東京都合唱コンクール~考えさせられたこと2011年09月21日 11時06分42秒

アマチュアの合唱では、指揮をする先生のご指導が、決定的に大きな役割を演じます。審査員も指揮者が主体になりますから、指揮者がどんな合唱を目指し、どんな風に作品を解釈し、メンバーがそれにどのように協力して、どういう結果を生み出したかに、関心を注ぐ。合唱コンクールはじつは指揮者のコンクールなのだ、という極論を耳にしたことも、あるほどです。

ところが、一般の部Aの最後に、シード団体の1つとして、指揮者を置かない合唱団が登場しました。"harmonia ensemble"という混声27名の合唱団です。曲目がなんとバッハのモテット《イエスよ、私の喜び》でしたので、ひとつぐらいバッハを聴けるのは嬉しいなあ、というぐらいの気持ちで聴き始めました。

驚きましたね。「震撼」という言葉を使ってもいいです。指揮者がいないのにハーモニーは引き締まって美しく、全員が、バッハの音楽の真髄へと向かっている。まさに、精神性にあふれた合唱なのです。この団体がすでに有名で、外国でも活躍している、ということを知ったのは、事後のことでした。

卓越した先生に牽引されているわけでもない(ように見える)のに、なぜこうした演奏が可能なのか。私は狐につままれたような思いがしましたが、もしかすると、こういう形態だからこそできる演奏なのかもしれない、と思い直しました。お互いに意見を出しあって勉強しているのだとすると、その過程でみんなが勉強し、みんなが作品の世界に分け入ることになる。だからこその隙のなさではないのか、と。

いずれにしても、この団体の演奏は、指揮者対合唱団という、1対多の形の演奏様式が絶対的なものではないことを指し示しています。指揮者が絶対であるとすると、メンバーは曲の勉強を指揮者にまかせ、自分は言われる通りにやればいい、となりやすいと思う。みんなが勉強して取り組み、ひとりひとりが生き生きしていることの価値は、羊のような従順や軍人のような結束よりも大切なのではないか、という思いが湧いてきました。

指揮者がごく少数の団員の前で身振り大きく指揮している団体もありました。それならいっそ、アンサンブルに入って、一緒に歌われたらどうでしょう。「内側から」のアンサンブルは、じつに追究する価値のあるものです。

〔付記〕朝刊で、杉山好先生の訃報に接しました。心よりご冥福をお祈りいたします。29日のお別れ会に出席した上で、本欄でも、なつかしい思い出を綴らせていただきます。