ツキをためる2011年10月01日 23時40分01秒

いつも「今月のイベント」というご案内をしていますが、これって意味あるのかな、という気持ちをもちつつやっていました。でも、今日、たいへん意味があることがわかりました。

そもそも今日は、裏目、裏目とまわる1日でした。朝日カルチャーに行くべく電車に乗ってメールチェックしたところ、22日の《マタイ》講座の責任者からメール。仰天の内容でした。時間は「4時からではなく2時から」であるとのこと。ダブルブッキングだったのです。

すっかり気持ちが暗くなり、教室へ。新しい方が数名いらっしゃいます、という担当者の言葉を信じて行ってみると、教室はがらんとしている。前期からの継続なのですが、半分以上の方がやめられたようなのです。内容的にはある程度自信をもっていたのですが、この状況は、内容への批判、あるいは後期の計画への批判と受け止めざるを得ません。ちょっとがっかりしましたが、まあ仕方ない、今日をしっかりやろうと、気を取り直しました。

で、ふと気がつくと、多いとは言えない受講生の中に、国立音大で聴講生をしておられる女性が混じっておられるではありませんか。いつもとてもいい反応で聞いてくださっている方でしたが、なんと朝日カルチャーまで参加してくださったようなのです。

私は、顔面蒼白。なぜなら、今日の内容は、まさにその方が聞いておられた昨日の「音楽美学概論」と、6割方重なっていたからです。最近は須坂のネタを東京で使い、ヘーゲルの授業ネタをカルチャーで使うというような使い回しを結構しており、場に合わせて改良することで、いい結果を得ていました。昨日の段階では、よし、このネタを明日使おう、とほくそ笑んでいたわけです。しかし熱心な方が掛け持ちされ、「なあんだ、同じじゃん」というのは、最悪のケース。本当に、油断は禁物ですね。なんとか補うべく、がんばりはしましたが。

午後にもはかばかしいことはなく、遅い昼食も選択を誤りました。さんざんの1日でしたが、でもこれって、いいツキがたまったということですよね?明日、いいことあるかな。

〔付記〕22日は14:00から《マタイ受難曲》の講演を行い、朝日横浜校の講座は延期させていただきます。申し訳ございません。

ツキを使う(ソースカツ丼)2011年10月03日 21時47分00秒

日曜日、須坂へ。とても疲れていて、気勢が上がりません。12時近くに着き、アシスタントをずっとしてくれているまさお君と合流。彼に「相当無理をしているので、過労死が心配だ」と言ったところ、彼は「過労死というのは30代か40代の人がするもので、先生にはぜったい起こりません」と断言。なんとなく抵抗のある慰め方なんですが、どういう意味でしょう。どんなに無理をしても先生の年齢なら大丈夫だ、という意味?そうでないとすると、たとえ死んでも過労死ではなくてただの死だ、という意味になってしまいますが・・・(笑)。

元気の出る食事がしたいなあ、ということで、インドカレーを選びました。ところが、お店に行く道を勘違い。するといままで気が付かなかったところに、その名も「豚のさんぽ」という店があります。豚肉の専門店で、表に飾られているのが、ソースカツ丼。私はお店に迷う方ですがソースカツ丼のあるお店にはすぐ入ることに決めているので、この日も、即入店。じつはこのメニューの権威なのです。

若向けの盛り付けですが、じつにおいしい。大満足で食べ終わり、外に出て気づきました。明るい覇気が出て、肉食の精気が、体にみなぎっているではありませんか。こんなに変わるものでしょうか!講演もエネルギッシュにこなすことができました。こんなに影響があるのであれば、食事療法で身体を治すというのも、本当なんですね。皆さんも、暗く気持ちが沈んだらソースカツ丼、おすすめします!!!

気持よくやらせていただいている須坂のクラシック入門講座、12月11日(日)が最終回です。久元祐子さんをお呼びしてモーツァルト・プログラムのコンサートを行います。歌い手も優秀な若手を2人を呼び、オペラのアリアや二重唱、歌曲をやります。最後に《トゥナイト》という楽しい趣向ですので、遠くからでもぜひいらしてください。演奏者等は、いずれ発表します。

免れた立ち往生2011年10月06日 22時28分26秒

今日は、「バッハとその時代」の持ち回り授業に3度目の登板。選帝侯妃追悼カンタータのCDと《ロ短調ミサ曲》のDVDを持参する予定を立てました。演奏は決まっています。追悼カンタータ(第198番)は、レオンハルト。これが最高の演奏です。《ロ短調ミサ曲》は、ネルソン指揮のノートルダム聖歌隊のもの。ラテン語テキストのスピリットが抜群で、グレゴリオ聖歌が堂に入っており、〈クレード〉に入ると、別世界が開ける感じになります。ミサ曲テキストへの習熟がいかに演奏に生きるか、痛感させられる演奏なのです。

バッハのCDの棚に行き、まず198番のケースをゲット。皆さんなら、すぐカバンに入れますよね。私は違います。慎重な性格なので、中身を確かめるのです。(黙りなさい、講演中に開いたら中身がなくて立ち往生、という光景を数回見ましたよ、と言っている人。)

開くと、中身は空。どこかで使って、戻しておかなかったようです。力が抜けました。次にDVDの棚に移動し、《ロ短調ミサ曲》をゲット。慎重な性格なので一応中身を確かめると、これも空でした。この演奏でやりたいのに!と、落胆。でも考えてみると、NHKの仕事の後、渋谷のタワーレコードで買う手があります。そこでブロムシュテットの映像を用意し、家を出ました。

結局タワーレコードでは入手できず、ツキをためる結果になりました。よく使うものほど、こうしたことが起こります。まあ、その場で立ち往生するよりはよかったですけど。

翻訳の方は、校了になりました。しかし念のため校正を1行程増やしましたので、出版は、1週間ほど遅れそうです。10月下旬に立てていた使う予定が、どうなりますやら。完成が楽しみというより、あそこはこれでよかったか、この表記はどうだったか、と心配している段階です。とくに、テキストをドイツ語読みで表記したことが気になっています。「ザンクトゥス」をお許しください。

今月の「古楽の楽しみ」2011年10月09日 18時01分10秒

NHKFMの「古楽の楽しみ」、今週が、私の担当分です。今週のテーマは「ドイツ・バロックのカトリック音楽」。最後に、バッハの《ロ短調ミサ曲》が登場します。

10日(月)は、デュッセルドルフの宮廷楽長、ヴィルデラーとそのオルガニスト、グルーアの宗教曲を取り上げます(おまけにレオポルト1世)。冒頭にヴィルデラーのミサ曲ト短調を出しますが、これはバッハ《ロ短調ミサ曲》のキリエのモデルになった作品ですので、比較してごらんになると、興味深いかと思います。

11日(火)は、ザルツブルク宮廷で鳴り響いた音楽、ということで、ビーバーのミサ曲とマニフィカト、ムファットのソナタ、カルダーラのマニフィカト。カルダーラの作品はバッハが筆写し部分的に編曲したことが知られており(BWV1082)、演奏もそれを含めています。

12日(水)はバイエルン選帝侯のミュンヘン宮廷の音楽。ケルル、ペーツ、ベルナベーイ、マイヤーの作品、というとずいぶん地味な感じですが、音楽のレベルは高く、他の宮廷に劣りません。

13日(木)と14日(金)は、バッハの《ロ短調ミサ曲》後半部です。13日は、同曲後半部の直接の先駆と考えられるカンタータ第191番(ミサ曲の〈グローリア〉の短縮版)をまず聴き、次に《ロ短調ミサ曲》の〈ニカイア信条〉(←従来「ニケーア信経」と呼ばれてきましたが、今回の訳本からニカイア信条に改めました)。演奏は前者がガーディナー、後者がユングヘーネル(カントゥス・ケルン)です。ユングヘーネルの演奏は古楽的透明感が卓抜で、この曲の上位に来る演奏でしょう。

14日は、《ロ短調ミサ曲》の第3部(ザンクトゥス)と第4部(オザンナ以降)を聴き、マニフィカトで締める、という趣向にしました。マニフィカトの演奏はピエルロです。

バッハのラテン語教会音楽の重要性が顕著に主張される中、このような放送を企画しました。お楽しみいただければ幸いです。

理念の優先2011年10月12日 00時12分22秒

マッキーさんのコメントにあった、《ロ短調ミサ曲》の〈キリエ〉がヴィルデラーのミサ曲を手本としていたという問題について、若干フォローします。

この曲とバッハの〈キリエ〉が共通しているのは、短いアダージョの序奏がついていることです。そこで合唱とオーケストラが一緒に入ること、〈キリエ・エレイソン〉のテキストが3度にわたって唱えられること、ドミナント上にフリギア終止することも共通です。主部はどちらもフーガで、同音反復を伴う主題が用いられています。〈クリステ〉が平行長調を取り、ヴァイオリンと通奏低音に伴奏された二重唱になること、第2キリエが古様式によるモテット楽曲になることも同じです。

こうした類似に加えて、バッハがヴィルデラーのミサ曲の筆写譜を作成し、ライプツィヒで演奏しているという事実が、「引用」を疑い得ないものにします。もちろん、結果はまったく異なっているわけですけれども。

わからないのは、そのことと、〈キリエ〉の3曲がおそらく旧作のカンタータ楽章の転用(パロディ)であることとが、どういう関係に立つか、ということです。原曲が見つかっていませんので、バッハが両者をどう折りあわせたのかは、不明のままです。

〈クリステ〉のファクシミリを見ていて、あることに気づきました。それは、第2ソプラノのソロが最初の2段(休符)はアルト記号で書かれ、声部の始まる3段目から、ソプラノ記号に変わっている、ということです(当時はどちらもハ音記号で記譜)。これは明らかに、原曲はソプラノとアルトの二重唱であったが、《ロ短調ミサ曲》においてソプラノ同士の2重唱に改められた、ということを意味しています。ヴォルフの指摘する「神人の同一性」が、変更の理由であろうと思います。

ここからわかるのは、バッハが時として理念を優先した作曲家であった、ということです。第2ソプラノのソロはたいへん音域が低く、普通のソプラノで響かせるのは、至難の業です。しかしバッハがこの曲をあえて2人のソプラノの二重唱としたということは、低い音のよく出るアルトの歌い手をここで使うべきではない、ということを指し示しているように思われます。

訳書、26日配本と決まりました。よろしくお願いします。

謝罪率2011年10月13日 14時42分11秒

自分のやさしさに、ふと気がつくときがあります。こんな私でも、慈父のようなやさしさが、心に湧き上がるときがある。今朝もそうでした。

周知の方から、「緊急のご連絡です」とのメール。驚いて開いてみると、私に依頼する仕事を忘れていた、今日なのだがなんとかならないか、という内容なのです。この瞬間に私の口元に浮かんだやさしい微笑みを、皆様ご想像ください。じつに今日は、スケジュール調整の可能な日でありました。

私は、自分以外の方がこの種のミステイクをなさることが、心地よくてなりません。なぜなら、私に仮に275あるダブルブッキング等々のミステイクが、この1件で274になったように感じるからです。人間誰しも間違いを犯す、という真理を体感して心が軽くなるのは、まことに得難い瞬間です。

先方はもちろん謝罪しておられましたが、私は最近、謝罪率という定理を考えるようになりました。すなわち、謝る数と謝られる数の比率です。企業のお客様係でもされていれば別ですが、普通の方は、まあまあ1に近いのではないでしょうか。しかるに私は謝罪されるより謝罪する方が圧倒的に多く、その少なからぬ部分が平謝り、という状況なのです。

昨日今日も、聖路加病院の検査を忘れてすっぽかしてしまう、翻訳を全力でサポートをしてくれた春秋社スタッフへのお礼を「あとがき」に書き忘れるという、2つの平謝り案件がありました。長い生涯ですから、相当積み重なっていると思います。

今朝は、新橋のマッサージへ。行き届いた治療を終えた河本先生が私の身体の固さを最大級と評価されておっしゃるには、「こういう方が仕事をされているのでは、自分など、疲れたという言葉は言えない」と。勇気をいただきました。(三越前のカフェにて記)

ヒューマニズムの傑作2011年10月16日 00時15分16秒

長いこと、「院オペ」(大学院オペラ)に付き合ってきました。チラシの推薦文を書き、当日の解説を書く、というのがノルマですが、近年は中心的な出演者たち、すなわちオペラ専攻の大学院生たちの論文指導をしていましたので、他人ごとではなくなってきていました。今年の学年は打ち上げのたびにカラオケに行くなどして仲良くしていただけに、少なからぬ身内意識をもって、聴きに行った次第です。

まず驚いたのは、二重丸で期待していた伯爵夫人役の尾形志織さんが体調不良で休演、とのニュース。みんなこの舞台に精魂を込めて作ってくるのですから、これは気の毒としか、言いようがありません。でも、こういうときこそ、私のツキの理論です。ツキを温存した人は、これからいいことが、たくさんあるはずです。

《フィガロの結婚》は、内外の実演、CD、DVDで、何度聴いたかわかりません。解説も講演も授業も、繰り返しやった作品です。それだけに、どこかでやっているから聴きに行こう、とはもうあまり思わなくなっているのですが、でもやっぱり、すばらしい作品ですね。ヒューマニズムという言葉は、この作品のためにあるかのよう。多大の時間をかけ、勉強に勉強を重ねて今日を迎えた学生たちの演奏には心に訴えるものがたくさんあり、感動をもって聴きました。2日目は行かれませんので、これが「院オペ」との付き合いの、最後になりました。

立場上、みんな良かったという感想になってしまいますので、自由なご意見は、コメントでお願いいたします。

図書館のあり方2011年10月17日 15時52分20秒

かつて大学の図書館長をつとめていた時に、図書館の発行している「ぱるらんど」という雑誌に、「館長室だより」というエッセイを寄稿していました。先日、図書館が順番となった読売新聞との共催講座のさい、私がかつて書いたものが、参考資料として配布されました。読んでみると、今でも使えそうな話題なので、許可をいただき、アーカイヴとして公開することにします。どうぞよろしく。

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「その先の勉強」のために

 高価な学術書を出版された方から、「個人でお買いいただくのは心苦しいので、図書館にお薦め下さい」という手紙をいただいた。個人向けというより図書館を念頭に置いた出版は、専門書、貴重書、豪華本などの形で、昔から広く行われている。音楽の世界では、全集楽譜や自筆譜ファクシミリも、そのうちに含まれるだろう。こうした出版物は、単価が高く、発行部数は少ないのが普通である。

 だがおそらくどの図書館も、そのように出版されても困る、今は財政難なのだから、と言うに違いない。専門分野が多様化し、買うべきものが増えているだけに、なおのことである。むしろ、高価な出版物はその分野の専門家に個人的に集めていただき、図書館は一般的な文献を多数収集する方が合理的だ、という考え方も強くなっている。

 モーツァルトの歌劇《ドン・ジョヴァンニ》を例にとれば、貴重なファクシミリ楽譜を一点買うのと、実用的なヴォーカル・スコアを何冊も備えるのと、どちらがいいか。限られた人しか読めない(しかし価値の高い)研究書を一冊買うのと、手引きや入門書を数冊揃えるのと、どちらがいいか。大学図書館は学生さんの納めるお金で運用されているだけに、こうした選択がむずかしいのである。

 私は、「その先の勉強」のために備えをすることが図書館の使命だと思っている。町の本屋さんが日常的なニーズを満たすためにあるとすれば、図書館は、「その先の勉強」を求める人に対して、信頼の置ける有益な情報を提供できなくてはならない。社会の文化的水準を維持し、向上させるという究極的な目的のためには、それがどうしても必要である。だから、専門的な本や高価な本に対して、手抜きはできないのである。でも、お金が・・・(初めに戻る)。

飛びゆく時間の中で2011年10月20日 11時44分41秒

月日が、速く過ぎます。わが家の規準は、愛犬のトリミング。1ヶ月に1回規則的に行っていますので、「行ったばかりなのにまた行ったのか」という実感になる。メス犬ならともかく、オス犬が毎月行って、どうするんでしょう。

経過の速い理由は、記憶力の衰えと考えて、間違いないと思います。忘れてしまった時間は、ないのと同じですから。残り少ない大事な時間がどんどん過ぎ去るのは不合理にも思いますが、それは、「若い時間が長い」という摂理によるのだと理解しています。

でも自分、進歩しているようにも思うのです。土曜日に《マタイ受難曲》の講演会があり、今日準備したのですが、最近やっていたわけではないのに、曲に対する見方が変わっている。《ロ短調ミサ曲》効果で、《マタイ》に対して、新しい判断や意味づけが発生しているのです。ですので、著作執筆当時と同じ話は、しなくて済みそうです。

最近、当時の受難曲の録音が増えました。それを通じてわかることは、バッハだけがやっていたわけではない、しかし、バッハのやっていたことは、やはり桁違いだ、ということです。それは、真の傑作を時代や社会からのみ説明してはいけない、ということを物語っていると思います。

ついに2011年10月21日 23時28分20秒



訳書の見本ができてきました。美しい仕上がりで喜んでいます。値段は2,500円+税です。26日発売ですので、どうぞよろしく。今日、編集者の高梨公明さんとKISAKIで祝杯を挙げました。とてもよくやっていただいたのに、「あとがき」でお礼を書き忘れ、恥ずかしいかぎりです。ありがとうございました。