死との向き合い2013年04月26日 05時00分41秒

高峰秀子さんの本、今度は『にんげん住所録』(文春文庫)を読みました。平成10年から12年、70代半ばに書かれたエッセイが集められています。必然的に、老いがテーマの中心になっている。

老化して気息奄々、という趣旨の文章がさかんに出てきます。ところが、文章には持ち前の気っぷの良さが相変わらず躍動していて、老け込んだところがまったくない。達意の文章を書く人はそういうものなのか、彼女のエネルギーが特別なのか、どうなんでしょうね。

最後に「私の死亡記事」という欄があるのにはびっくりしました。想定される新聞記事を先取りして、簡潔に、クールに書いておられます。

私が思ったのは、こういう記事を書かしめるメンタリティはどんなものだろう、ということです。自分を突き放す豪毅な方ならではのユーモア、という解釈はもちろんありますね。それが基本です。私は豪毅ではないが、この手の冗談は好きな方です。

しかし、逆の解釈もあるように思えるのです。自分にそれを言い聞かせ、気持ちを備えるための一種の念仏、ないし祈り、というような。そこを突っ込めば、あくなき生への意志の逆説的な表現と見られるかもしれません。両面ある、という見方も成り立つことでしょう。

故人の心境を忖度するのも申し訳ないですが、私には、高峰さんのご逝去が、あらためて大きなことに思えてきました。強烈な人生を生きた、本当に偉大な方だったと思います。

花粉症2013年04月24日 21時46分04秒

私が幸運だと思っていることのひとつは、花粉症にかかっていないことです。周りに被害者がたくさんいますので、同情しつつ、春を楽しく過ごせることは、ありがたいことだと感謝しています。花粉症の方は、花粉症でないわれわれを、どう思っているのだろうか。たとえば巨人ファンの××さんなど。

最近、目がかゆいことがよくあります。これって、花粉症の方の典型的な症状だそうですね。花粉症でなくて、良かった。

おとといの夜、鼻に、ツーンと何かが来る感覚がありました。そうしたら鼻水が出始めて、とまらない。たちまち目の前に、ちり紙の山ができました。花粉症の方は、よくこうなるそうですね。花粉症でなくて、良かった・・・ん?これって、おとといから花粉症の仲間入りをしたということではないだろうか。この命題を否定できるかどうかが、目下の関心事です。ちり紙、大量に携行中。

長い一日、よき一日2013年04月22日 23時41分07秒

20日(土)。「楽しいクラシックの会」例会に向かう途上で、忘れものに気づきました。前回の例会でLDプレーヤーが故障し、新しい機械と取り替えていただく了解が会場とついていたのですが、まだ入っていない可能性も大いにあると気づき、日本語のついたDVDをスペアに持参しようと思って、忘れてしまったのです。

そうしたら、会場には立派なLDプレーヤーが鎮座ましましているではありませんか。ああ良かった、と思ったら、それは設営係の会員の人が、自宅からかついで来たものであるとのこと。ああ、こういう心遣いが「たのくら」26年を支えているんだなあと、感激してしまいました。

私の話が始まる前に総会の行われるのが、毎年の4月。事業報告や会計報告が行われ、会計監査の方まで登場します。こうした役割をみんなで分担しているのが、長寿のコツなのですね。この1年間皆勤という方が12人もおられたのには、びっくりしました。

4月からの素材は《リング》。まず、《ラインの黄金》です。昔凝った作品ですが、しばらくぶりで向き合ってみると、いろいろなことに気がつきます。来月ワーグナーの和声法に関して研究発表しなくてはいけないので、そのためのステップとしても役に立つ講座でした。

会食される会員の方々と別れ、強い雨の中を、三鷹の「風のホール」へ。「小さな小さな音楽会」という、初心者にやさしいコンサートを聴きました。市橋邦彦さんという方が★★★★★(いつつ星)オーケストラを解説付きで指揮し、プログラムには、ロッシーニとエロールの序曲、ベートーヴェンの第7交響曲が並んでいます。

トーク付きのコンサートの場合、私は職業柄、解説を注視します。すばらしいもの、いい加減なものが、演奏以上に混在しているのが解説。しかし市橋さんの解説は誠実にして謙虚、考え抜かれたもので、お客様に行き届いた知識を与えながら、音楽のために、心地よい雰囲気を作っていかれるスグレモノです。私もとても勉強になり、普段書かないアンケートに、励ましの言葉を綴ってしまいました。啓蒙のために、たいへんよい企画だと思います。

銀座のヤマハと渋谷のタワーレコードで資料集めをしてから、いつもながらの「ラ・ゴローザ」へ。その夜は、学会で私の配下として働いてくださっていた方々とのお別れ会でした。本来は私が皆さんを慰労すべきなのに、逆に慰労されてしまい、ありがたいやら、申し訳ないやら。会長職を卒業できて大いにほっとしているのですが、こういう方々との交流がこれで終わりかと思うと沈んだ気持ちにもなる、宴の後でした。

これぞミュンヘン!2013年04月19日 09時45分06秒

18日(木)。早朝に起き、まず原稿の仕上げ。バッハのチェンバロ協奏曲ニ短調の国内盤楽譜が出るので、その解説に、かなりの時間を費やしました。

原稿を送り、芸大の授業準備に入った10:11に、元同僚の知人からメール。土曜日の「たのくら」に欠席するという連絡の終わりに、「今夜はミュンヘン・フィルに行きます」と書いてあります。えっ、ミュンヘン・フィル?!

思い出しました。2月に朝日新聞社で講演したご褒美に、チケットをいただいていたのです。2枚いただいたので、1枚をお世話になった方々の抽選に委ね、開演前にサントリーホールの入り口でお渡しすることになっていました。それをすっかり忘れ、夜は打ち合わせで、NHKに行く予定になっていたのです。急いで連絡し、NHKの方にはコンサートの終わる21:00に、サントリーホールに来ていただくことにしました。

分刻みで準備して飛び出し、授業。それから本郷のアカデミアに回って、支払いと資料購入。重い荷物でサントリーホールに着いたときにはもうへとへと。というわけで、マゼール指揮、ミュンヘン・フィルの感想は、アンコールに絞らせていただきます。

ブルックナー第3が終わると、ただでさえ大編成のステージに、ぞろぞろと奏者が入ってきました。これは《マイスタージンガー》をやるのではないか、と思い、もう20分もお待たせているNHKの方に手を合わせつつ、座席で待ちます。果たして《マイスタージンガー》の前奏曲が、ひときわ荘厳なテンポで始まりました。

でも何か、普通と違う。あれっ、どうしたの、と思うところが随所にあります。しばし首をかしげましたが、まもなく納得。「皆さん、思い切り遊んでください、無礼講です」という指示が出ているようなのです(私の想像です)。ピシリと合わせる棒を振ってきたマゼール氏がいまやそうした度量を身につけたのか、前任者ティーレマンからの引き継ぎなのか、楽員の希望なのか、詳しいことは存じませんが、どのパートも規制を外してエンジン全開、音響のるつぼとなり、思いがけぬ対旋律や内声が表に出てきてびっくりする、という状況になったのでした。パートやセクションの中での打ち合わせもあるらしく、木管がめくばせしながら踊るように合奏したり、コントラバスがしばらく主役を張ったり、という乱闘劇(←第2幕にある)。前奏曲のスコアがきわめて対位法的だということが、逆説的によくわかる進行です。

こういう演奏をプログラム内でやることは考えられないし、アンコールだから、それも日本公演の最後だからということで解放されたアイデアでしょう。でも、じつに面白かった。作品の本質でもある豪快な祝典性が、ホールを圧するようにあらわれていたからです。これぞ、ミュンヘン!東京春祭の《マイスタージンガー》も良かったけど、オーケストラにこの祝典性はありませんでした。ミュンヘン気質とは何か、と問われれば、《マイスタジンガー》と答える、というところです(注:初演以来この作品が本当に愛されていて、われらが音楽、になっています)。お待たせすること40分。ご迷惑をおかけしました。

一応野球の話2013年04月17日 07時51分41秒

シーズンが始まっているのに何も書かないのは変ですので、一応。

去年決めた「広島ファン」というのを今年も継続しています。CSでだいたいの試合は見られるのですが、広島東洋カープの試合にチャンネルと合わせ、おりおり他の試合の様子を見る、という形に定着してきました。

若手の多い、いいチームだと申し上げておきます。でも詰めが甘いというか、隙が多いというか、見ていて切歯扼腕の状況になることも確か。昨日の試合もその1つです。まあ、気長に応援していきます。

ひとつだけ、陣容からして飛び抜けたチームがあるわけですよね。これだけ集まれば、勝つでしょう、それは。ドラフトを拒否して入団し大活躍、なんていうのは一番歓迎できないので、日本でも完全ウェーバー制のドラフトを実施して欲しいと思います。

土曜日の「らららクラシック」に、ちらりと出演します。パッヘルベルの《カノン》をめぐる番組ですが、担当の方がものすごく勉強しておられたので、面白い番組になっているのではないかと思います。

おすすめ!安息の地2013年04月15日 23時22分28秒

墓地の話ではありません。指圧の話です。

私が通っていたお店の先生が、新橋から大岡山に移られました。ご夫婦で開いた、新しいお店です。とても気持ちの良いところなので、ぜひお薦めします。大岡山は、渋谷、恵比寿、目黒、五反田、大井町、武蔵小杉のどこから行っても便利なところ。正面口(東京工大側)を出て通りの向こうを見ると、「指圧!」の看板が目に入ります。「あんのん指圧鍼灸」が、お店の名前です(℡03-6425-6787)。


硬直した肉体の持ち主である私は、マッサージ歴がそれなりに長いですが、河本先生(奥様)に出会ってから、絶対この方だ、と思うようになりました。技術が優秀で、私の身体を知悉しておられることももちろんですが、つねに最善を尽くす思いやりが、すばらしいのです。お店のホームページに載っているブログを拝見すると、やはりお人柄なのだなあ、と思います(http://annon.sakura.ne.jp/)。

10:00~19:00が診療時間で、目下オープニングセール中です。凝りに悩んでいる方、ぜひいらしてください。


オーロラ2013年04月14日 23時52分51秒

NHKのBSで、大沢たかおさんがホストになっている「神秘の北極圏」という番組を見ました。オーロラ爆発という現象を訪ねての探索ですが、映像のすばらしさに感嘆しました。

超弩級の天体ショーである、オーロラ。一度は見たいと思いますが、本当に見るためには、大沢さんがなさったように、極北の厳しい風土に身をさらさなくてはいけないですよね。時代が時代ですから、大名旅行のツァーなどもあるのでしょうが、それではオーロラの体験に、ならないような気がする。さいはての地で生活する、あるいは冒険で訪れるわずかの人が計り知れぬ苦労の代償として恵まれるのが、オーロラであるように思います。

となると、自分はもう、見ないで終わるに違いありません。昔の天文少年の血が騒ぐことも確か、Auroraという言葉に寄せるバロック音楽のロマンを、思い起こすことも確かなのですが・・・。

画面には、ものすごい星空が映っていました。こうした星空にも、今後接する機会があるかどうか。文明というのは、ある意味で、視野の自己限定であると思います。明かりをつけてあえて星を見えなくし、「人命は地球より重い」などと言っているわけですから。

明暗2013年04月13日 23時55分11秒

古典をなるべく読もうと決心した流れで、夏目漱石の『明暗』を読んでみました。漱石は明治の人、という印象ですが、世代的にはマーラーよりちょっと後ぐらいになるのですね。文豪の誉れ高い漱石。でも私は、若い頃からなんとなく苦手に思っていました。久々の挑戦で自分がどう思うか、興味がありました。

最初は、別世界に触れるようで、とても苦痛。新聞小説のため区切りが短く、それを救いとして読み進めました。慣れるにつれて面白くなり、非凡さを実感。文章は用語法に古さを感じますが、会話はいまとそう変わりませんね。面白さは何より、心理描写、心理分析の徹底にあります。しかし妙に入り組んでインテリじみていて、さして共感は覚えません。このへんは、もちろん好みの問題です。

最後の小説で未完といえば、最前、カフカの『城』を読んだばかり。未完の作品が読まれ続けるというのも、興味深い現象です。音楽には補筆完成という手がありますが、小説ではそれができませんものね。読了後不完全燃焼のまま漱石の生涯をたどってみたら、胃潰瘍で何度も倒れる人生であったことを知りました。ここに至り、ようやく親近感が湧いてきました。もっとも私は十二指腸潰瘍で、現代医学の恩恵を受けられたわけですが。

〔付記〕水村美苗さんという方が続編を書き、賞も取っておられるのですね。知りませんでした。

ピカンダーの構想2013年04月12日 23時59分41秒

加美町バッハホールが入手したピカンダーの詩集から《マタイ受難曲》の台本部分を眺めていて、いくつかのことに気づきました。

この詩集、出版は1729年で、《マタイ》初演の2年後です。《マタイ》が29年に再演された後、5月のライプツィヒ復活祭見本市に、詩集は出品されました。しかし《マタイ》の台本は、バッハが手にしたであろう手稿から、書き換えられていないとみてよさそうです。バッハの行った変更が、そこに反映されていないからです。

台本に含められているのは、ピカンダーによる自由詩のみです。聖書のテキストはすべて省略され、自由詩をどこで挿入するかの指示のみがあります。コラールでは、自由詩に組み込まれた2曲(冒頭合唱曲と第1部のテノール・レチタティーヴォ)のみが記されています。

さて、台本には、「シオンの娘と信じる者たち」という、役割の注釈があります。これは、バッハの自筆楽譜にはないものです。台本を会話ないし対話の様式で進めるのは、ピカンダーの常套手段とも言えるやり方です。

気がついたのは、「シオンの娘Die Tochter Zion」がつねに単数で扱われ、その主語が「私」であるのに対して、「信じる者たちDie Gläubigen」はつねに複数で扱われ、二人称複数で呼びかけられて、「われわれ」を主語とすることです。両者はつねに、一対多の関係になっている。ということは、台本に従うなら、《マタイ》はソロと合唱で演奏できる。「2つの合唱グループ」という構想は、そこには見られません。

冒頭合唱曲は「アリア」と呼ばれ、その中に、「シオン」と「信じる者たち」の対話があります。最終合唱曲は「アリア・トゥッティ」、かつChorと呼ばれていますが、それは「信じる者たち」がソロに和するからです(ちなみにこのChorは、重唱編成であることを否定するわけではありません)。

ということは、第1合唱、第2合唱の設定、アリアの両者への割り振りは、バッハの構想による、ということです。コラールをどこにどう挿入するかも、バッハの裁量です。バッハは第1幕の最後にコラールを置き、第2稿ではそれを大曲に差し替えましたが、ピカンダーの台本はその前の合唱曲(雷鳴と稲妻は)を第1部の結びとしており、「初め、中、終わりに対話楽曲を置く」という原則が明確です。こうした台本本来の構想は、二重合唱編成の発展とコラールの挿入によって、かえって見えにくくなったようにも思われます。

バッハホールのお宝、見ていると時間の経つのを忘れます。

今月の「古楽の楽しみ」2013年04月09日 23時14分24秒

「古楽の楽しみ」、今月は22日(月)からの出演になります。チェンバロ協奏曲、平均律で行ったバッハのリレー演奏がとても好評だったものですから、ご要望の多かった無伴奏ヴァイオリン曲特集を、ついに実現しました。

とはいえ、同じように聴き比べ、というわけにはいきません。なぜなら、無伴奏ヴァイオリンは曲が長く、2曲丸ごと出せば、時間がいっぱいになってしまうからです。かといって、曲の途中で演奏者を変えるわけにはいきませんよね。

そこで、6曲を全部違う奏者とし、時間の余るときに、若干の比較を行うことにしました。6曲はソナタ3曲、パルティータ3曲ですが、ソナタをモダン・ヴァイオリン、パルティータをバロック・ヴァイオリンに振り分けました。舞曲の連なるパルティータの方が、古楽の様式にふさわしいと思われたからです。たくさんの録音がありますが、基本的に、新しい演奏を中心に選びました。

22日(月)。ソナタとパルティータの各第1番。じつはこのプログラムで一度放送したことがありますが、演奏者を変えて、繰り返しました。奏者はソナタがイザベル・ファウスト、パルティータがアマンディーヌ・ベイエールです。空いた時間で、ソナタ第1番のフーガを、ヨーゼフ・シゲティと聴き比べました。ファウストとは、絵に描いたような両極端になりました。

23日(火)。ソナタとパルティータの、各第2番です。ソナタに選んだのは、メニューイン19歳の、1936年のSP録音。じつはこの演奏しか時間枠に収まるものがなかったからなのですが、演奏はなかなかよく、20年後のシゲティと比べても、ずっと新しく感じられます。

この企画を立てるときから、〈シャコンヌ〉を含む第2パルティータはシギスヴァルト・クイケンの1999/2000の演奏で、と決めていました。画期的な名演奏と認識していたからです。放送室で聴き直すと、〈シャコンヌ〉は鳥肌の立つすごさで感動してしまい、コメントが、思わず涙声に。言い間違いはもちろん、言いよどみも許されない放送ですので、録り直すつもりで準備していました。

放送が終わるとアシスタントがやってきて、「声が揺れていたのは感極まったからですか」と尋ねます。「そうです」と答えたら、「じゃ、このままいきます」ですって。みっともない放送、ご容赦ください。

24日(水)は第3番-第3番で、ソナタは、ヒラリー・ハーン。17歳の、恐るべき演奏です。パルティータは、レイチェル・ポッジャー。少し時間が余ったので、冒頭のプレリュードを、ギドン・クレーメルと比較しました。それじゃクレーメルの圧勝だよ、と思われるでしょう?そうでもないですよ。比べてみてください。

25日(木)は、編曲特集。リュート編曲を2曲、オルガン編曲を1曲のあと、野平一郎さんの4つのヴィオラへの編曲(今井信子さん他演奏)を聴いて、スウィングル・シンガーズ初期の〈ガヴォット〉で締めました。作品のすばらしさを痛感した1週間。次は、無伴奏チェロですね。