、という空気があるようですので、私から、少し書かせていただきますね。
オペラをご覧になる方は、気に入った歌い手を見つけようとするものです。それもまた、鑑賞の楽しみ。しかし《ポッペアの戴冠》in Suzakaの場合、それは困難ではなかったでしょうか。なぜなら、適材適所の配役(←自慢させてください)のもと全員がベストを尽くし、レベルの揃ったアンサンブルを繰り広げていたからです。いったんお気に入りを見つけても、新しい歌い手が登場するたびに再考を迫られる、という状況になっていたのではないかと思います。
歌のレベルが高かったというのは、指導された渡邊、平尾の両先生はじめ、いろいろな方がおっしゃってくださったことです。これは両先生のご指導のたまもの、出演者の才能と努力のたまものであるわけですが、「くにたちiBACHコレギウム」における最長3年のバッハ経験と、ドクター論文に取り組むことによる知的な鍛錬が、大きくプラスしているように思えてなりません。それなくしては、様式感を踏まえた、洞察力に富むモンテヴェルディ演奏はあり得なかったと思うからです。ただ優秀なソリストを集めただけでは、日曜日の演奏は成立しなかっただろうと感じています。
そうなると、大元にあるのは、大学に後期博士課程が設立され、そこに入学してくる優秀な声楽学生の論文指導を私が担当するようになった、という事実です。でもまさかそこからモンテヴェルディの公演が可能になるとは、思いもよりませんでした。このありがたい流れを後押ししてくれた神様は、〈幸運〉でしょうか〈美徳〉でしょうか、それとも〈愛〉なのでしょうか。
オペラをご覧になる方は、気に入った歌い手を見つけようとするものです。それもまた、鑑賞の楽しみ。しかし《ポッペアの戴冠》in Suzakaの場合、それは困難ではなかったでしょうか。なぜなら、適材適所の配役(←自慢させてください)のもと全員がベストを尽くし、レベルの揃ったアンサンブルを繰り広げていたからです。いったんお気に入りを見つけても、新しい歌い手が登場するたびに再考を迫られる、という状況になっていたのではないかと思います。
歌のレベルが高かったというのは、指導された渡邊、平尾の両先生はじめ、いろいろな方がおっしゃってくださったことです。これは両先生のご指導のたまもの、出演者の才能と努力のたまものであるわけですが、「くにたちiBACHコレギウム」における最長3年のバッハ経験と、ドクター論文に取り組むことによる知的な鍛錬が、大きくプラスしているように思えてなりません。それなくしては、様式感を踏まえた、洞察力に富むモンテヴェルディ演奏はあり得なかったと思うからです。ただ優秀なソリストを集めただけでは、日曜日の演奏は成立しなかっただろうと感じています。
そうなると、大元にあるのは、大学に後期博士課程が設立され、そこに入学してくる優秀な声楽学生の論文指導を私が担当するようになった、という事実です。でもまさかそこからモンテヴェルディの公演が可能になるとは、思いもよりませんでした。このありがたい流れを後押ししてくれた神様は、〈幸運〉でしょうか〈美徳〉でしょうか、それとも〈愛〉なのでしょうか。
達成感 ― 2010年12月27日 23時49分07秒
「すざかバッハの会」におけるモンテヴェルディ《ポッペアの戴冠》の公演、無事終了しました。出演者の方々、裏方の方々、応援してくださった会と聴衆の方々、ありがとうございました。『信濃毎日新聞』にも、カラー写真入りの記事を掲載していただきました。
音楽監督である私が自分からああだった、こうだった、と書くのは気が引けますので、出演者や聴衆の方々から、できればコメントを頂戴したいと思います。私としては、《ポッペア》をプロデュースするという望外の機会に恵まれ、残りの人生をどう過ごしたらいいか、というぐらいの達成感に包まれています(笑)。ひじょうに忙しかった今年。この公演を目指してすべてが進んできました。斎藤佑樹さんが「自分には仲間がある」という有名な言葉を吐きましたが、その気持ち、よくわかります。
音楽監督である私が自分からああだった、こうだった、と書くのは気が引けますので、出演者や聴衆の方々から、できればコメントを頂戴したいと思います。私としては、《ポッペア》をプロデュースするという望外の機会に恵まれ、残りの人生をどう過ごしたらいいか、というぐらいの達成感に包まれています(笑)。ひじょうに忙しかった今年。この公演を目指してすべてが進んできました。斎藤佑樹さんが「自分には仲間がある」という有名な言葉を吐きましたが、その気持ち、よくわかります。
大合唱 ― 2010年12月25日 23時14分20秒
桜木町の渡邊邸に、通い詰めました。昨日は深夜の帰宅、今日は朝からで、最後の通し稽古。多くの人が心配していたのが、雪でした。でも最近の長野県は、雪、降らないんですよね。年内は、まず降らない。ですから、絶対に大丈夫だ、降る確率はかぎりなく低い、余分な心配はするな、と気合いをかけていたところ、大(?)雪。誰のせいだ、と叫ぶ私に、先生だ、という非難の大合唱です。確率、低いんだがなあ。
稽古の途中、私は抜け出て朝日カルチャーへ。別れるにあたり、長野で会いましょう、新幹線に乗り遅れることのくれぐれもないように、と念を押したところ、先生に言われたくありません、の大合唱。そうですね、危ないのは私です。でも私がいなくても、コンサートは成立する。ここまでくると、もっとも不要なのが、私なのです。
しかし連日、すごい追い込みだったなあ。明日が楽しみです。なお、体調不良で交代が2人出ました。ドゥルジッラ役が小島芙美子さんから安田祥子さんに交代し、ヴァイオリンが渡邊慶子さんから宮崎容子さんに交代します。緊張、緊張。
稽古の途中、私は抜け出て朝日カルチャーへ。別れるにあたり、長野で会いましょう、新幹線に乗り遅れることのくれぐれもないように、と念を押したところ、先生に言われたくありません、の大合唱。そうですね、危ないのは私です。でも私がいなくても、コンサートは成立する。ここまでくると、もっとも不要なのが、私なのです。
しかし連日、すごい追い込みだったなあ。明日が楽しみです。なお、体調不良で交代が2人出ました。ドゥルジッラ役が小島芙美子さんから安田祥子さんに交代し、ヴァイオリンが渡邊慶子さんから宮崎容子さんに交代します。緊張、緊張。
最高の作曲家 ― 2010年12月23日 11時00分57秒
今日は、桜木町の渡邊邸で行われている練習に、1日付き合いました。渡邊さん、平尾さんがフルタイムで1人ずつ綿密な指導をするのですから、若い人たちにとっては、本当にいい勉強。意欲が高まるのも当然です。
渡邊さんがプログラムに寄稿された文章を読んだら、次のような部分が目に止まりました。おお、やっぱりそうですか!
「その時以来、モンテヴェルディは、私にとっての『古今の作曲家ベストテン』の首位を占め続けている。今までの音楽家人生で、私は、特にバッハとベートーヴェンには特別な思いを抱いて接してきたが、モンテヴェルディの首位が脅かされることはなかった。」
さすがのバッハもモンテヴェルディには及ばないのではないかということは、私もずっと思っていることです。渡邊さんもそれがあるからこそ、予算も満足にない公演に、惜しまず時間と労力を投入してくださるわけですよね。
渡邊さんがプログラムに寄稿された文章を読んだら、次のような部分が目に止まりました。おお、やっぱりそうですか!
「その時以来、モンテヴェルディは、私にとっての『古今の作曲家ベストテン』の首位を占め続けている。今までの音楽家人生で、私は、特にバッハとベートーヴェンには特別な思いを抱いて接してきたが、モンテヴェルディの首位が脅かされることはなかった。」
さすがのバッハもモンテヴェルディには及ばないのではないかということは、私もずっと思っていることです。渡邊さんもそれがあるからこそ、予算も満足にない公演に、惜しまず時間と労力を投入してくださるわけですよね。
立ち稽古進行中 ― 2010年12月22日 22時43分21秒
26日(日)に須坂メセナホールで上演する《ポッペアの戴冠》、立ち稽古進行中です。みんなオペラが大好きなのでしっかり仕上げてきていて、相当いいんじゃないかと、手応えを感じています。当日のプログラムに書いた「すざか版《ポッペアの戴冠》ができるまで」というエッセイを、宣伝代わりに公表させていただきます。みなさん、ぜひ須坂までお出かけください!
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小さな思いを集めた源流がしだいに流れを増し、川となる・・・。すざか版《ポッペアの戴冠》の上演を前に、今、そんな高まりを実感している。
渡邊順生さんがモンテヴェルディに傾倒しておられることは、わかっていた。かつて大阪いずみホールで、ご一緒にモンテヴェルディ・フェスティバルを開催したことがあったからである。私もモンテヴェルディは大好きで、「無人島へ持って行く曲」に、彼の《聖母マリアの夕べの祈り》を挙げているほどである。渡邊さんも私も、《ポッペアの戴冠》がモンテヴェルディ究極の名作であり、なんとか上演する機会を得たいものだと、別々に思っていた。
今年渡邊さんは、高性能のリュート・チェンバロを購入された。ことあるごとに自慢されるその性能のひとつは、「歌の伴奏に最適」というものであった。東京でのバッハ《ヨハネ受難曲》実演のさいその響きを耳にして驚いた私は、この楽器があれば《ポッペアの戴冠》を上演できる、その場所は須坂だ、と直感した。古楽器が居並ぶ《オルフェオ》とは異なり、《ポッペア》は歌と通奏低音を主体に書かれているため、チェンバロと歌い手がいれば、最低限、上演可能なのである。メセナホールにチェンバロを運び、何人かの若い歌い手といくつかの部分を演奏するイメージが、すぐ私に生まれた。場はもちろん、私が8年来続けている、「すざかバッハの会」連続講演の、オペラを採り上げる回である。
《ヨハネ受難曲》には、国立音大博士後期課程の学生で私の論文弟子の一人である阿部雅子さんが出演していた。阿部さんはモンテヴェルディを専攻しており、誰の目にも、ポッペア役にぴったりな人である。そこで阿部さんを主役に、博士後期課程の学生を中心とするキャスティングがまとまった。メンバーは全員、私が学内に主宰する「くにたちiBACHコレギウム」に所属している。歌曲専攻の学生も多く、オペラに取り組むことは共通の念願でもあったので、10月の壮行会は、意気盛んなものとなった。
いくつかの場面の抜粋、というアイデアは、コンパクト版の全曲演奏という願望の前に消えていった。しかし、全3幕、上演時間3時間を超える大作を、どう講演会の中に収めたらよいか。ストーリーのポイントを押さえ、美しい楽曲を網羅し、出演者の出番を均等化することは、容易ではない。もう5分あれば、もう10分あればと、どれほど思ったことだろう。キャスティングで悩ましかったのは、ソプラノ音域で書かれ、当時カストラートによって歌われた皇帝ネローネ(ネロ)を女性が歌うか、オクターヴ下げて男性が歌うかということである。どちらにも長所、短所があるためスタッフと激論を交わしたが、最後は私が折れ、「男が男を歌う」自然さを優先することにした。メゾ・ソプラノ音域で書かれた将軍オットーネは、逆に音域を生かして、女性により歌われる。
《ポッペア》には多くの登場人物があるが、須坂まで足を伸ばせる人数には、限りがある。そこでどうしても必要になるのが、兼役である。私は当初、3人の神(幸運、美徳、愛)の世界をはっきり分け、兼役をそれぞれの世界の内部にとどめる発想をもっていたのだが、それはとうてい実現できないアイデアであることがわかった。このため、プロローグにおける美徳の神が第2幕で快楽のとりことなる侍女に扮したり、哲学者セネカが親友たちによる「死ぬな、セネカ」のバス・パートを歌ったり、またオットーネがポッペアの侍女を兼ねたり、ということが起こっている。ご寛恕いただきたいと思う。
夢は、器楽の領域でもふくらんだ。当初チェンバロのみで演奏するつもりだった通奏低音にヴィオラ・ダ・ガンバを入れることになり、名手の平尾雅子さんにお願いしたが、ご快諾をいただいたことで、演奏のステイタスはぐっと高まった。しかしそうなると、シンフォニアやリトルネッロを、弦合奏で演奏したくなる。そこで2本のヴァイオリンを含めることにし、通奏低音にはリュートも加えた。凝ったストーリーを理解していただくために、スタッフには字幕の担当者も加えることになった。
《ポッペアの戴冠》は、厳しい世界観とリアリスティックな人間表現において、並みのオペラとは一線を画している。こうした作品の上演には、根本的な研究が欠かせない。そこで私は、全曲の台本の対訳を、内外の訳業を参考にしつつ自ら行い、文献や楽譜の研究も行って、詳細な解説を、演奏者たちに配布した。時間はかかったが、これまで取り組んだことのない新しい世界に入りこんで、知的な興奮を禁じ得なかった。それを通じて学んだ認識を、ぜひステージにも生かしてみたい・・・。そんな思いから、素人ではあるが簡単な演出を行って、視覚面でも楽しんでいただけるように考えたつもりである。
皇帝を考えつく限りの手練手管で籠絡し、皇妃への階段を上り詰めてゆく、ポッペア。あらがうすべもなくその術中にはまり、皇妃を離別するローマ皇帝ネローネ。苦悩の日々を過ごし、ポッペア暗殺に失敗して流刑となるオッターヴィア。美徳を説きながらも理解されず、皇帝の命令を受け容れて自殺する哲学者、セネカ。寝取られたポッペアへの思いを断ち切れず逡巡したあげく、ドゥルジッラの純愛に追放の慰めを見いだす将軍オットーネ。天上から快楽をあおる〈幸運〉、時勢ゆえに零落する〈美徳〉、世の人々を手玉に取る〈愛〉の三神・・・。こうした人々の織りなすドラマを、モンテヴェルディの音楽は強靱に造形し、仮面の下にひそむ人間の真実を、われわれに突きつけてくる。その恐ろしさと美しさを、須坂の方々にお伝えしたいと思う。
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小さな思いを集めた源流がしだいに流れを増し、川となる・・・。すざか版《ポッペアの戴冠》の上演を前に、今、そんな高まりを実感している。
渡邊順生さんがモンテヴェルディに傾倒しておられることは、わかっていた。かつて大阪いずみホールで、ご一緒にモンテヴェルディ・フェスティバルを開催したことがあったからである。私もモンテヴェルディは大好きで、「無人島へ持って行く曲」に、彼の《聖母マリアの夕べの祈り》を挙げているほどである。渡邊さんも私も、《ポッペアの戴冠》がモンテヴェルディ究極の名作であり、なんとか上演する機会を得たいものだと、別々に思っていた。
今年渡邊さんは、高性能のリュート・チェンバロを購入された。ことあるごとに自慢されるその性能のひとつは、「歌の伴奏に最適」というものであった。東京でのバッハ《ヨハネ受難曲》実演のさいその響きを耳にして驚いた私は、この楽器があれば《ポッペアの戴冠》を上演できる、その場所は須坂だ、と直感した。古楽器が居並ぶ《オルフェオ》とは異なり、《ポッペア》は歌と通奏低音を主体に書かれているため、チェンバロと歌い手がいれば、最低限、上演可能なのである。メセナホールにチェンバロを運び、何人かの若い歌い手といくつかの部分を演奏するイメージが、すぐ私に生まれた。場はもちろん、私が8年来続けている、「すざかバッハの会」連続講演の、オペラを採り上げる回である。
《ヨハネ受難曲》には、国立音大博士後期課程の学生で私の論文弟子の一人である阿部雅子さんが出演していた。阿部さんはモンテヴェルディを専攻しており、誰の目にも、ポッペア役にぴったりな人である。そこで阿部さんを主役に、博士後期課程の学生を中心とするキャスティングがまとまった。メンバーは全員、私が学内に主宰する「くにたちiBACHコレギウム」に所属している。歌曲専攻の学生も多く、オペラに取り組むことは共通の念願でもあったので、10月の壮行会は、意気盛んなものとなった。
いくつかの場面の抜粋、というアイデアは、コンパクト版の全曲演奏という願望の前に消えていった。しかし、全3幕、上演時間3時間を超える大作を、どう講演会の中に収めたらよいか。ストーリーのポイントを押さえ、美しい楽曲を網羅し、出演者の出番を均等化することは、容易ではない。もう5分あれば、もう10分あればと、どれほど思ったことだろう。キャスティングで悩ましかったのは、ソプラノ音域で書かれ、当時カストラートによって歌われた皇帝ネローネ(ネロ)を女性が歌うか、オクターヴ下げて男性が歌うかということである。どちらにも長所、短所があるためスタッフと激論を交わしたが、最後は私が折れ、「男が男を歌う」自然さを優先することにした。メゾ・ソプラノ音域で書かれた将軍オットーネは、逆に音域を生かして、女性により歌われる。
《ポッペア》には多くの登場人物があるが、須坂まで足を伸ばせる人数には、限りがある。そこでどうしても必要になるのが、兼役である。私は当初、3人の神(幸運、美徳、愛)の世界をはっきり分け、兼役をそれぞれの世界の内部にとどめる発想をもっていたのだが、それはとうてい実現できないアイデアであることがわかった。このため、プロローグにおける美徳の神が第2幕で快楽のとりことなる侍女に扮したり、哲学者セネカが親友たちによる「死ぬな、セネカ」のバス・パートを歌ったり、またオットーネがポッペアの侍女を兼ねたり、ということが起こっている。ご寛恕いただきたいと思う。
夢は、器楽の領域でもふくらんだ。当初チェンバロのみで演奏するつもりだった通奏低音にヴィオラ・ダ・ガンバを入れることになり、名手の平尾雅子さんにお願いしたが、ご快諾をいただいたことで、演奏のステイタスはぐっと高まった。しかしそうなると、シンフォニアやリトルネッロを、弦合奏で演奏したくなる。そこで2本のヴァイオリンを含めることにし、通奏低音にはリュートも加えた。凝ったストーリーを理解していただくために、スタッフには字幕の担当者も加えることになった。
《ポッペアの戴冠》は、厳しい世界観とリアリスティックな人間表現において、並みのオペラとは一線を画している。こうした作品の上演には、根本的な研究が欠かせない。そこで私は、全曲の台本の対訳を、内外の訳業を参考にしつつ自ら行い、文献や楽譜の研究も行って、詳細な解説を、演奏者たちに配布した。時間はかかったが、これまで取り組んだことのない新しい世界に入りこんで、知的な興奮を禁じ得なかった。それを通じて学んだ認識を、ぜひステージにも生かしてみたい・・・。そんな思いから、素人ではあるが簡単な演出を行って、視覚面でも楽しんでいただけるように考えたつもりである。
皇帝を考えつく限りの手練手管で籠絡し、皇妃への階段を上り詰めてゆく、ポッペア。あらがうすべもなくその術中にはまり、皇妃を離別するローマ皇帝ネローネ。苦悩の日々を過ごし、ポッペア暗殺に失敗して流刑となるオッターヴィア。美徳を説きながらも理解されず、皇帝の命令を受け容れて自殺する哲学者、セネカ。寝取られたポッペアへの思いを断ち切れず逡巡したあげく、ドゥルジッラの純愛に追放の慰めを見いだす将軍オットーネ。天上から快楽をあおる〈幸運〉、時勢ゆえに零落する〈美徳〉、世の人々を手玉に取る〈愛〉の三神・・・。こうした人々の織りなすドラマを、モンテヴェルディの音楽は強靱に造形し、仮面の下にひそむ人間の真実を、われわれに突きつけてくる。その恐ろしさと美しさを、須坂の方々にお伝えしたいと思う。
まぐろ丼 ― 2010年12月20日 23時52分09秒
久しぶりに、食べ物の話です。
完全に肉食男子の私ですが、お昼に意識的に探して食べているのが、まぐろ丼です。種々の変化球も歓迎。お寿司屋さんでも、ランチとして出していますよね。
ひとつ好きなのは、武蔵小杉の「三崎港」。横浜に行くときの乗り換えで、よく使います。しかしいまJRの乗り継ぎで行けるようになったので、訪問が減りそう。メニュー豊富でいろいろ選べるのが、ここの魅力です。
聖心女子大の授業のあと出て行く渋谷。駅の東、恵比寿に向かう通りには行列するラーメン屋がいくつもあります。その並びにある「鮪市場」が、いま気に入っている店。しばらくサンマ丼に凝っていましたが、季節が終わり、残念です。
今日は聖路加病院での検査の後、ひさびさに築地の「千秋」に寄ってみました。寒ブリと鮪の二食丼、1000円で、やはりぶっちぎりのおいしさ。ここは極めつけです。皆さんのお薦めがあったら教えてください。軽く食事をしたい立川、国立、新宿あたりに、いいお店があるとよいのですが。
完全に肉食男子の私ですが、お昼に意識的に探して食べているのが、まぐろ丼です。種々の変化球も歓迎。お寿司屋さんでも、ランチとして出していますよね。
ひとつ好きなのは、武蔵小杉の「三崎港」。横浜に行くときの乗り換えで、よく使います。しかしいまJRの乗り継ぎで行けるようになったので、訪問が減りそう。メニュー豊富でいろいろ選べるのが、ここの魅力です。
聖心女子大の授業のあと出て行く渋谷。駅の東、恵比寿に向かう通りには行列するラーメン屋がいくつもあります。その並びにある「鮪市場」が、いま気に入っている店。しばらくサンマ丼に凝っていましたが、季節が終わり、残念です。
今日は聖路加病院での検査の後、ひさびさに築地の「千秋」に寄ってみました。寒ブリと鮪の二食丼、1000円で、やはりぶっちぎりのおいしさ。ここは極めつけです。皆さんのお薦めがあったら教えてください。軽く食事をしたい立川、国立、新宿あたりに、いいお店があるとよいのですが。
聖書の意思? ― 2010年12月17日 11時47分15秒
笛吹き小僧さん、澄音愛好者さん、貴重な感想コメントありがとうございました。こちらで対応します。
お褒めにあずかった若いテノールは小堀勇介君といいまして、優秀な頭脳と温かい心をもったすばらしい歌い手です。3月30日にいずみホールの「日本の歌」に出演しますから、関西の方、ぜひ聴いてあげてください。
合唱における男声の充実はおっしゃる通りで、多くのメンバーがバッハを愛し、バッハを理解しているのが強みなのだと思います。本当はソロを歌わせたい人が、たくさんいるのです。
澄音さんの「バッハにここまでしてもらった選帝侯妃はなんと幸せな人だろうか」というご感想について。私も最初すごくそう思ったのですが、今は迷っています。だって死んでから作曲され、演奏されているわけですよね。即物的に言えば、本人は無関係。それとも、思いは天に届くのでしょうか。
スマートフォンで大失態を犯した私ですが、案外喜んでくださっている方の多いことがわかってきました。それも私に近い人ほど、人によっては手を打たんばかりに、喜んでくださっているようなのです。人様に喜んでいただくために活動しているわけですから、ありがたいことだと思います(ちょっと割り切れない)。
聖書、出てきました!私の研究室の机の上に置いてありました。付箋をつけて、そのまま置いていってしまったようです。私は聖書を取りに研究室に戻ったわけなので、それを置いて出るという可能性はきわめて考えにくいのですが、何か考え事をしていたのでしょうか。それとも、聖書に、「お前に読まれたくない」という意思があったのでしょうか。
お褒めにあずかった若いテノールは小堀勇介君といいまして、優秀な頭脳と温かい心をもったすばらしい歌い手です。3月30日にいずみホールの「日本の歌」に出演しますから、関西の方、ぜひ聴いてあげてください。
合唱における男声の充実はおっしゃる通りで、多くのメンバーがバッハを愛し、バッハを理解しているのが強みなのだと思います。本当はソロを歌わせたい人が、たくさんいるのです。
澄音さんの「バッハにここまでしてもらった選帝侯妃はなんと幸せな人だろうか」というご感想について。私も最初すごくそう思ったのですが、今は迷っています。だって死んでから作曲され、演奏されているわけですよね。即物的に言えば、本人は無関係。それとも、思いは天に届くのでしょうか。
スマートフォンで大失態を犯した私ですが、案外喜んでくださっている方の多いことがわかってきました。それも私に近い人ほど、人によっては手を打たんばかりに、喜んでくださっているようなのです。人様に喜んでいただくために活動しているわけですから、ありがたいことだと思います(ちょっと割り切れない)。
聖書、出てきました!私の研究室の机の上に置いてありました。付箋をつけて、そのまま置いていってしまったようです。私は聖書を取りに研究室に戻ったわけなので、それを置いて出るという可能性はきわめて考えにくいのですが、何か考え事をしていたのでしょうか。それとも、聖書に、「お前に読まれたくない」という意思があったのでしょうか。
聖書の復讐 ― 2010年12月15日 08時09分31秒
カンタータの解説をするときに、私はよく、聖書を朗読します。そして、そこにはこういう意味がある、といった話をする。最初のうちは、信仰もないのにこんなことをしていいのか、という「畏れ」を抱きつつやっていましたが、だんだん慣れてきて、畏れが薄らいできていました。
昨夜の、くにたちiBACHコレギウムのコンサート開始前。私は研究室に戻り、使う聖書に付箋をはさんで、ホールに戻りました。あと5分。さて準備をしようと控え室を探しましたが、聖書が、どこにも見当たりません。しかし、図書館に借りに行く時間はない。さあ、困りました。
でも思いつくものですね、方策を。スマートフォンが、あるじゃないか。そこにDropboxを入れているから、研究ファイルを見られるじゃないか。電池も今日は満タンじゃないか。
さっそくDropboxから0179.docというファイルをダウンロード。カンタータ第179番の情報庫です。ところが、聖句が入っていない。聖句が入っているのは、「0179詳細」という方のファイルであることを思い出しました。で、そちらをダウンロード。そうしたら、開けないのです。一太郎のファイルだったからです。さあ、困りました。
でも思いつくものですね、方策を。新共同訳のサイトに入ればいいじゃないか。それをスマートフォンを見ながら読めばいいじゃないか。高度な情報生活の立証にもなるじゃないか。
さっとくサイトに入りました。ルカ福音書のページへ。当該の「ファリサイ人と徴税人のたとえ」は第18章なので、画面の送りに時間がかかります。しかし無事、画面に出現。話しているうちにきっと電源がoffになりますから、必要な局面でもう一度、電源を入れることになりそう。そのときにふたたびその画面が出てくれるかどうか、ためして見ました。ちゃんとルカ18章に戻ります。一安心。この時点で、予定の開始時間に少し食い込んでいました。
あわててステージに出て、解説を開始。聖書を読む段になり、私は意気揚々とエクスペリアを取り出して、経緯を述べ、電源を入れ直しました。
そうしたら、なんと!検索画面に戻ってしまったのです。これだと、新共同訳のサイト→ルカ福音書のページ→第18章への送り、というプロセスをもう一度やらなくてはならない。少し試みましたが、かなり時間がかかりそう。後ろにはすでに演奏者がスタンバイしており、10秒、15秒を大切にしなくてはならないときです。私は結局聖書朗読を断念し、解説にとどめました。「お前のごとき者が人前で読んじゃいかん!」と聖書に言われたわけですよね、これは。次はせめて「畏れ」をもって臨みたいと思います。
いきなりこのような大失態で、気持ちが上ずり、トークはあまり上出来ではありませんでした。しかし演奏は、3年間の研鑽の集大成として、相当良かったのではないかと思いますが、いかがでしょう。時間が押してしまったなあと思って休憩時にスケジュール表を見ると、むしろ予定より速く進行している。これは、モテット《主に向かって新しい歌をうたえ》がいつもよりはるかに速いテンポになったからだそうです。スピリット全開の二重合唱を、すごいなあと思いながら客席で聴いていたのですが。
悔い改めのカンタータ第179番には心理を直撃されましたが、後半の第198番では気持ちに若干の余裕が出て、厳粛かつ艶麗に展開される名曲を楽しみました。コレギウムの合唱は堂々たる顔ぶれで、誰がソロを取ってもおかしくないほど。でも、ソプラノもアルトもそのほとんどが、私の論文弟子なのですね。いわば身内を中心にこのようなコンサートを開くことができたわけで、こんなにありがたいことはなく、この時間を、一生の思い出として心にとどめようと務めました。音楽のために悪いツキを背負う役割を果たせて、本望です。(聖書は、まだ出てきません。)
昨夜の、くにたちiBACHコレギウムのコンサート開始前。私は研究室に戻り、使う聖書に付箋をはさんで、ホールに戻りました。あと5分。さて準備をしようと控え室を探しましたが、聖書が、どこにも見当たりません。しかし、図書館に借りに行く時間はない。さあ、困りました。
でも思いつくものですね、方策を。スマートフォンが、あるじゃないか。そこにDropboxを入れているから、研究ファイルを見られるじゃないか。電池も今日は満タンじゃないか。
さっそくDropboxから0179.docというファイルをダウンロード。カンタータ第179番の情報庫です。ところが、聖句が入っていない。聖句が入っているのは、「0179詳細」という方のファイルであることを思い出しました。で、そちらをダウンロード。そうしたら、開けないのです。一太郎のファイルだったからです。さあ、困りました。
でも思いつくものですね、方策を。新共同訳のサイトに入ればいいじゃないか。それをスマートフォンを見ながら読めばいいじゃないか。高度な情報生活の立証にもなるじゃないか。
さっとくサイトに入りました。ルカ福音書のページへ。当該の「ファリサイ人と徴税人のたとえ」は第18章なので、画面の送りに時間がかかります。しかし無事、画面に出現。話しているうちにきっと電源がoffになりますから、必要な局面でもう一度、電源を入れることになりそう。そのときにふたたびその画面が出てくれるかどうか、ためして見ました。ちゃんとルカ18章に戻ります。一安心。この時点で、予定の開始時間に少し食い込んでいました。
あわててステージに出て、解説を開始。聖書を読む段になり、私は意気揚々とエクスペリアを取り出して、経緯を述べ、電源を入れ直しました。
そうしたら、なんと!検索画面に戻ってしまったのです。これだと、新共同訳のサイト→ルカ福音書のページ→第18章への送り、というプロセスをもう一度やらなくてはならない。少し試みましたが、かなり時間がかかりそう。後ろにはすでに演奏者がスタンバイしており、10秒、15秒を大切にしなくてはならないときです。私は結局聖書朗読を断念し、解説にとどめました。「お前のごとき者が人前で読んじゃいかん!」と聖書に言われたわけですよね、これは。次はせめて「畏れ」をもって臨みたいと思います。
いきなりこのような大失態で、気持ちが上ずり、トークはあまり上出来ではありませんでした。しかし演奏は、3年間の研鑽の集大成として、相当良かったのではないかと思いますが、いかがでしょう。時間が押してしまったなあと思って休憩時にスケジュール表を見ると、むしろ予定より速く進行している。これは、モテット《主に向かって新しい歌をうたえ》がいつもよりはるかに速いテンポになったからだそうです。スピリット全開の二重合唱を、すごいなあと思いながら客席で聴いていたのですが。
悔い改めのカンタータ第179番には心理を直撃されましたが、後半の第198番では気持ちに若干の余裕が出て、厳粛かつ艶麗に展開される名曲を楽しみました。コレギウムの合唱は堂々たる顔ぶれで、誰がソロを取ってもおかしくないほど。でも、ソプラノもアルトもそのほとんどが、私の論文弟子なのですね。いわば身内を中心にこのようなコンサートを開くことができたわけで、こんなにありがたいことはなく、この時間を、一生の思い出として心にとどめようと務めました。音楽のために悪いツキを背負う役割を果たせて、本望です。(聖書は、まだ出てきません。)
費用対効果 ― 2010年12月14日 09時15分35秒
藤原正彦さんの週刊誌連載を、毎回が全力投球の力作であることに驚きながら、読んでいます。
前回は、科学の将来を憂える内容のものでした。どのような研究がどのように人類に役立つかは誰にもわからないことで、研究は無駄を覚悟で幅広く行われていなければならない、しかしどの大学でも予算はどんどん削られ、これでは将来が危ぶまれる、という趣旨だったと思います。どの世界でも同じなのですね。文系の人間から見ると、理系は大きなお金が動く世界ですごいなあ、と思っていたのですが。
はっとしたのは、「費用対効果」という考え方は短期的な発想なので有害だ、と述べておられることでした。「費用対効果」の観点を自分がいろいろな局面に導入するようになっていることに気づいたからです。たしかに、何事も「費用対効果」で考えるのは、縮小、衰退に向かう発想かもしれませんね。
国にも自治体にも団体にもお金がなく、毎年予算が削られていく時代。研究や芸術にお金を、という声もあげにくい環境になりました。しかし現在われわれが享受している便宜や感動が、多数の先達の研究や努力の成果だということを、忘れるべきではないと思います。
前回は、科学の将来を憂える内容のものでした。どのような研究がどのように人類に役立つかは誰にもわからないことで、研究は無駄を覚悟で幅広く行われていなければならない、しかしどの大学でも予算はどんどん削られ、これでは将来が危ぶまれる、という趣旨だったと思います。どの世界でも同じなのですね。文系の人間から見ると、理系は大きなお金が動く世界ですごいなあ、と思っていたのですが。
はっとしたのは、「費用対効果」という考え方は短期的な発想なので有害だ、と述べておられることでした。「費用対効果」の観点を自分がいろいろな局面に導入するようになっていることに気づいたからです。たしかに、何事も「費用対効果」で考えるのは、縮小、衰退に向かう発想かもしれませんね。
国にも自治体にも団体にもお金がなく、毎年予算が削られていく時代。研究や芸術にお金を、という声もあげにくい環境になりました。しかし現在われわれが享受している便宜や感動が、多数の先達の研究や努力の成果だということを、忘れるべきではないと思います。
ニヒリズム ― 2010年12月12日 23時48分53秒
澄音愛好者さん、さっそくありがとうございます。澄み切った音にニヒルに耳を傾けておられるご様子を、訪問者の皆さん、それぞれに思い描いているのではないでしょうか。
前話ではニヒルの条件として寡黙、孤高、陰影を挙げましたが、寂寥感というのもあるかもしれないですね。高倉健ですか(笑)。私をニヒルとはどなたも言ってくれませんが、私、ニヒリズムは強靱な精神の形成に絶対必要だと思っているのです。大人になるということは、それなりにニヒリズムを体得する、ということなのではないでしょうか。いつまでも幼児的、というのが一番いけないと思います。
過日、図書館の広報誌から、自分に一番影響を与えた本について書け、という原稿を求められました。実存的なレベルで考えると、その答えは三島由紀夫の『豊饒の海』ということになるので、四部作に関する学生時代の熱狂を綴りました。三島由紀夫の文学観は、「この世には何もない、ということを、これでもかこれでもかと教える」というものです。したがって私は、ニヒリズムに傾倒していた、ということになるわけです。
あれほど熱狂し、尊敬していた三島を、その後、まったく読まなくなりました。でもその体験は、人生にとってとても大きかったと思うのですね。人との出会いとか、人の温かさとか、世の中には感動的なものがたくさんありますが、それは、ニヒリズムの洗礼を受けているからこそ、本当に受け止められるのではないかと思うのです。ニヒルな人というのは、そのままずっとニヒリズムということなのでしょうか。それはちょっと、考えにくいのですけれど。
前話ではニヒルの条件として寡黙、孤高、陰影を挙げましたが、寂寥感というのもあるかもしれないですね。高倉健ですか(笑)。私をニヒルとはどなたも言ってくれませんが、私、ニヒリズムは強靱な精神の形成に絶対必要だと思っているのです。大人になるということは、それなりにニヒリズムを体得する、ということなのではないでしょうか。いつまでも幼児的、というのが一番いけないと思います。
過日、図書館の広報誌から、自分に一番影響を与えた本について書け、という原稿を求められました。実存的なレベルで考えると、その答えは三島由紀夫の『豊饒の海』ということになるので、四部作に関する学生時代の熱狂を綴りました。三島由紀夫の文学観は、「この世には何もない、ということを、これでもかこれでもかと教える」というものです。したがって私は、ニヒリズムに傾倒していた、ということになるわけです。
あれほど熱狂し、尊敬していた三島を、その後、まったく読まなくなりました。でもその体験は、人生にとってとても大きかったと思うのですね。人との出会いとか、人の温かさとか、世の中には感動的なものがたくさんありますが、それは、ニヒリズムの洗礼を受けているからこそ、本当に受け止められるのではないかと思うのです。ニヒルな人というのは、そのままずっとニヒリズムということなのでしょうか。それはちょっと、考えにくいのですけれど。
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