溝の口 ― 2009年07月25日 22時33分01秒
朝日カルチャーセンター横浜校に行く土曜日は、たいてい食事が15:00過ぎになります。いつもは横浜、ないし乗換駅の武蔵小杉で食べるのですが、今日はうまくいったのと時間に余裕があったのとで、知らない駅で降りてみようと思い、武蔵溝ノ口で下車しました。
私は大田区、東急沿線の生まれなので、「溝の口」という名前には幼少から親しみがあります。しかし駅で降りたという記憶は判然としません。そこで、どんな町かなあ、と地井武雄さんモードになって下車しました。
そうしたら、高架の駅の周囲にコンクリートの大平面が張り巡らされていて、「駅前」というものがありません。高架の広場からレストランのあるビルにそのまま入っていけるのですが、こちらは地井さんモードですから、それでは味気ない。そこで、下に下りてみました。
少し歩くうち、溝の口というのは路地が縦横にめぐらされた、たいへん入り組んだ街であることがわかってきました。これはこれで味わいですから、こういう特色を生かした再整備ができなかったものでしょうか。旅行者の目から見ると、庶民の街を押しつぶすようにして大コンクリート地帯が出現しているという気がするのです。
でも考えてみると、立川にしても橋本にしても、みんなそうですよね。すぐ慣れるといえばそれまでですが、建設優位の行政の結果でなければ幸いです。ずっと前、金沢について、似たことを書きました。投資した分、本当に便利になっているのでしょうか。費用対効果を知りたいものです。
そんなことを考えていたせいか、レストラン選びは大失敗でした。帰りは谷保で居眠りしてしまい、立川まで乗車して、花火大会の大ゆかた軍団に巻き込まれました。
ストップはお早めに ― 2009年07月24日 22時25分15秒
なにかと言えばパソコン売り場に行っていた頃がなつかしい。なぜなら最近は、ソフトの売り場、周辺機器の売り場のどちらにも目新しいものがなく、売り場自体、がらんとしていることが多いからです。常時買いたいものがある、という風でないと、入り浸ったりしませんよね。
ハードも同様です。にもかかわらず、新しいパソコンを買おうかという気持ちが増してきました。今のデスクトップはたしか06年の年末に買ったもので、もう2年半以上使っているからです。じゃあどこが不都合かというとさしたる不都合はないのですが、新マシンを買うという快楽を、久々に味わいたくなってきました。
Windows7を待つべき、というご助言、きっとおありでしょうね。でも前回も、Vista発売の直前に新マシンを買い、Vistaを発売の日に買って、入れ直したのです。どうやら必要スペックが高くなるわけではないようなので、Windows7も発売の日に購入し、快楽を二重に楽しもうかと思い始めました。乙女になる、じゃない、お止めになる方は、早めにお願いします。
(Vistaの生命はずいぶん短かったということですね。書いていて実感しました。)
今月のCD/DVD選 ― 2009年07月23日 22時36分33秒
昨日の夕刊に発表されたCD/DVD選。今月は、3人ばらばらでした。広く選考が及ぶので、これもいいかと思います。
今月の国内DVDは再発が多いようでしたので、石丸電気に入荷していた輸入盤数点を購入。その1点、ガーディナー指揮、王立ストックホルム・フィルの演奏している「ノーベル賞コンサート2008」というのを1位にしました。ドヴォルザークの第7交響曲とモーツァルトのハ短調ミサ曲が演奏されているのですが、国王夫妻の臨席するセレブな雰囲気の中で、ガーディナーがたいへんな熱演。エリクソン室内合唱団にモンテヴェルディ合唱団のメンバーが入ったモーツァルトも生気みなぎる出来映えになっています。ソリストのアンサンブル感覚もすばらしく、スウェーデンの声楽水準の高さを痛感しました。
2位は、佐藤卓史さんのショパンのソナタ3曲(ライヴノーツ)。卓抜な構想力と響きの変化に富む、堂々たる演奏です。冒頭の第1番を聴いて、いいなあと思い、でもこの曲あまり聴かないな、と思って手元のCDを調べたら、第2番が44種類、第3番が46種類あるのに、第1番は1種類しかありません。それだけ演奏されない曲をこれだけ聴かせるのはすごい音楽力です。
3位は、オーストリアのメゾ、キルヒシュラーガーがドイッチュのピアノで録音したヴォルフの歌曲集にしました(ソニー)。ヴォルフの曲って、楽譜を見てもエキセントリックに感じることがよくあるのですが、この演奏は徹底して自然、かつチャーミング。ヴォルフ入門に、とてもいいと思います。ピアノと歌が引き立て合っているのも推奨点です。
「同じ」話 ― 2009年07月22日 22時40分57秒
麻生首相のぶら下がりインタビューを見ていると、ほとんどのコメントに「いつも申し上げているとおりです」という言葉が付きます。「ブレる」と言われるのがよほどおいやなんだなあ、と思って聞いてきました。
そのうち思い始めたのは、首相は同じ話をするのを気にしない方なんだなあ、ということです。都議選の応援に奔走していたとき、スピーチを必ず「生麻生のツラみたことある人?」という言葉で始めたと報道されていますが、じつに剛胆だなあと思わざるを得ません。私にはとうていできないことです。
両院議員懇談会で初めて謝罪され、多くの人がそれを肯定的に受け止めた様子が、テレビに映っていました。お詫びということが人間関係にとっていかに重要か、再認識した瞬間でした。ところがそのスピーチとまったく同じことを記者会見で述べたというので、コメンテーターがさかんに批判。普通なら、「さっきはこう言ったから、今度はこう言おう」と思うんじゃないでしょうか。
私がこういうことを気にするのは、昔教授から、「同じ授業を2度やってはいけない、(たとえ学生が入れ替わっても)必ず新しいことをやらなくてはいけない」という趣旨のことを、さかんに言われたからです。とうてい守れない教えですが、一応インプットされているので、同じネタを使う場合でも、つねに考え直しながらやってはいるつもりです。その結果として、雑談のネタも、一度使うと二度目には使いにくいというメンタリティになってしまいました。--学生諸君、同じ発表やレポートを、複数の授業に使ってはいけませんよ。
アリアよりイエス! ― 2009年07月20日 23時41分53秒
《マタイ受難曲》公演の打ち上げ(声楽)から帰ってきたところです。うち3人が、すぐ、あるいは遠からず、ヨーロッパに勉強に出かけます。この経験を生かして、しっかりがんばってきてください。
小玉さんの書き込みに、《マタイ》はアリアが魅力的なのに、イエスばかり頼まれる、とあり、興味を惹かれました。もちろん、慣行的な演奏形態で、合唱団+イエスを歌うバス歌手+アリアを歌うバス歌手、という形に分担されている場合です。
小玉さん、イエスを歌ってください(きっぱり)。私の考えでは、アリアの歌い手よりイエスの歌い手の方が格上であるべきで、エヴァンゲリストと比べても、イエスが格上でなくてはならない。イエスが際立った印象を残さないと、それこそ作品の成立根拠が問われてしまいます。
でも現実には、なかなかそうなっていないのですね。たとえばDVDの場合、リヒターの録画もコープマンの録画も、エース(ベリー、メルテンス)はアリアに回っていて、イエスはそれに及ばない、という印象を受けます。やはりイエスには、一世代前の歌い手で言えば、フィッシャー=ディースカウ、テオ・アダムといった超A級の歌い手が必要なのです。
ちなみに、実演で私の聴いた最高のイエスは大阪でのBCC公演におけるマックス・ヴァン・エグモントでした。それこそ後光の射すような、神々しいイエスに感動しました。たしか1991年で、エグモントがあまり歌わなくなってきた頃だったと思います。
ブログの短所 ― 2009年07月19日 21時44分54秒
小玉晃さん、書き込みありがとうございました。小玉さんは関西在住ですが、私がこれまでバッハを共演したバスの歌い手のうちで、もっともすばらしく、また共感した方のお一人です。ぜひまたご一緒に、と思いつつ、日にちが過ぎてしまっています。
小玉さんがお書きのように、イエスを歌われる方は、それぞれの返答のスタンスをどう捉えて表現するか、つねに考えておられるわけですよね。だとすれば、返答を必ず終止にもたらしているバッハの作曲法を、肯定と感じて歌われるのは自然かと思います。ちょっと自信がつきました。
こうした思いがけぬ書き込みに接すると、ブログの効用を実感します。昔ホームページを大々的にやっていましたが、ホームページとブログを比較すると、ブログの簡便さが際立つ反面、短所もありますね。掲示板がありませんので、その日の記事に出てこないことについて書き込みができない、というのが難点です。
イベントのあるたびに、そう思っているのです。いちいちイベントのご報告をするのもどうかと思いますし、気持ちの整理をしているうちに日が経ってしまうこともあります。そんなとき、参加された方から自主的に書き込みが始まる、というのもいい形だなあ、と思うのです。たとえば土曜日の「たのくら」について、会員の方が書き込む場所がありませんよね。コメントで先にいただいた話題はブログの中で継承するとか、何か工夫をしたいと思っています。
イエスの「返答」をめぐって ― 2009年07月17日 23時19分26秒
《マタイ受難曲》対訳見直し。第3点が、もっとも重要かもしれません。それは、重大な問いを突きつけられたときにイエスが返す答にかかわります。
イエスは3つの問いに対し、"Du sagest's"と答えます。第1に、「ラビよ、私ですか?」というユダの問いに対する返答(第11曲)。第2に、「お前は神の子、キリストなのか」という大祭司の問いに対する返答(第36曲)。最後に、「お前はユダヤ人の王か」というピラトの問いに対する返答(第43曲)です。
私は、このすべてに「お前(あなた)の言うとおりだ」という訳を充ててきました。字幕は字数を削減して、「そのとおりだ」としています。聖書をよくご存じの方は、この訳に違和感を抱かれたことでしょう。なぜなら、現行の聖書の訳は新共同訳でも岩波訳でも「それはあなたの言ったことだ」となっているからです。ギリシャ語の原典に忠実なのは後者で、イエスの返答が本来単純な肯定ではなく、一種はぐらかすというか、相手に責任を投げ返すような意味合いのものであることは、現代の聖書研究者が揃って指摘していることです。
私もそのことはよく知っているのですが、著書ではあえて、かつての口語訳聖書にあった「あなたの言うとおりだ」系の訳語を採用しました。しかしそれで良かったのかどうか最近ますます気になり、今回あらためて考えてみました。その結果、やはり修正は見送ることにしました。
その第1の理由は、すでに本に書きましたように、カーロフの聖書注解書(バッハの神学蔵書のひとつ)に、たとえば第1の問いに対して「お前の言うとおり、まさにお前がそれだ」という説明があることです。"Du sagst's"に留保の意味合いがあることを示す同時代のテキストに、私はまだ出会っていません。
もうひとつの理由は、バッハが上記の3箇所に、ト短調、ロ短調、ハ短調の明確なカデンツを置いていることです。Duは必ずドミナントになり、sagst'sですべて、主和音に解決しています。これを聴けば単純な肯定としか思えないわけで、聖書をさほどご存じなくて私の字幕をご覧になった場合、「そのとおりだ」に違和感を覚えられた方は、おられないのではないでしょうか。またその方が、文章も素直につながります。
等々、詰め切れぬところも種々ありますが、字幕は公演の理解にずいぶん役立てていただいたようで、ありがたく思っています。完璧に操作してくださったイヤホンガイド社のオペレーター、山内真理子さん(国立音大卒業生)に感謝を捧げます。
3音節の難題 ― 2009年07月16日 21時54分55秒
《マタイ》の対訳見直し。第2点は、先日の公演で小島芙美子さんが歌った最初のソプラノ・アリア(第8曲)の、主部です。
ここの歌詞、原語は"Blute nur, du liebes Herz"で、私の従来の訳は「血を流されるがいい、いとしい御心!」というものでした。それでも日本語か、と言われても仕方のない拙劣な訳で、もちろん字幕には目をつぶっていました(笑)。
"du"は訳に入れていませんが、二人称の呼びかけで、Herz(心)と同格です。この「心」が私の心か、イエスの心かをめぐって両説あること、当時の神学書の典拠を踏まえるとイエスの心が正しいと思われることについては、私の本に書きました。またそうでないと、中間部の「あなたの育てた子が」のDuとつながりません。
”Blute nur"は「血を流す、出血する」という動詞blutenの命令形、nurは強めの副詞です。そこで「血を流せ」を敬語的に表現する、本来はあり得ない言い回しを考えて、上記の訳を作りました。しかるに原語は簡潔な3音節(!)で、くりかえし歌われる。計7回、ダ・カーポを合わせて14回(!)です。それにしても、もし日本語で歌うとしたら、3音節でどうするのでしょう。「血出よ」ですか(笑)。
”Blute nur"のセットを繰り返し聴くうちに思い始めたのは、やはり"nur"を日本語にすべきではないか、ということでした。この"nur"は、命令形に付いて、勧める気持ちをあらわす言葉です。たとえば大阪夏の陣で天守閣が落城し、火災になった場面を想定しましょう。お付きの武士が秀頼に「もはやこれまでにござります。いざ切腹なさりませ」と言ったとしますね。この「いざ」にあたるのが、nurなのです。かなり強い意味を添える言葉なので、できれば、日本語に反映させたいところです。
というわけでいろいろ考え、「血を流されよ いざ、いとしい御心よ!」と直したのですが、けっしていい訳ではありませんね。さらに考えますが、私の力不足です(汗)。
ちなみに"blutenden Herzens"という副詞句があり、「胸の張り裂ける思いで」「断腸の思いで」などと訳されます。これを応用して「張り裂けよ」と訳す手もありそうです。しかし音楽を見ると、弦楽器に「血の滴り」の音型が一貫して流れている。ですから、意訳に逃げることもしにくいのです。
イエスに私の注ぐのは・・・ ― 2009年07月15日 22時06分46秒
拙著『マタイ受難曲』がおかげさまで10刷を迎えることになり、対訳を少し、見直しました。いくつか気になっている部分があり、先日の公演シリーズのさいには、当該部分が来ると目をつぶっていましたので(笑)。
検討箇所は3つです。まず、最初のアルトのレチタティーヴォ(第5曲)。ここの歌詞(←この言葉、使っちゃいますね)は、信仰深い女がSalbを注ぐのに対し、私は涙の泉から一滴のWasserを注ぐ、というものです。私は、前者も後者も「香油」と訳していました。前者は文字通りそのままですが、後者は、「一滴の涙を、いわば私なりの香油として」という意訳になります。Wasserは広義の「水」ですので、ここはSalbeと区別すべきではないかと、以前から感じていました。
ところが、ルター訳では、女がイエスの頭に注いだ高価なるものが「Wasser」と訳されているのです。弟子たちも、「そのWasserを売って貧乏人に施したらよかろうに」、と言う。Salb(香油)という言葉は、ピカンダーのテキストに入って、初めてあらわれます。ちなみに、現代のドイツ語訳(統一訳)では「Oel」(油)です。ルターが「Wasser」と広く使っているのは、心の中に「水による洗礼」というイメージが浮かんでいるためでしょうか。
というわけでむずかしいところですが、第5曲の香油と水の対比を生かすことを優先し、Wasserを「液」と訳して、聖書の場面と整合させてみました。ひとつの試みです(続く)。
声楽曲に歌詞はない ― 2009年07月14日 23時29分28秒
7月9日(木)、いずみホールで、1年ぶりに、「日本のうた」シリーズのコンサートを開きました。作曲家・木下牧子さんをゲストに迎え、木下さんの選による日本の名歌と、ご自身の代表作、そして人気作をたっぷり聴く。そして最後に、当日のピアニストであった加藤昌則さんの作品で締めくくるという趣向でした。木下さん、および出演者と入念に意見交換しつつ、こうしたプログラムを組み上げました。
大学3年生のときの初挑戦曲から最近作まで・・。洗練された木下ワールドの諸作品はいずれも魅力的で、日本的な美の精髄が注ぎ込まれています。ソプラノ、佐竹由美さんの芸術性の高さと安定した技術、バリトン、宮本益光さんの洞察力と性格表現もみごとで、オリジナリティのあるコンサートを作れたと思っています。
やっぱりなあ、と思ったのは、木下さんが詩の選択に大いにこだわり、高い基準で選び抜き、音楽をつけることにたっぷり時間をかけ、磨き抜いていく、ということでした。内外を問わず、多くの作曲家が、そのようにしてきたのではなかったでしょうか。
普通の歌や合唱の練習の場合はどうでしょう。まず階名や母音で歌う。歌えるようになったところで、「さあ、歌詞をつけて歌ってみましょう」ということになる。でもこれだと、歌詞は音符に振られている言葉に過ぎませんよね。実質はあくまで、音楽の方にある。これでは、詩を音楽を通してしか見ないことになります。音楽のついていないときの詩それ自身の美しさや生命力。それを愛するからこそ、作曲家はファンタジーをふくらませて、音楽をつけるのではないでしょうか。
私は、声楽曲に歌詞はないと思う。あるのは歌詞でなく、詩です。詩を詩として、できるかぎり尊重すべきです。外国語の発音を学び、辞書を引いて意味を書き込んでも、詩を生かすことはできません。急に語学に上達するわけにいかないとすれば、必要なのは暗記であり、朗唱です。それをみっちりやれば、語学の感覚はその詩その詩に即して、ある程度身につくものなのです。
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