シフという体験(2)2017年03月24日 22時45分13秒

ラブラドールさんがコメントに、「そこでピアノを弾いているのがシフさんなのかシューベルトなのかわからなくなる」不思議な体験をした、と書かれています。まことに、言い得て妙。シフの存在はいつしか透明化し、ひたすら、シューベルトの音楽が流れている。「この世のものとは思われない」という言葉が、何度も心に浮かびました。

紡がれる響きはまことに多彩で、千変万化の趣。では何色か、と言われると、なぜか、黒としか答えられないのです。しかし濃淡だけがある黒ではなく、矛盾した言い方になりますが、色合い細やかな黒。時間が経つにつれ、そこに温かな色合いが見えてきました。

千変万化というのは、シューベルトの和声--転調を内包した独特の和音運用を表現することによって、起こってくる印象です。私はかねてから、長調から短調へと「沈む」感覚がシューベルト特有のものと認識していました。しかし後期のソナタを聴くうちに、長和音も短和音も結局は1つのものではないか、という気持ちが起こってきたのです。喜怒哀楽は尽きずとも、それらは所詮、現象。それを突き抜けた一種イデア的なものが見えてきた、ということだと思います。

シューベルトの本質は「さすらい」だと言われますよね。確かに音楽には、さすらいのトーンが満ちています。しかし、シフの紡ぐさすらいは、足のそれではないように思われました。その主体は霊--あたかも、《冬の旅》の主人公が追いかける幻惑の光(第19曲)であるかのように感じられたのです。

ト長調ソナタ、イ長調ソナタ、変ロ長調ソナタからこの夜響いてきたもの。それは、さすらいの昇華された「永遠」の姿ではなかったか。でもその永遠は、たとえようもないほどの「はかなさ」と、表裏一体になっていました。永遠は超越世界のものですから、この世の人間の目には、はかなくしか映じないのだろうか。そうすると、永遠とは鏡のように、存在を映すものなのだろうか--。そういうこの世を超えた思いにいざなわれたのが、この日のコンサートでした。そこには彼岸との触れあいがあり、はかなさの中に、救いや慰めもあったと思います。

お客様の反応が、本当に熱かった。余韻を十分に楽しまれてから盛大な拍手が送られ、お立ちになる方もたくさん。立つのを遠慮される方も日本には多いので、事実上のスタンディングオベーションでした。

ついにコンサートが終わり、私は楽屋に駆けつけて、前述の通り、高揚感みなぎるシフさんにお会いしました。姿勢も表情も端正なシフさんですが、「いずみホールのお客様はすばらしいでしょう」と申し上げると大きく表情を崩し、「本当にそうですね」とおっしゃいました。またぜひ、お招きしたいと思います。