3月のCD選2015年04月02日 07時10分45秒

また遅れましたが、3月分です。私が選んだのは「グリーン~フランス歌曲集第2集」という、ワーナーの2枚組。カウンターテナーのフィリップ・ジャルスキーが歌っています。《月の光》《白い月》などヴェルレーヌの詩に、フォーレ、ドビュッシー、アーンら20人(!)の作曲家が付けた43曲のアルバムです。

というとマニアックに聞こえますが、入門用に、とてもわかりやすくできている。「選曲と配列がじつに見事で、世紀末フランス歌曲の魅力に酔う。夢幻、哀愁、アイロニーの入り混じる世界が心地よく、ほどよいエンタメ志向を交えて描かれてゆくのだ。ブックレットも丁寧に作られ、岩切正一郎氏の名訳がよきガイドとなる」(新聞より)というわけです。私、ヴェルレーヌの詩って好きなんですよね。

対抗馬として考えたのが、鈴木雅明指揮、バッハ・コレギウム・ジャパンによるモーツァルトの《レクイエム》でした。上記のCDと正反対で、厳しいたたずまいで襟を正させるという趣き。バッハの蓄積が生かされた、BCJ最近の名演奏です。

思わぬ分かれ道2015年04月04日 10時48分45秒

3月29日に東京音大で開かれていた日本ピアノ教育連盟の全国大会で、モーツァルトのピアノ協奏曲に関する講演をしました。この機会にと思ってピアノ協奏曲一連の流れを学び直し、たいへん勉強になりました。

「人のため」の前に「自分のため」があるというのが、仕事に対する私の考えです。できるかぎり、自分が一番勉強になった、という感想をもてるようにと思ってやっています。なぜなら、そうすることで内容を高めることが、結局ひとさまのためにもなると思うからです。欲張りすぎて時間内に消化しきれず、という弊害もよくあり、今回も、若干はそうだったのですけれど。

成果は日本モーツァルト協会でもお話しさせていただきますが、ひとつだけ、面白いエピソードをご紹介します。

着眼点のひとつは、モーツァルト自身が「大協奏曲」と呼んだ管楽器のオブリガートつきコンチェルトがどのように始まり、どう発展したか、ということでした。その頂点に来るのが、第24番ハ短調K.491のコンチェルトです。その第2楽章の全体を考察したいと思い、楽譜を投射するように用意しました。

鳴らす音源は、ベルリン・フィルを弾き振りしたバレンボイムのものが全部まとまっているので便利だと思い、確認のために、家で鳴らしてみました。えーっと思ったのは、楽譜が2/2拍子であるにもかかわらず、バレンボイムが4/4拍子で演奏していることです。次にゼルキンを聴いてみたら、もっとゆっくりの4拍子。もしや旧全集の楽譜が4拍子なのかな(←時々あること)と思って調べてみると、同じく2拍子です。こういうことを平素意識しているピアニストは、ブレンデル。そこで鳴らしてみると、2拍子をはっきりわかるように演奏している。他の演奏では、シフ、アシュケナージが2拍子、ペライアは意外にも4拍子でした。

出かける前だったのでそこで打ち止めとし、ブレンデル盤を用意して、会場に向かいました。でもなぜ、こうしたことが起こるのでしょうかね。習慣の問題でしょうか。

私ははっきり2拍子で演奏すべきだと思いますが、バレンボイムほどの人がそうするのだから、4拍子派にもそれなりの根拠があるのだろうと思います。基本的なところに、思わぬ分かれ道があるものです。

今月の「古楽の楽しみ」~ハイドン2015年04月07日 07時50分19秒

今月は、ハイドンを取り上げました。ハイドンは古典派じゃないの、という声がすぐ出そうですが、「古楽としてのモーツァルト」という企画をやったときから、ハイドンをやらなくては、と決めていました。ハイドンはモーツァルトより24歳年上、J.C.F.バッハと同い年の1732年生まれだからです。

そこで照準を初期に定めて、CDを集めました。しかしハイドンの初期は資料不足のため研究がまだ進んでおらず、真偽不明、年代不明の作品がたくさんあるばかりか、ジャンルも多岐にわたっている。作品表を調べるだけでも四苦八苦、という状態になりました。

でも、やってよかったと思っています。なぜなら、その質の高さは並大抵のものではなく、平素あまり親しんでいなかったことを反省させられたからです。4日間を費やしても、ご紹介できたのは氷山のほんの一角でした。

4月13日(月)は、少年時代の作品の中で例外的に現存している《小ミサ曲ヘ長調》(1749年/17歳、演奏はバーディック)で始め、オルガン協奏曲第1番(1756、コープマン)の後に、交響曲第31番《ホルン信号》(NHKでは《狩の合図》)から、2つの楽章(リベラ・クラシカ)。昔の『名曲解説事典』(のちの『全集』)は、交響曲の巻の最初が、この曲だったのです。

14日(火)は弦楽器篇。弦楽四重奏曲第1番(ハーゲンQ)と、バリトン(弦楽器)入りのディヴェルティメントイ長調(リチェルカール・コンソート)、ヴァイオリン協奏曲第1番(カルミニョーラ)です。

15日(水)は鍵盤楽器篇。選曲が難航しましたが、最終的には特殊楽器のための後期作品も入れて、色とりどりの形にしました。ピアノ・ソナタ第7番(ホーボーケン番号。演奏は綿谷優子のチェンバロ)、同第23番(久元祐子のフォルテピアノ)、笛時計のための小品3曲(ホルツアプフェル)、リラ・オルガニザータ協奏曲第3番(コワン)、《皇帝讃歌》とその変奏曲(ローラウ/ハイドン博物館のフォルテピアノで演奏したもの)。リラ協奏曲の第2楽章は《軍隊》交響曲の原曲です。

16日(木)は宗教音楽篇。20代の《サルヴェ・レジーナ》(ヴァイル)、30代の《スターバト・マーテル》(抜粋、ピノック)を聴き、《告別》交響曲のフィナーレ(リベラ・クラシカ)で締める形にしました。ハイドンは器楽作曲家とみなされていますが、ウィーンの聖歌隊で成長しただけあって、宗教音楽がすばらしいです。とくに、《スターバト・マーテル》。

なんとなくむずかしそうですが、活気のあるわかりやすい曲がほとんどです。朝の時間にお楽しみいただければ幸いです。

新大学初授業2015年04月09日 21時43分01秒

新年度の初授業は、ご縁があり初めて教壇に立つ、國學院大學でした。皆さんは、どんな大学だと思っておられますか。

旧字体の校名、神道学部の存在などからして、「伝統」の2文字が浮かんできますよね。しかし行ってみると、私の知る限り、もっともハイテク化された、モダンな大学です。なにしろ出席もカード管理されていて、自動的に一覧表となって閲覧できる。私が授業する視聴覚室の環境はすばらしく、あらゆることがワンタッチで可能、といっても過言でないほどでした。

一般大学での音楽の授業となると、いろいろ心配が生まれます。人により予備知識は大差がありますし、音楽に本当に関心のある人がどのぐらいいるかもわからない。騒がしいのではないか、音楽をちゃんと聴いてくれるかどうか、などなど、心配して臨んだ、初授業でした。

ところが。学生は規律正しく、まことに驚いたことには、90分の間一言の私語も発せずに(本当です)、話も音楽も、集中して聞いてくれたのです。終了後、なかなか専門的な質問に来る学生も何人か。ロケーションといい雰囲気といいとてもいい大学で、モチベーションがぐっと高まりました。1日増えるの辛いなあ、などと思っていましたが、しっかりやります。ちなみに今季のテーマは「オペラ史」。一般大学の学生が広い角度からアプローチできるように選びました。

野球考2015年04月12日 12時00分29秒

プロ野球、シーズンになりましたので、趣味として追いかけています。今年の応援は、セ・リーグが広島カープ、パ・リーグがオリックス・バッファローズ。どちらも優勝争い、と意気込んでいました。

しかし私の応援がたたったのか、どちらも現在(日曜日の試合前)、最下位。この両チーム、共通点があるように思えてなりません。試合ぶりが淡泊。負けが込むと落ち込み、反発力がない。そして、監督がすこぶる付きの美男。これだけ落ち込むと、素人目にも、采配が気になります。

しかし、こうした経過は、あらゆる評論家の予想を裏切っているわけですよね。とくにセ・リーグは、横浜、中日、ヤクルトが上位にいるという、驚くような逆転現象。そこで思うのですが、野球はきわめて勝敗の予測ができにくいスポーツで、それが、間の空きがちな競技の面白さになっているのではないでしょうか。

他のスポーツは、どんなものでも、ある程度予測がつきますよね。団体競技でも強弱はかなりはっきりしていて、優勝候補が連戦連敗ということは、まず考えられない。それだけ、野球の勝負に、複雑なファクターがからみあっているということだと思います。したがって、弱いとされる方にも、つねにチャンスがある。新人が大手柄、ということもよく起こります。

ただその中にも、ツキの理論は存在すると思うのです。たとえば、登板すれば勝利が転がり込むという風に見えた中日の又吉というピッチャーには、その反動が来ている。去年みごとに機能していたオリックスの救援陣も、今年はダメ。「運をつかむ」ことが、采配のポイントであるような気がします。

豪毅な精神2015年04月16日 06時03分53秒

新田次郎の『剱岳--点の記』(文春文庫)を読みました。明治時代の測量官が、登頂不能と見なされていた剱岳の測量に挑戦し、不屈の闘志により四等三角点の設置を実現する、というノンフィクションです。

私は山登りは結構していたので、当時における剱岳の登頂がいかに困難であり、物語で行われていることがどんなに勇気のいることかが想像できます。それだけに、モデルとなった測量官、そしてそれを助けた人たちのまじめさには感嘆するばかりで、襟を正しつつ読み進めました。

実在の測量官の壮挙を書き残したいという意志が調査と執筆につながったようですが、新田さんの記述がまた客観的で、雄勁。測量作業に対する尊敬が、ひしひしと伝わってきます。藤原正彦さんのエッセイに父に対する尊敬がよく出てきますが、お父さんのまじめさは、藤原さんにも形を変えて伝わっていると感じます。

少し古い名作に接すると、昔の人のまじめさ、志の高さに打たれることばかりです。今はそれが、あまり価値とされなくなりましたよね。私にとっては、それは依然として価値です。

巻末に、新田さん自身が資料集めを兼ねて剱岳に登られたエッセイがついています。立山の室堂で、夜、一面の星が出たというくだりの次に、こんな文章がありました。「私は室堂乗越のちょうど真上に北極星を見出したとき、柴崎測量官が、ここに来たときも、何回となくこの北極星を見たことだろうと想像した」。

だから感動した、とは書かないのが新田さん。でも感動は大きかったことでしょう。私にもよく似た経験があります。ワーグナーが《タンホイザー》の舞台としたワルトブルク城を訪れたとき、周囲の山野に聖エリーザベトの気配を感じ、この自然を眺めたんだなあと思った時でした。芸術によって媒介された、中世への思いです。

近況2015年04月19日 09時23分18秒

新年度の流れが、ひとわたり見えてきました。人様の前でお話しする機会がいちだんと増えましたので、その準備をするのが、日々の基本です。時間とお金を使って聞いてくださる方に満足していただきたいという一念で、できるだけ準備しています。一生のうち、いちばん真面目に勉強している時期が、たぶん今です(笑)。

先週の頂点は、日本モーツァルト協会の講演(金曜日)でした。有名団体への初出演、詳しい方ばかりの前でのお話という緊張感があり、昨今の熱演傾向が加速して、後半、はなはだしい疲労を自覚する、という成り行きになりました(例:ご質問をいただいている時に、椅子にへたり込む)。

ちくまの『モーツァルト』のあとがきに、これがたぶん最後の著作、ということを書きました。そのため、まだ大丈夫でしょう、とおっしゃる方がときどきおられます。もちろんもうダメだとは思っていませんが(笑)、それはバッハに集中しなければならない、という意味です。しかし、ヴォルフ本の翻訳も急がなくてはならないので、モーツァルトにかなり時間を注ぐ状況になっています。向き合うにつれ、ヴォルフ本の内容のすばらしさに感嘆しています。

入れ込むことなく、リラックスしてお話しできるのが「たのくら」。今月から、オペラの歴史をたどり始めました。1作品2回という日程を立てましたので、複数のプロダクションを比較しながら楽しむことができ、作品への視野が広がります。

終了後会員の方々と昼食をご一緒できるのが、午前中に例会をもつ「たのくら」ならでは。そこである方から、「まだギリシャ語はやっておられますか」と訊かれました。「多分、もう・・」と顔に出ていましたので、お答えします。

『ヨハネ福音書』の第1章、受難の章(18、19)が済み、さてどうしようかと思ったあげく、『マタイ福音書』に入りました。いま最後の晩餐を終えて、オリーブ山のあたりです。『ヨハネ』も忘れないように復唱しながら、『マタイ』を少しずつ覚えています。じつに明晰な言語だ、と思うようになってきました。

透明感2015年04月24日 05時02分16秒

23日(木)、早稲田大学エクステンション・センター(中野校)に出講し、今年度の流れがだいたいつかめました。

中野駅の北口から西に行くと、駅前の印象とは異なり、再開発地域が開けてくるのですね。その一角にある中野校は、堂々とした建物といい教室の設備といいとても立派で、さすが大早稲田、という感じです。

自筆資料のさまざまをお見せしてバッハの仕事場を覗いていただくというのが第1回の課題でしたが、一区切りしてご質問を募ったところ、「あなたはNHKFMに出ておられる方と同一人物ですか」と尋ねられてびっくり。「そうです」としか答えられませんでした(笑)。

ところで、私は自分が最近、透明になってきたような気がするのです。世間が透明に見えてきた、という言っても良さそう。自分に都合良く考えれば、人生のステップをひとつ登ったとも思えますが、晩年の特徴として、世に広くあるものかもしれません。あるいは、何らかの肉体上の変化というものがあって、一時的に、そういう気分が生まれているとも考えられます。

で思うことは、モーツァルトの後期にあるあの曰く言いがたい透明感はこれと同質のものではないか、ということなのです。本当にそうかどうかは、わかりません。しばらく観察してみたいと思います。

「かがやき」に乗る2015年04月27日 23時29分39秒

すざかバッハの会に行くために、初めて、北陸新幹線に乗りました。「かがやき」に乗って、長野まで。大宮から乗ると、なんと、次の駅が長野。軽井沢に泊まらないのにはびっくりしました。だって、長野新幹線はいつも軽井沢でガラガラになる、と思っていましたので。

長野の次は、富山なのですね。その次が金沢。なるほど、新幹線です。長野駅にも駅ビルが完成し、垢抜けたお店が並んでいました。一軒、思わず鼻息の荒くなるお店を発見。私の好きなグルメのひとつ、ソースカツ丼の、なんとなんと、専門店(!)なのです。躊躇なく足が向かいましたが、日曜日のお昼でもあり、お店は鈴なり。あきらめました。代わりに名店岩井屋でうな重を食べましたが、これもそれなりに、鼻息を荒くしてくれました。

何人もの方に言われたのは、乗り越さなくて良かった、ということ(注:長野が終点ではなくなった)。あのね。私、確かに乗り遅れること、乗り間違えることはあるが、乗り過ごすということは、意外にないのですよ。それは私ではく、まさお君とか、世の多くの方が、なさっていることです。ずいぶん新大阪で下車しましたが、新神戸まで行ってしまった、ということはありません(きっぱり)。

荒い鼻息のおかげで、ワーグナー講座も軌道に乗りました。《タンホイザー》、やっぱりいいですね。問題意識に、長く共感してきた作品です。

深夜に帰宅し、翌朝聖心女子大というスケジュールはたいへんですが、「聖母マリアの音楽史」という授業内容は、《タンホイザー》と、しっかりつながります。ワーグナーは、やっぱり宗教的です。

今は埼京線の「湘南新宿ライン」がありますので、新宿乗り換えで恵比寿は、とても便利(聖心女子大は広尾)。ところが下車してみると、駅の景観が違います。まごまごしてわかったのは、そこは恵比寿ではなく、次の駅の大崎。一駅乗り過ごしたようで、あわてて戻り、事なきを得ました。何事も、経験です。

4月のCD2015年04月29日 23時27分36秒

今朝アマゾンからメールがあり、「次のような商品はいかがでしょうか」と。その商品は、小菅優さんのベートーヴェンのピアノ・ソナタでした。え~、これ、私が新聞で紹介した特選盤ですよ。それを当人への「おすすめ商品」とは・・・。

このシリーズ、今回の第4巻には、作品10の3曲(第5~7番)と第11番、第29番《ハンマークラヴィーア》が収められ、「超越」と題されています。「超越」とは驚きです。なぜなら、初期のソナタ4曲にも超越性を認めているという視点が、そこに示されているからです。

でも演奏を聴いて、なるほどと思いました。ふところが深く、多様性がめざましく追い求められています。つねに一歩ゆとりを残して音楽と向き合い、力演に走らないので、曲ごとに豊かな景観が印象づけられ、初期ソナタ各曲の創意とユーモアが伝わってくるのです。後期の超大作《ハンマークラヴィーア》も、潤いをもって、美しさを失わずに探究されていると思いました。たいしたものです。