カント2011年05月13日 23時54分36秒

受講者に恵まれて、音楽美学の授業でカントの『判断力批判』を読み始めた、ということは、ご報告しました。その続報です。

私の手元にも、4種類の翻訳があります。それを並べてコピーし、原文も併せてコピーして、勉強を始めました。その結果確認したのは、翻訳をいくら読んでもさっぱりわからないが、原文を読めばわかる、という、よく指摘される単純な事実です。私がドイツ語が得意だから、そう言うわけではない。これは哲学書の翻訳のもつ、基本的な問題点なのです。

4種類の翻訳は、優秀な方が訳されていて、それぞれ立派なものです。しかしその違いは小さく、難解な点では五十歩百歩。それは、いずれもがドイツ語の構文をそのまま日本語に移す、直訳であるからです。

でも、そうせざるを得ない、ということもあります。カントの文体は、概念を立ててはそれを分析し、精細に区別して、美的判断の本質を抽出してゆく。それを訳す場合には、概念すなわち名詞を日本語に名詞のまま移し、分析を行っていく他はない。たとえば「無関心性」といった概念を使わざるを得ず、意訳して砕いてしまうことはできないわけです。

しかしそれだと、カントがドイツ語の普通の概念を精査している部分で、聞いたこともないような日本語を、対応させざるを得なくなります。結果として特殊な文章が出来上がり、日本語ではあるが、意味がわからない、ということになるわけです。

それをドイツ語で読めばなんでもない、ということが、案外よくあるのです。こうなると、翻訳とは何だろう、と考えざるを得ません。概念の直訳はごく少数に限り、徹底した意訳を基本とすることで、カントの言いたいことを広く伝える翻訳は、本当にできないのでしょうか。試みるには値することだと思います。意訳の足らざるところは、原文を読んでもらえばいいわけですから。