今月の「古楽の楽しみ」2012年07月08日 23時30分31秒

16日(月)~19日(木)です。バッハのチェンバロ協奏曲を特集しました。

総時間を合計すると、どう計算しても、放送時間ぎりぎり。残念ながら、2台用BWV1062の第2楽章(←一番長い)を割愛しました。しかし、明るく楽しい名曲揃いですね。チェンバロのソロですと旋律がくっきり浮かんで来ないうらみがどうしてもありますので、ピアノによる演奏も、とてもいいと思います。1曲ずつ演奏者を変え、ピアニストも混ぜる、という方針でCDを選びました。それぞれの曲にイチオシの演奏を並べられると良かったのですが、放送の悲しさ、最優先事項は演奏時間でした。

16日(月)は1台用の3曲。イ長調BWV1055(フリッシュ/カフェ・ツィンマーマン)、ホ長調BWV1053(マルタン/ラ・フォリー・フランセーズ)、そしてニ長調BWV1054(リフシッツ/シュトゥットガルト室内管)。リフシッツ、すばらしいですよ。

17日(火)も1台用3曲。ニ短調BWV1052(エガー/マンゼ)、ヘ長調BWV1057(アレッサンドリーニ/コンチェルト・イタリアーノ)、ヘ短調BWV1056(タロー/ラバディ)です。

18日(水)は色とりどり。1台用で残るト短調BWV1058は、リフシッツのアンコールとしました。次に3台用のニ短調BWV1063(コドレアヌ、オスター、ラウクヴィク)と、2台用で唯一のオリジナル曲、ハ長調BWV1061(コープマン、マトー)。最後にBWV1062の第1楽章(コープマン)。

19日(木)は、3台用のハ長調BWV1064(武久源造、大塚直哉、平井み帆)から始め、4台用のイ短調BWV1065(レヴィン他、リリング指揮)、2台用のハ短調BWV1060とBWV1062の終楽章(シフ、ピーター・ゼルキン)で構成しました。楽しく聴けます。どうぞよろしく。

ホーム上で2012年07月07日 01時13分48秒

座席の隣に荷物を置いている人って、いますよね。荷物を膝の上に移せば人が座れるのだが、立っている人がいるのに、そのままにしている。座らせろという意思表示があるまでは、荷物に権利がある、と思っているかのようです。意思表示はそれなりにストレスですから、立っている人も、そこまではしない。バスではごく普通の光景ですが、いやだなと思っていました。

TBSの《マタイ受難曲》に出かける途中の、国立駅。ホーム上に、待合席があります。5人がけで、座っているのが3人。向こうから2つ目が空いており、一番手前の席には箱のようなものの入った、小さな袋が置いてありました。持ち主は、30代とおぼしき男性です。

この袋がなければ座れるのにな、と思いました。混んではいないが、立っている人もそれなりにいる状況。向こうから2つ目の空席にいけば問題はなかったのですが、ここで私に、闘争本能が生じてしまったのです。この端の席に座りたい、という気持ちが生まれました。座らせてくれませんか、という必要はない。袋は小さいので、端にちょこっと腰掛ければ、男が袋をどかすだろう、と思ったのです。

まず、いかにも座りたそうに、側に立ってみました。反応なし。そこで決行。予想に反したのは、袋にさらわずに座るつもりが、袋に接触してしまったことでした。そうしたら、男が激怒したのです。「袋の上に座った、謝れ。」「いや、少しさわっただけだ。」「いくらでも空席があるだろう。」「ここは荷物の座るところではない。」「座らせてくれ、となぜ言わないのか。」「そんな必要はない」--などなど、しばらく、喧嘩腰の対話。これ以上突っ張ると危ないな、と思ったので切り上げ、「それはすみませんでしたね、ごめんなさい」と下手に出ました。ただし、目を見ながら笑顔で、半分からかうように。男は「ケッ!」と言って荒々しく場所を移動しましたので、私は電車が来るまで、ゆっくり座ったのでした。

いい気持ちはしませんでしたが、不愉快の度合いは向こうがはるかに上だったことでしょう。でも、もういたしません。

感動的な《マタイ受難曲》2012年07月05日 23時49分02秒

1日の日曜日、三澤洋史指揮、東京バロック・スコラーズ(TBS)による「21世紀のバッハ」シリーズの一環として演奏された《マタイ受難曲》を、すみだトリフォニーで聴きました。作品のすばらしさがひたひたと迫ってくる趣の演奏で、ここしばらく聴いた《マタイ》では最高のものであったというのが、私の実感です。

というのも、合唱のテキスト理解が断然深く、それが豊かな共感として、合唱曲を、コラールを包んでいたから。TBSはアマチュア合唱団としては高いレベルの力量をもっていますが、それと同時に、作品に対する研究の姿勢が行き届いているのです。私の講演会シリーズを熱心に受講したと言うとなあんだと言われてしまいそうですが、そこで培った本質への理解は、力量の高さと結びついたとき、演奏の質を高めずにはおきません。何しろ、佐藤研さんのような第一線の聖書学者の講演も設定され、受難とは、イエスとはという事柄に、鮮明なイメージを形成して演奏に臨んだのです。果たせるかな演奏に反映された成果のみごとさに、佐藤さんと、思わず顔を見合わせてしまいました。

このように内側からの高まりを演奏に結びつけるのが、三澤さんのやり方です。TBSの一部をなすオーケストラがこうした合唱とまったく違和感なくまとまっていたのも、なかなかないこと。三澤さんは「ロマンティックな解釈だとお叱りを受けるのではないかと思っていた」とおっしゃいましたが、これだけバッハの作品世界が掘り下げられ、最後の合唱が感動を込めて歌われれば、まったく文句はありません。本来声楽家である三澤さんがチェンバロを弾いて指揮され、全体の大きな流れを仕切られたことにも驚きました。

畑儀文さんの福音書記者の貫禄もたいしたものでしたが、《マタイ》は初体験とおっしゃった國光ともこさん(ソプラノ)の新鮮な感動にあふれた歌唱には心を射抜かれました。終了後、打ち上げ。その場で心からの賛辞を述べられるほど、嬉しいことはありません。リップサービスはしない、私ですので。

7月のイベント2012年07月05日 00時31分51秒

in Japanです(笑)。

7日(土)10:00は、朝日カルチャー新宿校のバッハ/世俗カンタータ講座。知名度の少ない曲をやっていますが受講生に恵まれ、活気を呈してきました。今月はBWV202、204、209。ソプラノのソロ・カンタータの特集です。

11日(水)は、客員教授の肩書をいただいている大阪音大で講義です。「研究と実践の協同--私の体験」というタイトルで、音楽学と演奏の接点を考えます。18日(水)はピティナで、バッハのピアノ曲の演奏法について講義・・・するはずなのですが、ホームページに掲載されていませんね。どうなっているんだろう。

20日(金)19:00は、宮崎市民プラザのオルブライト・ホールで、シムウェル(大薗)英華さんのピアノ・リサイタルのレクチャーをします。曲目は月光ソナタと、バッハ/ブラームスの《シャコンヌ》、《展覧会の絵》(彼女が修士論文で研究した作品)。かつて仲間たちとともにリサイタルを支援したことのある、賛嘆の的だった方のコンサートです。いらっしゃれる方は、応援してください。

28日(土)13:00は、朝日カルチャー横浜校のエヴァンゲリスト講座。今月のテーマは鍵盤用のパルティータです。最近日程が不規則な「たのくら」(楽しいクラシックの会、立川)は29日(日)の10:00から。「若きワーグナー」と題して、初期の作品を採り上げます。どうぞよろしく。

ドイツ旅行記--総括2012年07月02日 23時34分01秒

さて、総括です。

行って、本当に良かったと思う。その理由の第一は、ライプツィヒのバッハ祭で祝辞という大役を仰せつかり、それを無事にこなすことができた、ということです。鈴木さんの栄誉にはもちろん及びもつきませんが、研究者としてはとても光栄な仕事で、この人生にいい思い出ができた、という気持ちがしています。

第二の理由は、別世界のような緊張感のある10日間を過ごせた、ということです。新しいことが次々に起こり、1日を、本当に長く感じる毎日。夜10時まで明るいという条件下で昼が長く、時間を有効に使えました。体感、3倍の密度でしょうか。定年以来、時間の使い方がどこかで緩んでいましたので、それを引き締めのるに十分な、旅行の期間でした。コンサート、見学、再会などの出来事は、すべてその内容です。

第三の理由は、いつになく身体を動かせたこと。毎日相当に歩き、急いだり走ったりもしましたので、日頃不足している運動を、かなりすることができた。上記の緊張感があればこそでしょう。

帰国すると、すべてはリセットされ、日常に戻ります。さしたる成果もないまま、毎日が急ぎ足で過ぎ去ってゆく。だからこそ旅行の効用は絶大なのですが、私はドイツに住みたいとはまったく思いません。日本はいいなあというのが、いつも最後に来る感想です。

旅行中痛感したのは、自分の語学力の不足でした。なによりも友人たちとの語らいのときに、それを感じます。日本の経済事情を問われても、本当に単純な答えしか返せない。本当は、もっともっと突っ込んだ会話をしたいのです。

私は考える。残された時間を、ドイツ語の会話をもっと向上させるよう努力する、という選択肢があります。旅行するたびに、あるいはドイツ語で仕事をするたびに心に浮かぶ選択肢です。しかしある程度はできるわけなので、この人生ではこのぐらいで仕方ないと見切りをつけ、英語をパワーアップするべきではないか、とささやく声あり。しかしもうひとつの声は、違うメッセージを発します。もう歳だし、会話力はこのぐらいであきらめて、音楽の専門的な研究に、残された時間を使うべきではないか、というものです。人間の一生、できることは少ないものですね。

ドイツ旅行記(13)--最後の訪問地2012年06月29日 23時51分59秒

15日(金)。バイエルン国立歌劇場に面した広場で、友人たちと昼食。舌鼓を打った白アスパラガスはもう終わりでしたが、Piffaringeというキノコが美味でした。もう1日泊まり、明日の飛行機でドレスデンに行けばいいじゃないか、という勧めを振りきって、帰路へ。ドレスデン発の帰国便はミュンヘンで乗り継ぎになりますので、チケットの帳尻を合わせるために飛行機代を払うのは、ばかばかしい。だったら大活躍してくれたジャーマン・レイルパスを使って、もう1箇所、観光しようと思いました。

バッハがらみのスポットでできれば訪れたかったのが、マイニンゲンです。バッハはここの領主が書いた宗教詩をカンタータでいくつも使っていますし、宮廷楽長、ヨハン・ルートヴィヒ・バッハのカンタータも、ライプツィヒでたくさん演奏している。ザンガーハウゼンよりもむしろこちらを見ておきたいという気持ちが、募っていました。

しかしどう考えても、テューリンゲンの奥深くローカル列車で入ると、時間があぶない。それにこの期に及んで、名もない旧東独の乗り継ぎ都市に宿を探す面倒はしたくありませんでした。ミュンヘンからドレスデンへは、ニュルンベルク、ナウムブルク、ライプツィヒと経由するのが順路です。その途中にスポットを探し、バンベルクを訪れるのが最良、という結論を出しました。バンベルクはワインの本場、フランケン地方の都市。バンベルク交響楽団の本拠地で、世界遺産にもなっています。バイロイトにも近いところです。

バンベルク、良かったですよ。カトリック信仰の一大中心地という感じで、旧市街には、大聖堂を初め、大きな教会が密集。ホテルをとった新市街から、水量豊かな川を渡り、新市街に入っていきます。絵のような風景です。


楽器をもった人たちにもずいぶん出会いました。きっとオーケストラのメンバーでしょう。しかし金曜日の夜だったせいか、町は享楽ムードに溢れていました。ワインのレストランで飲んだフランケンのアウスレーゼは抜群でしたが、肉の料理は、もう喉を通りませんでした。写真は大聖堂です。


翌日列車でドレスデンに戻り、空港のコインロッカーが無事に開いて、私の旅が終わりました。機中で、篠田節子さんの『彌勒』を一心不乱に読み、読了。この方の小説には、思想がありますね。短兵急な主張ではなく、本質的な価値観の問いかけが行われていて、奥が深いのです。

長いことお付き合いありがとうございました。次の更新で、旅行を総括します。

ドイツ旅行記(12)--衣食住2012年06月28日 23時24分46秒

衣食住という、バロメーターがありますね。その人たちの生活にとって、何が重要かをあらわします。私見によれば、日本人は4:4:2ぐらいではないでしょうか。家が狭くても、どんなに散らかっていても、きれいな格好をしておいしいものを食べているのが日本人です。

ドイツ人は違いますよ。圧倒的に、「住」を大事にする。私見によれば、1:2:7ぐらいに思われます。身を飾らず、素朴な料理を食べて、階級を問わず、ピカピカの家に住んでいる。環境、伝統、いろいろな理由があるに違いありません。

日本人には考えにくい、ドイツ人の習慣。ドイツ人は、家に他人が入ってくることを苦にしません。お客を、どんどん泊める。お客が来ると、家庭なら家を、職場なら職場を、全部見せます。台所も、お風呂場もひとつずつ案内するのです。それがお互い様の習慣ですから、当然、いつ見せてもいいように、磨いておく。ドイツで間借りをする人は、このことに注意しておかなくてはいけません。

ムフラーさんの弁護士事務所をかく見学し、家族合体の夕食を過ごした後、ベームさんのお宅に泊めていただくことになりました。恩義のある友人ですが、すごい家に住んでいる。ピアノのある1階はお客様に開放され、庭には池がある。じつに広々した空間です。こうした家をもつことを、衣よりも食よりも、優先しているわけです。犬も幸せ。


翌日は、彼が社長をしている会社を見学しました。クリーン・エネルギーの研究をしており、広大な敷地の中に、教会もあれば病院もあり、ホテルやレストランはいわずもがな、大学の学部まで誘致されている。あとは軍隊だけだな、と言っておきました。成功の要因は間違いなく、包容力のある人柄です。


見学のあとは、ミュンヘンまでドライブ。会社があるのはザルツブルクに近づいたあたりで、アルプスの迫る、広大な平原です。アウトバーンを走るドライブは、じつに快適でした。この彼から私は、留学時の住まいを又借りしていたのです。その住まいをもう一度確かめたく、連れて行ってもらいましたが、記憶は薄れていて、意外に感動が湧いて来ませんでした。

ドイツ旅行記(11)--旧友の歓迎2012年06月27日 23時41分44秒

すべての連絡手段を奪われてミュンヘンに到着した私ですが、旧知の都市であるためか、それほど悲壮感はありませんでした。友人たちとは夕方に合流すればいいとして、昼間は、留学中の愛弟子、川辺茜さんとの再会を楽しみにしていました。頭脳明晰、快活な女性で、《ポッペアの戴冠》成功の原動力だった人です(幸運の女神、小姓の役)。写真がフェイスブックで出まわっているようなので、こちらでも1枚出しておきましょう。ビールのジョッキがよく似合います。



それにしても、ミュンヘンの賑やかさは驚きでした。豪華な街並みに生気が溢れ、「輝いている」という感じなのです。旧東独地区もよくはなってきたが、まだまだ格差がある、という情報を裏書きする繁栄ぶりです。

昼食を摂りながら情報交換をした後、私は彼女と別れて、ゼンドリングという地域に移動しました。30年前に住んでいたところを確かめたかったのです。しかしこの辺だと思う駅に下車してもまったく記憶がよみがえらず、無駄足。そんなものでしょうかね。

再び市の中心に戻り、川辺さん、千葉祐也君に合流しました。千葉君もiBACHのコア・メンバーで、カンタータ第64番のソロや、《マタイ受難曲》(リフキン指揮)のペトロ/ピラトその他を歌ってくれた好青年です。ラーメン屋でアルバイトをしながら、歌の勉強をしています。

しかしいくらなんでもそろそろ、友人たちとのコンタクトを確立しなくてはいけません。私が考えたのは千葉君の住まいで私のノートパソコンをネットにつなぐという方法でした。でもそれなら無線LANだからスターバックスでも同じだ、ということになり、喫茶店へ。ところが、私のパソコンだけ、どうしてもつながらないのです。

万策尽きた、と思われたところで、天啓のようなアイデアが到来。友人のひとりは弁護士だから、職場の電話番号を調べられるのではないか、と気がついたのです。千葉君のパソコンで検索してもらうと、わかりましたね、電話番号が。かけてみると、「タダシ!・・・」と、あきれ果てたような声。駅でもう長いこと待っていた、とのことでした。さっそく会う場所を決め、中央駅に向かいましたが、ここでも場所を間違え、再会まではもう一幕あったのでした。

その夜は、3人の旧友、2組の家族と、ビアガーデンで歓談。大歓待を受けて、心温まりました。昔の法学部の学生たちが、揃って偉くなっているのです。みな、子だくさんの、温かい家庭を作っています。友人たちに恵まれていたんだなあと、心から思える瞬間でした。


ドイツ旅行記(10)--連絡取れぬままミュンヘンへ2012年06月26日 23時51分08秒

この旅行記、いかにも順風満帆に見えませんか?私も気にしているのです。それじゃ面白くないよ、という大合唱が聞こえてくるような気がするからです。

もちろん懸念はある。最大の懸念は、ミュンヘンで待ち受ける友人たちと、連絡が取れないことでした。流動的な予定で動いていますから、前もっていつ到着、と知らせておくわけにはいかない。駅に迎えに来てくれるというので、その段取りをつける必要が、どうしてもありました。

ところが。携帯電話が充電器忘れで死に、パソコンが無用の長物となり(ネットにつながらない)、スマホは電話をかけられない設定になっている、という状況のもと、友人たちの連絡先がわからなくなっていたのです。友人のひとり、ムフラー氏は気配りの人で、家庭、職場、友人ベーム氏のアドレスを、前もって知らせてくれていました。ところが、そのメールにアクセスできない事態になっていたのです。

ノートパソコンは使うときにしかメールを読みに行かないので、彼のメールは受けていませんでした。しかしメールはすべてG-Mailに転送され、その受信箱に保存されています。だから大丈夫・・・ではないですよね。ネットにアクセスできなければ、G-Mailは意味がありません。ネット上に保存されているわけですから。

唯一残されている手段は、スマホでG-Mailを読みに行く、という方法でした。しかし、これは不思議で仕方がないのですが、ムフラー氏と交わした何通かのメールが、G-Mailの受信箱に見つからないのです。日にちまで覚えているのに、そのメールだけがない。受信箱に存在するメールが、何らかの条件下で、スマホからは読み出せない、ということがあるものでしょうか?

朝フランクフルトを出た私は、結局連絡の手段がないまま、ミュンヘンに向かうことになりました。列車の中であれこれスマホで試みましたがダメで、恐ろしいことに、スマホのバッテリーが切れてしまいました。

申し忘れました。今回の旅行で、私はしばしば、コインロッカーを使いました。ミュンヘンに来ているこの日も、荷物の主体は、ドレスデンの空港のコインロッカーに入っていました。これまでにご紹介した観光も、すべてコインロッカーを活用してのものでした。心配じゃなかったか、ですって?もちろんその度にはらはらしましたよ。結構旧式のコインロッカーが多かったからです。しかしおかげさまで、コインロッカーのトラブルには、会わずに済みました。コインロッカー、便利ですね。

ドイツ旅行記(9)--ヴァイセンフェルス2012年06月25日 23時45分55秒

意外に実りのあった、ナウムブルク訪問。ここから北へ少し行ったところに、ヴァイセンフェルスがあります。3つの理由から、ここは欠かせません。1つは、バッハが当地の「宮廷楽長」の肩書をもち、それを使っていたこと。もう1つは、夫人アンナ・マクダレーナの出身地であること。もう1つは、《狩のカンタータ》の初演地であることです。音楽好きの領主(クリスティアン公爵)が館を構え、すぐれたトランペット奏者(ライヒェなど)を生み出していたのが、このヴァイセンフェルスでした。

Weissenfelsは、現地では「ヴァイセンフェルツ」と発音します。alsを「アルツ」、einsを「アインツ」と発音するのと同様の、理にかなった発音です。まあしかし、そのまま記述するのは勇気が要りますね。ついでですが、「オーストリア」の国名であるÖsterreichは、「エーステライヒ」が正しい発音です。かなりドイツ語のできる人でも「エスターライヒ」と言っていますので注意しましょう。礼儀にかかわります。

ナウムブルクの中央広場からタクシーで、城館(新アウグストゥスブルク)まで飛ばしました。今は改装中ですが(半分だけ磨かれている)、博物館は開いていて、バロック時代の栄華を偲ばせます。調査中と聞いていたバッハ時代の祝賀詩印刷本の展示も行われていました。


エアフルトの待ち合わせがあったのであまり時間をかけられず、下りの道を中央広場へ。振り返ると城館が立派で、お昼の鐘が鳴り渡っていました。狩のカンタータゆかりのイェーガーハウス(ホテルになっている)は、タクシーから見るだけに終わりました。ちなみに《狩のカンタータ》は、私の『カンタータの森を歩む』の第3巻に含めようと原稿を完成させながら、最終的に割愛したものです。いつか続編が出せれば、陽の目を見せたいと思います。


エアフルトで知人と会食し、身体の空いた夕方。ザンガーハウゼン(バッハが最初の就職をしそこなったところ)に行こうかと思いましたが、雨になり、断念。さすがに疲れて来ていたので、息抜きをしたくなりました。どのみち14日はミュンヘンに行きます。心に、「フランクフルトまで行って、日本食を食べたらいかが」と囁く声あり。旧西独の賑わいがなつかしく、フランクフルトに行って、駅前に宿を取りました。日本食に飛び込んだところ、そこは鉄板焼きのお店。結局、肉を食べるはめになりました(泣)。