弔いの精神2014年02月10日 10時17分26秒

8日(木)。NHKでの録音を終え、能を観に行きました。能は詞章が好きなので時折出かけますが、国立能楽堂は初めて、「能を再発見する」という鼎談付きのシリーズで、演目は『藤戸』でした。そのストーリーは次のようなものです。

源平合戦の将、佐々木盛綱は、若い漁師から浅瀬の存在を聞き知る。彼はその漁師を殺して口封じしてから軍を進め、大勝する。恩賞として手に入れた土地で盛綱が苦情受付を行ったところ、漁師の老母がやってきて、息子の死を激しく抗議する。そこで盛綱は弔いの管絃講を催し、あらわれた漁師の霊を供養して、成仏させる・・・。最近では権力の横暴、社会への告発という側面を強調されることもあるストーリーだが、真髄は供養、魂の鎮めにこそある、という趣旨の解説がされていて、なるほどと思いました。その老母を後ジテ(漁師の霊)が出ても舞台に残すのが、原型を復元する今回の工夫だそうです。

能を観るたびに思うのは、こういう様式美を作り上げた昔の人の偉大さです。音楽といい、所作といい、多くのことが非合理的とも思われますが、すべてが神様(広義)を呼び出す装置として作動していると言えば、納得できそう。異界との交信がまさに眼前に開かれ、閉じられるのです。

明日をも知れぬ世を生きていた人々にとっては弔いがこんなにも重要だったのだなあ、という重い感慨を抱きました。それは、長く生きられるようになった現代には軽んじられるようになっている。葬儀は簡略化される一方ですし、灰を撒いて葬儀に代える、という人もいますね。かくいう私も、「葬」に手厚く対処してはいないのですが。

昔の人は、思いを残して死んだ人の魂が手厚い弔いによって鎮められ、この世を離れることを体験し、自らの死への備えをなしたのにちがいありません。そうした精神が働いていれば、諸行無常もニヒリズムではない。そういう精神の喪われた現代に、むしろニヒリズムの温床はありそうです。

コメント

_ Tenor1966 ― 2014年02月10日 22時08分38秒

確かに、死と正対することは生と正対することと同じでしょうから、他の人の死に対して無関心であるということはひいては自分のせいに無関心であるというニヒリズムに繋がりそうですね。
CD『NHK you gotta Quintet~classics~』のライナーノートに「自分の生まれる前の世界にも、これから行くであろう世界にも、『音楽があるはず』と思うようになってしまったアキラさん。この世とあの世の間を行ったり来たりできるのが音楽である、と彼はそういいたいのだろう。」と書かれているのを連想したりします。

_ アロハ先生 ― 2014年02月12日 19時27分59秒

先生のバッハについてのお話を伺う度に、キリスト教について学ばなければ!と思い、上村静著「旧約聖書と新約聖書」という本を読み進めています。
その中の創世記「失楽園」を解説した部分に「神の言う「死」とはあるべき本来的な関係性の破綻のことだったのだ。それを蛇と女は、生物学的な「死」の意に矮小化してしまったのである。」とあります。
これは、著者上村氏の解釈なのでしょうが、結局エバは死んでいないという記述からしても尤もらしい解釈だと思っています。
そういった精神的な世界の「死」、私も職業柄実感しております…

_ 青春22きっぷ ― 2014年02月12日 19時28分48秒

このブログを拝見し、関連する二つのことが想起されました。引用が多く長文のコメントで恐縮ですが・・・。

一つは先日の日曜の新聞の、ある書評の中の次の一節。
『この作品は、私たちの五感が認識する世界の奥にもう一つの世界があることを教えてくれる。・・・情愛がないところに悲しみはない。悲しみの奥には尽きることのない《慰めと励まし》が生きている。悲しみの経験とは、人生で人が朽ちることのない《光》に出会う道程であることを物語っている』と。---《》記号は小生が加筆、以下同じ。

これを読んで思うに、特に身近な人の死に相対した時の深い悲しみ。その深い悲しみから逃れたい気持ちが抑えられなければ、いつまでも《光》は見えてこないのだろうし、その深い悲しみに向き合い味わおうとするほどに、気持ちの中に《光》が生まれるのだろう、と思う次第です。
さらに、先生の《真髄は供養、魂の鎮め》と《弔い》、そして書評の《慰めと励まし》と言う言葉から、「喪」と言う言葉が思い起こされたのですが・・・。

で、もう一つは、一昨年のTBSのマタイ受難曲公演のカップリング講座、佐藤研先生の『「受難物語」とは何か』が蘇りました。その資料を引っ張り出してみましたところ、ありました。
「受難物語」の歴史の項で、「受難物語」伝承の形成を促した要因として、マルコの受難物語の元となった「古・受難物語」の核は、立ち直った直弟子たちの「喪の作業」と明記されていて、その内実として、亡き人物イエスとの新たな関係性を確認する《心的作業》。亡き人物の凝視、自己の負い目との向き合い、新たな一体性の確認。そして、それによって逆に生に向かう力と視野が与えられた。と記述があります。
さらに、「古・受難物語」の展開---時間を超えて切々と迫るものとして、直弟子以降の者らの「追喪の作業」、「追体験」によって自己の本態を認識、それによって生に向かう力と視野が与えられた----<悲劇の力>、との記述があり、その後の項で、バッハ「マタイ受難曲」について、『「イエス」の悲劇への、音楽芸術的「追喪の作業」・・・』と、ここでも「喪」に核心をおいて言及しています。

何を今更と言われてしまいそうですが、この様な事を知らずして(マタイ受難曲のテキスト、物語を理解できないままにも)、小生が若い時分にマタイを聴いた時に味わった深い感動の核は、「喪」の行為が織りなす生死を結ぶ根源的なものを感じ取ったのかもしれません。
そのことに己の命の奧底が揺さぶられたのではないか、と思い致す次第です。マタイを幾度となく聴くうちにその音楽が、「限りなく美しい」と言う言葉に成ってわが心より出でたのは、このことだったのかもしれません。

「活き活きとした生を歩むためには、まず死を学びなさい(趣旨)」と言う仏師の言葉とも重なっている様にも思えます。

さらにさらに、「喪の作業」を営み、喪に服すことは、《自らの死への備え》だけに留まらず、より人生を深く生きようとの思い、《光》、光明を見出して行けるのでしょう。これは「受難」の奧底にすでに潜むと言われる「復活」にも重なります。

「いのち」なるものの本質は、《諸行無常》の流れの中にあっても「命を永らえ命を繋ぐ」ことにあると考えているのですが、「喪の作業」は、死から生への「命を繋ぐ」大切な《心的作業》。そのことを疎かにしていたのでは《ニヒリズムの温床》が拡大していくのでしょう。

冗長のコメント失礼しました。

_ I招聘教授 ― 2014年02月13日 21時03分37秒

皆様のコメントに、多くを学んでいます。まさに、宗教性の本質を突いた議論になりましたね。ありがとうございます。

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