国際イベント終了2010年05月16日 23時36分03秒

慶応大学での「国際若手フォーラム」第3日に出席。厳しい日程で参加者はだいぶ疲れているようでしたが、ディスカッションを重ねて濃密な関係が築かれていることは、手に取るようにわかりました。国籍も文化的背景も超えて忌憚なく音楽を論じ合う共同体が、そこに出現していました。

私の役割は、クロージング・セッションで締めの挨拶をすること。今日も外注の原稿を用意して臨みました。最後、前列に実行委員が居並ぶ配置となり、その中央に招かれたので不吉な予感がしましたが、挨拶は多少のアドリブを交えて、無事終了。こうなると度胸が出て、皆さんの話をうなずきながら聞くという、大きめの態度になりました。

天罰覿面。最後の最後で、締めてくださいという思いがけない振りが、司会者から来たのです。意表を突かれてとっさに言葉が出ず、「バイバイ!」とのみ言って、手を振りました。満場爆笑(汗)。最後にマイナスが付きましたが、もともとできないのですから、仕方ありません。

というわけで、いい学会でした。しかし、英語圏の人ほど、また英語ができる人ほど有利で活躍できる、という状況が、顕著に成立しています。今後国際学会がこのような形で開かれるとすると、英米系の大学に留学した人は、国際性において、圧倒的に有利になります。となりますと、大学でも英語を専攻した方がいいということになり、大学側としても、いろいろな語学を中途半端にやるよりは、英語教育にしっかり集中した方が、就職の点でも有利だ、と考えることになる。事実そういう主張は周囲でもよく提起されて、私はいつも反対しているのです。

論者の中には、日本の大学は英語で授業をするべきだ、とおっしゃる方もおられますよね。平素英語で会話するようになり、語学のハンデがまったくなくなった状況を想像してみると、さぞありがたいだろうなあ、と思います。でも、こういうグローバリゼーションは何か変だ、という気持ちも、私はぬぐえずにいるわけです。

コメント

_ まさお ― 2010年05月17日 01時34分09秒

お疲れ様でした! 英語での授業は必ずしもグローバリゼーションにならないと思います。母国語で教育ができるとには大きな意味があります。だからといって英語を軽視していいとはもちろん思いません。英語能力向上の手段として英語(のみでの)授業を強制するのはどうも変だということだと思います。

もちろん、英語で授業することを否定するわけではありません。例えば今後は海外の教授が通信で講義するのも当たり前になるでしょう。そこでは当然英語での講義になります。日本人の講師が日本人の学生を相手に授業するなら日本語でということですね。

好むと好まざるとを選ばず、学問でも仕事でも英語能力で有利不利がでてくるのは肌で感じてます。個人的にも教育で英語を第二(サブ)言語とすべきと思ってますが、教育言語としての日本語を捨てるのは反対です。

それは、古くは中国語、新しくは西欧諸語を経由して外国の文化やノウハウを吸収した際、日本語に翻訳してから吸収したがために日本人としての能力(付加価値)を発揮して経済大国になれたからです。

その能力(付加価値)をすてたら、グローバリゼーションしても失敗するでしょう。グローバリゼーションは、今後も経済大国つまり豊かな生活を送りたいなら必須です。というより、エネルギーの100%、食料の50%0を輸入に頼る日本はもともとグローバリゼーションで成り立ってるのです。

じゃあ食料自給率を100%にして(幻想ですが)、エネルギーはそんなに要らないよ、国内の需要は国内だけでなんとかします。海外市場は要りませんという世界を、国民が望んでるとは思えません。江戸時代レベルの相当に生活レベルを落とすことになるからです。内向きになって世界的に孤立してエネルギー供給を絶たれ、一方で大国であり続けることを望んだがために無茶な負け戦に走った歴史は記憶に新しいところです。

我々の生活レベルを保つために海外市場ではガンガン儲けるけど、海外には自国の市場を締め出しますなんてムシの良いことは容認されるわけがありません。自己中はどこでも嫌われます(笑。

経済規模が小さいうちはお目こぼしされますが、日本のように世界有数の経済規模の国でそんなわがままを通したら、逆に海外各国の市場から締め出されるだけです。

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