字幕苦労話 ― 2011年05月31日 15時57分23秒
《ポッペアの戴冠》の字幕について、はらさんがコメントで提起してくださった点には、興味深い問題が含まれています。そのことをちょっとお話ししましょう。
オッターヴィアの登場でまず発せられる、"disprezzata regina"という言葉。これを私は「侮蔑された王妃」と訳したのですが、なぜ「皇妃」としないのか、というのがいただいたご質問でした。もちろんオッターヴィアは自分の境遇を語っているわけですから、全部「皇妃」と訳してしまったほうがわかりやすい、という考え方は、つねにあり得ます。ちなみに「(ローマ)皇妃」をずばりと示す言葉は、imperatriceです。
imperatrice、すなわちローマ皇妃は世界に1人ですが、regina、すなわち王妃はたくさんいます。彼女たちは、尊敬される存在です。その中で、この私は不当にも侮蔑されている、と彼女は主張するわけなので、ここは「王妃」でなくてはならない。「皇妃」では、始めから自分1人の話になってしまいますから。次の行で「ローマの君主の悩める妻よ」という表現が加わることにより、そうした王妃がオッターヴィアその人であることが定着されます。
その後もオッターヴィアは呪詛にも近い苦悩の独白を続けますが、「皇妃」という言葉は、自分からは一度も使いません。自分がすでに皇妃と呼べない扱いをされているという認識がひそんでいるのでしょうか。だからこそ、独白の終わりに呼びかける乳母の「オッターヴィア様、世の人々にとってただ1人の皇妃様unica imperatrice」という呼びかけが、温かな救いとして響くのだと思います。
ブゼネッロの台本はことほど左様に絢爛たる修辞を駆使していて、随所で、意味のある言葉の使い分けをしています。字幕のように情報量が少ない場合にもそのニュアンスを盛り込めたらと私は願うわけですが、それがかえって煩雑な混乱を招く場合があることは否定できません。大意さえあっさり示せばその方が実用的、ということも確かでしょう。そのバランスをどう取るかの判断が、つねに重要になってくるわけです。
オッターヴィアの登場でまず発せられる、"disprezzata regina"という言葉。これを私は「侮蔑された王妃」と訳したのですが、なぜ「皇妃」としないのか、というのがいただいたご質問でした。もちろんオッターヴィアは自分の境遇を語っているわけですから、全部「皇妃」と訳してしまったほうがわかりやすい、という考え方は、つねにあり得ます。ちなみに「(ローマ)皇妃」をずばりと示す言葉は、imperatriceです。
imperatrice、すなわちローマ皇妃は世界に1人ですが、regina、すなわち王妃はたくさんいます。彼女たちは、尊敬される存在です。その中で、この私は不当にも侮蔑されている、と彼女は主張するわけなので、ここは「王妃」でなくてはならない。「皇妃」では、始めから自分1人の話になってしまいますから。次の行で「ローマの君主の悩める妻よ」という表現が加わることにより、そうした王妃がオッターヴィアその人であることが定着されます。
その後もオッターヴィアは呪詛にも近い苦悩の独白を続けますが、「皇妃」という言葉は、自分からは一度も使いません。自分がすでに皇妃と呼べない扱いをされているという認識がひそんでいるのでしょうか。だからこそ、独白の終わりに呼びかける乳母の「オッターヴィア様、世の人々にとってただ1人の皇妃様unica imperatrice」という呼びかけが、温かな救いとして響くのだと思います。
ブゼネッロの台本はことほど左様に絢爛たる修辞を駆使していて、随所で、意味のある言葉の使い分けをしています。字幕のように情報量が少ない場合にもそのニュアンスを盛り込めたらと私は願うわけですが、それがかえって煩雑な混乱を招く場合があることは否定できません。大意さえあっさり示せばその方が実用的、ということも確かでしょう。そのバランスをどう取るかの判断が、つねに重要になってくるわけです。
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