平常化 ― 2011年03月25日 22時49分48秒
大学が、平常に戻ることになりました。月曜日からは、学生の出入りも自由になります。4月1日から、行事などは簡素化しながら、また停電の合間を縫いながら、授業をしていきます。
やはりこれからは、それぞれが自分の持ち場をしっかり守って仕事をすることが大事になると思います。みんなでここまで育ててきた音楽文化を停滞させないように、そして社会へ成果をしっかりと還元できるように、がんばりましょう。
やはりこれからは、それぞれが自分の持ち場をしっかり守って仕事をすることが大事になると思います。みんなでここまで育ててきた音楽文化を停滞させないように、そして社会へ成果をしっかりと還元できるように、がんばりましょう。
コメント
_ T.K. ― 2011年03月26日 23時51分50秒
_ I教授 ― 2011年03月27日 00時12分03秒
いよいよですか。すごいですね、がんばってきてください。間接的にしかできませんが、応援しています。帰られたら、ぜひお話を聞かせてください。可能であれば、経過報告のコメントもお待ちしています。
_ 優@背番号1&2&6&22&25 ― 2011年03月28日 17時29分06秒
ご無沙汰しています。未曾有の大惨事に遭遇して、しばらくは言葉を失った状態が続いていました。こちらに集う皆さんの周りの方々が無事であることをお祈りしています。停電等でまだまだ不便な生活を余儀なくされていますが、徐々にではありますが元の生活に戻りつつあります。そうした中、現地での支援活動にいらっしゃる方には本当に頭が下がる思いです。
それにしても、買い占め騒ぎや風評被害はどうにかならないものでしょうか。
風評被害は外国にも飛び火しているようで、日本人というだけでホテルの予約を拒否されたり、在外研究の受け入れ先から断られたりという話がチラホラ出てきています。
それにしても、買い占め騒ぎや風評被害はどうにかならないものでしょうか。
風評被害は外国にも飛び火しているようで、日本人というだけでホテルの予約を拒否されたり、在外研究の受け入れ先から断られたりという話がチラホラ出てきています。
_ T.K. ― 2011年04月06日 20時11分16秒
福島県国見町(宿泊)→仙台→松島→石巻→南三陸町→気仙沼→陸前高田と回りました。筆舌に尽くしがたいとは、こういう光景です。特に南三陸町と陸前高田は、私の目で見える範囲は‘壊滅状態’です。南三陸町に入ったところで、いきなり亡くなられた方を乗せたワゴン車が出発する場に出会いました。自分も車を降りて、お見送りをさせてもらい、その場に居合わせた女性の方2人に、被災当時の状況を御聞きしました。
その後、壊れた水門と防波堤まで行き、そこにいらっしゃった男性に御話しを聞いたところでは、息子さんが行方不明とのこと。鎮まりかえった海を指して「死体が沢山入っているよ」と仰っていました。手持ちの飲料水・薬・軍手(必需品)は、南三陸町で2人の女性に御渡しして、避難所で使っていただくことにしました。
気仙沼では、震災以来初めて開店したと思われるスーパーに入ることができました。地元の知人同士で交わされた挨拶は「生きてた?」でした。まるで空襲の後に命からがら逃げおおせた人が、久し振りにお互いの無事を確認したかのようです。
三陸の風光明媚な海を臨む駐車場で、携帯用コンロに火を点けてレトルト食品を温めていると、通りがかったドライバーの方から「陸前高田はもっとひどいよ」と教えられました。確かに、街は壊滅状態で、街があったと思しき場所は、いたるところ海水に浸っています。防波堤はおろか、照明塔が並んだスタジアムでさえも破壊されていました。見渡すかぎり津波に浚われた大地があるだけで、見かけるのは数人の工事の人のみで、被災者の人影さえ見当たりません。これでは、何のお手伝いのしようもありません。
この経験はトラウマとして私の中に残るでしょう。重機を見るたびに、あの光景がフラッシュバックしてきます。
帰途は仙台→亘理町→相馬→飯舘村→霊山(りょうぜん)→福島市と抜けてきました。放射能汚染が取り沙汰されているエリアですが、現地に入ってしまうと気になりません。飯館村のような、福島原発から遠く離れた長閑な山村が、今回の事故の煽りを受けて地元産の生乳を出荷できないとは、何とも信じられません。
うららかな春の日差しを受けた田舎の風景が、原発事故があったというだけで、まったく別のものになってしまうというのは不平等ですね。ホウレン草も収穫できないために、畑で干からびていました。
我々は被災地に留まることはできません。後ろ髪を引かれる思いで戻ってきたとしても、被災地の方々と同じ経験を共有することはできないのです。「喉元過ぎれば…」というのは、我々の悪い癖です。復興は長期に及びます。決して忘れ去らないことが大切です。
被災地から帰ってきたら、あれほど長蛇の列ができていたガソリンスタンドの渋滞も解消しています。しかし、被災地では、パトカーのような緊急車両でさえ、給油制限を受けていました。内陸の地域では、ガソリンが無いために買い物にも行けない、よしんば買い物に行っても店に物がないといった状態です。こうした‘兵糧攻め’のような状態が早期に解消されないと、被災地の方々の生活は破壊されると思いました。
一部には「放射能を恐れ、物流が滞っている」との記事も出ていますが、本当でしょうか?少なくともガソリンや生活必需品を運ぶ程度の作業は、現地に入れば何でもないことです。政府や東電の(放射能被害の)説明は最初から信じていませんが、被災地に物を運ぶ程度で健康被害を受けるとは思えません。被災地の物流を途絶えさせてはならないというのが、一番感じたことでした。
私は今まで東北地方に縁がありませんでしたが、今回現地に伺って、東北の方々の粘り強さや辛抱強さを痛いほど感じました。日本全体が「対岸の火事」と思わずに、息の長い支援を被災地に届けて下さるよう、この場を借りて願わずにはいられません。
そして、買い占めに走ったり、被災地や被災者の方々を貶めるような言動をする人に言いたい。「被災地に行って瓦礫の1つも片付けて来い。それでも買い占めをしたいか?根拠もない噂に振り回されたいか?被災した人々を貶めるような根拠のない言動は厳に慎むべきだ」
その後、壊れた水門と防波堤まで行き、そこにいらっしゃった男性に御話しを聞いたところでは、息子さんが行方不明とのこと。鎮まりかえった海を指して「死体が沢山入っているよ」と仰っていました。手持ちの飲料水・薬・軍手(必需品)は、南三陸町で2人の女性に御渡しして、避難所で使っていただくことにしました。
気仙沼では、震災以来初めて開店したと思われるスーパーに入ることができました。地元の知人同士で交わされた挨拶は「生きてた?」でした。まるで空襲の後に命からがら逃げおおせた人が、久し振りにお互いの無事を確認したかのようです。
三陸の風光明媚な海を臨む駐車場で、携帯用コンロに火を点けてレトルト食品を温めていると、通りがかったドライバーの方から「陸前高田はもっとひどいよ」と教えられました。確かに、街は壊滅状態で、街があったと思しき場所は、いたるところ海水に浸っています。防波堤はおろか、照明塔が並んだスタジアムでさえも破壊されていました。見渡すかぎり津波に浚われた大地があるだけで、見かけるのは数人の工事の人のみで、被災者の人影さえ見当たりません。これでは、何のお手伝いのしようもありません。
この経験はトラウマとして私の中に残るでしょう。重機を見るたびに、あの光景がフラッシュバックしてきます。
帰途は仙台→亘理町→相馬→飯舘村→霊山(りょうぜん)→福島市と抜けてきました。放射能汚染が取り沙汰されているエリアですが、現地に入ってしまうと気になりません。飯館村のような、福島原発から遠く離れた長閑な山村が、今回の事故の煽りを受けて地元産の生乳を出荷できないとは、何とも信じられません。
うららかな春の日差しを受けた田舎の風景が、原発事故があったというだけで、まったく別のものになってしまうというのは不平等ですね。ホウレン草も収穫できないために、畑で干からびていました。
我々は被災地に留まることはできません。後ろ髪を引かれる思いで戻ってきたとしても、被災地の方々と同じ経験を共有することはできないのです。「喉元過ぎれば…」というのは、我々の悪い癖です。復興は長期に及びます。決して忘れ去らないことが大切です。
被災地から帰ってきたら、あれほど長蛇の列ができていたガソリンスタンドの渋滞も解消しています。しかし、被災地では、パトカーのような緊急車両でさえ、給油制限を受けていました。内陸の地域では、ガソリンが無いために買い物にも行けない、よしんば買い物に行っても店に物がないといった状態です。こうした‘兵糧攻め’のような状態が早期に解消されないと、被災地の方々の生活は破壊されると思いました。
一部には「放射能を恐れ、物流が滞っている」との記事も出ていますが、本当でしょうか?少なくともガソリンや生活必需品を運ぶ程度の作業は、現地に入れば何でもないことです。政府や東電の(放射能被害の)説明は最初から信じていませんが、被災地に物を運ぶ程度で健康被害を受けるとは思えません。被災地の物流を途絶えさせてはならないというのが、一番感じたことでした。
私は今まで東北地方に縁がありませんでしたが、今回現地に伺って、東北の方々の粘り強さや辛抱強さを痛いほど感じました。日本全体が「対岸の火事」と思わずに、息の長い支援を被災地に届けて下さるよう、この場を借りて願わずにはいられません。
そして、買い占めに走ったり、被災地や被災者の方々を貶めるような言動をする人に言いたい。「被災地に行って瓦礫の1つも片付けて来い。それでも買い占めをしたいか?根拠もない噂に振り回されたいか?被災した人々を貶めるような根拠のない言動は厳に慎むべきだ」
_ I教授 ― 2011年04月06日 23時46分31秒
小林君、お疲れさまでした。人生の忘れ難い1ページになったことでしょう。たいへん貴重なレポートを投稿していただき、ありがたく思います。
_ T.K. ― 2011年04月07日 01時47分26秒
I教授。私と私を誘って下さった方は、被災地の映像をカメラに収めてきました。いずれCD-ROMにコピーして、I教授の御手許にも届けたいと思います。何かの機会に、被災地の状況を皆さんに知っていただければ幸甚です。友人達もFaceBookのようなツールで私が携帯を使って現地から送った映像や文章を配信してくれたとのことです。
今回は、阪神大震災の時と違って、いきなり避難所に行って活動をすることはできませんでした。これは当初から予想していましたが、ちょっと後ろめたくもありました。
東北の人は慎み深く、車から降ろしたペットボトルが入った箱を避難所まで運ぼうとしましたが、「自分達が…」と遠慮されました。あのような状況でも、他人に対する心遣いを忘れないのですね。
阪神大震災の時のボランティア仲間は、震災後16年経った今も被災地にいる私に激励メールを送り続けてくれました。「東日本が疲弊している時は、西日本が頑張る」とのエールをいただきました。私ですら余り縁のなかった遠い東北地方の災害を、西日本の人たちが「日本全体の問題」として考えて下さっているのが本当に有難かったです。
被災地から帰ってくれば、〆切直前の論文書きや学会報告の準備等があって、これらをこなさなければ、自分の頭のハエが追えない状態です。まさに「他人の御世話をする前に…」という状況で出かけてしまったわけで、結局は中途半端な活動しかできません。被災地や被災した方々に徹底的に寄り添うことなどできないのが現実です。本当に申し訳ないと思います。
被災地では、広島市の給水車、松江市の給水車、京都市のレスキュー隊等の車両を多く見かけました。帰りの東北自動車道のサービスエリアでは、任務を終えて地元に帰られる広島県警の方々をお見かけしました。おそらく震災直後から応援に来てらっしゃったのだろうと思います。食堂で暖かいものを召し上がる方、洗面所で歯を磨かれる方、売店でお土産を買われる方、思わず「ご苦労様でした」と声をかけたくなりました。
我々も埃をかぶって風呂にも入れずでしたから、状況は変わりませんが、広島県警の隊員の方達の方が遥かに凛々しく、我々は‘流浪の民’に見えたことでしょう。
被災地の宮城県警の機動隊の方達にも御世話になりました。高速道路の入口脇の駐車場に車を停めさせていただき、1晩を明かしましたが、明くる朝、我々にペットボトルの水を差し入れて下さいました。責任者である隊長さんのお話では、その日を境にさらに被害の大きな土地に行かれるとのことでした。「放射能被害などとは言ってられない」「復興には数十年かかる」とも仰っていました。何としても東北地方を復興させるという意気込みと責任を感じました。
私はもともと精神論を唱えたり、いたずらに士気を鼓舞することを好む人間ではありませんが、こうした非常事態にあっては、このような方々の‘志の高さ’にいかに支えられているかを痛感しました。
もちろん我々は、現場で作業に当たられる警察官、消防官、自衛官の方々と同じ任務には就けません。しかし‘志’を持って、自分の日々の課題や仕事に向かう
ことの大切さを教えられたような気がします。
被災地では、大地震当日に住民の避難を助けようとして津波に呑み込まれた方々も多くいらっしゃると聞きました。また、高齢のために避難が叶わず「私はここで…」と仰って最期を迎えられた御年寄りもいらっしゃるそうです。
陸前高田市で落ちていた小さなピンクの長靴の片方…履いていた幼い女の子は無事だったのでしょうか?
言ってみれば、普段我々の周りにいる幼い子供や御年寄りが、ある日突然に津波に巻き込まれ、この世からいなくなってしまったわけです。生まれてから、たった数ヶ月しか経たずに命を奪われた乳飲み子も少なからずいます。
たまたま‘災害に遭わず生かされている’我々は、どのように生きるべきなのかを真剣に考えざるを得ません。そうでないとしたら、不本意にも命を落とされた多くの方々に申し訳ないと思います。我々は我々の意気込みと矜持をもって生きていかなければなりませんね。
今回は、阪神大震災の時と違って、いきなり避難所に行って活動をすることはできませんでした。これは当初から予想していましたが、ちょっと後ろめたくもありました。
東北の人は慎み深く、車から降ろしたペットボトルが入った箱を避難所まで運ぼうとしましたが、「自分達が…」と遠慮されました。あのような状況でも、他人に対する心遣いを忘れないのですね。
阪神大震災の時のボランティア仲間は、震災後16年経った今も被災地にいる私に激励メールを送り続けてくれました。「東日本が疲弊している時は、西日本が頑張る」とのエールをいただきました。私ですら余り縁のなかった遠い東北地方の災害を、西日本の人たちが「日本全体の問題」として考えて下さっているのが本当に有難かったです。
被災地から帰ってくれば、〆切直前の論文書きや学会報告の準備等があって、これらをこなさなければ、自分の頭のハエが追えない状態です。まさに「他人の御世話をする前に…」という状況で出かけてしまったわけで、結局は中途半端な活動しかできません。被災地や被災した方々に徹底的に寄り添うことなどできないのが現実です。本当に申し訳ないと思います。
被災地では、広島市の給水車、松江市の給水車、京都市のレスキュー隊等の車両を多く見かけました。帰りの東北自動車道のサービスエリアでは、任務を終えて地元に帰られる広島県警の方々をお見かけしました。おそらく震災直後から応援に来てらっしゃったのだろうと思います。食堂で暖かいものを召し上がる方、洗面所で歯を磨かれる方、売店でお土産を買われる方、思わず「ご苦労様でした」と声をかけたくなりました。
我々も埃をかぶって風呂にも入れずでしたから、状況は変わりませんが、広島県警の隊員の方達の方が遥かに凛々しく、我々は‘流浪の民’に見えたことでしょう。
被災地の宮城県警の機動隊の方達にも御世話になりました。高速道路の入口脇の駐車場に車を停めさせていただき、1晩を明かしましたが、明くる朝、我々にペットボトルの水を差し入れて下さいました。責任者である隊長さんのお話では、その日を境にさらに被害の大きな土地に行かれるとのことでした。「放射能被害などとは言ってられない」「復興には数十年かかる」とも仰っていました。何としても東北地方を復興させるという意気込みと責任を感じました。
私はもともと精神論を唱えたり、いたずらに士気を鼓舞することを好む人間ではありませんが、こうした非常事態にあっては、このような方々の‘志の高さ’にいかに支えられているかを痛感しました。
もちろん我々は、現場で作業に当たられる警察官、消防官、自衛官の方々と同じ任務には就けません。しかし‘志’を持って、自分の日々の課題や仕事に向かう
ことの大切さを教えられたような気がします。
被災地では、大地震当日に住民の避難を助けようとして津波に呑み込まれた方々も多くいらっしゃると聞きました。また、高齢のために避難が叶わず「私はここで…」と仰って最期を迎えられた御年寄りもいらっしゃるそうです。
陸前高田市で落ちていた小さなピンクの長靴の片方…履いていた幼い女の子は無事だったのでしょうか?
言ってみれば、普段我々の周りにいる幼い子供や御年寄りが、ある日突然に津波に巻き込まれ、この世からいなくなってしまったわけです。生まれてから、たった数ヶ月しか経たずに命を奪われた乳飲み子も少なからずいます。
たまたま‘災害に遭わず生かされている’我々は、どのように生きるべきなのかを真剣に考えざるを得ません。そうでないとしたら、不本意にも命を落とされた多くの方々に申し訳ないと思います。我々は我々の意気込みと矜持をもって生きていかなければなりませんね。
_ I教授 ― 2011年04月07日 01時56分39秒
すばらしい報告、ありがとう。私も、自衛官、警察官、消防官の方々を心から尊敬しています。そういう感情が共有できる時代になりましたね。嬉しいことです。
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しかし、この買占め騒ぎ、ガソリンスタンドに並ぶ車の長い列を見ていると、(偉そうにも)‘民度’を考えざるを得ません。原発の放射能の影響が取り沙汰されると、今度はスーパーの棚から飲料水が消えました。放射能の影響の全くないといって良い地域でも、この騒ぎです。
なぜ被災地にそのペットボトルの水を届けようと思わないのか、なぜそのガソリンを被災地に優先的に回そうと考えないのか?…私はこの騒ぎを見て車に乗るのをやめて、マウンテンバイクに切り換えました。自転車なら、自分の体力で責任を取れば良いからです。