巨大な森の中へ2016年02月18日 08時59分22秒

生活の流れがどこか変わってしまって、「旧暦年頭所感」から6日、更新しませんでした。その間連日仕事が続き、地方に出かけたり、大事な会議に参加したりしているのですが、大きな関心事が直接の目的ともなってその上に座ったためか、時間の流れが速くなってきました。

まず行うべきは、聖書の研究です。福音書のみならず、書簡やキリスト教の成立史にも一定の理解をもちたいと思い、文献と向かい合っています。新約学は日本にもすばらしい先生が何人もおられるので、手引きには困りません。

針の穴をつつくような研究の積み重ねに感嘆しつつ読んでいくわけですが、同時に、絶対に確かなことは誰も言えない世界だ、という実感も生まれてきます。ありとあらゆる仮説が自己主張している。なんとか妥当な基本理解を導き出そうとしても、門外漢にはむずかしいですね。

仮説は、自分はこう考えたい、こう解釈できたらいいなあ、という思い入れから発生するという側面があります。それは、研究対象に対する愛の、いわば負の側面です。対象に比べれば小さなものでしかない自我が、思い入れを生み出します。

しかしそれは、絶対に必要なことでもあるのです。対象に迫っていくためには長期にわたる研鑽と、対象への没入が欠かせません。それを支えるのが、対象への愛というべきものです。普通に言えば、生き生きした関心、知ることの喜び、モチベーションでしょうか。

それは客観的な研究には有害だという意見に出会うことがありますが、最初からそれを言ってはダメです。遠くから、あるいは上から眺めているだけで事柄の真髄に肉薄することは不可能だというのが、私の見解です。

そこで大事になるのは、自分の思い入れに対する自分自身の警戒心、浮かんだアイデアを検証する自己批判力です。それこそが研究者のプロフェッショナルな能力だと思いますが、それは、対象への迫りあってこそ発揮されるものです。それを放棄しかたら客観的、というわけではないのです。

「対象にコミットしてこそ普遍が見えてくる」と私におっしゃったのは小田垣雅也先生ですが、たとえばバッハに普遍性があるとしたら、そのようなもの以外ではあり得ないと思います。

というわけで巨大な森の中に迷い込んでしまっており、時間がかかります(←コメントへのご回答)。