うなぎ2009年12月16日 23時38分03秒

13日は、偶数月の日曜日に開催している「すざかバッハの会」例会の当日。助手として同行してくれている齋藤正穂君と、いつも通り長野駅で待ち合わせました。軽く昼食を摂ったころ、会長の大峡さんがクルマで迎えに来てくださるのです。

昼食のメニューは、決まって、インドカレーかラーメン。刺激物をお腹に仕込むと攻めの気持ちが高まりますから、毎度鼻から息を吐きながら、張り切って会場に乗り込んでゆきます。

ところがこの日はなぜか、7年間一度も入ったことのないうなぎ屋に入ろう、という気になりました。老舗なので、味は上々。食べ終えて、これまで経験したことのないような、ふっくらとして豊かな気分になりました。

会場に入っても悠揚迫らぬ気分が持続していることに、自分でびっくり。食べ物の効用って、大きいんですね。講演はパワーポイントで行い、家からはUSBメモリだけを持って行くのですが、その日はメモリが、いくら探しても見あたらない。カレーかラーメンを食べていれば、髪の毛が逆立っただろうと思います。しかしこの日は、泰然自若。齋藤君が目を血走らせてファイルをダウンロードし、定刻に間に合わせました。

この日は、2年間続けた「バッハ最先端」の最終回でした。12回分割して講じた《マタイ受難曲》が、最終合唱に到着。こんなに長いこと、皆さん、よくつきあってくださったものですね。実行委員会の方々には毎回、献身的に働いていただきました。ありがとうございます。

来年度からは、「礒山雅のクラシック音楽談義」という講座を開始します。幅広いお話をわかりやすく提供したいと思っておりますので、またよろしくお願いします。

「大物」後日談2009年12月15日 01時17分21秒

最近お会いする方の妙に多くが、「1年単位の誤り」について言及されます。私が会議に1年違いで出て行ったという情報が、平素ブログを読んでくださらない方にまで、広まっているようなのです。

それが必ずしも喜べないのは、趣旨が取り違えられているように思えるからです。再確認しますが、あの談話の結論は、私が大物だ、というところにあります。会議を1年間間違えたというのは、そのことを証明する、ひとつの例にすぎないわけです。ところが、実例のみが一人歩きしているようで、言及される方々に、私を大物として見直す視線がまったく感じられないのです。遺憾な現実です。

傍証が、さらに必要なのでしょうか。もちろんあります。

食事のさい食堂に出て行く旅館と、部屋で食べられる旅館では、どちらが高級でしょうか。後者ですね。では、部屋に食事が運ばれる場合、部屋に1人がやってくる旅館と、複数がやってくる旅館は、どちらが高級でしょうか。後者ですね。まさにそれが、私の家庭で実現しているのです。

当家の台所は、本来家族が集まって食事をする空間をもっていたのですが、たくさんのものがあふれた結果、その機能を喪失しました。以来食事は、パソコンに向かっている私の部屋に運ばれてくるようになっています。食事が来ると、ノックの音ですぐわかる。そのノックの音は、しけた音ではなく、威勢がいい。ノックしているのが犬だからです。扉が開く→犬が走り込み、膝の上に飛び乗る→食事が机に置かれる→妻が去る→犬が追いかける、という流れに、毎回、必ずなっています。

これって、私が大物という証明になるでしょうか。書いていて、だんだん自信がなくなってきました。

コンサート回顧(5):カンタータ第140番(その2)2009年12月13日 23時48分07秒

カンタータ《目覚めよ》を貫く柱はコラールですが、そこに花を添えているのは、2つの愛の二重唱です。そこでは旧約『雅歌』で展開されるおおらかなテキストが霊化され、魂とイエスが求め愛し合って婚姻を結ぶ、という設定になっている。かつては「霊化」の側面がもっぱら強調される傾向もありましたが、私は、性愛のイメージも豊かに働きかけてほしいなあ、と思っていました。バッハの時代にも、その側面は魅力として強く感じられていたに違いない、と思われるからです。そこで、コンチェルティストのお二人にも、アイ・コンタクトを積極的に使ってほしい、と要望しておきました。

阿部雅子さん(ソプラノ)がその趣旨を完璧に理解して歌われたことには、正直、驚きを禁じ得ません。彼女がモンテヴェルディを専攻されたのは最近のことですが、輝きのあるピュアな声質はバロックにぴったりですし、知的な洞察力といい、落ち着いたステージ度胸といい、たいしたもの。「別人のよう」という言葉が、つい浮かんできます。でもその意味するところは、自分の内に隠れていた能力を発見し開花させて、本当の自分になった、ということでしょう。湯川亜也子さんのフォーレ研究とも通じる成長(大化け?)現象で、続く人が、どんどん出てくるといいなと思っています。

カンタータ上演のプロデュースは何度かやりましたが、今回ほど、私の方向性を演奏者たちが一丸となって追求してくれたコンサートはありませんでした。うれしいかぎりです。それはなにより、指揮とオルガンを担当した大塚直哉さんの力量のたまものです。類いまれな耳と音楽性、理論と語学力、ハーメルンの笛吹きのように人を集め、燃え立たせる大塚さんの才能こそが、コンサート成功の真の原動力でした。「日本のバッハ」として今後時代を築く人の、よき1ページとして記憶されることを願っています。

コンサート回顧(4):カンタータ第140番(その1)2009年12月12日 22時44分32秒

カンタータ第140番《目覚めよ》は、バッハの教会カンタータの最高峰に位置する作品と評価しています。その音調は、終末を扱いながらも希望にみなぎり、大らかな開放感と官能性を兼ね備えている。厭世的で厳粛な前半2曲と対置することによって、こうした性格は、ますます引き立つに違いありません。

この曲には、男声のエースを2枚投入しました。若いテノール、藤井雄介さんと、ベテランのバリトン、小川哲生さんです。この日のプログラムにはテノールの独唱がなく、140番のレチタティーヴォが唯一のもの。しかしこれは相当な名曲で、「鹿のように丘を躍り超えて」やってくる花婿イエスの姿を、わくわくモードで伝えます。短いながら、テノールの聴かせどころと言っていいでしょう。バスにはもちろん、イエスの重責が委ねられ、レチタティーヴォが2曲、二重唱が2曲ある。味わい深い歌を歌われる小川さんが、ここで出番となりました。

日本にほとんどないというヴィオリーノ・ピッコロ(3度高い小型ヴァイオリン)が調達できたのは、大きな幸いでした。そのちょっと鼻にかかったようなかわいらしい響きに、バッハがこだわったと思われるからです。最初の二重唱ではこれが大活躍しますが、最後のコラール(天上の都を歌うもの)でもソプラノのオクターヴ上を演奏して、かすかな輝きを添える役割を果たします。超高音域のホルンもソプラノの重ねとしてぜひ必要ですが、ここに名手の阿部麿さんを配することができたのも、この日の自慢でした。

カンタータ中一番有名なのは、オルガン曲にもなっている中央のコラールですよね。この曲は、テノールのソロで歌われる場合と、パート・ソロで歌われる場合があります。私は、パート・ソロの方を選択しました。それは、ここでのコラールが、他の曲と同様はっきりした共同体的性格をもつと考えたからです。弦の有名な旋律は、2部のヴァイオリンとヴィオラのユニゾンで演奏されます。ですからテノールも、リピエーノを重ねてユニゾンとする方がいいと思いました。(まだ続く)

コンサート回想(3):休憩2009年12月11日 11時59分59秒

モテットが終わると、私はすぐ、ホールを飛び出しました。第140番のためのトークで聖書の朗読をしようと思い立ち、研究室に、取りに戻ったのです。カンタータ演奏はバッハの時代にも聖書の朗読に続いて行われたわけですが、140番の場合はマタイ福音書の「10人の乙女のたとえ」が密接に踏まえられていますので、読んでおくと、鑑賞の助けになります。時間の進行が思いの外速かったため、朗読が可能と判断しました。

ホールと研究室は、急いでも5分かかります。聖書を携えて戻ってゆくと、もう後半の開始直前。演奏者に声をかけることもできませんでしたが、モテットを終わって戻ってきた声楽の人たちがたいへん高揚していたという報告を、裏を取り仕切っている永田美穂さん(助手)から受け取りました。

で、聖書をもってステージへ。最近細かい字が見えませんので、メガネを外して朗読しました。しかし聖書を読み、情景を説明しなどしているうち、歴然と、ノリが出てきたのです。私は平素さまざまに配慮を巡らしながら取捨選択をしつつトークし、そのあげく大事なことを忘れてしまったりするのですが、まれに、そうした配慮が心を離れ、言葉に集中した状態になることがある。それがこのときに起こり、お客様の耳が全部こちらに来ている、という気配を感じました。前半の演奏に熱気があったために違いありません。私がコンサートの成功を確信する瞬間でした。

コンサート回想(2):モテット2009年12月10日 22時09分37秒

カンタータ第64番に続いて、モテット《イエスよ、私の喜び》が演奏されました。私にいただく感想は、モテットがもうひとつだった、というものと、モテットが一番よかった、感動した、というものに二分されていて、中間がありません(1:2ぐらいで後者が優勢)。なるほど、やっぱりね、という思いです。

練習していて痛感しましたが、カンタータより、モテットの方が格段にむずかしいですね。カンタータは器楽の助けがありますし、歌うところも少なくて、たとえば140番のソプラノ・リピエーノのように、コラールの主旋律を歌っていれば済む、という曲もあります。毎週のように新作をやらなくてはならない状況の中で、バッハが演奏家に配慮していることがわかります。

しかしモテットは、ポリフォニー合唱の連続。しかも《イエスよ、私の喜び》は全11楽章と長大で、たいへんむずかしい。ですから、コンサートを迎えるにあたって一番「こわい」のが、この曲でした。

バッハの時代には全パートに器楽の重複が入っていました。歌声部はこの曲の場合各パートひとりだったろうと思いますので、器楽の支えは欠かせなかったことでしょう。しかし今回は各パート4人で編成したこともあり、器楽はオルガンのみに限定しました。

これについて、複数の方が、やはり楽器を使うべきではなかったか、とアドバイスされました。私も今ではそう思っています。楽器の支えがあることで音程が取りやすくなり、歌の負担が飛躍的に軽減されるからです。楽器の重複には、こうした実践的な意味合いが大きいことがわかりました。バッハは、思いのほか実践家なんですね。

《イエスよ、私の喜び》は、しみじみと美しいコラールが奇数楽章で変奏されます。ここで表現されるのは、現世への決別です。一方、これにはさまれる奇数楽章は、『ローマ人への手紙』をテキストに、肉を去って霊にある者には永遠の命が授けられる、と述べる。両者が対置され、響き合い、生と死へのスタンスを深めながら、モテットは進んでいきます。そのさい、偶数楽章のメッセージがより高く、より尊いものとして響いてくることを作品は求めていると、私は考えました。

既報の通り、今回は偶数楽章をコンチェルティストの重唱として編成し、リピエーノが入って合唱される奇数楽章とはっきり区別されるようにしてみました。コンチェルティストには、大きな負担のかかるやり方です。そのためか、前の週の練習では偶数楽章が歌い切れず奇数楽章に埋没するような形になっていて、私は、それでは何もならない、と叫んでしまいました。ムンクのような顔をしていたかどうかは、わかりませんが。

食事をしながら意見交換をしているさい、指揮者の大塚さんがおっしゃるには、メッセージを大切にとは言っても、偶数楽章の歌詞は抽象的で、理解がむずかしいのではないか、とのこと。そうか、と私もはっとして、都合のつく人に別途集まってもらうことにしました。そこではパウロ書簡のもつ意味をお話しし、メッセージへの理解を深めました。

そして本番。コンチェルティスト(山崎法子、川辺茜、湯川亜也子、中嶋克彦、杉村俊哉/千葉祐也)の士気はきわめて高く、前週とは比べものにならないほどの充実をもって偶数楽章が再現されました。わ~よかった、と安堵。ですから私の感想は、「個人的にはモテットのコンチェルティストに拍手を送りたい」と書き込んでくださった浦和人さんのそれに、ぴったり重なります。精根尽くして演奏してくれた若い人たちに、感謝の心で一杯です。

コンサート回想(1):カンタータ第64番2009年12月09日 23時23分41秒

カンタータ第64番《見よ、どれほどの愛を》はとくに有名な作品とは言えませんが、私の好きなカンタータのひとつです。とくに思い入れがあるのは、中程にあらわれるソプラノのアリア。この世のものは煙のように消えていく、という厭世的な内容をもち、ヴァイオリンに煙の音型が、足早に駆け巡ります。「バッハのロ短調」による名歌のひとつです。リヒターのレコードで昔聴いていましたが、こうした表現はリヒターの独壇場で、マティスが深い声で歌っていました。

そんなこともあってこの曲を選び、練習を始めましたが、練習を重ねるにつれ、このカンタータの重量感がひしひしと感じられてきました。冒頭のフーガも、3曲あるコラールも、1回ごとに好きになりました。小泉惠子さん、加納悦子さんというエース2枚をこの曲に投入しましたので、事前から、もっとも安心のできる仕上がりになっていました。

小泉さんも煙のアリアに惚れ込んでおられ、用意は万端のように思えましたが、直前には不安にかられたらしく、ほとんどパニック状態(笑)。節度あるお人柄を存じ上げていますから、ああこれが歌い手なんだな、とほほえましく思いました。大切に思ってくださればこその現象です。

実演は内容をひたと見据え、格調高く表現した感動的なもので、私はこの方にこの曲を歌っていただける幸福をしみじみ感じながら耳を傾けました。狩野賢一君が堂々たるバスで間をつなぎ、アルトのアリアになりました。

この曲はオーボエ・ダモーレとアルト、通奏低音のトリオになっています。現世への決別を告げる歌詞はソプラノ・アリアの延長線上にありますが、音楽はト長調の明るく開かれたもので、大塚直哉さんによると、「ようやくクリスマスの雰囲気が満ちてくる」ということになります。従来私は、ソプラノのアリアを愛するあまりこの曲にあまり気持ちを入れていなかったのですが、今回は演奏のすばらしさによって、この曲がこの位置に置かれていることの意味がよくわかりました。このアリアは前のアリアを慰め、世に決別することの意味をとらえ直して、魂を癒しへと導いているのです。

尾崎温子さんのオーボエ・ダモーレの音色のやわらかさ、人声のようなぬくもりはこれまで聴いたことのないもので、これと加納さんのアルト、吉田将さんのファゴット、大塚さんのオルガンの教師陣の織りなすアンサンブルは、おそらく一生忘れないと思うような美しさでした。順調な滑り出しです。

「カンタータの名曲を聴く」を終えて2009年12月08日 23時58分56秒

「カンタータの名曲を聴く」のコンサートが終わり、打ち上げを経て帰宅。いま、ハイテンションが少しずつ解消しつつあります。

おかげさまで9割を超える入場者がありました。私としては、演奏者、お客様から裏方まで、ご尽力いただいた方々への、感謝あるのみです。印象として強くあるのは、バッハの音楽のすばらしさと、若い人たちの情熱がもつ力の大きさ。いろいろな流れが合流して勢いを増し、今日の成果につながりました。皆さんの感想をいただきながら、書き足してゆきたいと思います。

減った店、増えた店2009年12月08日 11時14分35秒

最近こういう店が少なくなったなあ、最近こういう店がやけに多いなあ--一定の年齢に達している方は、こんな感想をそれぞれお持ちだと思います。「少なくなった店」で私がすぐ気がつくのは、古本屋です。

私自身、古本屋めぐりをまったくしなくなってしまったので、営業が困難を増しているであろうことは、想像がつきます。その結果として、学術本のリサイクルが困難になりました。これは、学者・研究者にとって、なかなか困ったことです。

図書館長をしていた時代によく、亡くなった方の立派な蔵書を寄贈したいのだが、というご希望に接しました。しかし図書館にはもはやスペースがなく、むしろ、不要な本を処分している状況。寄贈を受けられるのはごく一部の貴重書のみで、それでは寄贈する側も困ってしまう、ということをよく経験しました。死ぬまで本を買い続けることは従来学者の美徳と見なされてきたのですが、そう言って買い集めてもいられない時代になったようです。

一方、増えている店の代表格は、マッサージです。こわばった体でよちよち活動している私としては、マッサージ店の増加と多様化は、大歓迎。最近好んでいるのは、タイ式古式マッサージです。やや割高ですし、基本が120分ですから若い人にはハードルが高いかもしれませんが、高級感があって客扱いがよく、ストレッチが積極的に取り入れられているため、効果があります。

最近はマッサージ店もモダンになり、美容を前面に押し出している店も多くなりました。でもあまりしゃれた外観で、「男性もどうぞ」などと書いてあるとかえって、オレが入っていいものか、と考え込んでしまいます。不思議にそういう店は、キラキラの盛り場に集中していたりするのです。

日曜美術館2009年12月06日 23時23分44秒

NHKの日曜美術館「劇的?やりすぎ?バロックって何だ」、ご覧になった方はおられるでしょうか。私は今日ようやく、送っていただいたDVDで見ました。いや、よくできています。ナレーションもしっかりしていましたし、各芸術においてルネサンス対バロックの作品比較が行われていたのは、専門家の解説がきちんとつくだけに、とても役に立ちます。

ディレクターの首藤圭子さんから、じつは音楽の対比もやってみたいのだが、という相談を受け、加藤昌則さんに作ってもらうと面白いのではないか、と推薦しました。そしたら作られていたのは、ボルゲーゼ美術館のラファエロの絵画を洗ったら一角獣の画像が出現した、というくだりを前半ルネサンス(デュファイ)風、後半バロック風に作曲したモテット。岡本知高さんが独唱しましたが、じつに面白くできていました。さすがの才能です。

ゲストの中では、青山学院大学の福岡伸一さんのコメントが無駄のない言葉の中に芸術と世界観の本質を尽くして、じつに卓抜なものでした。フェルメールの美術に封じ込められた時間の感覚を「微分」の発明とかかわらせる考え方には説得力があり、いい勉強をさせていただきました。