毎日芸術賞贈呈式2012年01月26日 11時06分17秒

昨日25日は、東京プリンスホテルで、第53回毎日芸術賞の贈呈式。大きな黄色の花をつけて左正面の審査員席に座りましたが、小田島雄志、高階秀爾といった大先生方のお側ではいかにも貫禄不足で、気恥ずかしいかぎり。「若輩」という言葉さえ浮かんでしまいます。

千田是也賞、毎日書評賞を合わせて7人の受賞者の方がスピーチされました。平素不案内な領域も多く、自分の住んでいる世界の狭さが痛感されて、とても勉強になりました。こうした式典、祝賀パーティーは、世界を広げるいい機会ですね。いくつか、印象に残ったことを。

石飛博光さん(書道部門)のお話によると、書は筆順に生命があり、筆順をたどってみていくことで、書き手の心に触れることができるのだそうです。う~ん、図形として見ていましたね、私は(汗)。坂茂さん(建築部門)は被災地の仮設住宅などを積極的に手がけている方ですが、地震で人は死なない、建物がこわれて死ぬ、だからそこには建築家がいなければならないのだ、と。頭の下がるお言葉でした。千田是也賞の演出家、中津留章仁さんは、支えてくれた人たちへの感謝を語る段に至り、感極まって涙されました。長身の精力的な方とお見受けしていたのに意外なやさしさの発露で、びっくりしました。どの世界にも、涙もろい方はおられるのですね。

パーティーで生・由紀さおりさんの歌を拝聴。お姉さんの安田祥子さんもいらしていました(iBACHにも同字の方がおられます)。自由時間の増えそうなこれから、なんとか、世界を広げていければと思います。

今月のCD選2012年01月25日 00時19分15秒

年末商戦のあとだからでしょうか、今月は、分母がすごく少なかったです。というわけで、ちょっと渋い選考になりました。

1位は、ヘンゲルブロック指揮 北ドイツ放送交響楽団のシリーズ第一弾(ソニー)。曲はメンデルスゾーンの交響曲第1番とスケルツォ(弦楽八重奏曲からの編曲)、シューマンの交響曲第4番初稿。いかにも爽やかな演奏で、初期ロマン派の魅力がいっぱいです。ヘンゲルブロック、これから一番楽しみな指揮者ではないでしょうか。《ロ短調ミサ曲》があったことを思い出して聴いてみましたが、すばらしいですね。コンチェルティスト方式をとっている(従ってジャケ裏にソリスト名が出ていない)、珍しいCDです。

2位は、吉松隆さんの「夢詠み」を選びました(カメラータ)。吉村七重さんの箏が、清澄のきわみなのです。「耳を静けさへと引き込み、心を洗い清める至芸」と書きました。

3位は、有森博さんの「カバレフスキー3」(フォンテック)。日ごとに存在感の薄れつつある社会主義リアリズム時代の人気作曲家ですが、使命感をもって演奏してくれているピアニストがいることを知ったら喜ぶでしょうね。24の前奏曲など、曲ごとに個性があり、面白く聴けます。

辻荘一賞授賞式2012年01月22日 23時24分46秒

21日の土曜日はたいへん寒い雨の1日になりましたが、立教大学のチャペルで行われた、辻荘一・三浦アンナ学術奨励金の授賞式に出席しました。受賞者は既報の通り、芸大教授の大角欣矢さんです。

完全な礼拝形式で、授賞式は進みます。記念講演は祭壇で行う。そういえばやったような気がしますが、私がいただいたのは第1回で1988年のことですので、何をお話ししたか、まったく記憶がありません。

ご専門の宗教改革期の音楽、ルターとシュッツをつなぐ時期の聖句モテットについて語られた大角さんの講演は、感動的なものでした。作品の成り立ちを追悼説教からアプローチするのが大角さんのオリジナルで、当時の人々がいかに死としっかりと向き合い、そこに価値観を発見していたかが語られていきます。それは同時に、死と向き合うことを放棄した現代人への警鐘ともなっているのです。そこで発揮される音楽の力を評価すべきだと、大角さんは主張されました。

おっしゃることのすべてが、私の心から同意できることばかり。発想にしろ楽曲分析にしろ、自分が話しているのではないかと錯覚しそうになることも何度かありました。しかし私からの影響は、微々たるものだと思います。ご自身でオーソドックスに勉強された結果、私の心から共感できるお考えに、到達しておられるのです。

ただ、決定的に違うことが、1つあります。それは大角さんが敬虔な信徒であられ、私がそうでない、という点です。それなのにどうしてこういう共感があるのだろう。私には不思議に思えてなりませんでしたが、ふとよぎった直観があります。これは、私が《ロ短調ミサ曲》について述べている「宗派を超えた宗教性」というもののもたらしたつながりと考えることはできないでしょうか。

次の世代にすばらしい研究者を得て、シメオン老人(ルカ福音書参照)のような心境です。

学問と実践の共同2012年01月21日 01時34分02秒

いつまでも結果に酔えませんので、最後に。

何人もの方からおっしゃっていただいたのは、「学問と実践の共同」という観点です。その意味では私も、ひとつのモデルケースを提示できたかな、とは思っています。種々の要因がありました。場が、大学の、それも「音楽研究所」であること。メンバーの多くが論文を書いている人たちで、指揮者の大塚直哉さん(大功労者です)も楽理科の出身であること。私がはからずも《ロ短調ミサ曲》の研究に取り組み、ぴったりのタイミングで訳書を出版したこと、などなどです。少なくとも私の中では、研究と演奏が、折り重なって進行しました。

どんな音楽でも研究に取り組んで演奏に損はないと思いますが、バッハの場合、とくにそう言えると思います。バッハ自身が卓越した頭脳の持ち主で、作品が、思弁的傾向を帯びているからです。研究してはじめてわかることがたくさんあり、それが、本質と連なっています(ヴォルフ先生の評伝の副題は「学識ある音楽家」となっていますが、まさに共感します)。それを演奏にフィードバックするというのは、魅力的な課題です。

ということで、練習の過程では、ラテン語の典礼文テキストを理解すること、それにバッハがどういう音楽をつけているかを認識することを絶対条件とし、練習の合間に説明をはさんだり、気合を入れたりしました。選んだ演奏家におまかせし、口をはさまない方が感じがいいことはわかっているのですが、今回は演奏者に学びへの欲求が強くあり、アドバイスを生かそうと、いつも努めてくれましたので、研究情報の提供は、積極的に行いました。それが無駄にならなかったのは、演奏者の方々のおかげです。

よきコラボレーションの実例を、1つだけ。あのすばらしい「復活」の合唱曲を思い出してください。キリストの復活を喜ぶ音楽は爆発的に始まり、中間部で「昇天」を扱います。その最後に再臨と裁きを予告するバス・ソロが来て、統治の永遠を歌うテキストが、再現部の役割を果たします。そのテキストは、cujus regni non erit finis(その方の統治に終わりはないだろう)というものです。

通奏低音を伴ったバスのソロが一種威嚇的に進行する間、合唱は、主題の再現に備えています。バス・ソロが終わると、満を持した合唱が再現部を爆発的に歌い始める--となりそうですが、これではダメなのです。再臨し、生者と死者を裁かれるイエス。その方の、そういう統治こそが永遠だということを伝えるために、再現部の合唱はバスのソロをしっかり受けて、そのメッセージを肯定して始まらなくてはならない。具体的には、cujusに実感がこもる必要があります。この点は大塚さんがしっかり徹底してくださいましたので、説得力のある効果を挙げたのではないかと思います。それでこそ生きる、管弦楽の長い後奏なのです。

「学問と実践の共同」は、演奏上の通念とは、必ずしもなっていません。音楽は感性の領域であり、変に理屈っぽくなるのはよくない、と考える方も、たくさんおられるからです。しかし私の意見では、バッハの音楽を人間の感性にもっぱらひきつけるのは、私が言うところの人間中心主義です。それを超える領域に入っていくには、理性の共同が必要だと思っています。もちろんそのバランスが、別の課題となるわけですが。いずれにせよ、感覚を超えるものの大切さを演奏者たちと共有できての、今回の結果だったと思えてなりません。皆さん、ありがとうございました。

涙ありの打ち上げ2012年01月18日 23時16分12秒

午後の公演ですので、打ち上げは6時半から。ほぼ全員が参加し、立川のイタリアンで、にぎやかに行われました。達成感のある打ち上げほど楽しいものはありません。感謝をこめて、ワインを16本差し入れました。

普段あまり声をかける機会のない人たちとも話し、みんなが喜びと感動をもってバッハを勉強してくれていたことを実感。これで終わるのはもったいない、もっと続けたい、と多くの方がおっしゃいましたが、私の最後に合わせて設定されたプロジェクトですので、それは望めません。しかし蒔かれた種を踏み荒らすわけにはいきませんから、これからどんなことができるのか、自分なりに考えてみたいと思います。

涙をだいぶ流してしまいました。飲んだので記憶がはっきりしませんが、ひとつ覚えているのは、私にメッセージが届いている、ということで、司会者がそれを読みあげたときです。富田庸さんのイギリスからの心のこもったメッセージでかなり感動していると、司会者が、もうひとつあります、外国からです、と言って続けるのですね。あれ、誰にも言ってないが、と思ってドイツ語のメッセージに耳を傾けると、途中で分かりました。「心の友へ」と始まるそのメッセージは、ジョシュア・リフキン先生からのものです。もったいない言葉の連続に、相当泣いてしまった次第です。

でも一番嬉しかったのは、手製のアルバムをもらったことです。ドイツ風の表紙があり、開くと最初の数ページに、メンバーからのメッセージがずらりと並んでいる。その先に練習風景の写真があるのですが、ただ貼ってあるのではなく、種々切り抜きでアレンジされていて、手がかかっている。丹精の賜なのです。こんなのいつ作ったんだ、と聞くと、「声楽チームが中心になり、みんなで心を込めて作りました」という返事。私的にはじつにすばらしい活動記録で、毎日、ワインを飲みながら見入っています。みんな、ありがとう。

今日、当日のスナップ写真が回りました。私が泣いているのもばっちり写っています(別に「号泣」ではないですよ)。涙はむしろ、翌日に出てきました。あそこが、ここが頭に取り付くようになってからです。

畏怖2012年01月17日 23時08分17秒

コンサートに遠路を問わず集まってくださった方々の中に、雪深い東北在住の、大学以来の親友がいました。世界史の専門家ですが、多くを学ばせてもらった、尊敬する友人です。

その彼が送ってくれた感想メールの中に、「若い人たちの、音楽をする喜びや音楽に対する畏怖のようなものがストレートに伝わるステージでした」という部分がありました。畏怖!そうです、それが絶対あったと思うのですね。それがあったこと、それが伝わったことは、なんと嬉しいことでしょう。

公開ゲネプロで、終演後、涙の止まらぬままお話しした〈神の小羊〉のソリスト、加納悦子さん。私の賛辞に対しておっしゃったのは、すぐ次は沈黙という世界を目指している、ということでした(もう少し上手な表現でおっしゃいましたが正確に再現できません、ごめんなさい)。声を出してなんぼ、というのが声楽の世界なのに、こんなことをおっしゃる人がいるとは、と私は驚嘆し、この方はもう私のずっと先に進んでおられるなあ、と頭を垂れました。

本番も、静寂と沈潜の中で歌われるすごい〈神の小羊〉で(「神品」という言葉がぴったり)、涙する人が大勢。私はしっかりと音楽に向き合って、感動しながらも、涙は抑制できました。さて、打ち上げ。加納さんは私に、持ち前のいたずらっぽい表情で、私の聴いた最初のバッハ、すなわち堀俊輔さんの指揮による《マタイ受難曲》のあとに楽屋でなんと言ったか覚えていますか、とおっしゃいます。思い出せませんと申し上げると、私の言葉を教えてくださったのですが、それは加納さんに限って申し上げるはずのない、批判的な言辞でした。もちろんご本人もすぐに納得はされなかったようなのですが、考えるうちに理解する部分があり、今回の演奏はそれが出発点になった、とおっしゃっるのです。私は本当に驚き、そして感動しました。いっしょに作っていたのだなあ、と思えたからです。

立錐の余地もなかった打ち上げについて、次にご報告します。

今、作品について思うこと2012年01月16日 15時48分29秒

《ロ短調ミサ曲》の演奏会、無事終わりました。全員一丸となってバッハに向けて燃焼し、ベストを尽くしたことだけは間違いのないコンサートになりました。出演者や裏方の皆さん、足を運ばれた方々、その他応援してくださったすべての方に、心から御礼申し上げます。

今日は会議のため大学に来ていますが、疲労困憊、もぬけの殻です。肩の荷が下りたということもありますが、終了後の打ち上げを4次会まで重ねたことがたたりました。最後残った6人でラーメンを食べたのが、深夜の3時でした(汗)。

感想は何度かに分けて書きたいと思いますが、今日は、《ロ短調ミサ曲》という作品について、当面の結論として得た認識を述べたいと思います。

《ロ短調ミサ曲》の真髄は、やはり後半にあります。前半はまとまっていて勢いがありますが、後半は知れば知るほど深く、奥行きがある。演奏した感銘は1.5倍ぐらい大きいと確信しました。とくに〈ニカイア信条〉は、宇宙的な規模をもって完成された、音による神学絵巻です。

それ以降に並ぶ6声、8声の大合唱曲の偉容もすばらしいものですが、感動はむしろそれらにはさまれた小独唱曲にあり、その配置が絶妙であることも痛感しました。テノール、フルート、通奏低音のトリオによる〈ベネディクトゥス〉と、アルト、ヴァイオリン(ユニゾン)、通奏低音のトリオによる〈アグヌス・デーイ〉は、《ロ短調ミサ曲》の魂とも言うべき部分です。一見寄せ集めに見える後半のそのまた後半部が、寄せ集めどころか、バッハ晩年の叡智の結晶であることがようやく理解できました。

神殿空間をセラフィムが舞うように壮麗な〈ザンクトゥス〉。これは独立曲をそのままミサ曲へと取り入れたわけですが、合唱が歌いっぱなしになる消耗度の高い曲で、演奏者に大きな負担を課します。言い換えれば、そうした曲をここに置くといういことは、演奏者の都合を度外視しているようにも見えるわけです。

練習を重ねることによって私は〈ザンクトゥス〉のすばらしさを痛感するようになりましたが、同時に、《ロ短調ミサ曲》が「実用作品としてではなく、理想とするミサ曲の範例を作って次の世代に遺すという意図から集成された」とする古来の説に、一票を投じたい気持ちにもなってきました。

でもそうした範例が範例に終わらず、演奏を通じて生きたものとして体感できるようになったのが、今、この時代です。そんな時代が来るとは、バッハは想像もできなかったのではないでしょうか。

開演30分前2012年01月15日 13時26分56秒

やっぱり、いろいろありますね。公開ゲネプロの昨日は、字幕用に用意したマックのパソコンがプロジェクターにつながらないことがわかり、ウィンドウズのパソコンを調達したり、ファイルを調整したりと、忙しい思いをしました。宗教曲に字幕が要るの、という声もありますが、私は歌詞の理解は宗教曲においてこそ必要、という考えなので、綱渡りをしても、字幕を使います。

私の情緒部分について。じつは大詰めの〈アグヌス・デーイ〉で涙が止まらなくなってしまい、演奏者から、「責任者なのだからしっかりしてください」と言われました(笑)。今日は、しっかり取り組みます。号泣を期待している方、おあいにくさまです。

もう開場しました。行ってきます(緊張)。

神の国?2012年01月13日 10時54分36秒

連日練習に付き合っていると、どうしても、《ロ短調ミサ曲》の話題になってしまいます。

精魂込めた練習が眼前に繰り広げられ、聴衆は事実上私ひとり、というのは、なかなかの気分。何度も聴き、作品が隅々まで、身体に入って来ました。すごい作品だなあ、の一念です。

バッハはもともと理想主義的なところがありますが、この作品も、とくに後半において、演奏者の都合をあまり考えていない。「ミサ曲」という偉大な歴史をもつジャンルに規範となる曲を遺そうという意識から、とりわけ自信のある曲を、努めて多様な形で集成することに全力を注いでいて、演奏者はじつに負担を強いられます。作品の起点を外部からの委嘱に求めるのか内的な構想に求めるのかという論争がありますが、回を重ねるごとに後者に傾いてくるというのが実感です。

通し演奏まで死後100年もかかったのは、ケタ違いの難しさに加えて、通して演奏するべき曲なのかどうかという躊躇もあったのではないかと想像します。それを大学の先輩たちが、昭和6年に初演したとは。こうした苦労の結果、曲がいま世界中で取り上げられるようになっていることを、バッハに教えてあげたいですね。

自分の人生の1ピークになるようなイベントですから、当日どんな思いにかられるか、見当がつきません。基本的に私は感激家なので、過度に感激を舞台上で示してしまってはまずいと、警戒しています。いざその時になれば案外クールなのかなとも思いますが、どうでしょうね。

バッハ時代の音楽論では、音楽は天国の幸せの、この世におけるVorschmack(あらかじめ味わうこと)であると言われていました。でもVorschmackそれ自体が人の考える天国の幸せなのだと、考えることもできそうです。なぜなら、イエスの唱えた「神の国」はどこか未来にあるのではなく、そのメッセージに接した者が喜びをもって信じるとすれば、そこにすでにあるのだ、という解釈を読んだことがあるからです。

そうなると、練習のひとつひとつがすでに神の国の始まりなのかな、と思えてきました。今日が最終リハーサル、明日が公開リハーサルです。

新年仕事始め2012年01月10日 11時58分30秒

今日は、《ロ短調ミサ曲》練習の再開日。大学の仕事始めです。本番まで残りわずか、準備に最善を尽くしたいと思います。

ご心配いただいていたゲネプロ公開の件、次のようになりました。14日(土)18:00からのゲネプロは規定方針通り公開しますので、ご来場の方は、国立音楽大学演奏課までお電話(042-535-9535)ください。ただ、当日時間ができたからとふらりと来てくださっても大丈夫だそうです。ご案内が遅くなりましたが、どうせ公開するのですから、大勢のお客様に聴いていただきたいと思います。

明日、大学院研究年報と学部卒論の締め切り日。これで、短期的な個人指導は終了です。成長の喜びも、忍耐もたくさんあった長年の指導でした。成績の提出もそろそろということで、前期のオムニバス授業「バッハとその時代」のレポート採点を済ませました。私がうちの大学の教員になってから初めてと思えるほどの力作揃いです。私ひとりではこうはいかなかったと思うので、先生方の協力が学生に与えるインパクトは大きいと実感しました。最後に、何かが始まる、という感触をもてる機会が得られて、良かったです。