オペラどうなるの?2011年06月06日 23時05分05秒

新国立劇場から、《コジ・ファン・トゥッテ》の解説を頼まれました。ありがたく思いつつも、問い合せてみると、今度の演出は「現代のキャンプ場」を舞台にしている由。ドン・アルフォンソはキャンプ場のオーナー、デスピーナはその使用人、とのことでした。

不吉な予感がしましたが、応諾。解説は客観的に書いて欲しいということでしたので、本来のストーリーに従って書くことにしました。もともとどういうものであるかを理解して鑑賞していただきたいし、それを知ることで、演出家の手柄(?)も、正しく理解される、と思ったからです。

解説を書けば、招待券をいただけます。4日に行くことにはしましたが、不吉な予感。私が演出を受け入れることができるだろうか、どう考えても、そうではないように思われたからです。

だめでしたね、やっぱり。一番の理由は何かと言うと、キャンプ場という、一番男女関係の軽くなるシチュエーションを、愛と何か、という重いテーマの受け皿にしたということ。それでは、フィオルディリージの貞操観念自体が、滑稽なものになってしまいます。若者たちにワイルドな演技をさせて笑いを取るなどの工夫もありましたが、そうするとますます、モーツァルトの様式と見た目のギャップが大きくなる。間違いのない長所は、衣装代がかからないということです。しかし衣装を見る楽しみも、大きな事だと思うのですが・・・。

というわけで第1幕をがまんするのが精一杯でした。とはいえ、こういう評価を下す私が狭量だからなのではないか、という気持ちも相当あって、心たのしみません。最近のメジャーなオペラ公演はすべらかくこの路線にあり、それを楽しむお客様を、かなり集めているように思われるからです。このような現代化を通じて、ようやくオペラは生き残れるのでしょうか?

私はオペラ好きを公言して来ましたが、こういう演出ならばもう見たくない、という気持ちが芽生えていることが、われながら不安です。私の考え方がもう古い、というのであれば仕方ありませんが、「オレが面白くしてやるゾ」という演出家が力を握った結果であるとすれば、疑問を感じます。

ついでに、疑問をもうひとつ。なぜ歌い手がすべて、外国人なのでしょうか。今回の水準であれば、日本人を半分は使って、オペラ文化の向上に役立てるべきです。新国が若手の育成に尽力しているのは承知していますが、公演の主役に日本人を入れてこそ、日本のオペラ文化は発展すると思います。それだけの力をもった歌い手は、もうたくさんいるのですから。

6月のイベント2011年06月05日 10時59分45秒

すでにお知らせした通り19日の読売共催講座が特別のイベントですが、定期的な講座も続いています。昨日、朝日カルチャーセンター新宿講座のこだわり入門講座を済ませました。どう工夫してもむずかしい「一般の方にソナタ形式を理解していただく」というテーマに、新たな工夫で挑戦しました。この講座は、第1土曜の10:00からです。

8日(水)10:00は、調布(ちょうふ市民カレッジ)のバロック音楽講座第5回。テーマは「バロック作曲法入門」です。「古楽の楽しみ」のテーマ音楽であるヘンデルの《水上の音楽》など、分析の対象にぴったり。

10日(金)は、いずみホール・オペラです。グルックの《オルフェオとエウリディーチェ》を、岩田達宗演出、河原忠之音楽監督で上演します。私も参りますのでよろしく。

12日(日)14:00からは、須坂(すざかバッハの会)の音楽入門講座です。今月は「歌の昔と今--テノール歌手さまざま」というテーマですので、素材集めをしなければ。昔のベルカントの価値も、見直してみたいと思います。18日(土)10:00からの立川(楽しいクラシックの会)でも、同じお話をします。

22日(水)は調布の第6回で、「バッハの器楽曲--ソナタからコンチェルトまで」です。

25日(土)13:00は朝日カルチャーセンター横浜校のバッハ講座。『魂のエヴァンゲリスト』を読みながら音楽を鑑賞する形で進めていますが、ワイマール時代の最終回です。ドレスデンにおけるマルシャンとの対決などが話題となると思います。

意外にたくさんありますね。がんばります。

政治に思う2011年06月03日 23時00分02秒

テレビが、直りました。CSチューナーの接触不良が原因でした。家族の不満大合唱には閉口しましたが(笑)、おかげで、内閣不信任案に伴う、世紀の茶番劇を見逃してしまいました。

皆さんのご意見はさまざまでしょうが、私は言葉で生きている人間として、言葉の術策を弄して地位や権力にしがみつく人間を許すことはできません。そんな人が国の頂点に立っているとは、なんとひどいことか、と思います。

私は、人間を政治的と非政治的に分けて、自分を非政治的、と分類しています。もちろん政治的人間も必要で、そういう人がいなくては、組織が成り立たないことも事実。そういう要素が乏しいのは自分の欠点でもあると思いますが(このため多くの方の期待にお応えできていない面があると思います)、非政治的は政治的の一形態、というよくある主張には、反発しています。それは、政治的であることが一義的に重要、という人の発想だと思うからです。政治的でないことで人間の深いところを見ることが芸術に取り組む上で重要だ、という立場を、私はずっと取ってきました。

音楽仲間にも、政治的な人(=上昇志向な人、権力を拡大しようとする人)と、非政治的な人(=音楽本位の人)がいます。私がいっしょに音楽をしたいのは、後者の方です。社会を見て、ますますその実感を強くしています。

読売共催講座でバッハ2011年06月02日 23時20分44秒

6月になりました。私にとって今月のもっとも重要なイベントは、19日(日)に行われる、読売新聞と国立音楽大学の共催講座「音楽づくりの現場から~心に癒しを、社会に潤いを」です。講座は4月にスタート、12月まで行われますが、6月の3回目は、企画の責任者である私の出演。「世界に発信されたバッハの手書き楽譜 (音楽研究の現場から)」と題して講演します。

講演の柱は、2つあります。結婚カンタータBWV216の発見楽譜をネタに、音楽研究の実際についてお話しするのが1つ。最初と最後の二重唱を演奏しますが、アルト(プライセ川)は湯川亜也子さん、ソプラノ(ナイセ川)は、期待の新人、種谷典子さんです。指揮の渡邊順生さんには、研究所の去年のテーマだった《ゴルトベルク変奏曲》のテーマも弾いていただきます。

もうひとつのテーマは、《ロ短調ミサ曲》。国立音大による日本初演の様子や、現在進行中の準備の模様などをお話しし、〈クリステ・エレイソン〉を演奏します。こちらは阿部雅子さんと高橋織子さんの二重唱です。

連続講座ですが入場無料で自由に参加できますので気軽にお出かけください。19日(日)の13:30から15:00まで、国立音大の大ホールです。他のイベントについては、次話で。

字幕苦労話2011年05月31日 15時57分23秒

《ポッペアの戴冠》の字幕について、はらさんがコメントで提起してくださった点には、興味深い問題が含まれています。そのことをちょっとお話ししましょう。

オッターヴィアの登場でまず発せられる、"disprezzata regina"という言葉。これを私は「侮蔑された王妃」と訳したのですが、なぜ「皇妃」としないのか、というのがいただいたご質問でした。もちろんオッターヴィアは自分の境遇を語っているわけですから、全部「皇妃」と訳してしまったほうがわかりやすい、という考え方は、つねにあり得ます。ちなみに「(ローマ)皇妃」をずばりと示す言葉は、imperatriceです。

imperatrice、すなわちローマ皇妃は世界に1人ですが、regina、すなわち王妃はたくさんいます。彼女たちは、尊敬される存在です。その中で、この私は不当にも侮蔑されている、と彼女は主張するわけなので、ここは「王妃」でなくてはならない。「皇妃」では、始めから自分1人の話になってしまいますから。次の行で「ローマの君主の悩める妻よ」という表現が加わることにより、そうした王妃がオッターヴィアその人であることが定着されます。

その後もオッターヴィアは呪詛にも近い苦悩の独白を続けますが、「皇妃」という言葉は、自分からは一度も使いません。自分がすでに皇妃と呼べない扱いをされているという認識がひそんでいるのでしょうか。だからこそ、独白の終わりに呼びかける乳母の「オッターヴィア様、世の人々にとってただ1人の皇妃様unica imperatrice」という呼びかけが、温かな救いとして響くのだと思います。

ブゼネッロの台本はことほど左様に絢爛たる修辞を駆使していて、随所で、意味のある言葉の使い分けをしています。字幕のように情報量が少ない場合にもそのニュアンスを盛り込めたらと私は願うわけですが、それがかえって煩雑な混乱を招く場合があることは否定できません。大意さえあっさり示せばその方が実用的、ということも確かでしょう。そのバランスをどう取るかの判断が、つねに重要になってくるわけです。

呆然自失2011年05月30日 11時26分33秒

無理して付き合った打ち上げの二次会がいけなかったのか、達成のあとはすべからくこうしたものなのか。何をする気も起きぬまま、週末を過ごしました。

いいことばかりは続きませんから、何か、悪いことがあってほしい。今のところ、それかなと思えるのは、テレビがまったく映らなくなってしまったことです。これは、不便。テレビが生活のリズムを作っているので、つんのめってしまいますが、まあ、テレビに頼る生活を反省するのもいいかな、と思っています。

《ロ短調ミサ曲》へ向けて、気持ちを切り直します。

まだピンと来ませんが2011年05月27日 22時55分47秒

《ポッペアの戴冠》の公演、無事終了しました。主催してくださった「楽しいクラシックの会」の方々、ご出演とお手伝いの皆様、そしてご来場いただいたお客様たち、本当にありがとうございました。

大好きなこの作品の、私自身のプロダクションを東京で公演できる日がくるとは、まったく思っていませんでした。人生の夢がひとつ果たされ、過ぎてゆきました。来てくださる方などそうそうあるものではないと思っていましたが、信じがたいことに、超満員の盛況。あの方も、この方も来てくださっている、という感謝の中で、出演者がそれぞれ、自分のベストを更新してくれたと思います。

何かを成し遂げた人が、インタビューで「まだピンと来ません」と言いますね。どういうことかそれこそピンと来ていませんでしたが、昨日の夜、その感じがよくわかりました。嬉しかったのは、打ち上げの挨拶で渡邊順生さんが「礒山さんの存在はたいへん大きかった」とおっしゃってくださったことです。音を出さない私が演奏家とこのような信頼関係を築くまでには、いろいろな失敗もしてきました。そんなことも思い出される、打ち上げの席でした。

たのもーさん、速攻の詳しいご感想、ありがとうございます(→コメント)。よろしければ、皆様もご感想お待ちしています。
〔付記〕前記事「公演迫る」の方にもご感想をいただいています。併せてご覧ください。

公演迫る2011年05月26日 09時55分24秒

月日の経つのは着実で、ずっと先だと思っていた《ポッペアの戴冠》の東京公演が、今夕になりました。これから、字幕の調整をするところです。

日曜日から横浜の渡邊邸で練習が再開され、月・火曜日は大森の「山王オーディアム」で継続。私も火曜日に行きましたが、大森は今を去る65年前に私が生まれたところで、なつかしい思いをしました(4歳まで居住)。大森駅で下車したのは、本当に久しぶり。山王オーディアムに進む分岐点のところに、極めつけのお蕎麦屋さんを発見したのがよき副産物でした。

昨日の水曜日は、上演地の西国分寺・いずみホールでゲネプロ。リュート金子、ガンバ平尾の両先生が徹底した細部の調整を続けられ、この姿勢こそ一流の証だなあと思うことしきりでした。だいたい合わせておいて、あとは本番、ということではないのです。貧乏公演ですがその割に立派なのは、衣装です(きっぱり)。平尾さんが集めてくださったものを中心に、みんななかなか豪華な衣装を来て出演しますので、ご注目ください。コンセプトは、「プロローグはモンテヴェルディ時代、開幕したらローマ風」(平尾さん)です。

名曲と取り組むということは、練習のプロセスに大きな喜びを得ることだとわかりました。内部的には大きく盛り上がっていますが、終わったら、いっぺんに気が抜けてしまいそうです。では夕方、ご来場の皆様にお目にかかります。

今月のCD/DVD2011年05月23日 23時58分05秒

新聞の連載、紙面の都合で4月は休みになり、5月にまとめて処理しました。今月の1位にしたのは、「カール・ライスター・プレイズ・西村朗」です(カメラータ)。肉体を離れた魂(五重奏)、睡蓮(ソロ)、天界の鳥
(協奏曲)といった西村さんならではの作品が集められていますが、ライスターの奏でるクラリネットの、玄妙な響きに魅了されます。東洋の世界観を基礎とした日本人の作品をドイツの奏者が見事に演奏していることに、音楽が国境を超えることの新しい証明を見る思いがします。

2位には、ブラームス ピアノ協奏曲第2番/ドヴォルザーク 交響曲第7番のDVD(ドリームライフ)を選びました。クーベリック指揮、バイエルン放送交響楽団の1978年のコンサートに、当時36歳のバレンボイムが出演しています。両者ががっちり噛み合ったブラームスもいいですが、地味な第7交響曲の、愛を込めた演奏の美しさは格別です。

3位には、カントロフと上田晴子さんによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第6番~第8番を入れました(ALM)。お二人のていねいなコラボレーションで爽やかな流れが作り出されていて、心地良さにひたることができます。こういう交流のある二重奏が好きです。

リハーサル再開2011年05月22日 11時42分12秒

連休以来中断されていた《ポッペアの戴冠》リハーサルが再開されました。そこで今日は一日を、桜木町の渡邊邸で過ごしました。

今回はとにかく、器楽が強力。ヴァイオリンの伊左治道生さん、リュートの金子浩さんの加入が大きく、表現の幅もバラエティも、格段に充実しています。声楽の若い人たちも歌いこんできていますので、渡邊順生さんも上機嫌のうちに、リハーサルが進みました。あと3日練習し、本番を迎えます。