迷ったらバッハの利益に2011年03月10日 23時58分59秒

「迷ったらバッハの利益に」というのは、こういうことです。

先日、あるアマチュア合唱団のバッハ・コンサートに行きました。最初にカンタータ78番があり、ここには、エキスパートを含むソリストと、プロのメンバーによるオーケストラが共演しました。次にモテットの《イエスよ、私の喜び》が、合唱団プラス通奏低音で演奏されました。

要するに、モテットがアマチュア中心に、カンタータがプロの参加のもとに、演奏されたわけです。それだと、カンタータの演奏の方が良くなって当然ですよね。しかしじっさいはモテットの方がはるかに良く、その盛り上がりは、感動的でさえあった。これはどういうことなのかと、私は考え込んでしまったわけです。

結論は、こうした結果は、プロとアマチュアの関係という基本的な構造にかかわっている、ということです。それ自体が演奏者の責任というわけではないが、お互いに、意識改革は必要ではないか。こういうことは私の立場でなくては書けないことなので、差し障りがあると申し訳ありませんが、書かせていただくことにしました。

私はこの日はしごの予定で、前半しか聴きませんでした。後半では音楽がまとまり、さすがプロが入ると違う、という結果になっている可能性は、あると思います。ですから、当日の批評ではなく、原則的なことにかかわる提言として、お読みください。

プロとアマチュアのコラボレーションは、危険を内蔵しています。なにしろ、練習の回数が違う。アマチュアが徹底して作ってくる演奏の方向性を、プロは消化しないままステージに上る、ということが考えられます。しかし、もしそうしたことがあるとすれば、それは、そのソリストがどんなに優秀でも、演奏にはマイナスに作用します。

カンタータ78番にもそれがあったように思いますが、今回は、ひとつの点に絞りたいと思う。それは、合唱団が後ろに控え、ソリストが前面に並んで脚光を浴びる形式がバッハの演奏として正しいかどうか、ということです。

78番はコラール・カンタータで、この日のコンサートも、「バッハとコラール」をテーマとしたものでした。しかるに、コラール楽曲を展開するのは合唱です。ソリストが歌うのは、そこから派生した楽曲だけ。この事実からすれば、ソリストがスターのように脚光を浴びるのは、どう考えてもおかしい。合唱団の立場ではそうせざるを得ないのでしょうが、外部にいる私には、ソリストは合唱団の中に入り、せめてコラールを一緒に歌うのが正しい形だ、と思われます。

バッハの演奏のためには、アマチュアも妙に遠慮すべきではないし、プロも「お客様として自分の曲だけを歌う」意識を捨てるべきだ、と私は思います。一体として演奏にあたった方がバッハは必ずよくなるし、その方が、協力する側にとっても得です(きっぱり)。たしかに演奏の現場では、プロに対して失礼ではないかなどなど、いろいろな局面で迷うに違いありません。そこで「迷ったらバッハの利益に」という原則が生きると思うのですが、いかがでしょう。

【付記】もちろんアマチュアの演奏が至らず、ソリストの貢献でコンサートが立派になった、というケースも、多々あると思います。上に書いたことは、アマチュアが最善を尽くすことを前提としています。