死を思う日 ― 2010年02月21日 22時23分18秒
目下、勤め先の入学試験が進行中です。今日は全学的な学科の日で、朝から試験監督。昔は、1年でいちばんいやな日のひとつでした。緊張はするし、時間は経たないし。でも今は、まあ人数が減ったためもありますが、ずいぶん楽な気持ちでできるようになりました。歳を取ってよかったことのひとつがこうしたことで、人間関係も、すごく楽になっています。まあ、人間関係からくるストレスの量が職場で一定であるとすれば、私が楽になった分、どなたかに回っているのかもしれないのですが・・・。
試験監督はやることがありませんから、5分経過するのがたいへん。1日で、一番長い日です。それでも、ちゃんと過ぎ去る。人生が長くても、必ず死ぬ日が来るのと同じです。かくして学科の試験日は、毎年、死を思う日となっております。
DVDの仕事を続けていますが、今日、本当にすばらしいものと出会いました。アーノンクール指揮、フリム演出、チューリヒ歌劇場のベートーヴェン《フィデリオ》です。
私は《フィデリオ》という作品がこれまでどうしても好きになれませんでした。しかしこの《フィデリオ》は、別の曲のように聞こえます。ルーティンの澱をすっかり洗い流して、新鮮で清潔な演奏が展開されているのです。加えて、耳と目が完璧に融合している。歌劇場でこんなクリエイティヴな仕事ができるとは、驚くばかりです。生まれて初めて、《フィデリオ》に心から感動しました。カミラ・ニルンド(レオノーレ)、すばらしいですね。
やっとわかった《フーガの技法》 ― 2010年02月20日 11時07分46秒
この2月ほど充実した時期がいつあったか、思い出せません。仕事に連日集中できていて、体内に盛り上がるものがあります。言い換えれば妙にハイテンションです。年齢が年齢ですから、いつまで続くものか、不安を感じます。
今日の「たのくら」では、心身とも充実、という、絶好調宣言をしてしまいました。今日のテーマは、「やっとわかった、《フーガの技法》」。本当に、突然、《フーガの技法》が大好きになってきてしまったのですね。いままで、バッハ研究家を名乗りながら《フーガの技法》が理解できず、お恥ずかしい次第でした。
ベルリン古楽アカデミーのDVD、すばらしいです。ピリオド楽器でやると、やっぱり全然違いますね。抽象的にならず、生きた実践として、それぞれのフーガが響いてきます。ケラー四重奏団の演奏では4声部の並行としかきこえないところが、彼らがやると、縒り合わせた響きとして聞こえるのですね。弦楽器、管楽器、鍵盤楽器の使い分けと協力も変化に富んでおり、単調に陥っていません。
バッハが探究した数学的秩序が音楽の上に目に見えるように感じられると、《フーガの技法》の価値観は最大になると思います。不肖私、それがやっと、見えてくるようになったのです。そう聴くと最後の三重フーガは、総毛立つような思いにとらわれます。バッハの筆が途中で途絶え、主題が復帰して四重フーガになる壮大な幕切れが書かれなかったのは、なんと残念なことでしょうか。
この終曲だけは、オルガンで聴くのが最上だと、私は思います。ヴァルヒャとアランを比べてみましたが、断然ヴァルヒャがすばらしい。しかしサットマリーが録音したフーガの補完稿もいいですね。死による「中断」より、補筆でもいいから「四重」を聴きたいと、思うようになりました。
息子が父親を ― 2010年02月19日 23時15分30秒
藤原正彦さんの本には、お父さんの話がしょっちゅう出てきます。絶大な尊敬をこめて語られている。書きぶりから有名な人のようであり、誰だろうと思っていました。そうしたら、新田次郎さんなんですね。新田さんの息子さんとは知りませんでした。
それにしても、息子が父親をこんなに尊敬できるものなのかと、感心してしまいます。私は父を批判的に見ることが多く、男の子はすべからくそういうものかと思っていたからです。いずれにしても、父親が尊敬される家庭というのは理想であり、なかなか実現困難なのかな、と思ったりします。
昨日は紀尾井ホールで、東京室内歌劇場の公演を見てきました。モーツァルトの《偽の女庭師》です。詳細は新聞に書きますので控えますが、よく勉強された、とてもいい公演でした。こういう公演をこそ、応援したいと思います。
思考力を育てたい ― 2010年02月18日 23時37分33秒
週刊誌で読む藤原正彦さんのエッセイがすばらしいので、単行本を買いました。『数学者の休憩時間』という、新潮文庫です。共感しつつ読み進めていますが、しばしば説かれているのが、論理的思考力の大切さです。
たしかに、これは大切。論文を書くような学生にはとりわけ大切で、今の受験教育、客観テストの教育では、育てることがむずかしいものです。では、どうやって育てたらいいでしょうか。
思考力は、自分で考えることを積み重ねなければ、育ちません。つまり、教師は学生に、自分で考えさせなくてはならない。考えさせ、待ち、議論し、修正するのが理想。これは、教えすぎてはいけない、ということを意味します。
ところが、同業者と話してみると、学生が考えなくて済むように手伝ってあげるのが親切、と考える方が、案外よくおられるのですね。たとえば、いまは十分な思考力をもたない子が大学に入ってくるから、手引きを十分に与えて、それを見ながらできるように、と考える方がおられて、驚いてしまいます。もちろん学生からしてみれば、親切な、いい先生です。しかし私は、この点に関しては、自分の考えを貫いていきたいと思います。
などといいながら、つい手伝ってしまうこともある、現実。先日ある学生が、訳詞を見て欲しい、と言ってきました。力のある学生だったので、ここを再考しろ、というメモを何カ所かにつけて送り返したところ、今日、見事に直った改訂稿が送られてきて、感心。嬉しい出来事でした。
放送収録 ― 2010年02月17日 23時57分07秒
今日はNHKで、番組を2本収録。何の番組かと言いますと・・・今日解禁になったので公表しますが、この4月から、「バロックの森」を担当することになったのです。
じつはここ数年、私の弟子とその仲間たちが担当していて、意欲的にやっていました。ですから、弟子から仕事を取るような感じもあり、躊躇したのですが、再編成へのNHKの意向がはっきりしていたので、お受けすることにしました。関根敏子さん、今谷和徳さん、大塚直哉さんといっしょにやります。
入りは、「6時になりました!おはようございます」というのが定番だそうで、謹んで継承しました。第1回は3月29日の月曜日です。この日は、《暁の星》のコラールを使った曲を集めてみました。シャイト、プレトーリウス、ブクステフーデ、クーナウ、バッハです。クーナウのカンタータも、なかなかいいですね。30日の火曜日は、バッハのオルガン・トリオを特集します。トリオ・ソナタをギエルミで2曲(←すばらしい)、シュープラー・コラール集をロジェで。2人の若いディレクターの方が丁寧なサポートをしてくださるので、安心して仕事ができます。
夜は東京文化会館で、二期会公演の《オテロ》を鑑賞。福井敬さん渾身のタイトルロールで、第4幕は涙なしに見られませんでした。曲が良すぎます。
『エヴァンゲリスト』校訂第一段階終わる ― 2010年02月16日 23時34分56秒
今日は久しぶりに、自宅にいられる日。『魂のエヴァンゲリスト』の改訂に精を出し、補章の「20世紀におけるバッハ演奏の4段階」に取り組みました。といっても、20世紀に関しては以前に書いたことがだいたい通るので、「21世紀に入って」という項目を付け加えるのが中心でした。
一応一通りチェックを終えましたが、結果として、85年の本と、大幅に異なったものとなりました。古い革袋に新しい酒を盛った、というところでしょうか。編集者の方と、書名を変更するかどうか相談しましたが、「魂のエヴァンゲリスト」を知り、文庫化を楽しみにしていてくださる方も多いという判断から、このままでいくことにしました。
とはいえ、以前はまずかったなあ、というところもたくさんあります。私のバッハの本でいちばん読まれているのは講談社現代新書の『J.S.バッハ』ですが、これも1990年なので、古くなっている。今回、新しい研究を取り入れた一般書が出せるのはとてもうれしいことです。
国立音大音楽研究所のホームページを、やっと更新しました。更新したのは、去年演奏したモテットの研究ですが、これは研究年報への準備としてやっています。よろしくお願いします。http://www9.ocn.ne.jp/~bach/
楽しいシャコンヌ ― 2010年02月15日 23時04分29秒
バレンタインデーと重なった14日の日曜日から、「すざかバッハの会」の新シリーズが始まりました。私流の、クラシック音楽入門篇です。
第1回は、「音楽の原点、変奏曲」と題しました。これは、変奏曲そのものを研究しようというより、変奏曲のもとにある変奏の原理が音楽にとっていかに重要であることを説明するために選ばれたテーマで、変奏のさらにもとにある「反復」の考察から入りました。
バッハの縛りがなくなったので、名演奏を、縦横に使うことができます。予定した素材のうち、あけてみたら別のCDが入っていたのが1つ(スウェーリンク)、使うべきCDを自分のプレーヤーから取り出し忘れてしまったものが、1つ(ブクステフーデ)。それでも、ビーバー、カヴァッリ、ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナー、ライヒ、ラヴェルの実例を使うことができました。
どの実例がよかったかを尋ねてみますと、意外に多かったのが、カヴァッリのオペラ《カリスト》。「シャコンヌはバロック・オペラのフィナーレによく使われた」というテーゼの実例のために選んだ素材です。
ヤーコプス指揮、コンチェルト・ヴォカーレの映像が、すばらしいのです。第1幕のフィナーレでは、熊が踊る。第3幕のフィナーレでは、ニンフのカリストが熊になって星空に上げられ、「おおぐま座」となる。この部分が、どちらもシャコンヌになっています。ヤーコプスは低音を思い切り強調し、上声部を装飾的に扱うスタイルで生き生きと演奏しています。
若干理屈っぽい分析になりましたので、お客様を置いていっていないか、前半では心配でした。しかし、持って行った『救済の音楽』がすぐに売り切れたというので、安心。「よく売れて1割」というのが斯界の常識ですから、15%の数を持参した高い本がすぐに売れたというのは、面白く思っていただいた証拠だと解釈しました。須坂の皆様、ありがとうございました。
ワインの勢いで ― 2010年02月13日 09時41分59秒
かつてパーティ用に作ったクイズの中に、本当に忙しいとき私のとる行動はどれか、というものがあります。選択肢は 1.休講が多くなる 2.ビジネスホテルに缶詰になる 3.ビールを飲みながら仕事をする で、正解は「3」でした。普通、飲み始めたらもう仕事はできませんし、仕事をやめるから飲み始めるわけですが、いよいよとなると、ビールを眠気覚ましに使う。お酒の勢いを借りて仕事をするのです。緊張感があると、それができるから不思議です。
で、いま、その状態。ひとつ違うのは、飲むのがビールからワインになっていることです。景気づけにはビールの方がよさそうですが、ワインを飲みながらでも、案外持続することがわかりました。連日、深夜までやっています。
何をやっているか。『魂のエヴァンゲリスト』の文庫版の、仕上げにかかっているのです。多少の修正で再使用する章もありますが、大幅に書き直した章もあり、目下最終章「数学的秩序の探究」を、根本的に改訂しています。あまり直すと、若い頃ならではの力が失われてしまうとも思うのですが、バッハ研究でその後わかったこと、私の勉強したことがあまりにも多く、割り切って書き直しています。読んでいただく日が楽しみです。
髪を切る ― 2010年02月11日 22時10分22秒
「先生、髪を切ったんですか?」と、また言われました。言う人、全部女性です。髪を整えてからもう2週間になるのに。
違和感のある表現です。髪を切るというのは、ロングにしていた女性が突然ショートになってあらわれる、というような場合に言うのではないでしょうか。私のようなケースは、昔から、「床屋に行く」と言うのです。ですから、「先生、床屋へいらしたんですか」と言うのが、正しい日本語です。
と書いたものの、自信がなくなってきました。男の方々、いかがですか。「床屋へ行った」とおっしゃいますか、「髪を切った」とおっしゃいますか。後者は、男性の長髪が流行したグループサウンズの頃に生まれた表現なのでしょうか。そんな気もしてきました。
もうひとつあるのではないか、とおっしゃる方。わかりますよ。「美容院に行った」という類型を加えなければいけない、ということですよね。昔、友人のひとりが1万円で美容院に行っているという話を聞いて仰天したことがありますが、いま周囲にいる声楽の学生たちのうち、少なからぬ数が美容院に行くようです。そんな恥ずかしいこと、私には考えられません。美容院がいいという理由は何なんでしょうね。「ひげを剃ってくれない」ということが致命的なのではないかと思うのですが。
《ロ短調ミサ曲》のDVD ― 2010年02月09日 23時07分58秒
《ロ短調ミサ曲》のDVD。いま、4種類手に入ると思います。
リヒター指揮、ミュンヘン・バッハ(グラモフォン)。ビラ-指揮、聖トーマス教会聖歌隊(TDK)。ブロムシュテット指揮、ゲヴァントハウス管弦楽団、合唱団(ユーロアーツ)。ジョン・ネルソン指揮、ノートルダム・ド・パリ聖歌隊&アンサンブル・オルケストラル・ド・パリ(ヴァージン)の4つです。トランペットやホルンの活躍する曲なので、ピリオド楽器のものが1つもないのがいかにも残念ですが、それはそれとして。
多分市場で人気があるのは、一にリヒター、二にビラ-ではないでしょうか。しかし私のイチオシは、最後のネルソンです。ブロムシュテットも、なかなかいいと思います。
ネルソン盤は、合唱もオーケストラもフランス人ですが、ソリストは、ツィーザク(S)、ディドナート(Ms)、テイラー(CT)、アグニュー(T)、ヘンシェル(B)と一流揃い。合唱もオーケストラも若々しくはつらつとしていて、後半に行くにつれ、強烈にノリが出ています。カトリックの聖歌隊だけに、グレゴリオ聖歌の引用はお手のもの。《ロ短調ミサ曲》はカトリックのための作品だという観念はあるとしても、ラテン的な明るさがこれほど生きる曲だというのは、初めて知りました。お薦めです。
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