ドイツ旅行記(8)--ナウムブルク ― 2012年06月24日 23時19分00秒
ドイツの朝は早い。だがこちらも早起きです。日本から向こうに行ったときは、時差の関係で、早く目が覚めてしまうからです。夜は夏至間近で10時くらいまで明るいですから、1日に、2日分の観光ができる。訪れるのにいい季節です。
ペンションで朝食を食べ、料金を払ったら、33ユーロ(今のレートで3300円)でした。安いだろうとは思っていましたが、それにしても。Wiederauの離宮は5キロ近く離れているので、タクシーで行くことにしました。しかし呼んでもらったのはいいが、なかなか来ません。ペーガウにはタクシーがなく(だと思いました)、隣町から来るというのです。やってきたのは、とても感じの良い青年。田舎道10分ほどで、Wiederauに着きました。
ペンションで朝食を食べ、料金を払ったら、33ユーロ(今のレートで3300円)でした。安いだろうとは思っていましたが、それにしても。Wiederauの離宮は5キロ近く離れているので、タクシーで行くことにしました。しかし呼んでもらったのはいいが、なかなか来ません。ペーガウにはタクシーがなく(だと思いました)、隣町から来るというのです。やってきたのは、とても感じの良い青年。田舎道10分ほどで、Wiederauに着きました。

なぜ原綴で書いているかというと、この地名を「ヴィーデラウ」と読むか、「ヴィーダーアウ」と読むかがわからなかったからです。どちらもありそう。正解は「ヴィーデラウ」でした。早朝だったので中には入れませんでしたが、意外に豪華な内部の映像はユーチューブにあります。とりあえず、簡素な外見に接しただけで目的達成と判断し、ペーガウに戻って列車に乗り、ライプツィヒに出ました。
今日(13日)は、午後エアフルトで人と会う以外は予定がなく、どこに泊まるかも決めていません。バッハ・スポットを稼ぐチャンスです。そこでライプツィヒからエアフルトに行くICEを、中ほどのナウムブルクで下車しました。ここの聖ヴェンツェル教会には、バッハが1746年に鑑定したヒルデブラント・オルガンがあるのです。この鑑定に関しては、かなり詳細な資料が残されています。
ナウムブルクはICEも停車するかなりの都会なのですが、駅のあたりは、やはり何もありません。ヴァイセンフェルスに行く電車の待ち時間に往復しようとしたのは間違いで、市の中心まで、かなりの距離を歩きました。まず目に入ってきたのは、巨大な大聖堂です。

大きさに驚きましたが、案内付きでないと見回れませんので見学はあきらめ、にぎやかな通りを抜けて、バッハの教会へと向かいました。中央広場の奥に、この教会はそびえています。

内陣はしっとりと落ち着いて、いい雰囲気。そして運にいいことに、オルガンが流れていたのです。現代曲ですが、先日お話しした教会空間で聴く響きのやわらかさが、格別でした。壁に聖書の言葉を美しく彫り込んだ(?)プレートが掲げられています。見入っていると好感のもてる男性がやってきて、それは日本人が去年3ヶ月かけて作り、寄進してくれたものだ、と説明してくれました。オルガンへの感動を表明すると、オルガン週間をやるから来てください、とのお話。オルガンの響きはいったん止んでいたのですが再開され、バッハのト短調フーガ(BWV542)になりました。あまり上手ではありませんでしたが、このロケーションなので、感動をもって聴き入りました。記念にCDを購入。ナウムブルク、いいですよ。バッハの旅をなさる方はぜひ候補にお加えください。
ドイツ旅行記(7)--ザクセンのスイス? ― 2012年06月23日 23時58分42秒
12日(火)は、すざかバッハの会の方々が、日本に帰られる日。飛行機は夕方ですので、ドレスデン近郊の景勝地、「ザクセンのスイス」を訪れました。
こういう景勝地があることが、不思議でなりませんでした。なぜというに、ドレスデンでは、エルベ川は悠然たる大河で、大きな船が行き来しています。エルベの河口はドイツの西北、ハンブルクの近郊(北海)ですから、中部ドイツ東端のドレスデンでもなお大河だということが、日本人の感覚では信じられない。それぐらい、ドイツは平らな、大平原であるわけです。
であるからには、少しぐらい上流(チェコ方面)に行ったからといって、切り立った急流になるとは思えない。いったいどうなっているんだろう、というのが訪問のきっかけの1つでした。
わかったのは、川はなお悠然と流れているが、周囲の山が侵食された渓谷のごとき地形になるということ。エレベーターで高いところに登ることもできたようですが、ちょっと情報不足で、バート・シャンダウという、のどかな保養地を訪れるのみとなりました。まあ、連日強行の旅行者としては、ほっとできるひとときではありました。
こういう景勝地があることが、不思議でなりませんでした。なぜというに、ドレスデンでは、エルベ川は悠然たる大河で、大きな船が行き来しています。エルベの河口はドイツの西北、ハンブルクの近郊(北海)ですから、中部ドイツ東端のドレスデンでもなお大河だということが、日本人の感覚では信じられない。それぐらい、ドイツは平らな、大平原であるわけです。
であるからには、少しぐらい上流(チェコ方面)に行ったからといって、切り立った急流になるとは思えない。いったいどうなっているんだろう、というのが訪問のきっかけの1つでした。
わかったのは、川はなお悠然と流れているが、周囲の山が侵食された渓谷のごとき地形になるということ。エレベーターで高いところに登ることもできたようですが、ちょっと情報不足で、バート・シャンダウという、のどかな保養地を訪れるのみとなりました。まあ、連日強行の旅行者としては、ほっとできるひとときではありました。

ドレスデンに戻り、帰国の方々と別れて、ひとりに。寂しさと解放感の交じり合う、奇妙な気分になりました。これからの予定は、バッハ関連のスポットを、少しでも見て回ること。バッハが居住したところはすべて訪れましたが、間接的に関係をもった、伝記に必ず登場する土地で、行っていないところがまだまだあるのです。世俗カンタータに関する仕事が入りそうなので、ゆかりのところは見ておかなくてはなりません。だいたいの土地勘をつかんでおくだけでも、ずいぶん違うのです。
もう夕方ですから、手近なところがいい。そこで、バッハが《楽しきWiederauよ》というカンタータを寄せた離宮を訪れることにしました。バッハ関連の名所案内は日本語でも複数出ていますが、あいにく持参しなかったので、マイナーなところは、情報がありません。わずかの手がかりで判断すると、目的地は、ライプツィヒからツァイツに向かうローカル列車を、ペーガウというところで降りると近そう。ともあれ行ってみようと、ライプツィヒからその列車に乗りました。地図ももたずホテルのアテもない、ぶっつけの旅です。
ペーガウで降りてみると、駅の周囲はがらんとして、店は1軒もない。「旧東」の地域らしい荒廃した感じが、やはりあります。町の中心に向かっての道をずっと歩きましたが、街並みがだんだん整然としてくるにもかかわらず、お店のたぐいがまったくない。これで泊まるところがあるのだろうかと不安になり、よほど引き返そうかと思いました。しかしせっかくここまで来たのだからと、心を決めて前進。20分ほど歩いたところで、堂々たる教会を配した広場に出ました。
もう夕方ですから、手近なところがいい。そこで、バッハが《楽しきWiederauよ》というカンタータを寄せた離宮を訪れることにしました。バッハ関連の名所案内は日本語でも複数出ていますが、あいにく持参しなかったので、マイナーなところは、情報がありません。わずかの手がかりで判断すると、目的地は、ライプツィヒからツァイツに向かうローカル列車を、ペーガウというところで降りると近そう。ともあれ行ってみようと、ライプツィヒからその列車に乗りました。地図ももたずホテルのアテもない、ぶっつけの旅です。
ペーガウで降りてみると、駅の周囲はがらんとして、店は1軒もない。「旧東」の地域らしい荒廃した感じが、やはりあります。町の中心に向かっての道をずっと歩きましたが、街並みがだんだん整然としてくるにもかかわらず、お店のたぐいがまったくない。これで泊まるところがあるのだろうかと不安になり、よほど引き返そうかと思いました。しかしせっかくここまで来たのだからと、心を決めて前進。20分ほど歩いたところで、堂々たる教会を配した広場に出ました。

広場の周辺に、ありましたよ、レストランとペンションを兼ねたお店が。部屋を確保してほっとし、夕食。どちらかというと安っぽいお店なのに、ビールはとてもおいしかった。ここまで来る日本人はそういないよなあ、と思いつつ、満足と不安の入り交じる気持ちで床につきました。
ドイツ旅行記(6)--アイゼナハ ― 2012年06月22日 23時59分24秒
11日(月)はコンサートがなく、1日観光。バッハ生誕の地、アイゼナハに同行の皆様をお連れしました。珍しく列車がひじょうに混み、席を確保するのに苦労しました。
バッハ・ファンの方には、アイゼナハは、特別な思いのある土地でしょうね。ザクセンから西にテューリンゲン州へと旅し、全ドイツのちょうど中央のあたりに、アイゼナハはあります。小さな町なので、観光は一本道。最初に訪れるのは、中央広場にある聖ゲオルク教会です。バッハが洗礼を受けた教会がここで、当の洗礼盤がまだ使われています。
小さな教会の壁に、代々のオルガニスト一覧が貼ってありました。17世紀半ばからの100年ほどは、バッハ家の人ばかり4人が就任しています。それ以上に教会が押し出している音楽家は、テレマン。バッハがワイマールでオルガニストをしていた頃に、ちょうどテレマンがアイゼナハの宮廷楽長を務めていたのです。バッハは9歳までここで過ごしましたが、ゆかりの作品とかは、ないわけです。
バッハ・ファンの方には、アイゼナハは、特別な思いのある土地でしょうね。ザクセンから西にテューリンゲン州へと旅し、全ドイツのちょうど中央のあたりに、アイゼナハはあります。小さな町なので、観光は一本道。最初に訪れるのは、中央広場にある聖ゲオルク教会です。バッハが洗礼を受けた教会がここで、当の洗礼盤がまだ使われています。
小さな教会の壁に、代々のオルガニスト一覧が貼ってありました。17世紀半ばからの100年ほどは、バッハ家の人ばかり4人が就任しています。それ以上に教会が押し出している音楽家は、テレマン。バッハがワイマールでオルガニストをしていた頃に、ちょうどテレマンがアイゼナハの宮廷楽長を務めていたのです。バッハは9歳までここで過ごしましたが、ゆかりの作品とかは、ないわけです。

少し登りとなった観光路は、バッハ・ハウスへ。かつてバッハの生家と考えられていたところで、博物館になっています。きっと、どなたも訪れるところだと思います。
でもその期待は、多分満たされないでしょう。理由のひとつは、ここがバッハ家の跡ではないことが判明していること。博物館が優秀ならそれでも構いませんが、たいしたコレクションがない上に、展示も専門性を欠いています。いくつかの鍵盤楽器を試奏してくれたガイドさんの緊張感のなさにはがっかりしました。下手なのに、悪びれたところがないのです。
アイゼナハでは、ルターが幼少期を過ごしました(バッハの学校の先輩)。そのルター・ハウスの展示は立派で、雰囲気があります。でもそれをいうなら、郊外にそびえるワルトブルク城はすばらしい。ここを訪れなければ、アイゼナハに来た意味はほとんどない、と言ってもいいでしょう。ここの売りは2つあります。ルターがここにかくまわれ、聖書のドイツ語訳を行ったこと。ワーグナーの歌劇《タンホイザー》の舞台となったことです(オペラの正式な題は《タンホイザーとワルトブルクの歌合戦》)。

お城は、深い森に囲まれた丘陵の上に聳えています。中世に豊かであったようには思えないし、参集も不便であったに違いない。しかしここには、ルターと聖エリーザベトの思い出が、生き生きと住み着いているのですね。私としては、ルターより断然、エリーザベト。この女性が実在し、この城に住み、あたりを散策していたことを考えるだけで、感動に包まれます。歌合戦の模様を空想すれば、なおさらです。もちろんそれは、ワーグナーの名作があるため。優れた芸術が歴史を、歴史上の人物を不朽のものとして輝かせることが、これでよくわかります。
つい長居をしてしまい、帰りにバス停にたどり着いてみると、もう終バスが発射したあとでした。タクシーの電話を割り出して来てもらうのに一苦労。でもそれも、よい思い出です。
ドイツ旅行記(5)--教会のコンサート良し悪し ― 2012年06月21日 23時21分23秒
10日(日)、ブルックナーと昼食で満腹した私は、またまた汽車に乗り、ライプツィヒへ。17:00から聖トーマス教会で、マーカス・クリード指揮、ヴォーカル・コンソート・ベルリンによる、モテットの演奏会があるのです。古楽様式による透明な、小編成の合唱です。
プログラムの構成が、卓抜でした。「バロックの埋葬音楽」と題され、聖書から「われらの人生は70年」「死者は幸いである」「涙をもって刈り取る者は」といったテキストが選ばれて進んでいきます。作曲家は、シャイン、シュッツ、ヨハン・ミヒャエル・バッハ、シェレ、そしてバッハ。コンサートが佳境に入ると、「来たれ、イエスよ、来たれ」の歌詞によるシェレとバッハのモテットの、また「イエスよ、わが喜び」の歌詞によるミヒャエル・バッハとバッハのモテットの比較が行われました。このあたりを好きな人間にとっては、たまらないプログラムです。
演奏がまた、じつに良かった。静かで地味な、なんの見栄も張らない淡々とした演奏ですが、曲に込められた思いが、じわじわと伝わってくるのです。そのことは聴衆にしっかり伝わり、バッハのモテットが終わった後には、(もちろんたっぷりした余韻を置いてですが)深いところから湧き上がるような、長い拍手がありました。今回もっとも感動したのが、このコンサートでした。
終了後、献身的にサポートしてくださったバッハ・アルヒーフの高野さん、同僚研究者の富田さん、現地に留学中の越懸澤さんと食事。その後20:00から始まる《ゴルトベルク変奏曲》のコンサートに向かいました。こちらは裁判所の一室を借りて行われるのです。
プログラムの構成が、卓抜でした。「バロックの埋葬音楽」と題され、聖書から「われらの人生は70年」「死者は幸いである」「涙をもって刈り取る者は」といったテキストが選ばれて進んでいきます。作曲家は、シャイン、シュッツ、ヨハン・ミヒャエル・バッハ、シェレ、そしてバッハ。コンサートが佳境に入ると、「来たれ、イエスよ、来たれ」の歌詞によるシェレとバッハのモテットの、また「イエスよ、わが喜び」の歌詞によるミヒャエル・バッハとバッハのモテットの比較が行われました。このあたりを好きな人間にとっては、たまらないプログラムです。
演奏がまた、じつに良かった。静かで地味な、なんの見栄も張らない淡々とした演奏ですが、曲に込められた思いが、じわじわと伝わってくるのです。そのことは聴衆にしっかり伝わり、バッハのモテットが終わった後には、(もちろんたっぷりした余韻を置いてですが)深いところから湧き上がるような、長い拍手がありました。今回もっとも感動したのが、このコンサートでした。
終了後、献身的にサポートしてくださったバッハ・アルヒーフの高野さん、同僚研究者の富田さん、現地に留学中の越懸澤さんと食事。その後20:00から始まる《ゴルトベルク変奏曲》のコンサートに向かいました。こちらは裁判所の一室を借りて行われるのです。

演奏者はイアリアのチェンバリスト、ルーカ・グリエルミ。大局観に欠け、乱れもある演奏で、あまり感心できませんでした。華やかな演奏効果と数学的な構成の結合がこの作品の本質なので、前者に傾くと、いい結果はまず得られないように思います。
さて、教会でコンサートを聴くことの長所短所について考えたことを書かせてください。バッハの活動していたあの教会で、という付加価値は除いて考えます。
由緒ある教会で聴いて絶対にいいのは、オルガンです。石の壁に幾重にも反射して届くオルガンの響きはとてもやわらかく、コンサートホールで聴くナマなパイプの響きとは大きく異なります。しかし合唱、合奏となりますと、短所も無視できないように思われます。
BCJの《マタイ受難曲》は、バッハの時代そのままに、2階の合唱席で演奏されました。これですと、1階中央の聴き手は祭壇を向いていますから、演奏者を見ることができずに、背後から聴くことになります。これはこれで、宗教音楽を聴くためにはいい形であると思います。私は2階席で聴きましたが、演奏者の全部ないし一部を距離をおかずに見ることができる反面、印象がリアルになり、教会の「ありがたみ」は後退するように思います。
前述したモテットのコンサートは、1階の祭壇側に演奏者が立って行われました。コープマンのカンタータも同様です。これも悪くはないのですが、構造上演奏者を見にくく(前にいるのでつい見たくなります)、音も散りがちて、かならずしも十分な量感で届いてきません。コンサートホールがいかに演奏を「見ながら聴く」ことに便利にできているかが、逆に実感されます。プログラムを見る配慮もおそらくあって、教会は、いつになく明るく照明されています。そうなると、教会特有の神秘感もまた、減退するわけです。というわけで、「教会音楽は教会で聴かなければ」とは、必ずしも言えないように思いました。1日3コンサートの強行軍。ドレスデン帰還はこの日も最終列車になりました。
ドイツ旅行記(4)--2つのコンサート ― 2012年06月20日 23時00分58秒
ライプツィヒ・バッハ祭6月9日のハイライトは、聖ニコライ教会で20:00から始まるコンサートでした。ニコライ教会は《ヨハネ受難曲》を初演したところで、バッハのカンタータ演奏においてはトーマス教会以上の重要性をもっていた教会です。

コープマンの出演が人気を呼び、チケットは発売と同時に売り切れたそうですが、私は、一抹の不安を感じていました。コープマンはいま一番活躍しているバッハ演奏家ですが、とにかく出来不出来がある。私が日本で聴いたコンサートは、あいにく全部不出来でした。優秀なオーケストラと合唱団を擁していますから、鍵盤のソロはともかく、指揮ならばそうなるはずはないのですが。
しかしこの日は、登場から闘志満々。さすがハイレベルの、生気にあふれた演奏でした。曲目は管弦楽組曲第1番ハ長調、カンタータの第51番、第199番、第202番というものでした。えっ、ソプラノのソロ・カンタータが3曲?と思われますよね。その通りで、3つの難曲をすべて、ドイツのソプラノ、ドロテー・ミールツが歌ったのです。若々しい魅力的な女性で、歌唱も輝きにあふれて完璧。こうしたプログラムで起用されるだけのことはあります。51番のトランペットも、たいしたもの。沸きに沸く会場をあとに、終電車でドレスデンに帰還。
翌10日は日曜日。午前中にゼンパー・オーパーで、ドレスデン・シュターツカペレのコンサートが組まれていました。大統領(←ドイツでは儀礼的な役割のために存在している)の主宰するチャリティで、国歌の吹奏、大統領とザクセン州知事のスピーチのある、晴れがましいコンサートです。曲目はブルックナーの第8交響曲で、指揮はクリスティアン・ティーレマン。じつに幸運なタイミングで、このコンサートに飛び込めました。
翌10日は日曜日。午前中にゼンパー・オーパーで、ドレスデン・シュターツカペレのコンサートが組まれていました。大統領(←ドイツでは儀礼的な役割のために存在している)の主宰するチャリティで、国歌の吹奏、大統領とザクセン州知事のスピーチのある、晴れがましいコンサートです。曲目はブルックナーの第8交響曲で、指揮はクリスティアン・ティーレマン。じつに幸運なタイミングで、このコンサートに飛び込めました。

壮麗な演奏でしたね。ホルン、ワーグナー・チューバ、トロンボーンなど金管陣の厚みはすばらしく、ブルックナー・サウンドがホールを包んで圧巻。最後、各楽章の主題が同時的に結合されるクライマックスが訪れますよね。響き終わったあと、私は大きな拍手とブラボーの嵐が来ると思っていました。
ところが、演奏の余韻を噛みしめる静寂が、私の感覚では15秒ほど、訪れたのです。さすが熟した聴衆と、私は本当に感心しました。taiseiさんがヴィンシャーマンのコンサートに対して同じ感想を書かれていますが、やはりコンサートはこうあるべきいう確信を新たにしました。すぐ拍手したのではその時点で日常に戻ってしまいますが、余韻を楽しむ時間をもつことにより、すばらしい演奏を聴いた体験を、心に深く刻むことができるのです。皆さん、ぜひそうしていきませんか。
ドイツ旅行記(3)--マイセン探訪 ― 2012年06月19日 23時33分57秒
1727/29年の初稿によって演奏された、BCJの《マタイ受難曲》。終わったのは11時でした。開始が8時過ぎでしたので、テンポがひじょうに速ければこそ、この時間に終わったのです。しかしドレスデン行きの最終列車は、もう出てしまっていました。そこでタクシーで帰りましたが、遠距離の割に、160ユーロは安いですね。円高の恩恵でもあります。しかし運転手さんがアウトバーンを飛ばしに飛ばしたため、トラックを追い越すごとに冷や汗をかきました。180キロぐらい出ていたでしょうか。
9日は、近郊のマイセンを探訪。もちろん陶器の博物館からです。当地のものばかりでなく、日本や中国を含む世界の陶器が集められており、美しくも充実したコレクションでした。しかし、ビジネス・クラスに大枚をはたいてやってきた私に、購入のゆとりのあろうはずはありません。こうした陶器文化もみな、バッハに対マルシャン勝利の賞金を与えた選帝侯、フリードリヒ・アウグスト1世に発するんですよね。
博物館を出て、大聖堂を目指すルートを散策しました。これが、すばらしいのです。閑静で落ち着いていて、ドイツの小都市の魅力が一杯。小高いところにある大聖堂の手前、見晴らしのよいレストランで昼食にしました。からりとした好天では、室内で食べる人はいません。庭で景色を楽しみながら食べるのが、こちらの流儀です。
9日は、近郊のマイセンを探訪。もちろん陶器の博物館からです。当地のものばかりでなく、日本や中国を含む世界の陶器が集められており、美しくも充実したコレクションでした。しかし、ビジネス・クラスに大枚をはたいてやってきた私に、購入のゆとりのあろうはずはありません。こうした陶器文化もみな、バッハに対マルシャン勝利の賞金を与えた選帝侯、フリードリヒ・アウグスト1世に発するんですよね。
博物館を出て、大聖堂を目指すルートを散策しました。これが、すばらしいのです。閑静で落ち着いていて、ドイツの小都市の魅力が一杯。小高いところにある大聖堂の手前、見晴らしのよいレストランで昼食にしました。からりとした好天では、室内で食べる人はいません。庭で景色を楽しみながら食べるのが、こちらの流儀です。

全員大満足でドレスデンに戻りました。同行の方々は、国立歌劇場でオペラ鑑賞(ドニゼッティの《愛の妙薬》)。私は聖ニコライ教会のコンサートを聴くために、ライプツィヒに向かいました。トン・コープマンがアムステルダム・バロックを率いて、バッハの管弦楽組曲とカンタータを演奏するのです。
ドイツ旅行記(2)--鈴木さんに祝辞 ― 2012年06月18日 23時35分31秒
宿泊地ドレスデンからライプツィヒへは、1時間ちょっとかかります。見本市が売り物の商業都市であるためか、来るたびににぎわいを増すのが、ライプツィヒ。7日からバッハ祭が始まっていますので、あちこちに垂れ幕があり、活気があります。

聖トーマス教会にたどり着くと、向かいのレストランからヴォルフ先生が飛び出してこられ、ご挨拶。教会に入ると、なんと《マタイ受難曲》の最終合唱曲が流れてきました。丈高い空間に幾重にも反響して届いてくる響きは美しく、同行の方々が感激。鈴木雅明さんとバッハ・コレギウム・ジャパンが、リハーサルをしていたのです。そのこと自体、大したものだと思います。
今が盛りの珍味、シュパルゲル(白アスパラガス)を食べ、バッハ博物館を覗きました。バッハ所蔵の聖書、トーマス学校関連の文書など新たに発見された資料を加えた展示はさすがで、見応えがあります。私は閲覧もそこそこに、旧市庁舎へ。この建物、ご存知ですか?広場の縁に立つ歴史的な建物で、2階が、コンサートやイベントの会場になっています。クイケン兄弟の《音楽の捧げもの》DVDは、ここで録画されたものです。
会場では、8日15:00から始まる鈴木さんの受賞式の準備が進み、人が集まってきていました。2003年から始まったライプツィヒ市提供のこのメダル、過去の受賞者は、レオンハルト、リリング、ガーディナー、コープマン、アーノンクール、マックス、ベルニウス、ヘレヴェッヘ、ブロムシュテット。東洋/日本からの受賞者は、もちろん鈴木さんが最初です。内外の報道陣がすごく、この賞の権威を裏付けています。
「バロッキアーナ」という小アンサンブルの奏楽で、式は始まりました。ここでサックバットを担当している和田健太郎さんの演奏がみごと。声楽とともに歌い合い、曲の内側に入り込んでいるのです。
いろいろな方がスピーチされるのかと思ったら、市長の挨拶のあとはすぐ私の祝辞になっています。きわめて重い役割であることがわかりました。市長(ブルクハルト・ユング氏)は長身の美男子で、知性と社交性にあふれた挨拶。これでは太刀打ちのしようがありませんが、私もネイティヴの方の協力をいただいて準備をしっかりしておきましたので、それほど緊張せずに、スピーチに立つことができました。

私がお話ししたのは、次のようなことです。鈴木さんが最初の非ヨーロッパ人として受賞したことは、バッハの音楽のもつ普遍性の証明であること。鈴木さんはバッハと同質の「学識ある音楽家」(ヴォルフ氏)であり、その意味で「日本のバッハ」と呼ぶにふさわしいこと。日本人の伝統的な感性は本来バッハの音楽とは距離があり、キリスト教を信仰している人もわずかではあるが、それでも日本人は宗教性、霊性への豊かな感受性からバッハを尊敬し、その受容に努力を払ってきたこと。その流れの上で、鈴木さんはまさに待望されたバッハ・スペシャリストであること。本当に数多い日本のバッハ愛好家のためにも、このような形であらわれた本場との交流を大切にしたいこと。などなどです。
何はともあれ、堂々とやるように務めました。言葉が届いている手応えはもちながら話しましたが、鈴木さんと握手して席についてもなお拍手が続いていたので、自分なりに結果は出せた、と安堵しました。そのあとにヴォルフ先生の賞状朗読とメダルの授与、鈴木さんのスピーチ、奏楽と続いて、1時間余りの式は終了しました。解散後はドイツ大使主催のレセプション、ヴォルフ先生を交えての食事会となり、夜の8時から、バッハ・コレギウム・ジャパンによる《マタイ受難曲》演奏会が、聖トーマス教会で行われました。
ドイツの方々、またドイツ在住の方々から「すばらしいスピーチだった」とずいぶん言っていただきました。しかし喜んでばかりもいられないのが、この手の賛辞です。なぜなら、そこには私のドイツ語力に対する過大評価が含まれているからです。準備して初めてできることは、準備なしではなしえません。しかし、「なあんだ」と思われることは、避けたいわけです。
鈴木さんの受賞は慶賀の極みですが、それは大きな重荷を背負われたことでもあります。今後は、聴き手からの要求も厳しく、欲張りになってくることでしょう。この機会に自分の音楽をもう一度見直され、内側から喜びの湧きあがるような、柔軟で新鮮なアプローチを育てていただけるよう、お願いします。
ドイツ旅行記(1)--快適なフライト ― 2012年06月17日 23時50分29秒
たいへんお待たせしました。帰国しましたので、連載を開始します。
今回の渡独で、画期的なことがひとつあります。それはこれが、生まれて初めての、自費によるビジネス・クラスの旅行だったことです。
自費でないビジネス・クラスのフライトは過去に2度経験したことがあります。最初の時には大いに舞い上がって吹聴し、『穴(ANA)の糸』なる小説の主人公にしていただきました。ビジネスとエコノミーの違いは本質的にメンタルなものだ、というのが、私の主張です。エコノミーの場合には、すし詰めの空間でサービスをしてくださるアテンダントに、「忙しいのにすみません」という、上目遣いの対応になってしまう。しかしビジネスであれば、「自分は客である」という自信を持った対応をすることができる。それが旅行の快適さを大きく左右する、というのが、私の持論なのです。
あるときその持論を、学生たちに対してとうとうと述べていました。君たちはビジネスに乗ったことないだろ、と当たり前の質問を投げかけたところ、ある女子学生が、「航空会社の都合でファースト・クラスに乗りました」と言ったのです。白けましたね、私は。理不尽なことだと思います。私も飛行機にファースト・クラスが存在することは知っていますが、そのことをなるべく忘れようとして、ビジネス・クラスを讃えているのだからです。
ともあれ、ANAミュンヘン行きのビジネス・クラスに、胸を張って搭乗。やや引け目を感じるのは、マイルがゼロであることです。迎える側はどのお客がマイルの溜まった常連かをすでに把握している、という風説に接していましたので。
ビジネス、やっぱりいいですよ。いきなり振舞われるシャンパン、選択肢の多いお酒、充実した食事、幅広いスペースと高機能の座席。ひとつひとつ喜びをもって受け止めましたが、そのたびに、エコノミー席の状況が気になります。もちろん、なるべく差をつけて欲しいと思っているわけです。
12時間のことですから、ここは節約して、という価値観も、十分にあり得ると思います。帰りにはもう行きほどの感動はありませんでしたが、それでも水平に寝られるスペースはありがたく、ゆっくり睡眠を取ることができました。
ミュンヘンで乗り継ぎ、ドレスデン空港で降りて、新市街のホテルへ。まだ深夜ではありませんでしたので、旅の前半に同行されるすざかバッハの会の幹部の方々とご一緒に、旧市街を散策しました。もちろん、翌日のオブリゲーション(祝辞を述べる)を気にしながらです。
今回の渡独で、画期的なことがひとつあります。それはこれが、生まれて初めての、自費によるビジネス・クラスの旅行だったことです。
自費でないビジネス・クラスのフライトは過去に2度経験したことがあります。最初の時には大いに舞い上がって吹聴し、『穴(ANA)の糸』なる小説の主人公にしていただきました。ビジネスとエコノミーの違いは本質的にメンタルなものだ、というのが、私の主張です。エコノミーの場合には、すし詰めの空間でサービスをしてくださるアテンダントに、「忙しいのにすみません」という、上目遣いの対応になってしまう。しかしビジネスであれば、「自分は客である」という自信を持った対応をすることができる。それが旅行の快適さを大きく左右する、というのが、私の持論なのです。
あるときその持論を、学生たちに対してとうとうと述べていました。君たちはビジネスに乗ったことないだろ、と当たり前の質問を投げかけたところ、ある女子学生が、「航空会社の都合でファースト・クラスに乗りました」と言ったのです。白けましたね、私は。理不尽なことだと思います。私も飛行機にファースト・クラスが存在することは知っていますが、そのことをなるべく忘れようとして、ビジネス・クラスを讃えているのだからです。
ともあれ、ANAミュンヘン行きのビジネス・クラスに、胸を張って搭乗。やや引け目を感じるのは、マイルがゼロであることです。迎える側はどのお客がマイルの溜まった常連かをすでに把握している、という風説に接していましたので。
ビジネス、やっぱりいいですよ。いきなり振舞われるシャンパン、選択肢の多いお酒、充実した食事、幅広いスペースと高機能の座席。ひとつひとつ喜びをもって受け止めましたが、そのたびに、エコノミー席の状況が気になります。もちろん、なるべく差をつけて欲しいと思っているわけです。
12時間のことですから、ここは節約して、という価値観も、十分にあり得ると思います。帰りにはもう行きほどの感動はありませんでしたが、それでも水平に寝られるスペースはありがたく、ゆっくり睡眠を取ることができました。
ミュンヘンで乗り継ぎ、ドレスデン空港で降りて、新市街のホテルへ。まだ深夜ではありませんでしたので、旅の前半に同行されるすざかバッハの会の幹部の方々とご一緒に、旧市街を散策しました。もちろん、翌日のオブリゲーション(祝辞を述べる)を気にしながらです。
ようやく更新 ― 2012年06月11日 06時37分39秒
有事に備える、慎重な性格の私。定年とはいえ日本との連絡は切らせませんから、三重の通信方法を用意しました。携帯電話、パソコン、スマホです。セーフティネットの構築とは、こういう発想を言うのだと思います。
携帯電話は、空港で海外仕様に設定していただき、完璧。スマホも同様です。しかし、伏兵はあるものですね。充電器を忘れていた。このため携帯は、ドイツ入国後まもなく、使えなくてなってしまいました。
もちろんあわてません。パソコンがあるからです。しかもホテルには、高速の無線ランが備えられています。立ち上げればすぐつながる、スグレものであるとのこと。
しかしこの無線ランが、つながらないのです。万策尽きてホテルに相談すると、機能の提供元の電話番号を示し、ここに相談しろという。これはダメだということでパソコンは諦め、スマホで通信することにしました。スマホなら、パソコンと携帯電話の機能を兼ねられるからです。
スマホは、充電から始めなくてはなりません。ところが現地方式の奥まったソケットにプラグが届かず、これで2日を浪費。やっと正しい変換器をゲットし、充電を開始しました。しかし起動と終了の間をループするばかりで、一向に充電できません。
何かないかと荷物を物色していたら、充電用のコードがもうひとつあることに気付きました。よく見るとスマホ用、試していたのはデジカメ用であったのです。
ようやく充電が始まり、やっと更新できるようになりました。次は、嵐の日々をご案内いたします。
携帯電話は、空港で海外仕様に設定していただき、完璧。スマホも同様です。しかし、伏兵はあるものですね。充電器を忘れていた。このため携帯は、ドイツ入国後まもなく、使えなくてなってしまいました。
もちろんあわてません。パソコンがあるからです。しかもホテルには、高速の無線ランが備えられています。立ち上げればすぐつながる、スグレものであるとのこと。
しかしこの無線ランが、つながらないのです。万策尽きてホテルに相談すると、機能の提供元の電話番号を示し、ここに相談しろという。これはダメだということでパソコンは諦め、スマホで通信することにしました。スマホなら、パソコンと携帯電話の機能を兼ねられるからです。
スマホは、充電から始めなくてはなりません。ところが現地方式の奥まったソケットにプラグが届かず、これで2日を浪費。やっと正しい変換器をゲットし、充電を開始しました。しかし起動と終了の間をループするばかりで、一向に充電できません。
何かないかと荷物を物色していたら、充電用のコードがもうひとつあることに気付きました。よく見るとスマホ用、試していたのはデジカメ用であったのです。
ようやく充電が始まり、やっと更新できるようになりました。次は、嵐の日々をご案内いたします。
小銭 ― 2012年06月06日 23時20分29秒
渡独前最後の仕事は、「古楽の楽しみ」の録音。原宿でJRを降り、昼食に入りました。カレー屋です。
注文してから気づいたのですが、財布がない。持たずに出てきたようです。いまはスイカ1枚あれば都内までどんどん来てしまうので、財布を忘れても気が付かないのです。
淡々と記述していますが、あわてました。初めてのお店でじつは持ち合わせがない、となるのは最悪。カバンの中を調べましたが、よく入ったままになっている封筒入りの紙幣は、全部使い積みで見つかりません。今日は名刺もないし、すっかり困ってしまいました。
繰り返し探す内、カバンの中に、小銭があるのを発見。全部集めてみたら、なんと、1170円になったのです。カレーは900円なので、270円残して支払うことができました。良かった。悪いツキを使ったので、収録は順調にいきました。もちろん、当初予定していた床屋は諦め、何も買わずに帰宅しました。
夜はスピーチ原稿の完成に励み、ひととおり旅行準備を済ませたところです。今はネットでチェックインができるのですね。じつに便利。妙に荷物が少なく、何か忘れているのではないかと心配です。
注文してから気づいたのですが、財布がない。持たずに出てきたようです。いまはスイカ1枚あれば都内までどんどん来てしまうので、財布を忘れても気が付かないのです。
淡々と記述していますが、あわてました。初めてのお店でじつは持ち合わせがない、となるのは最悪。カバンの中を調べましたが、よく入ったままになっている封筒入りの紙幣は、全部使い積みで見つかりません。今日は名刺もないし、すっかり困ってしまいました。
繰り返し探す内、カバンの中に、小銭があるのを発見。全部集めてみたら、なんと、1170円になったのです。カレーは900円なので、270円残して支払うことができました。良かった。悪いツキを使ったので、収録は順調にいきました。もちろん、当初予定していた床屋は諦め、何も買わずに帰宅しました。
夜はスピーチ原稿の完成に励み、ひととおり旅行準備を済ませたところです。今はネットでチェックインができるのですね。じつに便利。妙に荷物が少なく、何か忘れているのではないかと心配です。
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