考えすぎ?2008年08月20日 22時42分44秒

バッハのカンタータも、少しずつDVDが出るようになってきました。コープマンのものは6曲収録されていて、古楽様式の洗練された演奏を愉しむことができます。その第106番を鑑賞していて、驚きました。

中間部の合唱曲のフーガに続いて、ソプラノのソロが出てきますね。感動的なところです。その部分の字幕の訳が、「イエスよ 導きたまえ。イエスよ 我を迎えたまえ」となっている。ドイツ語の原文は "Ja, komm, Herr Jesu!"で、直訳すると「そうです、来てください、主イエスよ」となるところです。この単純な文章を、字幕の訳者(名前が出ていません)は大いに工夫し、2つの文章に分けて「意訳」したわけです。

訳者は多分、前の合唱歌詞とのつながりを考えたのでしょう。前の歌詞は、「古い契約にこうある。人よ、汝は死ぬ定めなり、と」というものです。それに対して「そうです、主イエスよ、来てください」ではつながらないと考え、上記の訳を工夫されたのだと思います。しかしkommという動詞をこう訳すことは、私にはとうてい思いつきません。

ここは、「そうです、来てください」でなくてはいけないのです。なぜならこれは、『ヨハネ黙示録』の最後の部分からの引用であり、イエスの再臨への呼びかけにほかならないからです。この部分の感動は、聖書とのこうした響き合いにあると、私は確信しています。

学生の頃、聖書の引用を踏まえたテキストを訳す場合、流布している訳文を用いなければいけないかどうか、議論したことがありました。そのときは結論が出なかったと思いますが、やはり基本は、踏まえなくてはならないと思います。この場合のように、直接の引用である場合にはなおさらです。

とはいえ、一般の訳をそのまま当てておけばいい、というわけではありません。たとえば、ヴルガータ訳ラテン語の文章はふつうの聖書とは大幅に異なっていますから、なるべくラテン語を直訳した方がいい、というのが私の考えです。それはある程度、ルター訳ドイツ後にもあてはまります。

さて、「そうです、来てください、イエスよ」ではなんとなくつながりが悪い、と思うこと自体が間違っているわけではありません。106番の歌詞の中心部はオレアーリウスの祈りの本から取られているのですが、そこでは「死ぬ定めなり」と「そうです、来てください」の間に、「私はこの世を去り、キリストのもとにいたいと願っている」という、フィリピの信徒への手紙の一節が挿入されていたのです。バッハは、それを省略した。ですから、タネ本では「キリストのもとにいたい」を受けていた「そうです」が、死の定めを肯定するものに代わりました。

バッハがなぜその一文を省略したかについては別途考察が必要ですが、結果として、死の定めが肯定され、イエスの再臨が待望される、という流れになっていることは確かです。そしてそのことはとても大切であると、私は思います。

コメント

_ 葛の葉 ― 2008年09月29日 00時17分11秒

「イエスよ 導きたまえ。イエスよ 我を迎えたまえ」という訳は、何となく仏教の「来迎」の思想を思い起こさせます。
キリスト教に「迎えたまえ」という思想があるのかどうか分かりませんが、訳者は阿弥陀来迎図のようなイメージを思い浮かべていたのではないかと、これも考えすぎ?

ところで、、「そうです」が「死の定めを肯定するもの」と考えたことはありませんでした。
これは聖書では直前の"Ja, ich komme bald."を受けて"Amen, ja komm, Herr Jesu!"と答えているわけですから、聖書に親しんだ会衆は、省略された部分も補って聞いていたのではないでしょうか。
(私自身はそのように聞いていました。)
つまり、この"ja"はイエスの再臨そのものを肯定しているもので、
「そうです(イエスは来られます)、主イエスよ来て下さい。」という感じではないでしょうか。

#今日、放送大学の番組拝見しました。
198番は以前にいずみホールで聴かせていただきましたので、懐かしく思い出しました。また、マタイ受難曲から世俗曲への転用があるということは初めて知りました。今まで「教会→世俗」への転用はないと思い込んでいました。勉強になります。

_ I教授 ― 2008年09月29日 00時40分06秒

大いにありうる解釈ですね(再臨の肯定)。すばらしい着想です。考えてみます。ありがとうございました。

_ 葛の葉 ― 2008年09月30日 00時32分26秒

早速のご回答ありがとうございます。
これに気を良くして、さらに愚考を重ねることをお許しください。

"Es ist der alte Bund"で始まる部分を初めてリヒターの演奏で聴いたとき、厳しく暗いATBの合唱と、一筋の光が差し込むようなソプラノの対照が印象に残りました。

ところが、今よく聴いてみると、161小節で初めてSATBが交わり、その帰結として165小節にピカルディの3度が現れます。この明るさに今まで気がつきませんでした。

そしてこれを転換点として、ATBの合唱は、厳しさよりも甘美な表情をたたえてきます。死はもはや「旧い契約」ではなく、「新しい契約」、すなわち主イエスにおける希望へと変化するかのようです。

"Ja komm, Herr Jesu!"は、繰り返し歌われる中で、「そうだ、イエスは来られる」という確信を強めていくように思えるのですが、その結果として、死もまた希望へと変化し、肯定すべきものとなる。

バッハの音楽はここでも、そのような「魂のドラマ」を見事に表現しているように思います。

_ I教授 ― 2008年10月01日 23時07分19秒

ふたたび卓抜なお考え、ありがとうございます。ATBのコラールはニ短調で終止(T145)、Sの呼び声はト短調で終止(T150)しますが、両者がからんで進むT165のカデンツは、ト短調のピカルディ終止で、ト長調の和音になっている。よく気がつかれましたね。私は見逃していました。

ただ、ここから死が希望に変化するというのはどうでしょうか。私は、これはやがて来る希望をいったん指し示すもので、ふたたび死の恐怖が襲来する(T174)と見た方がいいと思います。T180からの3小節、死のフーガが形を崩されるところの表現は圧巻ですが、これは「死の死」(パウロ)を絵画的に描くものだというのが、私の見解です。

_ 葛の葉 ― 2008年10月02日 12時23分47秒

このピカルディ終止は、投稿のちょっと前にカントゥス・ケルンの演奏を聴いていて気がつきました。
その後レオンハルトやリヒターの演奏も聴き直してみましたが、どうしても短調に聞こえます。楽譜を見直してみると、旧バッハ全集では長調への転換はなく、新バッハ全集とは違うことが分かりました。
また、コープマンは新バッハ全集を見ていたはずですが、やはり短調のままでした。
新バッハ全集の通りに長調で演奏した録音としては、BCJやその少し前のアメリカン・バッハ・ソロイスツあたりが最初のようです。
なお、BCJはT173にも長調の和音を与えていました。

なお、神学には不案内なのですが、「死の死」というのは、あの「死はその棘を失った」というコラール歌詞と同じような意味でしょうか?

_ I教授 ― 2008年10月02日 23時59分34秒

そうか資料の問題がありましたね。東京に帰ったら、見直してみます。きわめて重要なポイントです。「死の死」については、ご指摘の通りです。

_ 葛の葉 ― 2008年10月03日 11時03分54秒

何度もご回答をいただき、ありがとうございました。
また、この点についてのご見解を示していただけることを楽しみにしています。

_ I教授 ― 2008年10月08日 23時57分17秒

コメント遅くなりました。かなり細かい議論をしなくてはならないのですが、ごく簡単に。ご指摘のピカルディの和音、最古の筆写譜(新全集の依拠しているもの)では長和音、他の筆写譜では短和音です。しかしその長和音はテノール・パートのフラットを書き落とした結果であるという判断も、十分に成立します。前の小節のテノール・パートではその音にフラットが付いており、和音のあとのソプラノにもフラットがあって、流れが短調になっているからです。ピカルディでいったん明るみ、ソプラノのソロでまた短調に戻る、というのも、腑に落ちない感じがします。どちらかといえば、私は短三和音の方がいいように思います。(ピッチの問題がからんでいるのであいまいな書き方になり、申し訳ありません。)心にとめておき、さらに研究します。

_ I教授 ― 2008年10月09日 10時52分50秒

ピカルディの使用を作品解釈と結びつけられるかな、と思って全体をざっと見ましたら、事は簡単でないことがわかりました。というのは、数字付き低音が残っていないのに、通奏低音に和音が委ねられている終止が数多くあるからです。それこそT145も、オルガンで和音を弾くとしたら、長三和音にならざるを得ませんよね。テクスチャーに対する複合的な判断が必要なようです。

_ 葛の葉 ― 2008年10月09日 22時09分29秒

新バッハ全集のように、テノールにナチュラルがついているのなら、疑問の余地はないのですが、「フラットがついていない」ことに対しては、確かに解釈の余地が生じますね。

ただ、資料的には確定しがたいとしても、その後T166-T169までは、長調が卓越しているようにも聞こえ、それとの関連では、音楽的に不自然と思えません。(個人的には捨てがたい音符です。)

いずれにせよ、このT165の長和音について、今まで言及されたものを知りませんので、一つの問題として取り上げていただければ幸いです。
(校訂者の樋口隆一氏や、欧米の学者たちの間で、あるいは演奏家たちの間で、すでに取り上げられたことのある問題なのでしょうか?)

_ I教授 ― 2008年10月10日 22時31分44秒

『校訂報告』には、触れられていませんね。私も断片的に不注意なことを申しましたが、これは系統立てて調べてみるに値するテーマのようです。たとえば、(曲尾でなく)フレーズの終わりにピカルディを使用する用例がどのような形で見られるかの統計をとると、ヒントが出てきそうです。私も気をつけてみますので、葛の葉さんもお調べください。

_ 葛の葉 ― 2008年12月05日 23時11分21秒

一つ見つけました。
106番とは相当意味あいが違いますが、107番の終結コラールでは、合唱部分が一旦ピカルディ終止したあと、またオブリガートの合奏が2小節短調を奏し、再びピカルディ終止となります。
この場合こそ、ピカルディの後にまた短調が出てくるのは不自然な気もしますが、バッハは事と次第によってはそう言う音楽も書いているという、例証にはなるかも知れません。

_ I教授 ― 2008年12月06日 08時35分50秒

え~と、何小節目のことですか?

_ 葛の葉 ― 2008年12月06日 17時48分25秒

何小節目といいますか、終結コラールの最後の4小節のことです。

_ I教授 ― 2008年12月07日 00時10分18秒

おっしゃること、やっとわかりました。この場合、コラールの終止が重要で、器楽はそれを反復しているだけのように思われます。私が発見したのは、iBACHでやっているシュッツのモテット《心よりあなたを愛します、おお主よ》です。これは最初に3つの和音があるのですが、それらがト短調のトニカ、ドミナント、ト長調のトニカになっており、ピカルディ終止が楽曲のコンセプトそのものになっているのです(!)。ピカルディになるところとそうでないところが、意味深く使い分けられています。

_ 葛の葉 ― 2008年12月07日 00時46分16秒

そのため「106番とは相当意味あいが違いますが」と申し上げたのですが、逆に意味あいはどうあれ、耳に対して相当のインパクト(違和感)を与えるのも事実です。
この場合は、合唱部の終止と器楽部の終止が時間差で反復されると言うだけのことですが、「反復しているだけ」でもそれだけの効果があるわけです。(もちろん、それは意図されたものでしょう)

その意味はともあれ、時間進行で言えば、一度ピカルディ終止の形を取りながら、再び短調に戻るという構成に少し驚きましたので、ご報告いたしました。

_ I教授 ― 2008年12月12日 00時02分54秒

合唱のあと器楽で終わるコラール、BWV105を見ると、ト短調の合唱がト長調に終止して、後奏はそのままト長調で終わっていますね。もう少し実例を集めてみたいと思います。

_ 葛の葉 ― 2009年10月23日 12時50分14秒

"Yes, we can."

最初の話題と同じですが、近頃よく聞かれるオバマ大統領の言葉。
元の演説の中で、この"Yes"によって肯定される内容がどういうものだったのかよく知りませんが、想像してみると、次のようなものではなかったでしょうか?

「われわれにとって~は不可能なことなのだろうか?」
「いや(Yes)、われわれにはできる」
「そうだ(Yes)、われわれにはできるのだ」

Yes は相対肯定ではなく絶対肯定の言葉、というのはもちろん文法上の問題ですが、カンタータの歌詞の場合も、「人は死すべき定め」→「人は死に行くしかないのだろうか?」→「いや、主が来られる」「そうだ、主が来られる。主よ来てください」

こういう心の中の対話を想定するのも、あながち見当違いとは言えないのではないかと思います。
"Ja, komm, Herr Jesu!"の"Ja"は、死を否定し、主にある永遠の生命を肯定する"Ja"なのではないかと。

なお、カンタータ21番の対話における"Ja"と"Nein"の使い方、モーツァルトのフィガロで伯爵とスザンナのアリアにおける"Si"と"Non"の(言い間違いを含む)使い方。
こういうものを見ると、ヨーロッパ人でも肯定と否定の使い分けは、けっこう興味のある問題だったのかなと思います。

_ 葛の葉 ― 2012年07月07日 23時08分41秒

迷惑コメントを防ぐのが大変なようで、そのために管理人の承認後に記事が反映される形になさったのかと思っていました。しかし、どうもそうではないようで、1週間ほど前につけたコメントがなぜ反映されないのか不思議です。このコメントがうまく反映されましたら、続けて書きますので、テスト的な利用をお許し下さい。

_ 葛の葉 ― 2012年07月07日 23時35分33秒

うまくいきましたので、記事を続けます。

「(曲尾でなく)フレーズの終わりにピカルディを使用する用例」について、いつの間にか問題を忘れていましたが、先日来 Christ lag in Todes Banden を練習する中で、非常に意味深く使われていると感じたところがあります。

Versus 1 の "fuer unsure Suend gegeben"のところですが、T9-T10でホ短調からト長調への転調、T13でホ短調のピカルディとなります。
また、"und hat uns bracht Leben"も同様で、T31-32でト長調への転調、T34,T35で2回もピカルディとなります。

結局"gegeben"と"Leben"に対して同様の措置がとられ、しかも"Leben"ではダメ押しのような形になっているわけです。

それらは、いずれも神の人間に対する恵みを表す言葉であり、希望の言葉であるわけです。

なお、"Leben"は問題ありませんが、"gegeben"は杉山好氏等「渡された」というマイナスイメージの訳を付けておられます。つまり、聖書の次の箇所を連想せずにはいられないわけです。

人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。

人の子は、十字架につけられるために引き渡される。

しかし、これらは"gegeben"ではなく"ueberantwortet"です。
この歌詞はむしろ次の箇所とぴったり一致するものです。

ヨハネによる福音書 / 3章 16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、(dass er seinen eingeborenen Sohn gab,)世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(sondern das ewige Leben haben)。

ガラテヤの信徒への手紙 / 1章 4節
キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。(der sich selbst für unsere Sünden gegeben hat)

他のカンタータをいろいろ歌う中でも、「フレーズ終わりのピカルディ」があったような気がするのですが、意識しないままに通り過ぎてしまいました。しかし、4番は作曲時期も近いことであり、106番の解釈にとって意味があることではないでしょうか。

_ 葛の葉 ― 2012年07月07日 23時50分12秒

"und hat uns bracht das Leben"

das を忘れていました。記憶で書いたら定冠詞が抜ける。いかにも日本人的な間違いですね。

_ I招聘教授 ― 2012年07月08日 01時22分17秒

葛の葉さんごめんなさい、削除した記憶はありませんので、なぜ反映されないのでしょうね。その投稿は、上記のものと同一と考えてよろしいのですか。興味深いお話、ちょっと調べてからお返事します。

_ I招聘教授 ― 2012年07月09日 00時27分12秒

ピカルディ終止はどう使われるか。興味の尽きないテーマです。詳細は葛の葉さんに調べていただきたいのですが、とりあえず、ざっと見た印象を述べておきます。

ドイツでも思いましたが、古典調律のオルガンで聴くと、短調の曲が最後に長和音で終わることの美しさ、必然性がいちばんよくわかります。バッハの作品でピカルディが多用されているのはオルガン作品(《平均律》のようなオルガン様式のクラヴィーア曲を含む)とコラールで、コラールの場合、最初のフレーズが(ご指摘のように)ピカルディになることも多いです。言い換えると、バール形式の曲で、よくピカルディが使われます。

これに対して、世俗由来の曲、当世風様式の曲には、ピカルディはほとんど見られません。具体的には、組曲中の舞曲や、イタリア由来のダ・カーポ形式の曲です。受難曲でも、コラールを引用する曲だけで使われていますので、古様式の特性かも知れません。《ロ短調ミサ曲》ではよく使われますが、ダ・カーポないしそれに準ずる曲は、短調のまま終わります。

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