政治に思う2011年06月03日 23時00分02秒

テレビが、直りました。CSチューナーの接触不良が原因でした。家族の不満大合唱には閉口しましたが(笑)、おかげで、内閣不信任案に伴う、世紀の茶番劇を見逃してしまいました。

皆さんのご意見はさまざまでしょうが、私は言葉で生きている人間として、言葉の術策を弄して地位や権力にしがみつく人間を許すことはできません。そんな人が国の頂点に立っているとは、なんとひどいことか、と思います。

私は、人間を政治的と非政治的に分けて、自分を非政治的、と分類しています。もちろん政治的人間も必要で、そういう人がいなくては、組織が成り立たないことも事実。そういう要素が乏しいのは自分の欠点でもあると思いますが(このため多くの方の期待にお応えできていない面があると思います)、非政治的は政治的の一形態、というよくある主張には、反発しています。それは、政治的であることが一義的に重要、という人の発想だと思うからです。政治的でないことで人間の深いところを見ることが芸術に取り組む上で重要だ、という立場を、私はずっと取ってきました。

音楽仲間にも、政治的な人(=上昇志向な人、権力を拡大しようとする人)と、非政治的な人(=音楽本位の人)がいます。私がいっしょに音楽をしたいのは、後者の方です。社会を見て、ますますその実感を強くしています。

コメント

_ マッキー ― 2011年06月04日 22時56分48秒

この両者に関して、こんなことをふと考えてしまいました。

民主主義が成熟する前の音楽監督にくらべ、より大きな権限
をもった現代の音楽監督や音楽プロデュースは、この両者を
どうバランスをとっていくかが、悩ましくも大事なことのように
思います。

ただ音楽を聴くことだけしか脳がない私は、明らかに前者で
はないばかりか、後者にも入れてもらえるのかわかりません。
音楽本位の深化を続けられるのかは、世の中の趨勢にどれだ
け自分の中で立ち向かえるのかに、かかっているような気が
しています。

大作曲家と言われる音楽家は、後者なのでしょうが、
バッハは後者、どちらかと言うとヘンデルは前者。で、
テレマンは、明らかに前者と言ったら、怒られますかね。

_ I教授 ― 2011年06月08日 00時15分16秒

マッキーさん、いつもありがとうございます。興味深い視点ですが、いろいろな問題を含んでいそうです。現代の音楽監督がより大きな権限をもっているかどうかも、両面あるような気がするのです。また考えて、書かせていただきます。

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