「バロックの森」が変わります2011年03月26日 23時50分15秒

朝6時からのNHKFM「バロックの森」を、1年間やってきました。この4月から、タイトルが「古楽の楽しみ」に変わります。バロック限定ではなく、中世、ルネサンスの音楽を積極的に取り入れていこう、という趣旨です。

時代の流れで、それもいいと思いますが、困るのは、私が基本的にドイツの担当であることです。シュッツが「音楽の父」と言われるぐらいで、ドイツの中世、ルネサンスは、とてもイタリアやフランスには及びません。CDも少なく、結局、バロック中心でやることになりそうです。事実、改題前に内定していたプログラムは、バロックのものばかりです。

来週は、「トーマス・カントルの音楽」という特集をお届けします。月曜日はバッハと、シャイン。火曜日は、クニュプファーとシェレ。水曜日は、クーナウ。木曜日は、バッハ。金曜日は、バッハとドーレスです。従来は土曜日もやっていましたが、4月から、土曜日は、皆川先生の「音楽の泉」の、FM再放送になります。

このように構成してみると、ライプツィヒの教会音楽の系譜が具体的に把握できて、とても勉強になります。とくに、今まで関心をもっていなかったドーレス(バッハの弟子で、次の次のカントル)の作品が面白く、モーツァルトの聖トーマス教会訪問の逸話が、身近に感じられるようになりました。

収録は、だいたい数週間前に行います。したがって来週の収録は、今月上旬に終わっていました。ですから、番組の中で被災のお見舞いをすることができません。また選曲やコメントが時節柄適切かどうか、心配にもなってきます。もちろんその心配は番組のスタッフもなさっていて、結局クーナウの聖書ソナタを、Aの曲からBの曲に変更しました。

その過程で考えたのは、どういう音楽がふさわしく、どういう音楽がふさわしくないか、ということです。これは音楽の本質論にかかわることで、私にも意見がありますが、放送の公共性に鑑みると、どう受け取られるかという「見え方」も、無視できない要因です。いろいろ考えさせられ、これも勉強になりました。このことは、どの番組でも起こっていることだと思います。

平常化2011年03月25日 22時49分48秒

大学が、平常に戻ることになりました。月曜日からは、学生の出入りも自由になります。4月1日から、行事などは簡素化しながら、また停電の合間を縫いながら、授業をしていきます。

やはりこれからは、それぞれが自分の持ち場をしっかり守って仕事をすることが大事になると思います。みんなでここまで育ててきた音楽文化を停滞させないように、そして社会へ成果をしっかりと還元できるように、がんばりましょう。

ツェーラーさんのコンサート2011年03月23日 17時34分20秒

21日(月)、バッハの誕生日にいずみホールで、ご案内したヴォルフガング・ツェーラーさんのオルガン・コンサートが開かれました。最初に、大震災の犠牲者の方々を偲んで、黙祷。関西の方々は皆さん震災経験者ですから、よく状況を理解してくださり、義援金にも多大のご協力を賜りました。ありがとうございます。

このシリーズでは毎回ステージでインタビューをするのですが、ツェーラーさん、こんなときわざわざ日本に行かなくても、とずいぶん言われたそうです。直接復興のお手伝いはできないが、精神的に深いバッハの音楽を通じて霊的な側面から貢献したい、というお気持ちを述べられ、ほぼ満員の場内から、大きな拍手が湧きました。

客席に有力なオルガニストの方々の姿が見られたのは、ツェーラーさんに対する専門家筋の評価の高さだと思います。まだ若いのにたいへんな水準をもっておられ、いずみホールのオルガンが、これまでの誰とも違う、すごい鳴り方をしていました。単に音色の選び方が違う、というのではなく、根本的に器が広がるような鳴り方なのです。《クラヴィーア練習曲集第3部》の全曲演奏はさぞ負担のかかる大仕事だと思いますが、精密、正確な名人芸で、後半、フーガへ向けての盛り上がりは圧巻でした。

翌日は、日本オルガニスト協会と連携しての、マスター・クラス。ふだんは口数の少ない方とお見受けしましたが、レッスンでは一転して論理明晰、みごとなレッスンです。何より、作品の構造への視点が研ぎ澄まされていて、作品全体の中でどの部分、どの音がどう弾かれるべきかについて、理にかなった洞察をしておられるのです。全国から受講生が集まったのも、むべなるかなと思いました。

震災後の復興に向けて、大阪の方々からアドバイスをいただきました。それは、「お金を使え」ということ。義援金のことではなく、その後の消費活動のことです。震災後はどうしても、外食すら慎むようになりますよね。でもずっとそうしていると経済が収縮してしまい、復興の基盤ができなくなる、というご意見を、何人もの方から、異口同音に伺いました。なるほどと納得したのですが、帰ってきてみるとテレビでは、「今私にできること--必要もないのに買うのをやめよう」というコマーシャルが流れています。どうなんでしょうね。

大阪のコンサート2011年03月20日 11時40分30秒

皆様、その後いかがお過ごしでしょうか。被災の方々には、あらためて、お見舞い申し上げます。

東日本のコンサート、イベントは、3月はあらかた中止となり、4月に焦点が移ってきました。しかし西日本は、今回は被害の局外になりましたので、いずみホールでもほぼ平常通り、予定が消化されています。したがって、21日(月)16:00からのバッハのオルガン・コンサートと30日(水)19:00からの「日本のうた」は、いずれも予定通り開催されます。私も参ります。

バッハのオルガン・シリーズ、今回はハンブルクのヴォルフガング・ツェーラー教授の出演です。ツェーラーさんは東日本で2回のコンサートが予定されていたのですが、いずれも中止になりました。それでも、日本の方々に音楽を通じて元気を贈りたい、というお気持ちから、大阪だけのために、来日してくださることになりました。ドイツの人たちは原発の問題にはひじょうに敏感で、それはツェーラーさんも同じなのですが・・・。

ツェーラーさんのお話を伺うと、やはり、音楽を神様のためにやっている人だな、と感じます。音楽をその場の人が楽しむだけのものだと考えてしまうと、こんなとき、何もできません。集まった人々と場を共有しながら、音楽をもうひとつ上の次元に向けて響かせること。これはまさに、バッハがやっていたことです。コンサートではホールが災害支援を呼びかけますので、私も、そのつもりで参ります。

学内立ち入り禁止のお知らせ2011年03月18日 15時44分00秒

皆さん、無事お過ごしでしょうか。停電、交通など種々の理由から、学内立ち入り禁止になったそうですので、私からもお知らせします。必然的に卒業証書の授与も延期になりました。卒業生の方々、お気の毒です。(と書いて、私の大学卒業の時にも、卒業式が中止だったことを思い出しました。)

いろいろ書きたいこともありますが、当面は、災害の復旧が少しでも迅速に、幅広く進展することを、皆さんとご一緒に祈願したいと思います。日本人が粘り強く公共心をもって対処していることが外国メディアから賞賛されているそうですが、私も、本当にそう思います。

1つの劇的結末2011年03月15日 23時49分08秒

静岡に地震があり、だいぶ揺れました。心が休まりませんね。被災地の方々、決死的作業にあたっておられる方々、本当にお疲れさまです。小林君、現地に入るのですか!がんばってくださいね、お願いします。

東北の状況が気がかりだったのは、私の論文弟子に、2人、東北出身の方がいらしたからです。そのひとり、すばらしいソプラノ歌手の髙橋織子さんは、岩手の出身。岩手は被害甚大のようだったので、私は早速メールを入れてみました。すると、盛岡の両親は無事だが、宮古の病院で働いている弟さんと連絡が取れない、とおっしゃるではありませんか。これには私も、肝を潰しました。

病院は高台にあるそうですが、宮古は、町がなくなるほどの直撃を受けているとか。ご承知のとおり携帯電話が通じないので、連絡の手段がないわけです。お姉さん、さぞ心配なさったと思います。

2日後、連絡が来ました。新聞の号外を見たら、その写真に、救護に働く弟さんが写っていた、というのです。その後、電話連絡もとれた、と伺いました。ドラマティックな結末。こういうお話が、少しでも増えるといいなと思います。

中止のお知らせ2011年03月14日 11時57分51秒

ご案内していた今週のコンサート、すべて中止になりましたのでお知らせします。博士研究コンサートの方は追って行われるようですが、新人演奏会の方は、文字通りの中止です。出演者はお気の毒ですが、これほどの状態ですから、正しい判断だと思います。一日も早い復旧・平常化を、皆様とご一緒に祈りたいと思います。

Mein Herz ist mit Euch.2011年03月13日 12時31分30秒

日に日に被害の様相が明らかになるにつれ、想像を絶する現実に驚愕しています。私のお弟子さんにも家族と連絡の取れない方がおられ、本当に心配です。ごいっしょに、無事を祈りたいと思います。少しでも多くの方が救出されますように。

日曜日のコンサートは、一種壮絶な前史を伴って、開催されました。それについては、少し状況が落ち着いてからご報告します。表記のドイツ語は、”Erdbeben"(地震)というタイトルでジョシュア・リフキン氏からいただいた開封確認付きメールの本文です。知己の方々にお送りします。皆さん、こういうときこそ、心をこめて音楽をいたしましょう。

お見舞い申し上げます2011年03月11日 23時39分30秒

大惨事になりましたね。被災された方、たいへんお気の毒でした。お見舞い申し上げます。

〔付記〕申し訳ありません、このときには被害の深刻さがわかっておらず、少しのんきな書き方をしてしまいました。お叱りをいただきましたので、謹んで削除させていただきます。お詫び申し上げます。

迷ったらバッハの利益に2011年03月10日 23時58分59秒

「迷ったらバッハの利益に」というのは、こういうことです。

先日、あるアマチュア合唱団のバッハ・コンサートに行きました。最初にカンタータ78番があり、ここには、エキスパートを含むソリストと、プロのメンバーによるオーケストラが共演しました。次にモテットの《イエスよ、私の喜び》が、合唱団プラス通奏低音で演奏されました。

要するに、モテットがアマチュア中心に、カンタータがプロの参加のもとに、演奏されたわけです。それだと、カンタータの演奏の方が良くなって当然ですよね。しかしじっさいはモテットの方がはるかに良く、その盛り上がりは、感動的でさえあった。これはどういうことなのかと、私は考え込んでしまったわけです。

結論は、こうした結果は、プロとアマチュアの関係という基本的な構造にかかわっている、ということです。それ自体が演奏者の責任というわけではないが、お互いに、意識改革は必要ではないか。こういうことは私の立場でなくては書けないことなので、差し障りがあると申し訳ありませんが、書かせていただくことにしました。

私はこの日はしごの予定で、前半しか聴きませんでした。後半では音楽がまとまり、さすがプロが入ると違う、という結果になっている可能性は、あると思います。ですから、当日の批評ではなく、原則的なことにかかわる提言として、お読みください。

プロとアマチュアのコラボレーションは、危険を内蔵しています。なにしろ、練習の回数が違う。アマチュアが徹底して作ってくる演奏の方向性を、プロは消化しないままステージに上る、ということが考えられます。しかし、もしそうしたことがあるとすれば、それは、そのソリストがどんなに優秀でも、演奏にはマイナスに作用します。

カンタータ78番にもそれがあったように思いますが、今回は、ひとつの点に絞りたいと思う。それは、合唱団が後ろに控え、ソリストが前面に並んで脚光を浴びる形式がバッハの演奏として正しいかどうか、ということです。

78番はコラール・カンタータで、この日のコンサートも、「バッハとコラール」をテーマとしたものでした。しかるに、コラール楽曲を展開するのは合唱です。ソリストが歌うのは、そこから派生した楽曲だけ。この事実からすれば、ソリストがスターのように脚光を浴びるのは、どう考えてもおかしい。合唱団の立場ではそうせざるを得ないのでしょうが、外部にいる私には、ソリストは合唱団の中に入り、せめてコラールを一緒に歌うのが正しい形だ、と思われます。

バッハの演奏のためには、アマチュアも妙に遠慮すべきではないし、プロも「お客様として自分の曲だけを歌う」意識を捨てるべきだ、と私は思います。一体として演奏にあたった方がバッハは必ずよくなるし、その方が、協力する側にとっても得です(きっぱり)。たしかに演奏の現場では、プロに対して失礼ではないかなどなど、いろいろな局面で迷うに違いありません。そこで「迷ったらバッハの利益に」という原則が生きると思うのですが、いかがでしょう。

【付記】もちろんアマチュアの演奏が至らず、ソリストの貢献でコンサートが立派になった、というケースも、多々あると思います。上に書いたことは、アマチュアが最善を尽くすことを前提としています。