翻訳完了 ― 2011年08月16日 00時39分25秒
いま《ロ短調ミサ曲》の翻訳を完了させ、春秋社に送付しました。できれば土曜日まで、なんとか日曜日までに済ませたかったのですが、結局、月曜日を全部使いました。朝から晩まで連日ほとんど休みなしに作業したので、へとへとです。ちょっと安心して更新しようと思ったら、大量の迷惑コメントのタイトルが、「ヤリ過ぎに注意!」ですと(笑)。いずれにしても、ひとつの仕事だけやるのはよくないですね。能率が低下します。
コンパクトな本なのですが、中身が濃いので、訳すのは相当たいへん。でも書いている方は、ケタ違いの凄さですね。世界を飛び回り、論文も次々と書く中で、よくこれだけの本を書けるものです。よほど仕事が速いのでしょうね。註で引用されている文献は、ほとんどが、21世紀のもの。つまり、ここ10年ぐらいのバッハ研究の進展がぎっしりつまった本、ということです。私も、本当に勉強になりました。
かなり完成度の高い形で入稿しましたので、9月中には、出版にこぎつけられるんじゃないかと思います。でもそれは、ゲラの直しが後期の始まりと重なることを意味しますから、9月が、殺人的なスケジュールになりそう。ともあれしばらくは、別のことをします。
コンパクトな本なのですが、中身が濃いので、訳すのは相当たいへん。でも書いている方は、ケタ違いの凄さですね。世界を飛び回り、論文も次々と書く中で、よくこれだけの本を書けるものです。よほど仕事が速いのでしょうね。註で引用されている文献は、ほとんどが、21世紀のもの。つまり、ここ10年ぐらいのバッハ研究の進展がぎっしりつまった本、ということです。私も、本当に勉強になりました。
かなり完成度の高い形で入稿しましたので、9月中には、出版にこぎつけられるんじゃないかと思います。でもそれは、ゲラの直しが後期の始まりと重なることを意味しますから、9月が、殺人的なスケジュールになりそう。ともあれしばらくは、別のことをします。
最後モード ― 2011年08月12日 22時29分42秒
尊敬する友人(外国在住)からメール。そこに、今年のブログは寂しいパッセージが多く、読んでいて心が沈んでしまう。と書いてありました。え!?最後だ最後だとばかり書いていますから、そう思われたのでしょうか。日々を大事に過ごそうと思っているあらわれで、悲観的になっているわけではありません。嬉しい最後、ほっとする最後もありますし。
11日の金曜日には、遅ればせながら、《ポッペアの戴冠》東京公演の打ち上げを、ウィーン留学されるお二人の送別会を兼ねて行いました。「響」新宿野村ビル店(49F)のすばらしいロケーションでたいへん楽しい会になりましたが、門下の重鎮(?)がここで二人いなくなるのは、たしかに寂しい感じもありますね。帰ってくると、私はもういないわけですから。「送別会じゃなくて壮行会じゃないの?」というご指摘をいただきました。確かに(汗)。
もうひとつ、最後モードを高める強力な材料があることに気づきました。いつも書いている、《ロ短調ミサ曲》の翻訳です。ここには、死期近いバッハの集大成という観点が、ヴォルフ先生の鋭利な分析によりいやが上にも強調されているので、ついついそれに同調してしまっているのです。時間との競争で仕上げられた最後の作品を、死んだバッハと同じ年齢の人間が、現役最後の年に、時間と競争でやっている。出来すぎのシチュエーションですよね(笑)。
明日はないと思って生きるのが最上の生き方だ、とよく言われます。ちょっと、わかった感じがします。
11日の金曜日には、遅ればせながら、《ポッペアの戴冠》東京公演の打ち上げを、ウィーン留学されるお二人の送別会を兼ねて行いました。「響」新宿野村ビル店(49F)のすばらしいロケーションでたいへん楽しい会になりましたが、門下の重鎮(?)がここで二人いなくなるのは、たしかに寂しい感じもありますね。帰ってくると、私はもういないわけですから。「送別会じゃなくて壮行会じゃないの?」というご指摘をいただきました。確かに(汗)。
もうひとつ、最後モードを高める強力な材料があることに気づきました。いつも書いている、《ロ短調ミサ曲》の翻訳です。ここには、死期近いバッハの集大成という観点が、ヴォルフ先生の鋭利な分析によりいやが上にも強調されているので、ついついそれに同調してしまっているのです。時間との競争で仕上げられた最後の作品を、死んだバッハと同じ年齢の人間が、現役最後の年に、時間と競争でやっている。出来すぎのシチュエーションですよね(笑)。
明日はないと思って生きるのが最上の生き方だ、とよく言われます。ちょっと、わかった感じがします。
《ロ短調》翻訳三昧 ― 2011年08月10日 23時17分41秒
お勤めの方も、ちらほら夏休みを取られているようですね。皆様お元気でしょうか。私は、今週は外の仕事は1つもないのですが、朝から晩まで、全力を尽くして翻訳をやっています。なんとか1日でも早く仕上げ、原稿を春秋社に入れてから、少しでも夏休みのスケジュールをもちたい、と念願しつつ。(いろいろなことを後回しにしてしまっています。関係の方、申し訳ありません。)
気力は旺盛なのですが、不思議なもので、あまり続けていると疲れて、能率が落ちてくる。しばらくがんばりますが、もうダメ、となるところがあります。今日は逆で、朝のうちは集中できず困ったのですが、午後からは上昇して、かなり進みました。今やっているのは、二度目の見直しで、原文・訳文の詳細な比較チェックと、訳のとりあえずの確定です。なんとか一両日中に最後まで行きそうなので、それから三度目の見直しに入ります。これは訳の日本語としての流れの改良と、未決定部分の熟慮、訳語の統一といった課題に対応するものです。
最大の問題のひとつは、ラテン語の発音表記です。ドイツ語発音にすべきだと思うのですが、「アグヌス・デイ」はまだしも、「キュリエ・エレイゾン」「クヴォーニアム」などとなると、違和感のある方が多いでしょうね。最終的にはヴォルフ先生のご意向も伺って決断しようと思っています。
気力は旺盛なのですが、不思議なもので、あまり続けていると疲れて、能率が落ちてくる。しばらくがんばりますが、もうダメ、となるところがあります。今日は逆で、朝のうちは集中できず困ったのですが、午後からは上昇して、かなり進みました。今やっているのは、二度目の見直しで、原文・訳文の詳細な比較チェックと、訳のとりあえずの確定です。なんとか一両日中に最後まで行きそうなので、それから三度目の見直しに入ります。これは訳の日本語としての流れの改良と、未決定部分の熟慮、訳語の統一といった課題に対応するものです。
最大の問題のひとつは、ラテン語の発音表記です。ドイツ語発音にすべきだと思うのですが、「アグヌス・デイ」はまだしも、「キュリエ・エレイゾン」「クヴォーニアム」などとなると、違和感のある方が多いでしょうね。最終的にはヴォルフ先生のご意向も伺って決断しようと思っています。
卓抜なプログラム ― 2011年08月08日 23時07分23秒
たくさんの嬉しい書き込み、ありがとうございました。では、エリクソンさんの「究極のバッハ」のプログラムがどれほど考えぬかれていたのか、その分析をしてみましょう。
【前半】
1.《音楽の捧げもの》から〈6声のリチェルカーレ〉
2.コラール・パルティータ《喜び迎えん、慈しみ深きイエスよ》BWV768
3.《フーガの技法》より〈未完の4重フーガ〉
4.コラール《汝の御座の前にわれ今ぞ進み出で》
【後半】
1.プレリュードとフーガト長調(ピエス・ドルグ)BWV572
2.《クラヴィーア練習曲集第3部》からコラール〈天にましますわれらの神よ〉BWV682
3.《オルゲルビューヒライン》からコラール〈おお人よ、汝の大いなる罪を泣け〉BWV622
4.パッサカリアハ短調
すぐわかるのは、前半に後期の作品が集められ、後半に初期の作品が集められていることです。前半は純粋なオルガン曲とは言えない超越的な作品が2曲含まれ、未完のフーガから遺作のコラールに向けて、バッハの最後期の音楽をたどるようになっている。これに対して後半には、若々しく聴きやすい、オルガン・プロパーの作品が並んでいます。
ただどちらにも1曲ずつ、後期と前期の作品が紛れ込んでいる。対比の意図に違いないのですが、リハーサルを聴いて、紛れ込んでいる作品が、じつに大きな存在価値を発揮することを発見。最晩年の作品に囲まれた初期ルーツの作品の、熱い血の通い方。初期の作品に囲まれた後期のコラールの、驚くべき精緻さ。それが鮮明に浮かび上がり、あたかも、地と図のリバーシブルな関係を見るかのようなのです。しかも、前半と後半が4曲ずつ、完全に対称をなしている!前半が老若老老、後半が若老若若です。
さらに見ると、冒頭のリチェルカーレのハ短調と最後のパッサカリアのハ短調が大枠を作り、3曲目はどちらも変ホ長調になっている。前半最後のコラールはト長調、後半最初の《ピエス・ドルグ》もト長調で、そこにもつながりが設定されています。
バッハの音楽が「音による幾何学」であることはよく知られていますが、このコンサート自体がひとつの幾何学になっていて、高度な知性の目が、それを統括しています。ステージでそのことを申し上げたところ、ただ曲を並べるのではなく、曲同士の内的な相互関係に留意している、とのお答え。本当に、驚いてしまいました。
演奏家の志はプログラムを見ればわかる、とよく言われますが、その通りですね。勉強させていただきました。
【前半】
1.《音楽の捧げもの》から〈6声のリチェルカーレ〉
2.コラール・パルティータ《喜び迎えん、慈しみ深きイエスよ》BWV768
3.《フーガの技法》より〈未完の4重フーガ〉
4.コラール《汝の御座の前にわれ今ぞ進み出で》
【後半】
1.プレリュードとフーガト長調(ピエス・ドルグ)BWV572
2.《クラヴィーア練習曲集第3部》からコラール〈天にましますわれらの神よ〉BWV682
3.《オルゲルビューヒライン》からコラール〈おお人よ、汝の大いなる罪を泣け〉BWV622
4.パッサカリアハ短調
すぐわかるのは、前半に後期の作品が集められ、後半に初期の作品が集められていることです。前半は純粋なオルガン曲とは言えない超越的な作品が2曲含まれ、未完のフーガから遺作のコラールに向けて、バッハの最後期の音楽をたどるようになっている。これに対して後半には、若々しく聴きやすい、オルガン・プロパーの作品が並んでいます。
ただどちらにも1曲ずつ、後期と前期の作品が紛れ込んでいる。対比の意図に違いないのですが、リハーサルを聴いて、紛れ込んでいる作品が、じつに大きな存在価値を発揮することを発見。最晩年の作品に囲まれた初期ルーツの作品の、熱い血の通い方。初期の作品に囲まれた後期のコラールの、驚くべき精緻さ。それが鮮明に浮かび上がり、あたかも、地と図のリバーシブルな関係を見るかのようなのです。しかも、前半と後半が4曲ずつ、完全に対称をなしている!前半が老若老老、後半が若老若若です。
さらに見ると、冒頭のリチェルカーレのハ短調と最後のパッサカリアのハ短調が大枠を作り、3曲目はどちらも変ホ長調になっている。前半最後のコラールはト長調、後半最初の《ピエス・ドルグ》もト長調で、そこにもつながりが設定されています。
バッハの音楽が「音による幾何学」であることはよく知られていますが、このコンサート自体がひとつの幾何学になっていて、高度な知性の目が、それを統括しています。ステージでそのことを申し上げたところ、ただ曲を並べるのではなく、曲同士の内的な相互関係に留意している、とのお答え。本当に、驚いてしまいました。
演奏家の志はプログラムを見ればわかる、とよく言われますが、その通りですね。勉強させていただきました。
大盛況のオルガン・シリーズ ― 2011年08月06日 23時45分31秒
朝6時に家を出て、大阪へ。降り立つとカッと明るい夏の天気で、空気が澄んでいます。気持ちのいい朝。いずみホールの周辺は、蝉の大合唱でした。本日のオルガニスト、エリクソン氏もこれには驚き、何の音だ、と言われたそうです。
ライプツィヒとの提携によるバッハ・オルガン作品演奏会シリーズの好調についてはおりおりにご報告してきましたが、そう長続きするものではない、という気持ちももっていました。シリーズというのは先細りするものですし、出演者も、このところ一般には知られていない人が続いているからです。最近4回の出演者は、ジェイムズ・デイヴィッド・クリスティ、ハンス・ファギウス、ヴォルフガング・ツェーラー、ハンス=オラ・エリクソンですが、そのうち、ご存知の方は何人いますか?複数いたら、相当のオルガン通であると思います。
ところが今回はとりわけ券売が好調で、ほぼ満席とか。ほっと安堵しました。しかし、コンサートにお客様を集めることがどれほどむずかしいかを経験し続けてきた身としては、とても不思議にも感じます。オルガン曲は地味ですし、このシリーズを始めるまでは、ずいぶん継続に苦労もしていたからです。
分析はいろいろしてみたいと思いますが、間違いなくあるのは、芸術監督クリストフ・ヴォルフ先生の人選の確かさと、選ばれたオルガニストたちが最高の演奏でつないでくれているところから生まれる、信頼性。コンサート前から次回の予約に大勢の方が並ばれるというのは、それなくしてはあり得ないと思います。私自身、次々と登場する世界的オルガニストたちの力量に、驚いてしまっているのです。
エリクソンさんの演奏も、すぐれた造形感覚と時間を大きくとらえる発想をもつ卓越したものでした。とりわけ、難曲《天にましますわれらの父よ》の明晰な表現と、《パッサカリア》の凝集力が圧巻。《パッサカリア》はご承知の通り、ループする低音の上にゴシック教会のように荘厳な空間を築いてゆく作品ですが、やがて主題が低音から解放され、各声部に振りまかれますよね。フーガになるところです。その部分が、教会空間から重い扉を空けて自然の中に踏み出したような開放感を伴っていて、印象に残りました。
演奏そのものに劣らず印象深かったのが、プログラム作りの見事さでした。いいプログラムだと思ってはいましたが、リハーサルを聴いているときにその狙いがわかり、電気に打たれたようになりました。バッハの音楽と同様、それ自身幾何学を内包していると思われるようなその見事なプログラムについては、長くなりますので明日書くことにします。
ライプツィヒとの提携によるバッハ・オルガン作品演奏会シリーズの好調についてはおりおりにご報告してきましたが、そう長続きするものではない、という気持ちももっていました。シリーズというのは先細りするものですし、出演者も、このところ一般には知られていない人が続いているからです。最近4回の出演者は、ジェイムズ・デイヴィッド・クリスティ、ハンス・ファギウス、ヴォルフガング・ツェーラー、ハンス=オラ・エリクソンですが、そのうち、ご存知の方は何人いますか?複数いたら、相当のオルガン通であると思います。
ところが今回はとりわけ券売が好調で、ほぼ満席とか。ほっと安堵しました。しかし、コンサートにお客様を集めることがどれほどむずかしいかを経験し続けてきた身としては、とても不思議にも感じます。オルガン曲は地味ですし、このシリーズを始めるまでは、ずいぶん継続に苦労もしていたからです。
分析はいろいろしてみたいと思いますが、間違いなくあるのは、芸術監督クリストフ・ヴォルフ先生の人選の確かさと、選ばれたオルガニストたちが最高の演奏でつないでくれているところから生まれる、信頼性。コンサート前から次回の予約に大勢の方が並ばれるというのは、それなくしてはあり得ないと思います。私自身、次々と登場する世界的オルガニストたちの力量に、驚いてしまっているのです。
エリクソンさんの演奏も、すぐれた造形感覚と時間を大きくとらえる発想をもつ卓越したものでした。とりわけ、難曲《天にましますわれらの父よ》の明晰な表現と、《パッサカリア》の凝集力が圧巻。《パッサカリア》はご承知の通り、ループする低音の上にゴシック教会のように荘厳な空間を築いてゆく作品ですが、やがて主題が低音から解放され、各声部に振りまかれますよね。フーガになるところです。その部分が、教会空間から重い扉を空けて自然の中に踏み出したような開放感を伴っていて、印象に残りました。
演奏そのものに劣らず印象深かったのが、プログラム作りの見事さでした。いいプログラムだと思ってはいましたが、リハーサルを聴いているときにその狙いがわかり、電気に打たれたようになりました。バッハの音楽と同様、それ自身幾何学を内包していると思われるようなその見事なプログラムについては、長くなりますので明日書くことにします。
晩節 ― 2011年08月05日 23時55分32秒
松田選手が亡くなりましたね。若くして亡くなるのは本当にお気の毒ですが、私はサッカーのことはよく知りませんので、それ自体に感慨があるわけではありません。ただ、オッと思ったのは、松本のサッカーチームが「「山雅」という名前であること。これって、私の名前の後半と同じですね。松本は、ご承知の通り私が思春期を過ごしたところですので、この一致には因縁というか、結構感じるところがありました。
なんとか翻訳原稿をお盆前に入れてしまおうと、今日は猛烈に作業しました。翻訳していてなるほどなあ、と思った一端をご紹介します。最新の「蛍光分析」を用いた自筆譜研究によると、《ロ短調ミサ曲》は厳密には完成されておらず、歌詞振りなど、細部に仕上げられていない部分があるのだそうです。ヴォルフ先生によると、バッハが危険を承知で実験段階の目の手術を受ける決心をしたのは、もう一度仕事のできる環境を取り戻そうとしたからであり、そのひとつの理由に、《ロ短調ミサ曲》にさらに手をかけたいという気持ちがあったからではないか、とのこと。視力を失ったバッハの気持ちはどうだったのか、あまり考えたことがないことに気づきました。
それとも重なりますが、人間大切なのは、引き際です。やめる人間が今のうちに国の将来を決めておこう、人事を発令しておこう、というのは、私は絶対におかしいと思う。それは、次の人にまかせるべきです。いろいろな人の引き際を見てきましたが、影響力を残そうという気持ちほど、晩節を汚すものはないと思います。
なんとか翻訳原稿をお盆前に入れてしまおうと、今日は猛烈に作業しました。翻訳していてなるほどなあ、と思った一端をご紹介します。最新の「蛍光分析」を用いた自筆譜研究によると、《ロ短調ミサ曲》は厳密には完成されておらず、歌詞振りなど、細部に仕上げられていない部分があるのだそうです。ヴォルフ先生によると、バッハが危険を承知で実験段階の目の手術を受ける決心をしたのは、もう一度仕事のできる環境を取り戻そうとしたからであり、そのひとつの理由に、《ロ短調ミサ曲》にさらに手をかけたいという気持ちがあったからではないか、とのこと。視力を失ったバッハの気持ちはどうだったのか、あまり考えたことがないことに気づきました。
それとも重なりますが、人間大切なのは、引き際です。やめる人間が今のうちに国の将来を決めておこう、人事を発令しておこう、というのは、私は絶対におかしいと思う。それは、次の人にまかせるべきです。いろいろな人の引き際を見てきましたが、影響力を残そうという気持ちほど、晩節を汚すものはないと思います。
富士山? ― 2011年08月03日 22時51分02秒
2日~3日と河口湖で音楽学の合宿があり、中央本線と富士急を乗り継いで向かいました。本を読んでいてふと気がつくと、列車は「富士山」という駅に停車しています。あれ、こんな駅あったっけ、新しくできたのかな、と思って見回すと、そこは大きな町。富士吉田駅が富士山駅と改称されたのだとわかりました。車内には「富士登山鉄道」という掲示板も出ています。
たいへん違和感を感じたのですが、皆さん、どうでしょう。河口湖から乗ったタクシーで運転手さんに聞いたところでは、7月1日からそう改称されたとか。しかし地名は富士吉田市のままで、富士山市になったわけではないそうです。しかしここは富士山ではないし、せっかくの由緒ある地名がもったいないと思うのですが・・・。
宿は、河口湖を俯瞰するすばらしいロケーションのところ(大石地区の峰山荘)。客扱いもよく、多くの参加者ともども、満足しました。合宿で飲み、しゃべり、朝辛い思いをすることもずいぶん数を重ねましたが、これで最後。ほっとしています。幹事の皆さん、ありがとうございました。
たいへん違和感を感じたのですが、皆さん、どうでしょう。河口湖から乗ったタクシーで運転手さんに聞いたところでは、7月1日からそう改称されたとか。しかし地名は富士吉田市のままで、富士山市になったわけではないそうです。しかしここは富士山ではないし、せっかくの由緒ある地名がもったいないと思うのですが・・・。
宿は、河口湖を俯瞰するすばらしいロケーションのところ(大石地区の峰山荘)。客扱いもよく、多くの参加者ともども、満足しました。合宿で飲み、しゃべり、朝辛い思いをすることもずいぶん数を重ねましたが、これで最後。ほっとしています。幹事の皆さん、ありがとうございました。
8月のイベント ― 2011年08月01日 23時35分18秒
もう8月ですね。夏休みという実感のない昨今ですが、休みに入ったことは確かです。ゆっくり、夏を楽しもうと思っています---と言えるといいのですが、少しでも能率を上げて平素できないことをやらなければ、といきり立つこの1日でした。最重要課題は、《ロ短調ミサ曲》の翻訳完成です。
さて、今月のイベント。6日(土)は、いずみホールの人気シリーズ、「バッハ・オルガン作品連続演奏会」です(16:00から)。今回はスウェーデンの第一人者、ハンス・オラ・エリクソンが登場し、「究極のバッハ」と題して演奏します。パッサカリア、ピエス・ドルグといった著名曲に加えて、《音楽の捧げもの》の6声のリチェルカーレや、《フーガの技法》の最終フーガなどの聴けるのが楽しみです。いつもの通り、解説とインタビューをします。詳細はこちらhttp://www.izumihall.co.jp/bow/kouen_110806.htmlをどうぞ。
20日(土)は、久元祐子さん、武田忠善さん、澤畑恵美さん、黒田博さんら、大学の仲間たちと、福岡にコンサートに行きます。国立音大と福岡同調会の共催コンサートで、「モーツァルトにとって”3”とは?」というテーマの、マニアックなコンサートです(汗)。前半に変ホ長調のディヴェルティメント抜粋と、《ケーゲルシュタット・トリオ》、後半に《ドン・ジョヴァンニ》の三重唱場面を中心に演奏します。バリトン、バスが3人参加します。あいれふホールで、16:00から。
21日(日)は、立川楽しいクラシックの会。《魔笛》第2幕についてです。終了後はビヤ・パーティが予定されています。10:00から、錦町地域学習館です。
27日(土)は、10:00から朝日カルチャーセンターの新宿校で、《ロ短調ミサ曲》講座の第2回。「グローリアをめぐって」というテーマです。高速移動し、13:00から朝日カルチャー横浜校で、バッハ講座(汗)。テーマはケーテン時代の第2回で、「長男の楽譜帳--インヴェンションと平均律」です。
28日(日)は14:00から、須坂メセナホールで「すざかバッハの会」の入門講座第10回です。今回は、「音楽の中の女性--作曲家たちの求めたもの」というテーマで行います(なぜか汗)。よろしくお願いします。
さて、今月のイベント。6日(土)は、いずみホールの人気シリーズ、「バッハ・オルガン作品連続演奏会」です(16:00から)。今回はスウェーデンの第一人者、ハンス・オラ・エリクソンが登場し、「究極のバッハ」と題して演奏します。パッサカリア、ピエス・ドルグといった著名曲に加えて、《音楽の捧げもの》の6声のリチェルカーレや、《フーガの技法》の最終フーガなどの聴けるのが楽しみです。いつもの通り、解説とインタビューをします。詳細はこちらhttp://www.izumihall.co.jp/bow/kouen_110806.htmlをどうぞ。
20日(土)は、久元祐子さん、武田忠善さん、澤畑恵美さん、黒田博さんら、大学の仲間たちと、福岡にコンサートに行きます。国立音大と福岡同調会の共催コンサートで、「モーツァルトにとって”3”とは?」というテーマの、マニアックなコンサートです(汗)。前半に変ホ長調のディヴェルティメント抜粋と、《ケーゲルシュタット・トリオ》、後半に《ドン・ジョヴァンニ》の三重唱場面を中心に演奏します。バリトン、バスが3人参加します。あいれふホールで、16:00から。
21日(日)は、立川楽しいクラシックの会。《魔笛》第2幕についてです。終了後はビヤ・パーティが予定されています。10:00から、錦町地域学習館です。
27日(土)は、10:00から朝日カルチャーセンターの新宿校で、《ロ短調ミサ曲》講座の第2回。「グローリアをめぐって」というテーマです。高速移動し、13:00から朝日カルチャー横浜校で、バッハ講座(汗)。テーマはケーテン時代の第2回で、「長男の楽譜帳--インヴェンションと平均律」です。
28日(日)は14:00から、須坂メセナホールで「すざかバッハの会」の入門講座第10回です。今回は、「音楽の中の女性--作曲家たちの求めたもの」というテーマで行います(なぜか汗)。よろしくお願いします。
学位論文を考える ― 2011年07月31日 12時23分13秒
前期最後の公務は、29日に行われた、博士論文のプレ発表でした。すばらしいものが複数あり、新ドクターの誕生を期待しています。私はご存知の通り何人もの候補者を指導しておりまして、今年はぜひとも2人、恵まれれば3人のドクターを出すことを目標に掲げてきました。しかし手を挙げた人たちのうち複数が辞退し、目標を達成できないことがはっきりしました。やはり博論ともなると、簡単にはいかないですね。
音楽学、音楽教育学の学生は論文1本で審査されますが、実技の学生は実技+論文で審査されます。したがって、論文に求められる要求にも違いがあります。どこまで要求されるのか、という質問もよくいただきますが、最低ここまで、というラインを引くことはむずかしく、具体例が出てきたときに考えていくほかはない、と思っていました。しかし今回、分野が違っても博士論文の条件になることはこれかな、とかなり思いが定まりましたので、そのことを書きたいと思います(私の個人的な意見です)。
それは、研究は解説とは違う、ましてや概説や紹介とは違う、ということです。もちろん、研究と解説には重なり合う部分も多くあり、その区別は、容易ではありません。ある意味では、そのことを理解すること自体が、研究の発展であるとも言えるでしょう。振り返れば私も、勉強の過程で少しずつ、そのあたりを会得していったように思います。いずれにしろ解説では、どんなに字数を費やしても、学位の取れる論文にはならないのです。
どう違うか。解説というのは、対象を当然の前提として、それについて「わかったこと」を幅広く、わかりやすく伝えることを目指す。悪い意味ではなく、上から下への方向です。
研究は逆で、対象そのものが謎となり、その何を解明したいかが、テーマとなる。そして資料だの先行研究だのを使いながら、対象の「わからないこと」に、一歩ずつ迫ってゆくという、下から上への営みになります。得られる知見は新しいものですから、研究者が下した判断は厳密でなくてはならないし、検証可能なものでなくてはならない。こうしたプロセスが反映されて、論文が出来上がっていくのです。どんなテーマと向き合い、それを何によってどう調べ、どういう考えからどう判断したかを記述することが、論文には欠かせません。
こう言うとすごくたいへんなようですが、資料の引用であれ仮説の提示であれ、自分の書いたことが本当にそう言えるかどうか1つ1つ考える習慣をつければ、前進できると思います。コツがわかれば、けっしてむずかしいことではないのです。魅力的な考え方が提示されているようであっても、都合のいい材料だけを集め、整合しないものを切り捨てるというのではだめで、これも、よくある誤りです。不都合な材料も明示し、併せて考えてゆくことで、論文の厚みが生まれるわけです。
というわけで、学位を大事に考え、しっかりしたものをしっかり評価したい、という発想で取り組んでいます。これから挑戦される方も、ぜひがんばってください。
音楽学、音楽教育学の学生は論文1本で審査されますが、実技の学生は実技+論文で審査されます。したがって、論文に求められる要求にも違いがあります。どこまで要求されるのか、という質問もよくいただきますが、最低ここまで、というラインを引くことはむずかしく、具体例が出てきたときに考えていくほかはない、と思っていました。しかし今回、分野が違っても博士論文の条件になることはこれかな、とかなり思いが定まりましたので、そのことを書きたいと思います(私の個人的な意見です)。
それは、研究は解説とは違う、ましてや概説や紹介とは違う、ということです。もちろん、研究と解説には重なり合う部分も多くあり、その区別は、容易ではありません。ある意味では、そのことを理解すること自体が、研究の発展であるとも言えるでしょう。振り返れば私も、勉強の過程で少しずつ、そのあたりを会得していったように思います。いずれにしろ解説では、どんなに字数を費やしても、学位の取れる論文にはならないのです。
どう違うか。解説というのは、対象を当然の前提として、それについて「わかったこと」を幅広く、わかりやすく伝えることを目指す。悪い意味ではなく、上から下への方向です。
研究は逆で、対象そのものが謎となり、その何を解明したいかが、テーマとなる。そして資料だの先行研究だのを使いながら、対象の「わからないこと」に、一歩ずつ迫ってゆくという、下から上への営みになります。得られる知見は新しいものですから、研究者が下した判断は厳密でなくてはならないし、検証可能なものでなくてはならない。こうしたプロセスが反映されて、論文が出来上がっていくのです。どんなテーマと向き合い、それを何によってどう調べ、どういう考えからどう判断したかを記述することが、論文には欠かせません。
こう言うとすごくたいへんなようですが、資料の引用であれ仮説の提示であれ、自分の書いたことが本当にそう言えるかどうか1つ1つ考える習慣をつければ、前進できると思います。コツがわかれば、けっしてむずかしいことではないのです。魅力的な考え方が提示されているようであっても、都合のいい材料だけを集め、整合しないものを切り捨てるというのではだめで、これも、よくある誤りです。不都合な材料も明示し、併せて考えてゆくことで、論文の厚みが生まれるわけです。
というわけで、学位を大事に考え、しっかりしたものをしっかり評価したい、という発想で取り組んでいます。これから挑戦される方も、ぜひがんばってください。
バッハの命日! ― 2011年07月28日 23時49分47秒
今日、7月28日は、バッハの命日でしたね。3月21日の誕生日にはコンサートをやったりするのですが、命日は毎年、つい気がつかずに過ぎてしまいます。今年、私はバッハの享年と同い年なので、もう少し感慨を抱いてもよかったのですが、やっと気がついたところです。バッハより年上になると彼の音楽がどう見えてくるか、興味があります。
今日は、NHKでバッハの録音をしてきました。オブリガート・チェンバロ付きのソナタの回と小ミサ曲の回です。放送は9月なので、またご案内いたします。
ついでに、今月のCD選。1位には、すでにご紹介した、プルハール指揮、ラルペッジャータのモンテヴェルディ《聖母マリアの夕べの祈り》を推しました。2位は、 ミシェル・プラッソン指揮、パリ国立歌劇場によるマスネの歌劇《ウェルテル》(DVD、デッカ)です。高級なエンターテインメントとしてのマスネ・オペラの魅力がよく生かされていますし、人気テノール、カウフマンの幅広い表現力がなかなかです。3位は、小泉惠子さんの「木下牧子を歌う」(ライヴノーツ)。小泉さんのすばらしさには本当に感心させられるばかりですが、このCDにも、「品格あふれる高雅な芸境」が示されています。ピアノは、名コンビの花岡千春さんです。
今日は、NHKでバッハの録音をしてきました。オブリガート・チェンバロ付きのソナタの回と小ミサ曲の回です。放送は9月なので、またご案内いたします。
ついでに、今月のCD選。1位には、すでにご紹介した、プルハール指揮、ラルペッジャータのモンテヴェルディ《聖母マリアの夕べの祈り》を推しました。2位は、 ミシェル・プラッソン指揮、パリ国立歌劇場によるマスネの歌劇《ウェルテル》(DVD、デッカ)です。高級なエンターテインメントとしてのマスネ・オペラの魅力がよく生かされていますし、人気テノール、カウフマンの幅広い表現力がなかなかです。3位は、小泉惠子さんの「木下牧子を歌う」(ライヴノーツ)。小泉さんのすばらしさには本当に感心させられるばかりですが、このCDにも、「品格あふれる高雅な芸境」が示されています。ピアノは、名コンビの花岡千春さんです。
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