途中でスイッチが ― 2010年05月26日 06時47分07秒
空いている日だけではなかなかオファーが受けられないものですから、昨日はコンサート批評のために、スケジュールを調整しました。モノはファビオ・ルイジ指揮のウィーン交響楽団(サントリホール)、プログラムは、ブラームスの交響曲第2番と第1番です。
現在進行形でてきぱきと音楽が進んでいきますが、指揮者の周囲からしか、音が出てきません。ブラームス特有の厚みのあるテクスチャーがまったく再現されておらず、指揮者が孤軍奮闘の趣き。これは書きようがないなあ、と思ううち、休憩になりました。
ところが、後半になったら、スイッチが入ったのですね。暖まった肢体に養分が行き渡ってゆくような感じで、パート間の連携が取れ、引き締まった歌が、あちこちから聞こえてくるようになりました。フィナーレなど、全軍躍動。時差ぼけから目が覚めた、ということなのでしょうか。アンコールはヨハン・シュトラウスのポルカ、ワルツ3曲という大サービスでしたが、《ピチカート・ポルカ》など絶妙の呼吸で、さすがウィーンだと思いました。
第2番を先にやると、第1番の前座になっちゃいますね。かわいそう(←第2番の方が好き)。第1番の葛藤を克服して第2番の陽光、という順序になっている方がいいように思いますが、どうでしょう。トータルとしてはいいコンサートだったので、これから文章を考えます。
現在進行形でてきぱきと音楽が進んでいきますが、指揮者の周囲からしか、音が出てきません。ブラームス特有の厚みのあるテクスチャーがまったく再現されておらず、指揮者が孤軍奮闘の趣き。これは書きようがないなあ、と思ううち、休憩になりました。
ところが、後半になったら、スイッチが入ったのですね。暖まった肢体に養分が行き渡ってゆくような感じで、パート間の連携が取れ、引き締まった歌が、あちこちから聞こえてくるようになりました。フィナーレなど、全軍躍動。時差ぼけから目が覚めた、ということなのでしょうか。アンコールはヨハン・シュトラウスのポルカ、ワルツ3曲という大サービスでしたが、《ピチカート・ポルカ》など絶妙の呼吸で、さすがウィーンだと思いました。
第2番を先にやると、第1番の前座になっちゃいますね。かわいそう(←第2番の方が好き)。第1番の葛藤を克服して第2番の陽光、という順序になっている方がいいように思いますが、どうでしょう。トータルとしてはいいコンサートだったので、これから文章を考えます。
歴史への夢 ― 2010年05月24日 10時28分53秒
ベルリオーズの超大作と聞くだけで、腰が引けてしまう、ということはありませんか?私が、そうでした。今月の1位にした歌劇《トロイアの人々》(2003年、パリ・シャトレ座のライヴ)の場合、全5幕で、合計4時間。なんとなく、誇大妄想のイメージを感じてしまいます。
でも、そうではないのですね。ガーディナーの名演奏の貢献によるところが大きいと思いますが、明快で、焦点が決まっている。エキゾチックなバレエなど、サービス精神満点の見せ場が、いくつもある。娯楽としても楽しめる、華やかな作品なのです。いつもながら、合唱には感心させられます。
全5幕が2つに分かれていて、第1幕、第2幕は、トロイア落城の物語。第3幕から第5幕はカルタゴ女王ディドンの物語で、一見、継ぎ合わせのよう。しかし鑑賞すると、一貫した太い柱があることに気がつきます。作曲者であり台本作者でもあったベルリオーズは、トロイアを落ち延びた勇将エネ(アエネーイス)がディドンとの愛を乗り越え、ローマの建国を見据えてイタリアへ向かう流れを強調しているのです。
敗れたトロイアがじつはローマとして生まれ変わり、ギリシャに対抗する形で世界の覇権を得てゆくこと。西欧の文化の源流が、じつはトロイアに発していること。それをベルリオーズは一晩のうちに表現したくて、5幕もの大作を書いたのでしょう。背後に、歴史への壮大な夢があります。
このことを理解することによって、パーセルの《ディドとエネアス》を見る目が変わってきました。今度、私の好きなピノックの演奏で、「バロックの森」に取り上げます。
でも、そうではないのですね。ガーディナーの名演奏の貢献によるところが大きいと思いますが、明快で、焦点が決まっている。エキゾチックなバレエなど、サービス精神満点の見せ場が、いくつもある。娯楽としても楽しめる、華やかな作品なのです。いつもながら、合唱には感心させられます。
全5幕が2つに分かれていて、第1幕、第2幕は、トロイア落城の物語。第3幕から第5幕はカルタゴ女王ディドンの物語で、一見、継ぎ合わせのよう。しかし鑑賞すると、一貫した太い柱があることに気がつきます。作曲者であり台本作者でもあったベルリオーズは、トロイアを落ち延びた勇将エネ(アエネーイス)がディドンとの愛を乗り越え、ローマの建国を見据えてイタリアへ向かう流れを強調しているのです。
敗れたトロイアがじつはローマとして生まれ変わり、ギリシャに対抗する形で世界の覇権を得てゆくこと。西欧の文化の源流が、じつはトロイアに発していること。それをベルリオーズは一晩のうちに表現したくて、5幕もの大作を書いたのでしょう。背後に、歴史への壮大な夢があります。
このことを理解することによって、パーセルの《ディドとエネアス》を見る目が変わってきました。今度、私の好きなピノックの演奏で、「バロックの森」に取り上げます。
大腸検査 ― 2010年05月20日 23時55分15秒
ある程度の年齢の皆さん、大腸の検査はなさっていますか?絶対に受けるべきです。大腸ガンに気づかず手遅れ、という人はずいぶん多いですし、私も最初の検査で、ポリープ(悪性腫瘍)を削除しました。発生しても進行が遅いですから、ちょくちょく検査する必要はないのです。ちょうど週刊誌に、内視鏡なしでわかる方法が開発されたとありましたが・・・。
食事は、前夜8時まで。その後、下剤を1錠飲みます。朝は8時から1800リットルの水を少しずつ飲み、座薬も使用。このようにして消化管を空にしてから、管を入れて調べます。絶対いやという方もいらっしゃるようですが、私は、とても楽な検査だと思います。胃カメラよりずっと楽ですし、いやな検査は、ほかにいくらでもあります。
幸い、何でもありませんでした。空腹でふらふらでしたから、築地で遅い昼食(まぐろ丼)。帰路本願寺の前で、すざかバッハの会の大幹部、田中宏和さん(豪商の家)と鉢合わせしました。確率は低いと思うのですが、油断できませんね(笑)。
そのあと新橋の中国人の店で、じつに久しぶりのマッサージ。若い女性だったので私の鋼鉄の身体には指が入るかなと思ったのですが、見かけによらぬ力持ちで、痛いのなんの。折り紙付きの硬い身体ですから、あきらめて流してしまう人と、本気でほぐそうとしてくれる人がいます。今日の施療師さんは完全に後者でしたので深謝し、おつりをチップとして渡して、格好良く店を後にしました。傘を忘れてきたことに気づいたのは、しばらく後でした(泣)。
夜は新国立劇場で、シュトラウス《影のない女》を鑑賞。検査の疲れがどっと出てきましたが、すばらしい公演だったと思います。
食事は、前夜8時まで。その後、下剤を1錠飲みます。朝は8時から1800リットルの水を少しずつ飲み、座薬も使用。このようにして消化管を空にしてから、管を入れて調べます。絶対いやという方もいらっしゃるようですが、私は、とても楽な検査だと思います。胃カメラよりずっと楽ですし、いやな検査は、ほかにいくらでもあります。
幸い、何でもありませんでした。空腹でふらふらでしたから、築地で遅い昼食(まぐろ丼)。帰路本願寺の前で、すざかバッハの会の大幹部、田中宏和さん(豪商の家)と鉢合わせしました。確率は低いと思うのですが、油断できませんね(笑)。
そのあと新橋の中国人の店で、じつに久しぶりのマッサージ。若い女性だったので私の鋼鉄の身体には指が入るかなと思ったのですが、見かけによらぬ力持ちで、痛いのなんの。折り紙付きの硬い身体ですから、あきらめて流してしまう人と、本気でほぐそうとしてくれる人がいます。今日の施療師さんは完全に後者でしたので深謝し、おつりをチップとして渡して、格好良く店を後にしました。傘を忘れてきたことに気づいたのは、しばらく後でした(泣)。
夜は新国立劇場で、シュトラウス《影のない女》を鑑賞。検査の疲れがどっと出てきましたが、すばらしい公演だったと思います。
この1日 ― 2010年05月19日 23時21分21秒
今日は聖心女子大で、私が死ぬほど好きなモンテヴェルディの《聖母マリアの夕べの祈り》の、中でも一番好きな〈天よお聞きください〉を、雅歌のテキストとの関連をふまえて講義しました。聖心でマリア崇敬の音楽を講義するのは、とてもぴったり来るのです。廊下にはマリアの絵画が飾られていますし、ホールの名前も「マリアン」。学生さんも、なんとなくそっち向きの品格があるのですよね。モンテヴェルディの音楽にも、よく入ってきてくれていると感じます。
午後はNHKで、「バロックの森」を3本(!)収録。今日は6月21~23日放送分で、1日目がブルーンス特集、2日目が《ゴルトベルク変奏曲》、3日目がジェミニアーニ特集でした。《ゴルトベルク変奏曲》は渡邊順生→スコット・ロス→アンジェラ・ヒューイット→アンドラーシュ・シフ→マレイ・ペライアのリレーで聴いていただく形にしました。でもこうやってみると、ヒューイットが弱いですね。他の4つはすばらしいです。
夕刊に、今月のCD選掲載。私が選んだのは、ガーディナー指揮のベルリオーズ《トロイアの人々》のDVD、サヴァリッシュ指揮のシュトラウス《影のない女》のDVD(愛知県立劇場収録)、アルミンク指揮のフランツ・シュミット《7つの封印の書》のCDでした。ベルリオーズは、作品といい、演奏といい、すごいですよ。
今日もよく働きましたが、ものすごく疲れました。明日、大腸の検査なので、準備しています。
午後はNHKで、「バロックの森」を3本(!)収録。今日は6月21~23日放送分で、1日目がブルーンス特集、2日目が《ゴルトベルク変奏曲》、3日目がジェミニアーニ特集でした。《ゴルトベルク変奏曲》は渡邊順生→スコット・ロス→アンジェラ・ヒューイット→アンドラーシュ・シフ→マレイ・ペライアのリレーで聴いていただく形にしました。でもこうやってみると、ヒューイットが弱いですね。他の4つはすばらしいです。
夕刊に、今月のCD選掲載。私が選んだのは、ガーディナー指揮のベルリオーズ《トロイアの人々》のDVD、サヴァリッシュ指揮のシュトラウス《影のない女》のDVD(愛知県立劇場収録)、アルミンク指揮のフランツ・シュミット《7つの封印の書》のCDでした。ベルリオーズは、作品といい、演奏といい、すごいですよ。
今日もよく働きましたが、ものすごく疲れました。明日、大腸の検査なので、準備しています。
テキストの大切さ ― 2010年05月18日 23時34分06秒
大学院の小クラスですが、久しぶりに、正統的な音楽美学の授業をやっています。音楽美学史というと普通は流れを整理して把握することを目的としますが、それでは物足りない気がして、今年はいくつかのテキストを、きちんと見ていくことにしました。もちろん、翻訳でです。
今日の授業のためには「音楽と感情の関係」というテーマを選んでいました。音楽には感情を込めれば込めるほどいい、という通念は誤っていること、音楽で表現される感情は私情ではなく高められたイデア的な感情であるはずだということなどを述べ、感情に相当する言葉も歴史的に変遷し、多義的であることを注釈して、導入としました。
次に、バロックのアフェクテンレーレについてまとめようと思ったのですが、その理論的支柱になっているデカルトの『情念論』をきちんと読むべきだ、という思いが生じました。そこで時間のあるかぎり準備し、初めの方を節ごとに要約する形で紹介。久しぶりの読み直しですが、ああこういうことだったのか、という思いをしばしば抱きました。やはりテキストには、いつもあたっていなければいけませんね。来週は、学生に出してある課題をやります。プラトンの『饗宴』を、恋について自説を述べる6人になって議論しよう、という課題です。
大幅に遅れてきた学生が、二人。もちろん事情はあるのでしょうが、自分は学会のあとで疲れているときにこれだけ準備したんだ、時間通り来て聞いてくれ、と怒ってしまいました。こういう「私情」で怒ることは、平素はしないのですが・・・。夜のバッハ・プロジェクトでも、練習して来ない受講生を一喝。やっぱり、疲れてきているようです。
今日の授業のためには「音楽と感情の関係」というテーマを選んでいました。音楽には感情を込めれば込めるほどいい、という通念は誤っていること、音楽で表現される感情は私情ではなく高められたイデア的な感情であるはずだということなどを述べ、感情に相当する言葉も歴史的に変遷し、多義的であることを注釈して、導入としました。
次に、バロックのアフェクテンレーレについてまとめようと思ったのですが、その理論的支柱になっているデカルトの『情念論』をきちんと読むべきだ、という思いが生じました。そこで時間のあるかぎり準備し、初めの方を節ごとに要約する形で紹介。久しぶりの読み直しですが、ああこういうことだったのか、という思いをしばしば抱きました。やはりテキストには、いつもあたっていなければいけませんね。来週は、学生に出してある課題をやります。プラトンの『饗宴』を、恋について自説を述べる6人になって議論しよう、という課題です。
大幅に遅れてきた学生が、二人。もちろん事情はあるのでしょうが、自分は学会のあとで疲れているときにこれだけ準備したんだ、時間通り来て聞いてくれ、と怒ってしまいました。こういう「私情」で怒ることは、平素はしないのですが・・・。夜のバッハ・プロジェクトでも、練習して来ない受講生を一喝。やっぱり、疲れてきているようです。
国際イベント終了 ― 2010年05月16日 23時36分03秒
慶応大学での「国際若手フォーラム」第3日に出席。厳しい日程で参加者はだいぶ疲れているようでしたが、ディスカッションを重ねて濃密な関係が築かれていることは、手に取るようにわかりました。国籍も文化的背景も超えて忌憚なく音楽を論じ合う共同体が、そこに出現していました。
私の役割は、クロージング・セッションで締めの挨拶をすること。今日も外注の原稿を用意して臨みました。最後、前列に実行委員が居並ぶ配置となり、その中央に招かれたので不吉な予感がしましたが、挨拶は多少のアドリブを交えて、無事終了。こうなると度胸が出て、皆さんの話をうなずきながら聞くという、大きめの態度になりました。
天罰覿面。最後の最後で、締めてくださいという思いがけない振りが、司会者から来たのです。意表を突かれてとっさに言葉が出ず、「バイバイ!」とのみ言って、手を振りました。満場爆笑(汗)。最後にマイナスが付きましたが、もともとできないのですから、仕方ありません。
というわけで、いい学会でした。しかし、英語圏の人ほど、また英語ができる人ほど有利で活躍できる、という状況が、顕著に成立しています。今後国際学会がこのような形で開かれるとすると、英米系の大学に留学した人は、国際性において、圧倒的に有利になります。となりますと、大学でも英語を専攻した方がいいということになり、大学側としても、いろいろな語学を中途半端にやるよりは、英語教育にしっかり集中した方が、就職の点でも有利だ、と考えることになる。事実そういう主張は周囲でもよく提起されて、私はいつも反対しているのです。
論者の中には、日本の大学は英語で授業をするべきだ、とおっしゃる方もおられますよね。平素英語で会話するようになり、語学のハンデがまったくなくなった状況を想像してみると、さぞありがたいだろうなあ、と思います。でも、こういうグローバリゼーションは何か変だ、という気持ちも、私はぬぐえずにいるわけです。
私の役割は、クロージング・セッションで締めの挨拶をすること。今日も外注の原稿を用意して臨みました。最後、前列に実行委員が居並ぶ配置となり、その中央に招かれたので不吉な予感がしましたが、挨拶は多少のアドリブを交えて、無事終了。こうなると度胸が出て、皆さんの話をうなずきながら聞くという、大きめの態度になりました。
天罰覿面。最後の最後で、締めてくださいという思いがけない振りが、司会者から来たのです。意表を突かれてとっさに言葉が出ず、「バイバイ!」とのみ言って、手を振りました。満場爆笑(汗)。最後にマイナスが付きましたが、もともとできないのですから、仕方ありません。
というわけで、いい学会でした。しかし、英語圏の人ほど、また英語ができる人ほど有利で活躍できる、という状況が、顕著に成立しています。今後国際学会がこのような形で開かれるとすると、英米系の大学に留学した人は、国際性において、圧倒的に有利になります。となりますと、大学でも英語を専攻した方がいいということになり、大学側としても、いろいろな語学を中途半端にやるよりは、英語教育にしっかり集中した方が、就職の点でも有利だ、と考えることになる。事実そういう主張は周囲でもよく提起されて、私はいつも反対しているのです。
論者の中には、日本の大学は英語で授業をするべきだ、とおっしゃる方もおられますよね。平素英語で会話するようになり、語学のハンデがまったくなくなった状況を想像してみると、さぞありがたいだろうなあ、と思います。でも、こういうグローバリゼーションは何か変だ、という気持ちも、私はぬぐえずにいるわけです。
国際イベント進行中 ― 2010年05月15日 23時47分41秒
金曜日から、日本音楽学会が主催する『国際若手フォーラム』が始まりました。その趣旨や内容を本格的に紹介することはそのホームページやWEB発信にお任せし、まったく個人的な雑感のみを書きます。もちろん、関係の方々の絶大なご尽力に心から感謝した上でです。
国際交流や国際的な情報発信は学会の生命ですから、イベントが立派に走り出して、本当にうれしく思っています。しかし、ただ喜んではいられません。会長として祝辞を、今回の公用語である英語で述べなければならないからです。本欄でも再三記しているように、私は英語が大の苦手。とはいえ、日本の学会の会長は英語もしゃべれないのか、となりますと、私が恥をかくだけではすみません。しかも先代の会長、金澤正剛先生は、研究発表が途中から英語になっていたのを気づかなかったという逸話をお持ちなほどの、英語の達人なのです。私の苦しい立場をご想像ください(汗)。
年が明けたらまたテープ学習をしよう、と思っていたのですが、今年はまったく余裕のないスケジュールとなったため、ついに特別な勉強もしないまま、当日を迎えてしまいました。できないことはできないと認めてしまえば楽になれる、とも思いつつ、それではいけないなどと思い返したりするうち、日が過ぎてしまいました。
もちろん、気の利いた挨拶を英文で書く力量はありません。そこで、旧知の「コングレ」に、英訳を外注。さすがにみごとな英文が送られてきました。すごい英語で意味がわからず、辞書を引いてやっと納得するところもあちこち(笑)。一応、読む練習だけはしておきました。
慶応大学日吉キャンパスの準備は万全で、なんと、インスブルックにいる国際音楽学会の会長と、ネットでつながっている。先方から「礒山先生!」などと声のかかる、恐ろしい状況です。原稿は意外にすらっと読めてしまったのですが(笑)、それはそれで誤解を作り出しますので、一長一短です。続いて参加者の自己紹介が始まりました。皆さんぺらぺら。私はもう、自己嫌悪です。
英語がほとばしるように飛び交うセッションが活発に行われ、終了後、レセプションとなりました。土曜日は所用で欠席しましたが、日曜日はフル出席します。英語万能の時代に私などが会長でいいのか、という重い反省を、心から消すことができません。
国際交流や国際的な情報発信は学会の生命ですから、イベントが立派に走り出して、本当にうれしく思っています。しかし、ただ喜んではいられません。会長として祝辞を、今回の公用語である英語で述べなければならないからです。本欄でも再三記しているように、私は英語が大の苦手。とはいえ、日本の学会の会長は英語もしゃべれないのか、となりますと、私が恥をかくだけではすみません。しかも先代の会長、金澤正剛先生は、研究発表が途中から英語になっていたのを気づかなかったという逸話をお持ちなほどの、英語の達人なのです。私の苦しい立場をご想像ください(汗)。
年が明けたらまたテープ学習をしよう、と思っていたのですが、今年はまったく余裕のないスケジュールとなったため、ついに特別な勉強もしないまま、当日を迎えてしまいました。できないことはできないと認めてしまえば楽になれる、とも思いつつ、それではいけないなどと思い返したりするうち、日が過ぎてしまいました。
もちろん、気の利いた挨拶を英文で書く力量はありません。そこで、旧知の「コングレ」に、英訳を外注。さすがにみごとな英文が送られてきました。すごい英語で意味がわからず、辞書を引いてやっと納得するところもあちこち(笑)。一応、読む練習だけはしておきました。
慶応大学日吉キャンパスの準備は万全で、なんと、インスブルックにいる国際音楽学会の会長と、ネットでつながっている。先方から「礒山先生!」などと声のかかる、恐ろしい状況です。原稿は意外にすらっと読めてしまったのですが(笑)、それはそれで誤解を作り出しますので、一長一短です。続いて参加者の自己紹介が始まりました。皆さんぺらぺら。私はもう、自己嫌悪です。
英語がほとばしるように飛び交うセッションが活発に行われ、終了後、レセプションとなりました。土曜日は所用で欠席しましたが、日曜日はフル出席します。英語万能の時代に私などが会長でいいのか、という重い反省を、心から消すことができません。
クリエイティヴとは ― 2010年05月11日 23時49分41秒
pomさんにいい質問をいただきましたので、「クリエイティヴ」な研究とはどういうものを言うのかについて、自説を述べさせていただきます。
クリエイティヴな研究とは、対象について新しい見方、考え方を提示するとともに、それ自身、発展する可能性を秘めているものです。対象がそれ自体新しいか古いか、過去に研究されているかいないかとは、まったく関係がありません。
「論じ尽くされた」対象を扱ったのでは、クリエイティヴな研究にならない、と思われるかもしれません。しかしすぐれた古典に、「論じ尽くされる」ということはあり得ないのです。プラトンでも聖書でもバッハでもゲーテでもいいですが、偉大な古典は無尽蔵な教えを含んでおり、つねになにか、新しいことを教えてくれるものです。だからこそ歴史を超えて残ってきたし、研究もまた、更新され続けているわけです。逆に言えば、研究が更新されることが、古典をしかるべく受け継いでいく条件になる。その意味では、若い世代のバッハ研究家があまりいないことを、残念に思っています。バッハにおいて研究すべきことは山のようにあり、その多くは、まだ研究されずに、研究者を待っているのです。
「オーセンティシティを求める研究」(pomさん)は、オーセンティシティという切り口から新しい視点を求めていくものなので、きわめてクリエイティヴであり得ます。そういう研究が、古楽の隆盛を支えているわけです。「伝統を守ろうとする態度による研究」はどうでしょう。伝統を守ろうとすることが言論の前提であり目的になっているということですと、学問でなくイデオロギーと呼ぶべきだと思います。自分自身の立場に対する十分な客観性と批判が存在すれば、伝統護持の主張も、クリエイティヴな提言たり得るのです。
クリエイティヴな研究とは、対象について新しい見方、考え方を提示するとともに、それ自身、発展する可能性を秘めているものです。対象がそれ自体新しいか古いか、過去に研究されているかいないかとは、まったく関係がありません。
「論じ尽くされた」対象を扱ったのでは、クリエイティヴな研究にならない、と思われるかもしれません。しかしすぐれた古典に、「論じ尽くされる」ということはあり得ないのです。プラトンでも聖書でもバッハでもゲーテでもいいですが、偉大な古典は無尽蔵な教えを含んでおり、つねになにか、新しいことを教えてくれるものです。だからこそ歴史を超えて残ってきたし、研究もまた、更新され続けているわけです。逆に言えば、研究が更新されることが、古典をしかるべく受け継いでいく条件になる。その意味では、若い世代のバッハ研究家があまりいないことを、残念に思っています。バッハにおいて研究すべきことは山のようにあり、その多くは、まだ研究されずに、研究者を待っているのです。
「オーセンティシティを求める研究」(pomさん)は、オーセンティシティという切り口から新しい視点を求めていくものなので、きわめてクリエイティヴであり得ます。そういう研究が、古楽の隆盛を支えているわけです。「伝統を守ろうとする態度による研究」はどうでしょう。伝統を守ろうとすることが言論の前提であり目的になっているということですと、学問でなくイデオロギーと呼ぶべきだと思います。自分自身の立場に対する十分な客観性と批判が存在すれば、伝統護持の主張も、クリエイティヴな提言たり得るのです。
「考えない」傾向 ― 2010年05月10日 23時52分11秒
「相づち」への書き込み、ありがとうございます。皆さんが指摘しておられる番組の「考えさせない」傾向は、世間の「考えない傾向」とひとつのもので、学問の世界にも浸透しています。じつを申しますと、「考えることを怠る」研究に接することが増えたような気がしてなりません。私は、研究においてもっとも大切なことは「頭を使う」ことだと思っているのですが。
例を、2つあげたいと思います。第1に、アンケートの報告のようになっている論文。客観的な材料を得るためにアンケートが必要な場合はもちろんあり、心理学的な問題提起をしている場合には、その重要性は高まることでしょう。しかし、アンケートはあくまで材料であって、論文は、そこから始まるものです。結果をどう読み取り、そこからどんな洞察を得るか。でもじっさいには、このテーマにしよう、じゃアンケートで意見を聞こう、結果をまとめよう、という形でできあがる、安易な論文が多いのです。「考える」労力を払っているのは、アンケートを書いている側だ、と思うことさえあります。
第2の例は、教えられた方法によってひたすら対象を分析したり、調査したりしているものです。じつはこうした論文は相当に多く、まじめな学生がかなりの労作を仕上げる場合もある。しかし私は、自分の採っている方法を反省したり、方法を改良したり、新しい可能性に気づいたりという発展がなく、ただ1つのパターンを黙々とやっているのでは、手を使っているだけで、頭を使っていることにはならないと思うのです。厳しいかもしれませんが、そのことを強調したく思います。
研究は、多少とも、クリエイティヴなものであるべきです。そのためには、頭を使うことがなにより必要だというのが、私の考えです。
例を、2つあげたいと思います。第1に、アンケートの報告のようになっている論文。客観的な材料を得るためにアンケートが必要な場合はもちろんあり、心理学的な問題提起をしている場合には、その重要性は高まることでしょう。しかし、アンケートはあくまで材料であって、論文は、そこから始まるものです。結果をどう読み取り、そこからどんな洞察を得るか。でもじっさいには、このテーマにしよう、じゃアンケートで意見を聞こう、結果をまとめよう、という形でできあがる、安易な論文が多いのです。「考える」労力を払っているのは、アンケートを書いている側だ、と思うことさえあります。
第2の例は、教えられた方法によってひたすら対象を分析したり、調査したりしているものです。じつはこうした論文は相当に多く、まじめな学生がかなりの労作を仕上げる場合もある。しかし私は、自分の採っている方法を反省したり、方法を改良したり、新しい可能性に気づいたりという発展がなく、ただ1つのパターンを黙々とやっているのでは、手を使っているだけで、頭を使っていることにはならないと思うのです。厳しいかもしれませんが、そのことを強調したく思います。
研究は、多少とも、クリエイティヴなものであるべきです。そのためには、頭を使うことがなにより必要だというのが、私の考えです。
相づちは必要か ― 2010年05月09日 22時40分53秒
テレビを見る(=かけておく)のは昔からですが、見る番組は、大きく変わってきました。最近は、自分でも驚くのですが、報道番組ばかり見る。どの局も、わかりやすい解説を心がけているようで、報道にちっとも興味のなさそうな若いタレントに論評させるような番組も、よく見かけます。
これ以上わかりやすいのはない、というほどかみ砕いた解説を売りにする、ある報道番組。タレントが大勢、聞き役になっています。するとこの外野席が、やけに相づちを打つのですね。「へえ~」「そっかあ」「ほーー」などと、休みなく反応する。これって、絶対やらせですよね。大学の授業で学生がいちいち「へー」「ほー」と相づちを打つことなど、考えられません。
なぜ、相づちが必要なのでしょうか。盛り上げ役?権威付け?感心できませんね。そこには、批判的に聞く知性が、まったく介在していないからです。
世相や社会の出来事を解説するとき、答えは1つではありません。どんな権威を招いても、人によって言うことは違いますから、それぞれを参考にしながら、何が正しいのかを考えていかなくてはならない。話す方も、そういう聞き方をしてくれると思えばこそ、個人的な意見も主張できるわけです。口々に「へー」「ほー」と言って欲しいと思う人は、いないと思う。視聴者を尊重していれば、こういう番組作りはできないはずなのですが。
これ以上わかりやすいのはない、というほどかみ砕いた解説を売りにする、ある報道番組。タレントが大勢、聞き役になっています。するとこの外野席が、やけに相づちを打つのですね。「へえ~」「そっかあ」「ほーー」などと、休みなく反応する。これって、絶対やらせですよね。大学の授業で学生がいちいち「へー」「ほー」と相づちを打つことなど、考えられません。
なぜ、相づちが必要なのでしょうか。盛り上げ役?権威付け?感心できませんね。そこには、批判的に聞く知性が、まったく介在していないからです。
世相や社会の出来事を解説するとき、答えは1つではありません。どんな権威を招いても、人によって言うことは違いますから、それぞれを参考にしながら、何が正しいのかを考えていかなくてはならない。話す方も、そういう聞き方をしてくれると思えばこそ、個人的な意見も主張できるわけです。口々に「へー」「ほー」と言って欲しいと思う人は、いないと思う。視聴者を尊重していれば、こういう番組作りはできないはずなのですが。
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