真意はどこに2012年05月17日 11時23分31秒

言葉を使うのを商売にしているとさけて通れないのが、レトリックです。バロック音楽ではレトリックが語彙になっていますから、私の研究対象でもある。しかしディベートの手段となるような、言いくるめ、言い逃れのようなレトリックは、私のもっとも忌避するところです。政治の世界では(裁判の世界でも?)、そういうレトリックが多いですよね。

いまレトリック分析の対象になっているのが、橋下大阪市長です。分析しがいのある対象だと思いますがまだ私にはその用意がないので、今日は別の話。レトリックなのかどうなのか、どうにも真意がわからないのが、鳩山由紀夫さんの発言です。

先般、イランを訪問して大統領に友愛を説いた、という報道がありましたよね。良かった、また訪問したい、とおっしゃっているそうです。でも、行動の趣旨は何でしょう。2つ考えられます。心を込めて友愛を説けば異国の大統領も理解し、政治が変わってくるはずだ、と思っている。もうひとつは、そんなことで政治は変わらないと承知しているが、自分がそういう活動をしている姿を見てもらいたいと思っている。

後者でしょうか。それも好ましくはないですが、そういう人はたしかにいるし、いることも理解できます。しかし前者だとすると、私にはとうてい理解できないし、深刻だと思う。上に立つ人には、冷厳な現状分析と人間へのシビアな眼が前提として必要だと思うからです。先日まで日本を預けた人だけに、どうも納得がいきません。

大家の筆力2012年05月15日 23時35分30秒

パーティで篠田節子さんが挨拶される場に、過去2回、居合わせたことがあります。ものやわらかな感じのよい方で、「常識人」という言葉が浮かびました。当然小説も、その延長線上にあるものと考えて読みますよね。

ところが。そんな甘いものではないことがわかりました(笑)。柴田錬三郎賞を得た『仮想儀礼』は、厚い新潮文庫の、上下2巻。雄大な構想に驚嘆しつつ、むさぼるように読んでしまいました。宗教がテーマで、新興宗教の教祖の波乱万丈の体験が綴られているのですが、宗教論議はたいへん深いし、人間描写は批判意識を交えて、どぎついほど。まさに、大家の筆力です。よほど勇気がないと、ここまでは書けないでしょう。

2冊目には、『聖域』を選びました(集英社文庫)。これも、ぐんぐん惹きつけられて読んでいます。女性作家、すごいですね。

定年後一ヶ月2012年05月14日 23時16分14秒

5月に入ったら、定年後の自分の生活、取り組んでいることを書こうと思っていました。いま何をしているのか、と尋ねる方もいらっしゃるからです。

しかしまだ、こういうことに取りかかりました、と言えないのです。このまま言えないのではないか、と思い始めました。今までよりはひとつひとつの仕事に丁寧に取り組み、音楽会も増やそうと思っており、それはそうしています。でもそうしていると時間はけっこうふさがって、大きな仕事に着手する余裕がありません。意外に、このままいってしまいそうにも思えるのです。ここしばらくは、目先の仕事をこなすだけで過ぎていきそうです。

ICUの講演は、場と聴衆に恵まれて、忘れがたいものになりました。短い時間にたくさんのことをお話しようとしたものですから、近年とみに強まっている熱演傾向が、過度になったかもしれません。ともあれ、こういう場をいただくことで、いろいろなことに気が付きます。ありがたいことです。

久々に、鈴木雅明論を書きました。バッハ・メダルの受賞に伴い、現地の新聞から依頼されたからです。そのために、アルトのソロ・カンタータのCD(ロビン・ブレイズ独唱)を聴きましたが、盤石の揺るぎなさで、すばらしいですね。今回は、この「揺るぎなさ」をキーワードとして書きました。時間がどんどん過ぎてゆきます。

総合芸術2012年05月10日 23時23分25秒

今日は、11日のICU講演を準備しました。《ロ短調ミサ曲》の話は、最近いろいろなところでさせていただいています。ネタの使い回しのようでもありますが、その都度、進化もしているのですね。目的に合わせて準備し直すたびに新しいことに気がつき、考えが整理されます。

聖心女子大の学生の反応に、音楽は感覚的に作るものだと思っていたが、バッハはずいぶん頭を使っているようで驚いた、というものがありました。素朴な反応ですが、本質をとらえています。

たとえばキリストを扱うとき、バッハはフィーリングで音楽を付けるのではなく、「2」の象徴を使う。2は、三位一体の第二位格を指し示すと同時に、神であり人であるという二重性の表現にもなります。そこから引き出されるのは、「2が1である」というメッセージです。

〈クリステ・エレイソン〉を見てみましょう。この曲が二重唱であり、2声が並行して進むことにまず象徴的表現が見られますが、2声をどちらもソプラノにしたことが、バッハの工夫です。自筆譜を見ると、器楽の序奏の間は第2ソプラノの調号がアルト記号になっており、歌が入る段で初めて、ソプラノ記号に変化する。これはバッハが、ソプラノとアルトの二重唱を原曲とし、そのパロディとして、ソプラノ+ソプラノの二重唱を作っているためだと思われます。第2ソプラノの音域はひじょうに低く、アルトにぴったり。にもかかわらず「ソプラノ」と指定した理由は、「2が1である」ことを示すため以外に考えられません。

第1、第2ヴァイオリンがユニゾンでオブリガートを弾くのも、音を大きくする目的ではなく、「2が1である」ことを示すためです。同じことは、〈グローリア〉の二重唱〈ドミネ・デウス〉でも起こっている。バッハは自筆譜で(ドレスデン・パート譜と異なり)、フルートのオブリガートを、2本のユニゾンと指定しているのです。二人のフルーティストが最初から終わりまで一緒に吹くことを、音楽上の理由から考えるとは思えません(こちらの「2が1」は位相が違って、父と子の同一性にかかわります)。

つまりバッハの構想では、音楽と神学が結びついているのです。私は、このことがたいへん重要であると思います。人間の耳に聞こえるものだけが重要である、音楽は純粋に音楽であるべきである、という(かつてよく主張された)自律主義はバッハにはなく、バッハは音楽と音楽以外のものを結びつけることによって、より高い価値の表現を目指しているのです。調べれば調べるほど、バッハの音楽は総合芸術だ、という実感が深まります。

今月の「古楽の楽しみ」2012年05月09日 22時15分44秒

今月は5月21日(月)~24日(木)の4日間です。比較的珍しい領域に目を向けてみました。

バッハのカンタータを少しずつ、時期に合わせて紹介したいと思っており、いつも、放送の当日に初演された作品がないかどうか、調べています。すると、5月21日に、2曲あるのですね。第44番《彼らはあなたがたを追放するだろう》(1723年)と、狩のカンタータからのパロディで知られる第68番《神はかく世を愛された》(1724年)。加えて1747年には、フリーデマンがハレで第34番《おお、永遠の火よ》を演奏しているのです。この第34番は、サンクトペテルブルクでの資料発見によって、1727年の初演であることが判明した作品。そこでそのことに触れながら、3曲でプログラムを組んでみました。演奏はガーディナーのライヴです。

22日(火)は、音楽理論家として知られるティンクトーリスの作品。30歳前後の頃、皆川達夫先生の主宰する中世ルネサンス音楽史研究会に入っていて、皆川、金澤、高野といった先生方とご一緒に、『音楽用語定義集』の翻訳にたずさわりました(1979年出版)。そこに収録されている「ヨハネス・ティンクトリスとルネサンスの音楽理念」という論文は、私のごく初期の仕事の1つです。

そのティンクトーリスの作品を収めたCDを、最近入手しました。恥ずかしながら、聴いたのは初めてです。でも予想を超えて美しかったので、放送することにしました。《エレミヤ哀歌》からの抜粋と3つのモテットです。ハンガリーで活動したストーケムの作品をこれに組み合わせ、デュファイ、ジョスカンもちらっと。

23日(水)はハンガリーからチェコに視点を移し、ルドルフ2世時代のプラハの宮廷音楽を特集しました。フィリップ・デ・モンテ、ルニャール、ライトンによる、後期ルネサンス様式の音楽です。

24日(木)は、17世紀から18世紀始めにかけてのウィーン宮廷の音楽を特集。いつぞやCDコーナーで紹介した『ウィーン流儀で』のCD(ル・ジャルダン・スクレ演奏)を使って、憂いに満ちた諸作品を並べました。短調の曲ばかりです。登場する作曲家は、レオポルト1世、シュメルツァー、フローベルガー、シェンク、ドラーギ、サルトーリオ、フックスです。

というわけで地味なのですが、知られざる曲の発見があるかもしれません。どうぞよろしく。

超満員2012年05月06日 13時31分28秒

連休のさなか、東京文化会館小ホールで、「松本」と名のつく団体による、バッハ《ブランデンブルク協奏曲》の全曲コンサート。入場者はどのぐらい、と読むのが普通でしょうか。チケットを売る苦労をしたことのある人であれば、厳しく読むのが普通でしょう。私も、そう思っていました。

ところが。満員札止めで補助席の出る盛況というのは、近過去には記憶がありません。いろいろな努力があったのだろうと思いますが、これはやはり、小林道夫先生の長年のお仕事に対して培われた信頼と尊敬のたまものでしょう。すごいですね。

プレトークをやる立場からすれば、これはとてもありがたいこと。なにしろ自由席なので、トークを始める時刻、すなわち開演の45分前には、会場があらかた埋まっていたのです。そうなると高揚するというのは、演奏家の方々と同じ。ただスクリーンに限界があり、映しだす自筆譜の見にくい席がずいぶんできてしまったのは、申し訳ありませんでした。

控え室が、先生と同室になりました。久しぶりにお話しましたが、爽やかで配慮にあふれたお人柄に、まったく老いが感じられません。君も本当にいい仕事をするのはこれからだ、というお言葉をいただいて恐縮。14年後にこういう風である自信は、まったくありませんよ。

こういう先生がチェンバロに座っているので、コンサートではとりわけ第5番が心にしみました。今回はコンサートマスターの桐山建志さんがかなり主導権を分担されていましたが、そんな形で、長く続けられればいいですね。それにしても桐山さんは、演奏、教育からこうしたコンサートのプロデュースに至る膨大なお仕事を、いつなさるのでしょうか。高貴な演奏に一点の曇もないだけに、不思議でなりません。

今月のイベント・大阪編+α2012年05月04日 23時50分37秒

皆様、連休いかがお過ごしですか--これは連休の実感のない者からの社交辞令です。野球、なかなかうまくいきませんね(笑)。

いずみホール関連のご案内です。5月23日(水)から25日(金)まで大阪に滞在し、いずみホールの2つのコンサートを仕切ります。23日(水)は、渡邊順生さんの極めつけ《ゴルトベルク変奏曲》。平日ですが午後2時から設定してみました。いらっしゃれないという方も多いと思うのですが、反面、それなら行きやすい、という方もたくさんおられるのではないか、という考えからです。いろいろな《ゴルトベルク》が氾濫していますが、作品を知悉した正統的な解釈なら、やっぱり渡邊さん。私もみっちりレクチャーします。

25日は、「モーツァルトのオペラは管楽器で!」と題するコンサートで、これは定例の7時からです。毎年夏に管楽合奏編曲でモーツァルトのオペラ・ハイライトを国立音大企画として巡演していましたが、なかなか面白いと思うので、定年になったのをきっかけに、いずみホールでも紹介させていただくことにしました。

澤畑恵美、高橋薫子、経種廉彦、久保田真澄という第一級の顔ぶれで上演できることが自慢です。前半は《フィガロの結婚》から。久元祐子さんのピアノに管楽器を少しずつ加える形で、モーツァルトの管楽器用法の巧みさを実感していただきます。後半は管楽器オンリーで、《コジ・ファン・トゥッテ》の抜粋です。楽しめると思いますので、ぜひお出かけください。

前回のご案内、大事なことを忘れていました。27日(日)の15:00から千駄ヶ谷のビブリオテックで、「21世紀にバッハの学ぶということ」と題するトークショーを開催します。『教養としてのバッハ』の刊行を記念して、アルテスパブリッシングが企画するものです。本の編集にたずさわった久保田慶一さん、佐藤真一さん(歴史家)と三人で、バッハを語り合います。「トークショー」という言葉はよく聞きますが私は初めてで、なんとなく緊張します。電話かメールで予約するようです(アルテスパブリッシングのホームページをご覧ください)。

5月のイベント2012年05月02日 22時27分26秒

まず連休中の5日(土)に、松本バッハ祝祭アンサンブルによるバッハ《ブランデンブルク協奏曲》全曲演奏会が、東京文化会館小ホールであります。松本の人たちが上京するのではありません。談話室でもかつて報告したとおり、小林道夫先生の指揮、器楽は桐山建志さん以下第一級の顔ぶれで構成されています。コンサートは18:00から、私が17:15からプレトークを行います。

11日(金)の17:10~18:20には、国際基督教大学大学の宗教音楽センターで、「バッハの《ロ短調ミサ曲》~宗教音楽の普遍性をめぐって》という講演を行います。公開、入場無料のようです。《ロ短調ミサ曲》の紹介ではなく、その普遍性をどう考えるかに絞って提言したいと思っています。

19日(土)10:00の「楽しいクラシックの会」例会は、ワーグナー・シリーズの第2回。「若きワーグナー」と題して、初期を論じます。立川錦町の学習館です。

23日(水)と25日(金)はいずみホールでの公演があります。これについて、および「古楽の楽しみ」については、次のご案内で。26日のアサヒカルチャーセンター横浜校の「エヴァンゲリスト」講座(13:00から)は、ライプツィヒ第3年巻のカンタータがテーマとなります。以上、どうぞよろしく。

広島 3-0 巨人。関係ないか(笑)。

天才でした2012年04月30日 18時26分56秒

コンサートを増やしているためか、都内に出かけることが、むしろ多くなりました。となると、電車の中での時間をどう使うかが問題。専門書に集中するのはもうちょっと辛いので、軽く読めるいい本はないかと、本屋さんに向かいます。

厚く積んであるものとか、話題の著者とか、いろいろ試しましたが、なかなか面白いものに出会いません。手の内がわかってしまったり、退屈してしまったり。この歳になるともうあまり読む本がなくなるのかな、と思いつつ、昨日もオペラを控えて、本屋に立ち寄りました。

今まで読んだことのない著者のものをと思い、まず篠田節子さんの『仮想儀礼』(新潮文庫)を購入。どうせならもう1冊ということで、綿矢りささんの『蹴りたい背中』(河出文庫)を加えました。綿矢さんの芥川賞受賞をテレビで見たのは昨日のことのようで、美しい人だなあと思ったことを覚えていますが、世評高い小説も、いまどきの若い女性の作では世界が違いすぎるように思い、手を出す気持ちが起きなかったわけです。でもどんなものか知っておこう、という興味がふと起こりました。

薄い方、すなわち『蹴りたい背中』を、先に読み始めました。いや~、驚きましたね。冒頭からぐんぐん引きこまれて、呪縛されるように読み進め、中断することができないのです。奔放に綴られているようで力強い構成と流れがあり、繊細にして怜悧な心理描写と、凡人にはついていけない変り身の速さとがある。19歳でこれを書くわけか。天才です。

文庫化は2007年だそうですが、私の買った版は昨年5月のもので、27刷となっていました(汗)。「蹴りたい背中」ってどういう意味かな、とは、以前から思っていたのですが、わかってみると、その絶妙さを痛感します。

(たちまち読み終え、篠田さんの方に入りました。これも丁寧に書かれていて、じつに面白いです。)

バリアを越える2012年04月29日 07時43分55秒

27日(木)、退職後初めて旧職場を訪れました(厳密に言えば、4月2日の教員懇親会後、初めて)。図書館で調べ物をするのが目的です。

訪問に、少しですが、心理的バリアがありました。松本清張の小説が、ずっと心にあったからです。それは定年になったサラリーマンの心境を描くもので(タイトルが思い出せません)、やめた人間が行き場もないまま元の職場を訪れ、歓迎されるようで嫌がられるシーンがクライマックスをなしていました。わびしさの秀逸な短編でした。

ですからなるべく目立たないように、と思っていたのですが、結局いろいろな方と出会い、親切にしていただきました。図書館でも、新しい利用証を作成。あらためて使ってみると、この図書館のすばらしさがわかります。これからは、気軽に出かけることができそうです。

ゴールデンウィークのメリハリはなくなりましたが、まだ上手に時間を使えません。5月になったら、いい時間サイクルを作りたいと思います。