透明感2015年04月24日 05時02分16秒

23日(木)、早稲田大学エクステンション・センター(中野校)に出講し、今年度の流れがだいたいつかめました。

中野駅の北口から西に行くと、駅前の印象とは異なり、再開発地域が開けてくるのですね。その一角にある中野校は、堂々とした建物といい教室の設備といいとても立派で、さすが大早稲田、という感じです。

自筆資料のさまざまをお見せしてバッハの仕事場を覗いていただくというのが第1回の課題でしたが、一区切りしてご質問を募ったところ、「あなたはNHKFMに出ておられる方と同一人物ですか」と尋ねられてびっくり。「そうです」としか答えられませんでした(笑)。

ところで、私は自分が最近、透明になってきたような気がするのです。世間が透明に見えてきた、という言っても良さそう。自分に都合良く考えれば、人生のステップをひとつ登ったとも思えますが、晩年の特徴として、世に広くあるものかもしれません。あるいは、何らかの肉体上の変化というものがあって、一時的に、そういう気分が生まれているとも考えられます。

で思うことは、モーツァルトの後期にあるあの曰く言いがたい透明感はこれと同質のものではないか、ということなのです。本当にそうかどうかは、わかりません。しばらく観察してみたいと思います。

コメント

_ 久美 ― 2015年04月25日 17時52分14秒

透明ですか?興味津々です。どんなとき、そうお感じになるんですか。それはご自身にとって心地良いことなのですか?もっと知りたいです。観察したらまた教えてくださいね。
透明を想像すると 清潔な明るさと 同時にかりそめではないさびしさも感じます。クラリネット協奏曲第2楽章のようなのがモーツァルトの透明感でしょうか?聴くといつも「曰く言いがたい」気持ちになります。

_ I招聘教授 ― 2015年04月27日 23時59分44秒

少し観察してみてからご報告しますね。お待ちください。

_ 青春23きっぷ ― 2015年04月28日 14時02分38秒

先生、自己言及って難しいことのように思います。が、透明になりつつありよく見える、透明だから何も見えない。あ・そういう事ではありませんよね。

"心"なるものは、あらゆる他者との関係性で獲得されたもの、と大雑把に考えているのですが、その関係性の総体が透明感を帯びてくる気分を味わえる・・・などと考えてみたのですが。
今の世の中の出来事に接していると、そんな心の境地には程遠いです(笑・汗)。

久美さんが言われているクラリネット協奏曲、何年か前に聴いていて、いい気分になり、この音楽は音符で書かれているとは思えない、と、ふと思ったことがありました。
『「曰く言いがたい」気持ち』に関係するような気がします。とりわけ第二楽章ですね。

_ 縄文 雅use ― 2015年04月29日 03時22分18秒

 久しぶりにコメントさせて頂きます。
 モーツァルトの後期にあるあの曰く言いがたい透明感と言うのはよく解りませんが、私も最近透明感と言っていいような状況が続いています。

 「世間が透明に見えてきた」と感じるのは、周りの出来事の理由がよく解り、人の考えや起りそうな事が予感できます。また、会いたい人に偶然あったりや必要な出来事が自ずと生じるなど、シンクロニシティを頻繁に体験しています。

 それは多分自分がアンテナを張って、やるべき事はできるだけやり尽す姿勢を取っているからだと思うのですが、この透明感とも言える安定が、気持ちを穏やかにしいつも幸福感ももたらしてくれます。

 先生の透明感とはちょっと違うかも知れませんが?

_ I招聘教授 ― 2015年04月29日 23時27分22秒

近いと思うのですが、縄文さんの若さでもそうなられるのですね。私は、いま初めて知る感覚なのですが・・。もう少ししてから、続編を書きたいと思います。

_ 縄文 雅use ― 2015年05月01日 02時09分16秒

 はい、私は過去にも何度も経験し、昔は調子に乗りすぎてよく失敗していたのですが、今回はとてもいい調子が続いています。

 たとえば昨日は東京から帰ってきたのですが、行きに「かがやき」で東京駅に9:20分に着いたら目の前に丁度階段があって直ぐに降りる事ができ、土産物屋の中を通って1番ホームの中央線の下に行くと、また丁度エレベーターから人が下りた所でそのままエレベーターに乗りホームに出て、9:24分の快速に十分余裕で間に合い武蔵小金井に10:00に着く事ができました。

 帰りは甲府に泊まって帰ったのですが、開いていないはずの釈迦堂遺跡博物館や考古博物館が連休対応で開いていたり、帰りの新幹線の長野での乗り換えが篠ノ井線の遅れでギリギリでしたが、高岡に着いて降りたらすぐ目の前にエレベーターがあって殆ど歩かずに(最小限の歩数で)改札へ行く事ができました。他の人は目の前にエレベーターがあるのにも関わらず、数人ですがわざわざ遠回りをしておいででした。

 ついでに、前回上京した時には架線の支柱の傾きで神田〜秋葉原間が不通でしたが、中央線には影響がなく普通に帰る事ができました。細かい事を挙げるときりがないのですが、このように何かしら上手く導かれているような気がしていて、それが最近は結構長く続いています。

_ I招聘教授 ― 2015年05月01日 10時25分19秒

縄文さん、それはご同慶の至りですが、私の「ツキの理論」では、ツキを消費していることになるのですよ。私だったら、かえって不安な心境になると思います。

_ 縄文 雅use ― 2015年05月02日 07時37分37秒

 前から思っていたのですが先生の「ツキの理論」は、学会で認められているのでしょうか?

 私の体験では、ツイている時はどんどんツキ、調子に乗りすぎると自分で失敗を呼び込む事が多いです。巷では「引き寄せの法則」とか言われる物で本がいっぱい出ていますが、先生が自分でツキを消費していると思って、不安に心境なるからよくない事を自分で引き寄せているのではないでしょうか。

ツイている時に失敗するのは、菜根譚に書かれているように、

前集100項
居逆境中、周身皆鍼砭薬石、砥節礪行而不覚。
処順境内、満前尽兵刄戈矛、銷膏靡骨而不知。
人間が逆境にある時は心身が成長する機会の中にあるようなものだが、本人はそれを自覚できないし、順風満帆の時は心身が消耗する戦火の中にあるのだが、本人はそれに気が付かない。

からで、気が付いていればミスを引き寄せない事ができますよ。

_ I招聘教授 ― 2015年05月03日 08時24分22秒

学会で認められているなどということがあるはずはないじゃありませんか。「雀聖」阿佐田哲也さんの本で学んだことです。しかし人生の指針としては、優秀だと思っています。

_ 縄文雅use ― 2015年05月05日 07時04分49秒

それで分かりました。
阿佐田哲也さんの話はマージャン卓の上での話で、マージャンはツモの数が限られているのでそんな事が起こるのです。

私たちの住む世界は無限大の世界であって、神の愛と慈悲に満たされているので、ツキが無くなる事はありません。「恐るる勿れ、思い煩うな、求めよ、さらば全て与えられん。」です。

ですから、先生もこれからは心配しないでツキを沢山受け取って下さい。また、ツイていない事があってもそれは気づきや発見のためのきっかけですので、冷静に状況を見極めて下さいませ。

_ I招聘教授 ― 2015年05月07日 07時36分24秒

ありがたいお話ですが、私はもう少し慎ましく生きていきたいです。なにしろ貧乏性なもので(笑)。

_ 縄文 雅use ― 2015年05月10日 04時02分30秒

 そう言う発言をされると、「透明感」から遠ざかる原因になりますです。バッハのカンタータに書かれているように、慎ましく生きる事が神の御心にかなうのではないのでせうか?
 ツイて満たされますのは「地上の富」ではないからですます。(丁寧に書いてみました)

 Herz und Mund und Tat und Leben, BWV 147

_ 通りすがり ― 2015年05月10日 19時23分36秒

何だかわからない話しなっていますね。

ツキって、ツイてたりツイていなかったりするだけのことであって、『消費する』とか『ツキを沢山受け取って下さい』とかないでしょうに。

はたまた『・・・神の愛と慈悲に満たされているので、ツキが無くなる事はありません』に至っては理解不能。神まで持ち出して何を言わんやです。

_ 縄文 雅use ― 2015年05月11日 07時16分26秒

>通りすがりさん
 ツイてたりツイていなかったりする事が、有限か無限かと言う事です。

>はたまた『・・・神の愛と慈悲に満たされているので、ツキが無くなる事はありません』に至っては理解不能。神まで持ち出して何を言わんやです。

 招聘教授の書かれた「マタイ受難曲」を熟読して下さい。

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