聖書の復讐2010年12月15日 08時09分31秒

カンタータの解説をするときに、私はよく、聖書を朗読します。そして、そこにはこういう意味がある、といった話をする。最初のうちは、信仰もないのにこんなことをしていいのか、という「畏れ」を抱きつつやっていましたが、だんだん慣れてきて、畏れが薄らいできていました。

昨夜の、くにたちiBACHコレギウムのコンサート開始前。私は研究室に戻り、使う聖書に付箋をはさんで、ホールに戻りました。あと5分。さて準備をしようと控え室を探しましたが、聖書が、どこにも見当たりません。しかし、図書館に借りに行く時間はない。さあ、困りました。

でも思いつくものですね、方策を。スマートフォンが、あるじゃないか。そこにDropboxを入れているから、研究ファイルを見られるじゃないか。電池も今日は満タンじゃないか。

さっそくDropboxから0179.docというファイルをダウンロード。カンタータ第179番の情報庫です。ところが、聖句が入っていない。聖句が入っているのは、「0179詳細」という方のファイルであることを思い出しました。で、そちらをダウンロード。そうしたら、開けないのです。一太郎のファイルだったからです。さあ、困りました。

でも思いつくものですね、方策を。新共同訳のサイトに入ればいいじゃないか。それをスマートフォンを見ながら読めばいいじゃないか。高度な情報生活の立証にもなるじゃないか。

さっとくサイトに入りました。ルカ福音書のページへ。当該の「ファリサイ人と徴税人のたとえ」は第18章なので、画面の送りに時間がかかります。しかし無事、画面に出現。話しているうちにきっと電源がoffになりますから、必要な局面でもう一度、電源を入れることになりそう。そのときにふたたびその画面が出てくれるかどうか、ためして見ました。ちゃんとルカ18章に戻ります。一安心。この時点で、予定の開始時間に少し食い込んでいました。

あわててステージに出て、解説を開始。聖書を読む段になり、私は意気揚々とエクスペリアを取り出して、経緯を述べ、電源を入れ直しました。

そうしたら、なんと!検索画面に戻ってしまったのです。これだと、新共同訳のサイト→ルカ福音書のページ→第18章への送り、というプロセスをもう一度やらなくてはならない。少し試みましたが、かなり時間がかかりそう。後ろにはすでに演奏者がスタンバイしており、10秒、15秒を大切にしなくてはならないときです。私は結局聖書朗読を断念し、解説にとどめました。「お前のごとき者が人前で読んじゃいかん!」と聖書に言われたわけですよね、これは。次はせめて「畏れ」をもって臨みたいと思います。

いきなりこのような大失態で、気持ちが上ずり、トークはあまり上出来ではありませんでした。しかし演奏は、3年間の研鑽の集大成として、相当良かったのではないかと思いますが、いかがでしょう。時間が押してしまったなあと思って休憩時にスケジュール表を見ると、むしろ予定より速く進行している。これは、モテット《主に向かって新しい歌をうたえ》がいつもよりはるかに速いテンポになったからだそうです。スピリット全開の二重合唱を、すごいなあと思いながら客席で聴いていたのですが。

悔い改めのカンタータ第179番には心理を直撃されましたが、後半の第198番では気持ちに若干の余裕が出て、厳粛かつ艶麗に展開される名曲を楽しみました。コレギウムの合唱は堂々たる顔ぶれで、誰がソロを取ってもおかしくないほど。でも、ソプラノもアルトもそのほとんどが、私の論文弟子なのですね。いわば身内を中心にこのようなコンサートを開くことができたわけで、こんなにありがたいことはなく、この時間を、一生の思い出として心にとどめようと務めました。音楽のために悪いツキを背負う役割を果たせて、本望です。(聖書は、まだ出てきません。)

コメント

_ 笛吹き小僧 ― 2010年12月15日 10時18分17秒

相当ではなく、かなり良かったです。最初の曲、カンタータ第179番でテノールのレチタティーヴォを歌った学生さんがやってくれました。朗々たる美声と若々しい歌唱力で昨夜の演奏会の方向性を決めてしまった感じです。どのコンチェルティストも素晴らしい仕上がりでしたが、個人的には第198番のアルトのアリアにしびれました。

日本の合唱は総じて男声が非力ですが、なぜかiBACHは充実しています。博士課程の新設と関連でもあるのでしょうか?

終演を宣言する先生の表情・・・この曲の後にしゃべらせるの?・・・がおかしかったです(失礼)。「追悼の調べ」なのに幸福な気持ちで帰路につきました。ありがとうございます。

_ 澄音愛好者 ― 2010年12月16日 01時20分44秒

またまた素晴らしい演奏をご提供くださり、ありがとうございました。もはや重要な年中行事のひとつとして楽しませていただきました。

確かに179番冒頭のレチタティーヴォは、その場の空気を切り開くような、鮮烈な印象がありました。この曲では、歌の意味と、器楽の音色、音形の関わりに対するバッハのこだわり、工夫を、たいへん興味深く味わわせていただきました。ヴァイオリンとオーボエを組み合わせて、ちょっとギラギラしたような音色を作り、偽善の輝きを表したり、オーボエダカッチャのとろけるような音色と音形で、罪の泥がまとわりつくような雰囲気を醸し出す。当時の聴衆も、畏れおののきながら聴いていたのではないでしょうか。

モテットは、演奏会で聴く機会はあまりないと思いますが、生で聴いてみて、改めて歌詞と音楽のステレオ効果に驚きました。トーマス教会の建物の構造がヒントになったのかもしれませんが、今考えても、かなり前衛的な手法ではないでしょうか。

198番は、これでもかというほど手厚い追悼の言葉、音楽を目の当たりにして、バッハにこれだけしてもらった選帝侯妃は、なんと幸せな人だと思いながら聴いていました。テンポはかなり速めだったように感じましたが、器楽のバランスもよく考えられていて、普段なかなか聴こえてこないリュートも、随所で効果的に響いていました。

全体を通して、音楽とはなんと素晴らしいものかと思いながら聴かせていただきました。演奏される方はかなりの負担をされているわけですが、聴かせていただく方は、なにしろ無料なので、費用対効果などというものとはほとんど無縁で、非常に有り難い、希有な体験でした。

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