忘れますかねえ2011年09月05日 22時33分41秒

バッハは即興演奏のとき、また紙の上の作曲でも、他人の曲や既存の曲をしばしば下敷きに使いました。このことは、なんとなくネガディヴな印象で受け取られていないでしょうか。自分で全部作り出せばもっといいのに、というように。

しかし、「何かベースがある」ということは、創作の上で大きな利得になります。とくに年を取ってからは、その利得が大きくなる。ゼロから生み出すという力業をしないでも、経験を生かせるからです。こんなことを言うのは、私も最近は、ベースになるものを改善発展させるやり方に傾いているから。ああ、バッハもそうだったんだなあ、などと思うことがあります。

「ミュージック・ウィークス・イン・トーキョー」というイベントの合唱コンサートのために、解説を依頼されました。曲は、ブルックナーの《テ・デウム》と、モーツァルトの《レクイエム》。ブルックナーは一度も書いたことがない曲なので「力業」を覚悟しましたが、《レクイエム》は昔書いたものをベースにできると思い、探してみました。

しかし意外や、パソコンを使うようになってから、一度も書いたことがないようなのです。今回は、レヴィン版を使用。そこで、「レクイエム レヴィン」と入れて、グーグル・デスクトップ検索をかけてみました。

すると1つのファイルがヒットしました。開いてみると、プラート、ヴォルフ、リリング、フロトホイスといったそうそうたる先生方が、レヴィン版をどう考えるかについて、白熱した議論を戦わせている。へえ、すごいなあと思って気がついてみると、なんとその議論を司会しているのが、私なのです。え~これなんだっけ、と思って気づきました。これは、1991年に国立音大で、海老澤先生の主宰で開催した「モーツァルト国際シンポジウム」のセッション記録だったのです。

調べてみたところ、出版された報告書「モーツァルト研究の現在」に、しっかり掲載されていました。ヴォルフ先生の「モーツァルトの《レクイエム》--事実とフィクション」というすばらしいペーパーも、私の訳で掲載されている。それをケロリと忘れていたわけですから、ひどいですね。加齢と飲酒によってあらかた失われた私の記憶力、専門領域ではまだまだと思っていたのですが、そんな甘いものではないようです(汗)。