9月のイベント ― 2011年09月01日 11時25分48秒
9月になりました。休暇気分を改め、フレッシュな気持ちで新学期に臨みます--と言いたいのはやまやまなのですが、「何とか時間を作りたい」と焦って過ごした8月が結局焦ったまま終わってしまい、弱ったなあという月初めです。まあ、今年一杯はこの状況が続くと割りきってしまうべきかもしれません。
7日からの新学期には、木曜日に、「バッハ特別講義」という新しい授業が始まります(16:20-17:50)。これは、諸分野でバッハに関心をもたれている先生方が私を含めて10人集まり、リレー講義の形でバッハとその時代を論じよう、という企画です。終わったら本になります。
金曜日の「音楽美学概論」(10:40-12:10)は、音楽に対する私の考え方を総括する機会にしようと思っています。月曜日の大学院「音楽美学」は、カントを前期で一区切りにしましたので、後期はヘーゲルに挑戦します。その他は、ゼミの主宰、博論、卒論の指導などです。
外部。3日(土)の朝日カルチャー新宿での音楽入門講義(10:00-12:00)は、指揮者論です。17日(土)の楽しいクラシックの会(立川、10:00-12:00)は、「マリア・カラス再考」と題して行います。24日(土)の朝日カルチャー新宿、《ロ短調ミサ曲》講座(10:00-12:00)は「後半の成立事情、そして〈ニケーア信経〉」。その日13:00からの同横浜バッハ講座は、無伴奏曲がテーマです。
18日、19日の連休には、東京都の合唱コンクールを審査します。また30日(金)からいずみホールでリストのピアノ曲シリーズが始まりますので、関西方面の方々はどうぞよろしく。第1回のケマル・ゲキチ以下、内外の充実した顔ぶれで組んでおります。
7日からの新学期には、木曜日に、「バッハ特別講義」という新しい授業が始まります(16:20-17:50)。これは、諸分野でバッハに関心をもたれている先生方が私を含めて10人集まり、リレー講義の形でバッハとその時代を論じよう、という企画です。終わったら本になります。
金曜日の「音楽美学概論」(10:40-12:10)は、音楽に対する私の考え方を総括する機会にしようと思っています。月曜日の大学院「音楽美学」は、カントを前期で一区切りにしましたので、後期はヘーゲルに挑戦します。その他は、ゼミの主宰、博論、卒論の指導などです。
外部。3日(土)の朝日カルチャー新宿での音楽入門講義(10:00-12:00)は、指揮者論です。17日(土)の楽しいクラシックの会(立川、10:00-12:00)は、「マリア・カラス再考」と題して行います。24日(土)の朝日カルチャー新宿、《ロ短調ミサ曲》講座(10:00-12:00)は「後半の成立事情、そして〈ニケーア信経〉」。その日13:00からの同横浜バッハ講座は、無伴奏曲がテーマです。
18日、19日の連休には、東京都の合唱コンクールを審査します。また30日(金)からいずみホールでリストのピアノ曲シリーズが始まりますので、関西方面の方々はどうぞよろしく。第1回のケマル・ゲキチ以下、内外の充実した顔ぶれで組んでおります。
「古楽の楽しみ」9月 ― 2011年09月03日 22時49分29秒
8月の「古楽の楽しみ」は再放送月間でしたので、モンテヴェルディを出しました。「トーマスカントルの音楽」にリクエストをいただいていたのですが、モンテヴェルディに熱中したあおりで、このようになりました。
9月は、バッハに回帰します!バッハでなければ書けなかった音楽、という観点から、バッハの独創性が発揮されているジャンルに焦点を当てて組み立てました。
12日(月)は、オルガン用のトリオ・ソナタ。ギエルミの最新録音がありますので、彼で第1番、第2番。フランスの新鋭アラールで第3番。第6番はフェアブリュッヘンのリコーダー版で聴き比べました(第2楽章は省略)。私がこよなく愛するトリオ・ソナタ、これで全曲放送したことになります。
13日(火)は、無伴奏ヴァイオリン。なるべく新しい、あまり聴かれていない演奏を、という観点から、ホロウェイでソナタ第1番、ミドリ・ザイラーでパルティータ第1番を選びました。ベルリン古楽アカデミーのコンサートマスターをしている日系のザイラーさん、表情豊かな演奏で面白いですよ。
14日(水)は、無伴奏チェロ。ディールティエンスの第4番と、シギスヴァルト・クイケンの第2番を聴き比べる形にしました。バロック・チェロ対ダ・スパッラです。本当はディールティエンスで第2番、クイケンで第4番にしたかったのですが、時間内に収めるにはこうせざるを得ませんでした。時間の問題がなければ、ホロウェイもソナタ第2番にしたいところでした。
15日(木)は、オブリガート・チェンバロ付きのソナタの特集。ガンバ・ソナタの第2番を平尾雅子+武久源造、フルート・ソナタのイ長調をベズノシュウク+タニクリフ、ヴァイオリン・ソナタの第5番をポッジャー+ピノックというラインナップです。
16日(金)は、パロディで名曲を生み出すバッハに焦点を当てました。ト短調の小ミサ曲(パーセル・クヮルテット)とト長調の小ミサ曲(アンサンブル・ピグマリオン)です。後者は去年iBACHで演奏したカンタータ179番に基づいています。
アーリー・バードの方はどうぞお聴きください。
9月は、バッハに回帰します!バッハでなければ書けなかった音楽、という観点から、バッハの独創性が発揮されているジャンルに焦点を当てて組み立てました。
12日(月)は、オルガン用のトリオ・ソナタ。ギエルミの最新録音がありますので、彼で第1番、第2番。フランスの新鋭アラールで第3番。第6番はフェアブリュッヘンのリコーダー版で聴き比べました(第2楽章は省略)。私がこよなく愛するトリオ・ソナタ、これで全曲放送したことになります。
13日(火)は、無伴奏ヴァイオリン。なるべく新しい、あまり聴かれていない演奏を、という観点から、ホロウェイでソナタ第1番、ミドリ・ザイラーでパルティータ第1番を選びました。ベルリン古楽アカデミーのコンサートマスターをしている日系のザイラーさん、表情豊かな演奏で面白いですよ。
14日(水)は、無伴奏チェロ。ディールティエンスの第4番と、シギスヴァルト・クイケンの第2番を聴き比べる形にしました。バロック・チェロ対ダ・スパッラです。本当はディールティエンスで第2番、クイケンで第4番にしたかったのですが、時間内に収めるにはこうせざるを得ませんでした。時間の問題がなければ、ホロウェイもソナタ第2番にしたいところでした。
15日(木)は、オブリガート・チェンバロ付きのソナタの特集。ガンバ・ソナタの第2番を平尾雅子+武久源造、フルート・ソナタのイ長調をベズノシュウク+タニクリフ、ヴァイオリン・ソナタの第5番をポッジャー+ピノックというラインナップです。
16日(金)は、パロディで名曲を生み出すバッハに焦点を当てました。ト短調の小ミサ曲(パーセル・クヮルテット)とト長調の小ミサ曲(アンサンブル・ピグマリオン)です。後者は去年iBACHで演奏したカンタータ179番に基づいています。
アーリー・バードの方はどうぞお聴きください。
忘れますかねえ ― 2011年09月05日 22時33分41秒
バッハは即興演奏のとき、また紙の上の作曲でも、他人の曲や既存の曲をしばしば下敷きに使いました。このことは、なんとなくネガディヴな印象で受け取られていないでしょうか。自分で全部作り出せばもっといいのに、というように。
しかし、「何かベースがある」ということは、創作の上で大きな利得になります。とくに年を取ってからは、その利得が大きくなる。ゼロから生み出すという力業をしないでも、経験を生かせるからです。こんなことを言うのは、私も最近は、ベースになるものを改善発展させるやり方に傾いているから。ああ、バッハもそうだったんだなあ、などと思うことがあります。
「ミュージック・ウィークス・イン・トーキョー」というイベントの合唱コンサートのために、解説を依頼されました。曲は、ブルックナーの《テ・デウム》と、モーツァルトの《レクイエム》。ブルックナーは一度も書いたことがない曲なので「力業」を覚悟しましたが、《レクイエム》は昔書いたものをベースにできると思い、探してみました。
しかし意外や、パソコンを使うようになってから、一度も書いたことがないようなのです。今回は、レヴィン版を使用。そこで、「レクイエム レヴィン」と入れて、グーグル・デスクトップ検索をかけてみました。
すると1つのファイルがヒットしました。開いてみると、プラート、ヴォルフ、リリング、フロトホイスといったそうそうたる先生方が、レヴィン版をどう考えるかについて、白熱した議論を戦わせている。へえ、すごいなあと思って気がついてみると、なんとその議論を司会しているのが、私なのです。え~これなんだっけ、と思って気づきました。これは、1991年に国立音大で、海老澤先生の主宰で開催した「モーツァルト国際シンポジウム」のセッション記録だったのです。
調べてみたところ、出版された報告書「モーツァルト研究の現在」に、しっかり掲載されていました。ヴォルフ先生の「モーツァルトの《レクイエム》--事実とフィクション」というすばらしいペーパーも、私の訳で掲載されている。それをケロリと忘れていたわけですから、ひどいですね。加齢と飲酒によってあらかた失われた私の記憶力、専門領域ではまだまだと思っていたのですが、そんな甘いものではないようです(汗)。
しかし、「何かベースがある」ということは、創作の上で大きな利得になります。とくに年を取ってからは、その利得が大きくなる。ゼロから生み出すという力業をしないでも、経験を生かせるからです。こんなことを言うのは、私も最近は、ベースになるものを改善発展させるやり方に傾いているから。ああ、バッハもそうだったんだなあ、などと思うことがあります。
「ミュージック・ウィークス・イン・トーキョー」というイベントの合唱コンサートのために、解説を依頼されました。曲は、ブルックナーの《テ・デウム》と、モーツァルトの《レクイエム》。ブルックナーは一度も書いたことがない曲なので「力業」を覚悟しましたが、《レクイエム》は昔書いたものをベースにできると思い、探してみました。
しかし意外や、パソコンを使うようになってから、一度も書いたことがないようなのです。今回は、レヴィン版を使用。そこで、「レクイエム レヴィン」と入れて、グーグル・デスクトップ検索をかけてみました。
すると1つのファイルがヒットしました。開いてみると、プラート、ヴォルフ、リリング、フロトホイスといったそうそうたる先生方が、レヴィン版をどう考えるかについて、白熱した議論を戦わせている。へえ、すごいなあと思って気がついてみると、なんとその議論を司会しているのが、私なのです。え~これなんだっけ、と思って気づきました。これは、1991年に国立音大で、海老澤先生の主宰で開催した「モーツァルト国際シンポジウム」のセッション記録だったのです。
調べてみたところ、出版された報告書「モーツァルト研究の現在」に、しっかり掲載されていました。ヴォルフ先生の「モーツァルトの《レクイエム》--事実とフィクション」というすばらしいペーパーも、私の訳で掲載されている。それをケロリと忘れていたわけですから、ひどいですね。加齢と飲酒によってあらかた失われた私の記憶力、専門領域ではまだまだと思っていたのですが、そんな甘いものではないようです(汗)。
校正に突入 ― 2011年09月06日 11時28分13秒
今日、《ロ短調ミサ曲》のゲラが出てきました。これから校正に入ります。しかしざっと見たところ、固い直訳調がまだまだ多く、簡単ではなさそうです。
すべてが順調にいったときには、10月20日ごろ出版できるとのことです。なんとかこのスケジュールで行きたいのですが、そのためには、2週間でゲラを戻さなくてはいけません。ちょうど学校も始まりますし、その時間があるとは思えないのですが、とにかくがんばります。
9月の初めに、書類をようやく整理していたときのこと。紀要論文の諸規程が出てきて、全身の力が抜けました。《ロ短調ミサ曲》に関して紀要に論文を書くことを約束し、それをすっかり忘れていたことに気づいたからです。え~、無理だよ~、と思いましたが、何とかがんばろうと思い直しました。過日イギリスの学会で発表したペーパーは日本では公開していませんので、それをベースに、今回の翻訳で学んだことをプラスして、私論に仕上げます。ご明察の通り、公表することで自分を追い込もうという作戦です。
すべてが順調にいったときには、10月20日ごろ出版できるとのことです。なんとかこのスケジュールで行きたいのですが、そのためには、2週間でゲラを戻さなくてはいけません。ちょうど学校も始まりますし、その時間があるとは思えないのですが、とにかくがんばります。
9月の初めに、書類をようやく整理していたときのこと。紀要論文の諸規程が出てきて、全身の力が抜けました。《ロ短調ミサ曲》に関して紀要に論文を書くことを約束し、それをすっかり忘れていたことに気づいたからです。え~、無理だよ~、と思いましたが、何とかがんばろうと思い直しました。過日イギリスの学会で発表したペーパーは日本では公開していませんので、それをベースに、今回の翻訳で学んだことをプラスして、私論に仕上げます。ご明察の通り、公表することで自分を追い込もうという作戦です。
バッハ超え ― 2011年09月10日 12時43分34秒
バッハの命日に知人の方から「バッハ超え」を祝福されたということを書きました。私の人生がバッハより長くなったことに対する祝意です。しかし厳密にいいますと、バッハの誕生日は3月21日、私の誕生日は4月30日ですから、1ヶ月と9日、長さが足りませんでした。したがって、バッハの命日である7月28日から1ヶ月と9日後に、私はバッハを超えたことになるわけです。
というわけで9月6日に、私はめでたく、バッハの経験しなかった人生に突入しました。入院とか手術とか何度もしている私から見ますと、医学も発達していない時代に65年生き、最後まで密度高く仕事したバッハはすごいなあ、と思います。
ちょうど後期の授業に入り、ご案内した「バッハとその時代」の共同講義が始まりました。私がトップバッターで、導入のための概論を行いましたが、時間に対して多すぎる内容を熱演でカバーするという、あまり得策とは言えない(しかし私にはよくある)スタートになりました。水を打ったように聞いてくれていた学生さんも、疲れただろうと思います。
全14回(←バッハの数)の講義で、私が5回受け持ちます。2回目(15日)は歴史家佐藤真一先生の「ザクセン選帝侯国」、3回目(22日)はルター研究家宮谷尚美先生の「ルターとコラール」、その次(29日)が再度私で「バッハと神」。木曜日の16:10から5号館の113教室でやっています。どうぞ覗いてみてください。
というわけで9月6日に、私はめでたく、バッハの経験しなかった人生に突入しました。入院とか手術とか何度もしている私から見ますと、医学も発達していない時代に65年生き、最後まで密度高く仕事したバッハはすごいなあ、と思います。
ちょうど後期の授業に入り、ご案内した「バッハとその時代」の共同講義が始まりました。私がトップバッターで、導入のための概論を行いましたが、時間に対して多すぎる内容を熱演でカバーするという、あまり得策とは言えない(しかし私にはよくある)スタートになりました。水を打ったように聞いてくれていた学生さんも、疲れただろうと思います。
全14回(←バッハの数)の講義で、私が5回受け持ちます。2回目(15日)は歴史家佐藤真一先生の「ザクセン選帝侯国」、3回目(22日)はルター研究家宮谷尚美先生の「ルターとコラール」、その次(29日)が再度私で「バッハと神」。木曜日の16:10から5号館の113教室でやっています。どうぞ覗いてみてください。
福島で学会 ― 2011年09月11日 23時34分18秒
福島に行ってきました。学会の仕事です。日本音楽学会はもともと4支部制だったのですが、今年度から、東北北海道支部と関東支部が統合され、東日本支部として発足しました。それを記念する第1回の東北北海道地区における例会が、10日(土)に福島大学で開催されたのです。
福島大学は、丘陵ひとつが大学になっている、気持ちのいい環境。当日の企画は「明治の国家政策と音楽--東北・福島から考える」というものでした。福島大学の平田公子さん、杉田政夫さんに東京芸大の塚原康子さん、大角欣矢さんが加わってのシンポジウムは、皆さんよく準備されてモチベーションが高く、参加者もなかなかで大成功。合同を旧東北北海道支部地域の研究をいっそう支援する機会としたい、という私の念願からすれば、まさに願ったり叶ったりの機会となりました。長い目で地域の応援にもなれば嬉しいです。皆さん、ありがとうございました。
福島の自然、飲み物食べ物のおいしさ、すばらしいですね。本当にいいところです。お昼に入ったお寿司屋さんの海鮮丼もすごく良かったですが、ふと気がつくと、当店は北海道、日本海、西日本の魚を使用しております、と書いてありました。早く、三陸の魚を食べたいと思います。
福島大学は、丘陵ひとつが大学になっている、気持ちのいい環境。当日の企画は「明治の国家政策と音楽--東北・福島から考える」というものでした。福島大学の平田公子さん、杉田政夫さんに東京芸大の塚原康子さん、大角欣矢さんが加わってのシンポジウムは、皆さんよく準備されてモチベーションが高く、参加者もなかなかで大成功。合同を旧東北北海道支部地域の研究をいっそう支援する機会としたい、という私の念願からすれば、まさに願ったり叶ったりの機会となりました。長い目で地域の応援にもなれば嬉しいです。皆さん、ありがとうございました。
福島の自然、飲み物食べ物のおいしさ、すばらしいですね。本当にいいところです。お昼に入ったお寿司屋さんの海鮮丼もすごく良かったですが、ふと気がつくと、当店は北海道、日本海、西日本の魚を使用しております、と書いてありました。早く、三陸の魚を食べたいと思います。
始まる授業、終わる授業 ― 2011年09月13日 23時26分16秒
先日「自分を追い込む」などと見栄を切りましたが、いや、たいへん。連日、青息吐息です。
仕事には、疲れていてもだましだましできるものと、できないものがありますね。翻訳の修正などは後者で、集中力が乏しいと、跳ね返されてしまう。コンディションが整わないと、時間を浪費するばかりです。というわけで日曜日を浪費してしまったのですが、なんとか取り返そうと、がんばっています。
月曜日午前、ヘーゲルの授業開始。受講生の中には『精神現象学』の読書会をやっていた、などという頼もしいのもいて、ディスカッションがはずみます。午後は私のところで卒論を書いているお2人(中山早苗〔通奏低音論〕、竹林佳菜子〔ワーグナー〕)の中間発表。しっかりリハーサルをした成果で、2人とも立派にこなしました。
この日締めきりだったのが、博論です。私のクラスからは阿部雅子さんが《ポッペアの戴冠》論を提出しました。博論は関心が関心を呼んで発展する推進力が重要なのですが、阿部さんの進境は最後に来て著しく、学問の何たるかを理解し、学問を楽しむ本格的なレベルに到達していたと思います。審査は私抜きで行われますので、吉報を待ちたいと思います。
火曜日。修士2年生のオペラ専攻者の論文(研究報告)の提出が間近で、その最後の指導授業になりました。とにかく明るいクラスです。残り1週間で大事なところを書き残している人が多く、気合を入れて終わったところで花束を渡されたのには、びっくりしました。だってまだ、ひとりも書き終えていないじゃないの!ともあれ、打ち上げを絶対やりましょう、ということで、気持ちよく解散。歌曲専攻から始めて、歌曲専攻を数年、オペラ専攻を数年をやりましたが、最近の「声楽寄り」は、このあたりから始まったのかもしれません。
夜は、《ロ短調ミサ曲》の練習。校庭にドーンと出現した新校舎のスタジオを使っての、最初の練習です。大きく、立派な建物で、勉強の環境が良くなったのはなによりですが、建物は、音楽ではありません。この練習棟あっての音楽を作り出せてから、落成を喜びたいと思います。
仕事には、疲れていてもだましだましできるものと、できないものがありますね。翻訳の修正などは後者で、集中力が乏しいと、跳ね返されてしまう。コンディションが整わないと、時間を浪費するばかりです。というわけで日曜日を浪費してしまったのですが、なんとか取り返そうと、がんばっています。
月曜日午前、ヘーゲルの授業開始。受講生の中には『精神現象学』の読書会をやっていた、などという頼もしいのもいて、ディスカッションがはずみます。午後は私のところで卒論を書いているお2人(中山早苗〔通奏低音論〕、竹林佳菜子〔ワーグナー〕)の中間発表。しっかりリハーサルをした成果で、2人とも立派にこなしました。
この日締めきりだったのが、博論です。私のクラスからは阿部雅子さんが《ポッペアの戴冠》論を提出しました。博論は関心が関心を呼んで発展する推進力が重要なのですが、阿部さんの進境は最後に来て著しく、学問の何たるかを理解し、学問を楽しむ本格的なレベルに到達していたと思います。審査は私抜きで行われますので、吉報を待ちたいと思います。
火曜日。修士2年生のオペラ専攻者の論文(研究報告)の提出が間近で、その最後の指導授業になりました。とにかく明るいクラスです。残り1週間で大事なところを書き残している人が多く、気合を入れて終わったところで花束を渡されたのには、びっくりしました。だってまだ、ひとりも書き終えていないじゃないの!ともあれ、打ち上げを絶対やりましょう、ということで、気持ちよく解散。歌曲専攻から始めて、歌曲専攻を数年、オペラ専攻を数年をやりましたが、最近の「声楽寄り」は、このあたりから始まったのかもしれません。
夜は、《ロ短調ミサ曲》の練習。校庭にドーンと出現した新校舎のスタジオを使っての、最初の練習です。大きく、立派な建物で、勉強の環境が良くなったのはなによりですが、建物は、音楽ではありません。この練習棟あっての音楽を作り出せてから、落成を喜びたいと思います。
ボローニャの《カルメン》 ― 2011年09月16日 23時18分34秒
元気を回復して、高能率で仕事。とてもできないだろうと思っていたゲラの直しを完了して、今日、出版社に戻しました。どうやら、10月20日出版の線で行けそうです。
仕事の間を縫って、昨日、今日と、コンサートに行きました。昨日は、異能の歌い手、松平敬さんの、超個性的な無伴奏(!)リサイタル。今日は、ボローニャ歌劇場の《カルメン》です。
ボローニャ歌劇場は、売りだった主役の6人がキャンセル(ひとりは死亡)。病名をそれぞれに公表するなど、謝罪に大わらわです。プログラムが来ない人たちの華麗なインタビューで埋まっていたのはあらあらという感じですが、代役は、しっかり立っているのではないでしょうか。《カルメン》では、ホセもエスカミーリョもミカエラもなんと交代したのですが、代役は悪くありませんでした。アルバレス(ホセ、カウフマンから交代)の第4幕など、迫真の演唱。しかしこういう人は、何かをキャンセルして来日するわけですよね。どういう理由を付けているのか、気になります。
《カルメン》はやっぱり、曲がいいですね。エキゾチックなところもいいが、私は第2幕の5重唱や第3幕の6重唱のようなスケルツァンドな曲もすてきだと思います。音楽的には、転調が個性的で、面白い。いずれにしろ、誰にでも楽しめる音楽です。
最初のうちは、イタリア人がフランス・オペラをやると曲線が全部直線になるな、などと思って聴いていたのですが、徐々に引きこまれました。場面は1990年代のキューバ、エスカミーリョはボクサー。こうした設定を私はけっして喜びませんが(演出家はラトヴィア人)、しかし押さえるところは押さえた舞台なので、許容範囲ではあります。
驚くほどスタイルのいいカルメン(ニーナ・スルグラーゼ)に、巨体のミカエラ(ヴァレンティーナ・コッラデッティ)。肉付きのいいカルメンに清楚なミカエラという先入観があったのでびっくりしましたが、リアリティからすればこれはこれでありかな、と納得。NHK児童合唱団は、のびのびしていて、とても良かったと思います。
毅然としたカルメンに、情けないホセ(第4幕)。当初は斬新な設定だったのでしょうが、いまはよくある、むしろありすぎる光景なのかもしれませんね。というわけで、なかなか楽しめました。来週は《清教徒》に行きます。
仕事の間を縫って、昨日、今日と、コンサートに行きました。昨日は、異能の歌い手、松平敬さんの、超個性的な無伴奏(!)リサイタル。今日は、ボローニャ歌劇場の《カルメン》です。
ボローニャ歌劇場は、売りだった主役の6人がキャンセル(ひとりは死亡)。病名をそれぞれに公表するなど、謝罪に大わらわです。プログラムが来ない人たちの華麗なインタビューで埋まっていたのはあらあらという感じですが、代役は、しっかり立っているのではないでしょうか。《カルメン》では、ホセもエスカミーリョもミカエラもなんと交代したのですが、代役は悪くありませんでした。アルバレス(ホセ、カウフマンから交代)の第4幕など、迫真の演唱。しかしこういう人は、何かをキャンセルして来日するわけですよね。どういう理由を付けているのか、気になります。
《カルメン》はやっぱり、曲がいいですね。エキゾチックなところもいいが、私は第2幕の5重唱や第3幕の6重唱のようなスケルツァンドな曲もすてきだと思います。音楽的には、転調が個性的で、面白い。いずれにしろ、誰にでも楽しめる音楽です。
最初のうちは、イタリア人がフランス・オペラをやると曲線が全部直線になるな、などと思って聴いていたのですが、徐々に引きこまれました。場面は1990年代のキューバ、エスカミーリョはボクサー。こうした設定を私はけっして喜びませんが(演出家はラトヴィア人)、しかし押さえるところは押さえた舞台なので、許容範囲ではあります。
驚くほどスタイルのいいカルメン(ニーナ・スルグラーゼ)に、巨体のミカエラ(ヴァレンティーナ・コッラデッティ)。肉付きのいいカルメンに清楚なミカエラという先入観があったのでびっくりしましたが、リアリティからすればこれはこれでありかな、と納得。NHK児童合唱団は、のびのびしていて、とても良かったと思います。
毅然としたカルメンに、情けないホセ(第4幕)。当初は斬新な設定だったのでしょうが、いまはよくある、むしろありすぎる光景なのかもしれませんね。というわけで、なかなか楽しめました。来週は《清教徒》に行きます。
東京都合唱コンクール~男女の対決 ― 2011年09月20日 00時56分17秒
書くべきことは多く、書くゆとりのない数日でした。何より、18日(日)、19日(月)と審査員を務めた、東京都合唱コンクールのことを。
引き受けたことを後悔し、迫ってくるとプレッシャーに悩まされる、合唱コンクールの審査。今年はかなり前に1度やっただけの東京都でしたので、様子がわからないことも加わり、大きな難関、という意識がありました。
しかしいざ始まってみると、さすがに私も慣れてきていて、自分なりの判断が、かなり出来ました。もちろんそれは、気持ちよくやらせていただいた全日本合唱連盟の方々や、同僚審査員諸氏のおかげです。ありがとうございました。
採点の半分を占めることになっている課題曲に、ハイドンの《瞬間》という、威厳とユーモアを兼ね備えた、すばらしい合唱曲があります。この曲については機関誌の『ハーモニー』から依頼され、分析の原稿を書きました。とりあげた団体は多くがそれを読んでくださっているようで、違和感のある解釈は、ほとんどありませんでした。しかし雨森文也さん指揮するCantus animae(魂の歌)という合唱団の演奏は私の解説を数段超えたもので、曲のもっている可能性をすべて表現した、と思えるほどの完成度の高さ。この合唱団が全国大会に派遣される団体の1つになったのは、本当に嬉しいことでした。スウェーリンクとバードにすばらしい様式感を示しながら金賞を逸した豊田商事コーラス同好会が審査員特別賞を受賞したことにも、わが意を得た思いをしました。
中学、高校の部の表彰式には、特別な楽しみがあります。それは、感じやすい年代の生徒たちが、本当に正直な喜怒哀楽を示してくれるからです。最前列に陣取った女子生徒たちが結果発表に先立って「乙女の祈り」とも言うべき緊張の姿勢を見せ、それが喜びに変わる経緯を見守るのは、いつでも感動を伴います。え、失望に変わる経緯もあるんじゃないか、とおっしゃるんですか?最前列に陣取るのは熱心かつ有力な学校なので、失望に変わるのはレア・ケースです。
ぶっちぎりの演奏を続けた強豪校、杉並学院。高校の部の表彰式で、合唱部女子が、中央最前列に陣取りました。発表が迫ると皆手をつなぎ、「乙女の祈り」そのものの、身を固くした姿勢になります。気がつくと、右側最前列には、合唱部男子が陣取っている。抜きん出た強豪校なので、男子と女子が分かれて応募し、どちらも優勝候補という、同士討ち状態になっているのです。
発表の結果、男子が優勝。男子が喜びを爆発させたのに対し、女子(2位)は意気消沈の涙で、ライバル意識がありあり。まさに「男女の対決」の構図ではありました。もちろん、これだけの意欲あればこその、1位2位です。一般の部に出演した卒業生たちの演奏もすばらしく、東京に杉並学院あり、という現実が強烈にインプットされました(続く)。
引き受けたことを後悔し、迫ってくるとプレッシャーに悩まされる、合唱コンクールの審査。今年はかなり前に1度やっただけの東京都でしたので、様子がわからないことも加わり、大きな難関、という意識がありました。
しかしいざ始まってみると、さすがに私も慣れてきていて、自分なりの判断が、かなり出来ました。もちろんそれは、気持ちよくやらせていただいた全日本合唱連盟の方々や、同僚審査員諸氏のおかげです。ありがとうございました。
採点の半分を占めることになっている課題曲に、ハイドンの《瞬間》という、威厳とユーモアを兼ね備えた、すばらしい合唱曲があります。この曲については機関誌の『ハーモニー』から依頼され、分析の原稿を書きました。とりあげた団体は多くがそれを読んでくださっているようで、違和感のある解釈は、ほとんどありませんでした。しかし雨森文也さん指揮するCantus animae(魂の歌)という合唱団の演奏は私の解説を数段超えたもので、曲のもっている可能性をすべて表現した、と思えるほどの完成度の高さ。この合唱団が全国大会に派遣される団体の1つになったのは、本当に嬉しいことでした。スウェーリンクとバードにすばらしい様式感を示しながら金賞を逸した豊田商事コーラス同好会が審査員特別賞を受賞したことにも、わが意を得た思いをしました。
中学、高校の部の表彰式には、特別な楽しみがあります。それは、感じやすい年代の生徒たちが、本当に正直な喜怒哀楽を示してくれるからです。最前列に陣取った女子生徒たちが結果発表に先立って「乙女の祈り」とも言うべき緊張の姿勢を見せ、それが喜びに変わる経緯を見守るのは、いつでも感動を伴います。え、失望に変わる経緯もあるんじゃないか、とおっしゃるんですか?最前列に陣取るのは熱心かつ有力な学校なので、失望に変わるのはレア・ケースです。
ぶっちぎりの演奏を続けた強豪校、杉並学院。高校の部の表彰式で、合唱部女子が、中央最前列に陣取りました。発表が迫ると皆手をつなぎ、「乙女の祈り」そのものの、身を固くした姿勢になります。気がつくと、右側最前列には、合唱部男子が陣取っている。抜きん出た強豪校なので、男子と女子が分かれて応募し、どちらも優勝候補という、同士討ち状態になっているのです。
発表の結果、男子が優勝。男子が喜びを爆発させたのに対し、女子(2位)は意気消沈の涙で、ライバル意識がありあり。まさに「男女の対決」の構図ではありました。もちろん、これだけの意欲あればこその、1位2位です。一般の部に出演した卒業生たちの演奏もすばらしく、東京に杉並学院あり、という現実が強烈にインプットされました(続く)。
東京都合唱コンクール~考えさせられたこと ― 2011年09月21日 11時06分42秒
アマチュアの合唱では、指揮をする先生のご指導が、決定的に大きな役割を演じます。審査員も指揮者が主体になりますから、指揮者がどんな合唱を目指し、どんな風に作品を解釈し、メンバーがそれにどのように協力して、どういう結果を生み出したかに、関心を注ぐ。合唱コンクールはじつは指揮者のコンクールなのだ、という極論を耳にしたことも、あるほどです。
ところが、一般の部Aの最後に、シード団体の1つとして、指揮者を置かない合唱団が登場しました。"harmonia ensemble"という混声27名の合唱団です。曲目がなんとバッハのモテット《イエスよ、私の喜び》でしたので、ひとつぐらいバッハを聴けるのは嬉しいなあ、というぐらいの気持ちで聴き始めました。
驚きましたね。「震撼」という言葉を使ってもいいです。指揮者がいないのにハーモニーは引き締まって美しく、全員が、バッハの音楽の真髄へと向かっている。まさに、精神性にあふれた合唱なのです。この団体がすでに有名で、外国でも活躍している、ということを知ったのは、事後のことでした。
卓越した先生に牽引されているわけでもない(ように見える)のに、なぜこうした演奏が可能なのか。私は狐につままれたような思いがしましたが、もしかすると、こういう形態だからこそできる演奏なのかもしれない、と思い直しました。お互いに意見を出しあって勉強しているのだとすると、その過程でみんなが勉強し、みんなが作品の世界に分け入ることになる。だからこその隙のなさではないのか、と。
いずれにしても、この団体の演奏は、指揮者対合唱団という、1対多の形の演奏様式が絶対的なものではないことを指し示しています。指揮者が絶対であるとすると、メンバーは曲の勉強を指揮者にまかせ、自分は言われる通りにやればいい、となりやすいと思う。みんなが勉強して取り組み、ひとりひとりが生き生きしていることの価値は、羊のような従順や軍人のような結束よりも大切なのではないか、という思いが湧いてきました。
指揮者がごく少数の団員の前で身振り大きく指揮している団体もありました。それならいっそ、アンサンブルに入って、一緒に歌われたらどうでしょう。「内側から」のアンサンブルは、じつに追究する価値のあるものです。
〔付記〕朝刊で、杉山好先生の訃報に接しました。心よりご冥福をお祈りいたします。29日のお別れ会に出席した上で、本欄でも、なつかしい思い出を綴らせていただきます。
ところが、一般の部Aの最後に、シード団体の1つとして、指揮者を置かない合唱団が登場しました。"harmonia ensemble"という混声27名の合唱団です。曲目がなんとバッハのモテット《イエスよ、私の喜び》でしたので、ひとつぐらいバッハを聴けるのは嬉しいなあ、というぐらいの気持ちで聴き始めました。
驚きましたね。「震撼」という言葉を使ってもいいです。指揮者がいないのにハーモニーは引き締まって美しく、全員が、バッハの音楽の真髄へと向かっている。まさに、精神性にあふれた合唱なのです。この団体がすでに有名で、外国でも活躍している、ということを知ったのは、事後のことでした。
卓越した先生に牽引されているわけでもない(ように見える)のに、なぜこうした演奏が可能なのか。私は狐につままれたような思いがしましたが、もしかすると、こういう形態だからこそできる演奏なのかもしれない、と思い直しました。お互いに意見を出しあって勉強しているのだとすると、その過程でみんなが勉強し、みんなが作品の世界に分け入ることになる。だからこその隙のなさではないのか、と。
いずれにしても、この団体の演奏は、指揮者対合唱団という、1対多の形の演奏様式が絶対的なものではないことを指し示しています。指揮者が絶対であるとすると、メンバーは曲の勉強を指揮者にまかせ、自分は言われる通りにやればいい、となりやすいと思う。みんなが勉強して取り組み、ひとりひとりが生き生きしていることの価値は、羊のような従順や軍人のような結束よりも大切なのではないか、という思いが湧いてきました。
指揮者がごく少数の団員の前で身振り大きく指揮している団体もありました。それならいっそ、アンサンブルに入って、一緒に歌われたらどうでしょう。「内側から」のアンサンブルは、じつに追究する価値のあるものです。
〔付記〕朝刊で、杉山好先生の訃報に接しました。心よりご冥福をお祈りいたします。29日のお別れ会に出席した上で、本欄でも、なつかしい思い出を綴らせていただきます。
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