Windows 102015年08月09日 07時47分09秒

Windows 10が無償バージョンアップとなったことには、隔世の感があります。

FM TOWNSでパソコンを使い始めた頃は、毎年のちょっとしたOSバージョンアップに、それなりのお金を支払っていたものです。その後DOS-V機を使うようになってからは、Windowsのバージョンアップに、ほぼ即日、付き合ってきました。Windows 95の行列に加わったのは、もう20年も前なのですね。

OSが新しくなるとかなりの投資が必要になるのが常識、と考えていましたが、今回は無償。しかも準備をすべて、Microsoft様がしてくださいます。支度ができました、さあさあ早くなさいませ、という感じです。

というわけで、不肖私、8月8日(土)に、バージョンアップをしてみました。既存のファイルをすべてバックアップすべき、というのは本に書いてありますが、いただいた連絡はあっさりしたものなので、そのまま導入。じつに合理的に、さしたる時間もかけずに新しい世界に入りました。環境も引き継がれています。

新ブラウザの「エッジ」も試し、全体として洗練され引き締まった感じがあるなと思い始めたところで、落とし穴を発見。最近始めていたゲームが、がっくりと遅くなってしまったのです。ゲームはMight and Magicシリーズの10作目、「レガシー」というRPG。私を洋モノのRPGに引き込んでくれたシリーズで、ずっと魅了されてきました。構成したパーティがやっと強くなってきたのに、ここでやめるわけにはいきません。

そこで結局、Windows 8.1に戻してしまいました。この戻す作業が用意されていて簡単に実行できるということにも、隔世の感があります。

命の洗濯2015年08月06日 07時20分37秒

2日(日)は、須坂で《トリスタンとイゾルデ》をテーマとして講演した後、バッハの会会長様の心づくしで、山田温泉平野屋さんに一泊。志賀高原に向かう谷間にある宿です。温泉は家族的な宿に限る、と思ってしまうほど気持ちのいいところで、谷を渡る風の、涼しいこと。

翌日も、好天です。同行したまさお君(長年の親友かつアシスタントで、物知りのため事典のように使える)の発案で、「鬼押出し園」に向かいました。彼が子供の頃住んでいたところに近いのであるとか。私も千曲の育ちなので、昔父が「鬼押し出しに行ってきた」という話をしていたのを、かすかに覚えています。

軽井沢で下車、群馬県側に入ったところにある鬼押し出しは、浅間山の裾野に広がる奇岩の密集地帯。江戸時代の大噴火によって生まれた景観だそうで、鎮めのため建立されたお寺と一つになっていまです。


自然の雄大さは、想像を超えたすばらしさでした。眼前に浅間山がドーンと聳え、広がり感が、かぎりないほど。酷暑の東京で仕事を続け、調子も芳しくなかったのですが、自然を呼吸することで、身体から毒素が抜けていくような感じがしました。自分は山が好きだなあ、と思うことしきり。


遊歩道が多角的に設置されていて、奥の方にいくと、静寂そのものになります。ウグイスの声を聴いたのは何年ぶりでしょうか。たっぷり歩き、元気の出てくる1日になりました。



音楽祭の格2015年08月02日 07時08分36秒

ワーグナーの映像も数は増えてきましたが、かならずしも厳選されておらず、日本語がめったに付いていないのも残念。しかし少しは見ておかなくては、ということで、グランドホーン音楽祭2011の《ニュルンベルクのマイスタージンガー》を買ってみました。演奏はウラディーミル・ユロフスキ指揮のロンドン・フィル、演出はデイヴィッド・マクヴィカー、ザックスはジェラルド・フィンリーが歌っています。

これが予想をはるかに上回ってすばらしく、すっかり感心。客席1150という劇場なので本来ワーグナー後期には小さすぎるはずなのですが、それを逆に生かし、スリムな編成とじつに芸の細かい演出で、室内楽的と呼びたいほどにクリアなステージを作り上げているのです。

見た目にも耳にも細部までしっかり完成されていて、統一性がある。これはかかわった人個々の能力の総和という以上に、音楽祭の伝統であり格というべきではないか、と思います。私、まだ行ったことがないのですけれど。

歌い手たちがひじょうによく勉強していて、空間に合わせた声(!)で歌っています。そう、これなんですよね。ワーグナーだからいつでもどこでも大声で、という根強い思い込みを一から見直しているのには、脱帽。新奇なことをやっていないのに、これまで見たこともない新鮮な《マイスタージンガー》だ、という印象が与えられます。これは、参考になる事実ではないでしょうか。

ザックスが「心配性」と呼びたくなるような奉仕型の人物に造形されていることには若干違和感がありましたが、これも主張でしょう。オーケストラがたえず感興をたたえてとうとうと流れているのもよく、すっかり気に入りました。日本語字幕、欲しいですね。

8月のイベント2015年08月01日 07時20分31秒

猛暑の中、8月に突入しましたね。昔のような「さあ夏だ」という爽快感がないのは、今年の現象、大都会の現象、年齢の現象、どれでしょうか。とりあえず、目先のことで精一杯の日日です。

8月のイベント、さっそく2日(日)に、すざかバッハの会があります。ワーグナー・シリーズに入っていますが、《リング》を後ろに回しましたので、今月は《トリスタンとイゾルデ》になります。

15日(土)の「たのくら」(立川、10:00~12:00)は「21世紀のフランス・バロック~リュリからラモーへ」というタイトルでやろうと思っています。作品はまだ絞れていません。終了後、恒例のビヤ・パーティが開かれます。

朝日カルチャーセンター新宿校は、5日だけお休みをいただいて、19日(水)から再開します。10:00からのワーグナー講座が《マイスタージンガー》の最終回(9月から《ローエングリン》)、13:00からのバッハ・リレー演奏講座が《平均律》第1巻です。

同横浜校のモーツァルト講座は、29日(土)13:00。最後の年を探訪していますが、今月は「《アヴェ・ヴェルム・コルプス》とフリーメーソン作品」をとりあげます。

あと、22日(土)から埼玉県の合唱コンクールが始まり、松本訪問が、サントリー音楽祈念賞がらみと小澤フェスティバルがらみで2回あります。最後の週はサントリー・サマーフェスティバルにもお付き合いします。

皆様もどうぞ良い夏をお過ごしください。

今月のCD2015年07月30日 10時21分01秒

クラウディオ・アバドの晩年の録音が、途切れずに発売されていますね。大きな尊敬をもって耳を傾けていますが、今月のモーツァルト オーボエ協奏曲/ハイドン 協奏交響曲は、特選盤に選ばずにはいられないものでした。2013年、スペインでのライヴですから、まさに最晩年です。

次は、新聞からの引用です。「ハイドンの協奏交響曲の、澄みわたるような気高さはどうだろう。4つのソロ楽器が力みも思い入れもなしに歌い交わし、穏やかなぬくもりが、全体を覆っている。神話に言うパルナッソス山が実在するとすれば、その頂上での合奏はこんなものではないか、と空想する。モーツァルトの協奏曲もソロと合奏が霊的に会話する趣で、L.M.ナバロのしなやかなオーボエがすばらしい。」

モーツァルトのオーボエ協奏曲をフルートのイメージからまったく解放されて聴いたのは、自分として初めてでした。

7月二度目の「古楽の楽しみ」~ヘンデル2015年07月26日 11時03分53秒

番組の事情で、今月の出番が2回になりました。明日から始まる2回目は、ヘンデルのオペラ特集としました。

27日(月)はロンドンでの出世作《リナルド》。〈涙の流れるままに〉というアリアが有名ですが、真の主人公は魔女のアルミーダかもしれません。演奏はホグウッドです。

28日(火)は《アリオダンテ》。イタリア・オペラですがスコットランドを舞台にしています。放送ですからバレエの場面を中心に編集しました。指揮はミンコフスキ。

29日(水)は《アルチーナ》。ヘンデルは魔女の造形を好みますが、アルミーダはエルサレムを包囲した十字軍に立ちはだかる魔女、アルチーナは《狂乱のオルランド》に出てくる魔女です。これにはアラン・カーティスの演奏を選びましたが、それは、バレエ音楽をきちんと収録しているから。ディドナートらの歌い手が、華麗な装飾唱法を展開しています。

30日(木)は《セルセ》(クセルクセス)を予定していたのですが、セルセのCD全曲盤が間に合わず、《ジューリオ・チェーザレ》(ジュリアス・シーザー)に変更しました。これは横綱級の作品で、名曲も満載。その中からシーザーのアリア3曲とクレオパトラのアリア3曲をつないで物語を進め、フィナーレで締めることにしました。演奏はミンコフスキ。メゾのコジェナーが、クレオパトラをみごとに歌っています。最後はあえて時間を残し、ショル歌うところの〈オンブラ・マイ・フ〉(《セルセ》冒頭曲)を押し込みました。

華麗奔放なヘンデルのオペラはやはり第一級の音楽ですが、今回気づいたことが1つあります。それは、ヘンデルの特有のよどみない旋律の魅力が、絶妙のリズムの裏付けで作り出されているということです。たとえば〈牧場の花も〉という、チェーザレのアリアがありますよね。順次進行の単純な音並びが、拍節のダイナミズムと密着したリズムの効果で、魅惑の旋律へと大化けしています。やはりリズムが、音楽の根源であるようです。

短くするコツ2015年07月23日 23時41分30秒

書ける材料が10あり、与えられたスペースが1であるとしましょう。その「1」に理想があるとすれば、それは、読む人が「1を以て10を知る」ことができるように書くことです。そんな理想は誰も実現できませんが、少しでも近づこうとする努力は可能だと思います。

実生活と同じで、無駄を省くことは、思っている以上にできるものです。よくしゃべる人の話を聞きながら、内容の割に話が長い、と思うことってありますよね。しかし用意した下書きには、レトリックを含めて自分の思い入れがありますから、短くすることは困難。短縮は、いわば自分との戦いです。

内容の重複を避けること、形容詞の無駄遣いをしないことは、基本中の基本。「このことを書くのに、どうしたら最短コースで書けるか」を詰めて考えることで、もう相当、短くなります。短くなるということは、内容が薄まることではなく、むしろ密度が高くなるだと考えて取り組むのがいいでしょう。

しかし、結論だけが残る、という骸骨のような短縮はいけません。論証、説明はどうしても必要ですし、個人的な感想の記述も、よき潤いとなる可能性があります。そこにバランスを取るのが、一番むずかしいことかもしれません。

短縮は、一度にはできません。一晩寝かせて翌日取り組むと、その間に「諦念」が生じて、思い入れのある部分を、すっと諦めることができるものです。自分としては書きたいが、読者にとっての必要は二次的、と気がついて観念するからです。短い文章で要点を把握することは読む方にとってのプラスですから、短縮作業は、価値観をもって取り組めるはずのことです。

文章に流れが必要であることは、長い文章でも短い文章でも同じです。箇条書きのようになると、読む楽しさが失われてしまう。よく論文の要旨に、この論文は何々について書いたものである、ということしか書かない人がおられますが、これは大きな間違いです。要旨は、プロセスから結論までを、極力短縮したものでなくてはなりません。字数が少ないからとあきらめずに取り組むことで、短縮技術は向上するはずです。

どう短くするか2015年07月21日 22時24分23秒

原稿を書く仕事でつねに直面するのが、「どう短くするか」という課題です。新聞批評などの場合、あれこれ書こうとするとかならず長くなりますから、それをどう縮約するかに苦心しています。勉強中の若い方も、このコツを会得しておく方がよろしいでしょう。条件を超過して長くなっていては、応募した原稿の採用もままなりません。

『モーストリー・クラシック』の宗教音楽特集号に「受難について」「バッハの《ヨハネ受難曲》」「バッハの《マタイ受難曲》」という3つの原稿を書きました。その字数が、2400、1200、1200。少ないですが、最近は字数絶対厳守を心がけていますので、下書きを短くすることに力を注ぎました。

一方、日本ピアノ教育連盟からは、3月にさせていただいたモーツァルト/ピアノ協奏曲に関する講演を、『紀要』用に文章化することを依頼されていました。枚数自由という申し出に甘えて、用意した原稿のうち時間が足りずに話せなかった部分を入れ、日本モーツァルト協会講演のためにバージョンアップした部分も加えることにしたところ、完成稿は18,000字に達しました。

しかしその仕事をしている時点で、連盟の発行している『Klavier Post』という会報のために7,000字の短縮版を並行して依頼されていることを、うっかりしていたのです。さて、楽譜別で18,000字の原稿を、楽譜込みで7,000字の原稿にどう集約するか。

今回これがとても困難だったのは、3月の講演の内容が「モーツァルトのピアノ協奏曲創作を年代順に見ていく」という、本来講演のテーマにしてはいけない、大きなものであったからです。編曲を含めてピアノ協奏曲は30曲ありますから、個別曲に割けるのは18,000字だと600字以内、7,000字だと楽譜もあるので200字以内。これでは一口解説になってしまいます。

ではどうするか。学生さんを想定して、短縮のコツをまとめてみましょう。(続く)

失敗も勉強?2015年07月19日 20時22分45秒

いつもいつもこうした話題ではマンネリだと思うわけですが、「水戸黄門」と同じでそれが喜ばれるのだ、という声もなぜかある次第なので、失敗談をご報告します。

18日(土)の午前は、「たのくら」の例会。「悲しすぎるオペラ」(ディドとエネアス)の2回目です。早朝に目覚めてしまう利で準備は余裕で済ませ、タクシーを呼びました。自宅から会場まで、これが一番効率的なのです。

到着したタクシーに乗ろうとして、忘れ物に気づきました。スマホです。今日は一日外出、スマホは欠かせないと考えて、タクシーを待たせ、取りに戻りました。すみません、お待たせしました、というわけで、出発。

名所「さくら通り」を5分近く走ったところで、忘れ物に気づきました。今日配るレジュメを、プリンタのところに置いてきてしまったのです。このまま行ってレジュメなしでやるか、遅れを覚悟で戻るか迷ったのですが、やはりせっかく作ったレジュメはあったほうがいいと判断し、運転手さんにお願いして、Uターン。快く戻ってくださいました。

すみません、お待たせしました、というわけで、ふたたび出発。恐縮する私に、運転手さんの口から、信じられない言葉が。何と言ったかわかりますか。「二度あることは三度あると言いますよ!」と。返す言葉、なし。ともあれ、遅れますと会員にメールを打ち、幸いにも、2~3分の遅れで到着しました。

会長さんが心配そうに待っておられたのは、メールが読まれていなかったから。満員の会員を前に私は汗を拭きながら、事情を説明しました。すると、「三度目の正直、という言葉もありますよ」とおっしゃる方あり。たしかに、この2つのことわざの矛盾は、よく話題とされます。

そこで考えてみました。「三度目の正直」は、より良い目的に向かって行われた行為が残念ながら失敗し、ようやくの成功を期待させる言葉。「二度あることは三度ある」というのは、災いだの失敗だのがもう一度やってくるぞ、という警告。まったく違う意味合いの言葉で、この場合あてはまるのは、明らかに後者です。

「たのくら」はたいてい、その月のCD特選盤の紹介から始まります。私は今月の特選盤(まだ非公開)がいかにすばらしいかをとうとうと語り、時間をつないで、さあかけようとしたら・・・CDが入っていない(汗)。前日聴いたまま、プレーヤーに残してきてしまったようです。三度目が実現し、話のオチはつかないわ、皆様は残念がるわで、頭を下げっぱなしの例会になってしまいました。

さすがに災いは四度はなく、夕方の山本徹さんの無伴奏チェロ組曲は、彼の実力と人柄で、とても気持ちの良いコンサートとなりました。しかし、失敗も勉強だと思っているのにつねに同じようなことが起こるということは、もうそれが私の人格だ、ということなのかもしれませんね。

復帰しました2015年07月17日 22時15分47秒

昨日(木)の國學院大學の授業から、仕事に復帰しました。でも調子は、まだダメでしたね。風邪の症状はもうほとんどないのですが、もらった薬はもう少し飲んでおこうということで、続けています。でもそうすると、弛緩してしまって、気力が出ない。身体に力が入りません。

授業の後、床屋に寄りました。居眠りするのはいつものことですが、昨日は前後不覚に熟睡してしまい、起きるのがやっと。ふらふら戻ってきて床に入ると、これまた寝てしまい、気持ちよく起きられまぜん。夕方の話です。

午後に寝ると起きられないが、夜寝るとすぐ目が覚める、というのは、どう考えても、時差の名残ですよね。今回は本当に、時差の解消に失敗しました。対策を考えないと、これから行かれない、ということになりかねません。

今日は、新百合ヶ丘総合病院で、1年半ぶりに、PET検診を受けました。患者扱いのいい親切な病院でゆったりと受診でき、体調も、ほぼ自信がもてるところまで来ました。休んで家にいてもせっせと仕事、というわけにいかないのが、こうした時。新たな遅れを生み出しましたが、単なる空白とは考えないようにしようと思っています。