合唱コンクールで宇都宮へ ― 2008年08月24日 23時50分27秒
今日は、合唱コンクールの審査で宇都宮へ。全日本合唱連盟栃木支部の方々の心のこもったおもてなしのもと、審査委員長を務めました。
審査の心的プロセスは、いつも同じ。最初は選考に苦しみながら、こんな専門外のことを引き受けなければよかった、と激しく後悔し、審査結果の集計が出てきたころ自信を取り戻して意欲が湧き、最後はいい勉強をさせてもらったなあ、と思いつつ帰ってくる。このパターンです。
今回思ったのは、いずれ劣らずの、ないし徹底して一長一短の諸演奏に順位をつけるという作業は、自分自身の音楽に対する価値観を丹念に再検討する機会になる、ということです。したがって、聴いた演奏について考えているのと同じぐらい、それに対して反応をする自分自身について考えています。勉強になる、というゆえんです。
これまでも何度か聴く機会のあった合唱団、ルックス・エテルナ。すばらしい様式感で歌われたバードが心に残りました。バードをこれほど美しく再現するのはたいへんなことで、連盟理事長賞という、出演全団体のトップ賞に輝いたのもむべなるかなでした。
二分割の勧め ― 2008年08月23日 23時29分10秒
ONさんありがとうございます。ううむ、やっぱり「いらっしゃいませ~(⤴)」はお店の商策ですか。不自然なイントネーションですから、自然発生的に広まるとは思えませんでした。
でも、それでほんとにお客様の気持ちが盛り上がり、結果、財布がゆるむんでしょうかね。私なら、「ら」にアクセントがきて「せ」で下がる正しい日本語で、はきはきと言ってくれた方がよっぽど好感がもてますが。皆さんいかがでしょう。
お店がそう考えるとことには、多分理由があると思います。リーダーの思いつきかもしれませんが、それなりのリサーチを経ている可能性もある。アンケートなんか、しているんでしょうか。いずれにせよ、語尾上げが本当に売り上げに貢献しているのか否か。興味があります。
挨拶といえば、よくある「いらっしゃいませこんにちは!」というのも、変ではないですか。自然な応対ではまず出てこない日本語です。趣旨としては丁寧度アップ、お客様の好感度アップということではないかと思いますが、私は、挨拶はシンプルな方が気持ちがいいです。もし両方欲しいというのであれば、語尾上げ隊と語尾下げ隊を分けるように、「いらっしゃいませ」担当の人と「こんにちは」担当の人を分けたらどうでしょう。誕生日の偶数奇数か何かで。
市役所の窓口や大学の教務科あたりで「いらっしゃいませこんにちは!」というのを導入したら面白いかもしれませんね。空想したら楽しくなりました。
いらっしゃいませ~ ― 2008年08月22日 22時51分50秒
今日は『モーツァルト=翼を得た時間』の校正と追加原稿を渡した後、立川のビックカメラを訪れました。なにしろパソコンフリークですから、ひところはほぼ連日、この店を訪れていました。
立川のビックは、1Fがパソコンのハード、2Fがソフトとなっていました。したがっていつも、エスカレーターで上るのがならいでした。ところが先日来ソフト売り場がB1になり、面積も狭くなった。今日行ってみると、エスカレーターに乗る人はほとんど上に行ってしまい、下に降りる人はほとんどいません。売り場が閑散としているのは、いまこの世界が直面している問題そのものでしょうか。昔なら、買いたいソフトが目白押しだったのに、今はそうではありませんから。
ところで、この店に来るたびに、気になっていることがあります。店員の方が「いらっしゃいませ」と言うときに、ませ~(⤴)と最後がきゅっと上がるのです。ソード(四度)ぐらいの人もいるが、ソーレ(五度)ぐらいまで上がる人もいる。これって、なぜなんだろう。誰か名調子の人がいて、みんながまねをしたんでしょうか。それとも、上げると売り上げも上がるという判断があって、店の方針としているのでしょうか。
こういうことって、一度気になり始めると、とても気になります(笑)。そこで提案。みんなが後ろを上げると耳につきますから、後ろを下げる店員を、半分作ったらどうでしょう。そうしたら店には「いらっしゃいませ~」(⤴)と「いらっしゃいませ~」(⤵)が混ざり合い、変化に富んできます。音階をつける人も出てくるかもしれませんし、声楽科の学生が続々アルバイトに雇われる、という事態も生じるかもしれません。朝の開店時には、店を挙げての大合唱。ま、商売にプラスするかどうかはわかりませんが・・。
考えすぎ? ― 2008年08月20日 22時42分44秒
バッハのカンタータも、少しずつDVDが出るようになってきました。コープマンのものは6曲収録されていて、古楽様式の洗練された演奏を愉しむことができます。その第106番を鑑賞していて、驚きました。
中間部の合唱曲のフーガに続いて、ソプラノのソロが出てきますね。感動的なところです。その部分の字幕の訳が、「イエスよ 導きたまえ。イエスよ 我を迎えたまえ」となっている。ドイツ語の原文は "Ja, komm, Herr Jesu!"で、直訳すると「そうです、来てください、主イエスよ」となるところです。この単純な文章を、字幕の訳者(名前が出ていません)は大いに工夫し、2つの文章に分けて「意訳」したわけです。
訳者は多分、前の合唱歌詞とのつながりを考えたのでしょう。前の歌詞は、「古い契約にこうある。人よ、汝は死ぬ定めなり、と」というものです。それに対して「そうです、主イエスよ、来てください」ではつながらないと考え、上記の訳を工夫されたのだと思います。しかしkommという動詞をこう訳すことは、私にはとうてい思いつきません。
ここは、「そうです、来てください」でなくてはいけないのです。なぜならこれは、『ヨハネ黙示録』の最後の部分からの引用であり、イエスの再臨への呼びかけにほかならないからです。この部分の感動は、聖書とのこうした響き合いにあると、私は確信しています。
学生の頃、聖書の引用を踏まえたテキストを訳す場合、流布している訳文を用いなければいけないかどうか、議論したことがありました。そのときは結論が出なかったと思いますが、やはり基本は、踏まえなくてはならないと思います。この場合のように、直接の引用である場合にはなおさらです。
とはいえ、一般の訳をそのまま当てておけばいい、というわけではありません。たとえば、ヴルガータ訳ラテン語の文章はふつうの聖書とは大幅に異なっていますから、なるべくラテン語を直訳した方がいい、というのが私の考えです。それはある程度、ルター訳ドイツ後にもあてはまります。
さて、「そうです、来てください、イエスよ」ではなんとなくつながりが悪い、と思うこと自体が間違っているわけではありません。106番の歌詞の中心部はオレアーリウスの祈りの本から取られているのですが、そこでは「死ぬ定めなり」と「そうです、来てください」の間に、「私はこの世を去り、キリストのもとにいたいと願っている」という、フィリピの信徒への手紙の一節が挿入されていたのです。バッハは、それを省略した。ですから、タネ本では「キリストのもとにいたい」を受けていた「そうです」が、死の定めを肯定するものに代わりました。
バッハがなぜその一文を省略したかについては別途考察が必要ですが、結果として、死の定めが肯定され、イエスの再臨が待望される、という流れになっていることは確かです。そしてそのことはとても大切であると、私は思います。
志賀高原 ― 2008年08月18日 23時19分30秒
8月は、須坂での講演のあと、近郊の山田温泉に泊まるのが習いになりました。気持ちのよい宿でくつろいだあと、今日は志賀高原へ。好天に恵まれ、空気も澄んでいたので、横手山山頂からの大展望を満喫しました。妙高、北アルプス、浅間・・・志賀高原の最高点は2300メートルほどですが、豪雪地帯なので森林限界が低く、高山の雰囲気を味わえます。久しぶりに、山好きの血が騒ぎました。
山に行かなくなって、久しくなります。昔はここに行こう、あそこに行きたい、と計画を練るのが楽しみでした。でも最近はどうも面倒になり、家にいればこれだけ仕事がはかどるな、などと思うようになってしまいました。これが年齢というものかもしれません。でも仕事のついでに機会を得て、夏の楽しみを満喫しました。貴重な1日でした。
ジュリアス・シーザー ― 2008年08月16日 22時11分52秒
ヘンデルのオペラ《ジュリアス・シーザー》のDVDをあらためて鑑賞しました。2005年グラインドボーン音楽祭のライヴで、演奏は、ウィリアム・クリスティ指揮のエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団。作品といい、演奏としい、演出(デイヴィッド・マクヴィカー)といい、まれに見るすばらしさですね。圧倒されました。
いまどき、こんなに舞台が豪華で、衣装がきれいで、凝った動きがきちんとできあがっているプロダクションって、珍しいのではないでしょうか。クリスティの統率力はたいしたもの。ドラマの中からアリアが始まるところなど、「わあこの曲だっ!」とその都度思わせられるような形で、絢爛と立ち上がってくるのです。ナチュラルホルンが響くオーケストラの力強いこと、《花火の音楽》のごとし。
キャストがまた卓抜です。女性の歌う女性役2、男性が女声音域で歌う男性役2(←カウンターテナー)、女性の歌う男性役2で、とにかく高音域のアリアばかりが、次々とあらわれる(男性の歌う男性役は脇役1のみ)。カストラートの世界ですね。でもタイプの違う一流どころを揃えているので、違和感はありませんし、むしろ、オクターヴ下げて男が歌うのではダメなのだな、と実感しました。
学術文庫の拙著ではド・ニース(クレオパトラ)のど派手な活躍ぶりについて書きましたが、今回はそれ以上に、主役のサラ・コノリーに感心しました。まったく、度肝を抜かれる男ぶり。ダ・カーポ・アリアでの変奏も音楽的だし、二重唱ではソプラノを完璧にフォローしている。すばらしい歌手がいるものです。
昔の音楽史では、ヘンデル後半生のオラトリオを高く評価するあまり、オペラを軽んじていました。しかし、本格的に復活してきてみると、オペラの方が面白いですね。手持ちの映像だけで、8作品もある盛況です。演奏が平凡だと単調になりやすいが、一定レベルを超えると、急に作品が輝いてくるのが、ヘンデルのオペラであるようです。
昔の記憶 ― 2008年08月14日 23時24分40秒
ドン・アルフォンソさん、温かいお言葉ありがとうございました。20年前に書いたひとことがずっと心に生きていたなんて、感激です。
昔の本を見直したらそんなに悪くなかった、ということをブログに2度書きました。私の場合、昔の記憶が心の中でだんだん悪くなっていく傾向があるのです。ですから、昔の本をしばらく読み返していないと、いろいろ不備だらけなのではないか、と思ってしまう。世の方々はどうなのでしょうね。昔の思い出話が好きな人はたくさんいらっしゃるけど、そういう方の場合、記憶が心の中でだんだん良くなっていくのでしょうか。だとすると、昔すごい本を書いたと思っていたが、いま読むとだめじゃん、ということが起こりますね。
私のような性格だと、過去が思い出したくないことばかりになってきて、結構困ります。タイムマシンで戻ってみたら、それなりにベストを尽くして生きていたのだと思うのですが・・。このあたり、精神修養したいポイントのひとつです。
今日は、遅れに遅れていたザクセン選帝侯家のためのカンタータ解説書の原稿を仕上げ、出版社に渡しました。少しほっとし、今はCD選に精を出しています。
全部マメにチェック? ― 2008年08月12日 23時32分58秒
通行人さんからアドバイスをいただきました。
まあそれが正論なんでしょうが、毎日300通から400通あるメールをひとつずつ対処するのは大変です。妙な迷惑メールを自分の目で判定するのも、結構しんどい作業です。
アドバイスの要点は、別のアドレスを新設し、それを仕事用として周知しなさい、ということですよね。でも長く使っているアドレスには仕事のメールが来続けるだろうから、やっぱり全メールチェックは欠かせない、ということになりますよね。
ミスをゼロにするために「手抜きは厳禁」ということにするか、効率に配慮して、ごくまれな失敗は誤差の内と考えるか。皆さんはどうお考えでしょうか。
メールはこわい ― 2008年08月11日 23時12分47秒
久しぶりのメールネタです。大失敗をしました。
メール好き、電話嫌いの私は、仕事のお願いや打ち合わせを、すべてメールでやっています。後に残り、いつでも参照できるのが、利点のひとつ。紙にメモし、見つからなくなる、といったことがありません。
押し寄せる迷惑メールの中にそれが埋もれてしまう危険については、以前書きました。その要点をまとめておくと、私はASAHI-netのアドレスへのメールをShurikenで受け、それをG-Mailに転送しています。フィルターをすり抜ける迷惑メールは、外出時に携帯電話で、シコシコと手導削除。それでまあ間違いはないだろう、と思っていました。
そこで油断し、コメントにいただいたご教示でいったんストップしたASAHI-netのフィルターを、復活させた。1週間残るサーバーの迷惑メール専用フォルダー(←音引きをいちいち付けている)も、見に行かなくなっていました。そうしたら、次のようなことが起こったのです。
ある名のある若手アーチストに私のコンサートに出演していただこうと、マネージャーの方とご相談していました。2度やりとりし、調整しているのでお待ちください、ということで、待っていた。そうしたら待てども待てども連絡がなく、決定の期限が来ました。そこで私はもう取り下げる、放置されて心外だ、というニュアンスを含むメールを送ったのです。一応、メール事故がなかったとすれば、という前提はつけましたが・・。
するとすぐお返事をいただき、了解のメールを3週間も前にいただいていたことが判明しました(汗)。虫のいいお願いでもあったので、私は大恐縮。普通にやりとりできていたアドレスなのに、内容のちょっとした違いではねられてしまうことが、あるのですね。よりによってそれが、一番大事なメールで起こりました。
そんなわけで、急遽お願いした代替企画を取り下げることになり、ここでも、あちこちにご迷惑をおかけすることになってしまいました。これからは、毎週必ず、プロバイダのストックを確認することにします。皆様もお気をつけください。
スポーツはいいですね ― 2008年08月10日 23時33分14秒
甲子園に続いて北京オリンピックと、ついテレビを見てしまう日々が始まりました。
高校野球が面白いのは、一瞬の出来事で流れがガラッと変わり、大量点になったり、逆転になったりという意外性。昔は、負けたチームの気持ちはどうだろう、試合に出られない選手はどんなに無念だろうか、野球生活が終わってしまうのはさぞむなしいだろうな、というようにたえず感情移入していましたが、いまは、人生を長い目で見るようになっているので(笑)、冷静です。いずれにしろ、スポーツに適性をまったく持たない私は、勝ち負けに青春を賭ける人たちにあこがれるところ大です。
オリンピックで実感するのは、知らない競技がたくさんあること。でも見ていると、どれも面白いですね。バドミントンは有名競技ですが、試合を見ることはとんとなかったので、なるほどこういうものか、と興味をもちました。速度を減じて降下するという羽根の性質が、競技を支えているわけですね。遅くなるから、かなりのスマッシュでも、拾うことができる。まあしかし、ダブルスのめまぐるしいこと。誰のファンとか、そういう話はやめておきますが、しばらく楽しみたいと思います。
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